毎晩寝苦しい。眠りが浅いせいか、怖い夢ばかり見る。
「日暮れて道遠し」。知らない土地で道に迷う夢。
行き先が見えない焦燥感。狭い排水溝に閉じ込められて
身動きできない閉塞感。そして・・・・人を殺す夢だ。
サスペンスドラマや映画の見過ぎのせいかも。
東野圭吾の『さまよう刃』。中学生の娘を殺された父親の復讐。
もう一つの話題作が、桐野夏生の『東京島』。
船が難破して、無人島に辿りついた一組の夫婦。そこへ
16人の男と 6人の中国人も。一人の女性と男たちの顛末。
「一番 要らないのが夫だった」とは、一番怖いセリフだった。
「たった一人の女」役に木村多江。彼女はそれほど
美人ではないが、『リング』の貞子役、『ゼロの焦点』、
『沈まぬ太陽』などで、重要な役回りを演じており
好きな女優さんである。
最近の小説、映画は「何が善で何が悪か」を問いかけ
るものが多い。五木寛之の『親鸞』もそうだが、
これこそ私の『一休語り』のテーマである。
ごく普通の人が、殺人を犯す。犯さざるを得ない状況に
陥る。善人が悪人になる危うさは、日常隣り合わせなのだ。
あるサイトの投稿記事です。
小学2年生で虚無僧を知ることが、早いか遅いかわかりませんが、 私たちが子供の時に比べて、「虚無僧」や「武士」「町人」など 江戸の文化に触れることが、格段に少なくなっているんだろうなぁ~と感じました。
それはやはり、テレビで「時代劇」をやらなくなったからだと思います。
私が子供のころは、家族でTVを楽しむ時間には、常に何か「時代劇」をやっていて、 それらには、やはりドラマ独特の「嘘」や「脚色」もあるので必ずしも 正しい歴史を学べたとは言えませんが、これらの「時代劇」のお陰で 「江戸時代が身近」であったことも事実です。
テレビで「時代劇」を放映しなくなってきた理由をとしては、 「髷のかつらや衣装、小道具など、特別に用意するので予算がかかりすぎる」 「『江戸時代』として撮影できる場所が減っている」「スポンサーがつきにくい (現代劇なら、主役が持つ携帯電話や洋服などスポンサーのものが使える)」 といったことがあるようです。
時代劇の多くは1話完結で勧善懲悪の子供でもわかりやすい内容が多いので、 歴史に興味を持つきっかけとして、ぜひ、家族で楽しめる時代劇が復活して くれればいいのになぁ~と思います。
ちなみに、息子が「虚無僧は何をしてるの?」と聞いてきたので調べてみたところ、 ざっくり言うと「籠をかぶって尺八を吹くという修業をする宗派の僧」だそうです。 「僧」と称しているものの剃髪はしない半僧半俗の存在だそうで、なるほど、 時代劇では悪者が、誰かを暗殺する為に虚無僧に扮していたりしますが、 「剃髪しないでも疑われないから」という理由があったんですね~。 一つ、発見できました(^^)
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今もテレビでは「大岡越前」「水戸黄門」「遠山金四郎」の三本建てでやってます。 先日も水戸黄門で虚無僧が出て来ました。悪役でした。残念。悲しい。
見ている子がいなくて安心しました。
「親鸞会」の活動についても、これまた「被害者」団体も
あって、問題視されるが、彼らが主張するのは、
「既存の仏教が、仏法を説かず、葬式だけで 銭儲けして
いる」という批判だ。親鸞や蓮如の教えを正しく広めようと
彼らは日夜学習し、あちこちで流布教宣活動を行っている。
「親鸞会」の主張
浄土真宗の既存の寺は「ただ“ナムアミダブツ”と唱えれば、
誰でも救われる、何もしなくとも、犯罪を犯しても、成仏
できる」と説いてきたが、それは間違いである。今生において
「他力信心」を獲ることが重要であり、念仏は救われた御恩に
報いるお礼として称えるものであると説く。
彼ら若者は「この世に生を受けたからには、いかに生きるか。
真剣に生きるとは何か、どう努力するか」という学びに 真摯に
惹かれている。それはそれで感心する。
だから、「一休さん」の「平気、平気、気にしない、なんとか
なるさ」なんていう軽いノリには、ムキになって反論してくる。
一休の悟りは、やはり60歳過ぎてわかるものだ。私も
この歳になってわかる。若い人には「あきらめ」に似た
悟りはまだ通じない。
新聞にも取り上げられていた。大学では、この時期、
新入生に対して、クラブの勧誘に混じって、さまざまな
カルト教団が、会員獲得の活動を行っていると注意を
呼びかけているそうな。
浄土真宗系の「親鸞会」という会が、今、大学生の間で
広まっている。日蓮宗系では「顕正会」が、高校生の
中に浸透してきて問題視されている。
「宗教離れ」と言われる中、学生が「創価学会」「真如苑」 そして「親鸞会」や「顕正会」さらに「オウム」にまで入会する。
昨日、お寺の「法話」を聞きにいっても、集まるのは
お年寄りばっか。昨日の「法話」もすばらしかったのだが、
もう人生の大半 終わってしまった方々(失礼)に説法しても
無駄なように思える。ご老人は、すでに身をもって体験を
積んでき、もう悟りの境地にはいっているから、「釈迦に
説法」でもある。
若い人に、これから生きていく よすがとして、宗教に
ついて 少しは 考えてもらいたい。日本人の多くが
「私は無宗教です」と答えるのが「正しい」と思っている。
外国で「無宗教」と言うと“犯罪者”かと疑われるそうな。
「無宗教」を誇らしげに口にする人は、宗教に入信する人を
あからさまに非難する。たしかに、のめりこんで、周囲が
見えなくなっているのは問題だが、彼らの多くは、純心
一図だ。
今の世の中にこれほど、素直で、人を疑うことをしない人が
多くいることに、ホッともすれば、不安にもなる。
ホフマンは、群馬県の下仁田に住んでいる。帰りは
中央高速バス。夜11時、名古屋発。それまでの2時間、
夕食を共にすることとなった。宿泊先のホテルの前に
「インド料理」の店があったので、そこにはいる。
店は50席もあるだろうか。 広いが、客はゼロ。 最近
インド・ネパール料理の店があちこちにオープンしている。
だが、名古屋人は まず入らない。どこもガラ空きで気の毒。
他に客が居ないのを幸い、,ネパール人の店長に了解を得て、
尺八を取り出して、ホフマンからインド音楽を習う。
電子機器で、シタールやタブラの演奏を伴奏に、尺八を吹く。
リズムも テンポも ラーガ(音階)も自由に変えられるから便利。
とにかく、メリ、カリばかり。そして、首振りは絶対ダメ。
2ヘルツの狂いも許されない。ホフマンは絶対音程を持って
いるから厳しく、何度も注意される。リズムも 7、15、16拍子と、
チンプンカンプン。
彼は、タブラで「千鳥の曲」も演奏できる。タブラは鼓のように
音程が作れるのだ。「千鳥の曲」に タブラを入れたら、掛け合いの
所など面白いのに、日本人は、それを許さない。それを必要としない。
かくて、彼のすばらしい才能は、日本では全く受け入れられない。
だが、「インドやタイでは、20日間の滞在で 21公演も行ってきた」
とのこと。 日本人の閉鎖性を 彼は 嘆くばかり。
アメリカ人の尺八家「 T.M.Hoffman 」が 今夏もまた
名古屋にみえた。OO大学での講師を勤めるため。
ホッフマンは、インド音楽を 筝と尺八で演奏する。
インドと日本楽器の融和を通して、インド人と日本人の
考え方の相違を論じて、慶応の国際コミュニケーション
学科の講師でもある。
「楽器をコップに例えると、中に入っているものが音楽。
日本人は、このコップには水しか入らないと思っている」
と。
なるほど、日本では、レストランなどで、水、ジュース、
ミルク、コーヒー、紅茶、緑茶を注文すれば、それぞれ
みな入れ物が違う。
「インド人は、一つのコップに、何でも入れて飲む。
ただし、コーヒーに牛乳は合うが、牛乳とオレンジ
ジュースは合わない。合うものと合わないものを
見分ける目と耳を持っている。
「インド人は、ヴァイオリンやコントラバスなど
洋楽器もすぐインド音楽に取り入れた。尺八や筝は、
あらゆる音を出すことが可能で、「インド音楽を
演奏するのに最もふさわしい」とインド音楽の権威も
認めた。
ところが、「日本人は、尺八の代わりにヴァイオリンで
弾くのは『春の海』だけ。ヴァイオリンで地歌や尺八の
古典本曲は決して弾かない。『インド音楽を学びたい。
シタールを習いたい』と私のところに来る。『シタールより
箏の方が学びやすい。箏で教えよう』というと、『イヤ』と
拒否する」。
「インド人はできなくても“できる、できる”と言う。
『尺八?いいね、貸してみろ、(自分は)吹ける、吹ける』
と、まず吹いてみようとする。日本の尺八家は『インド音楽?、
だめだめ、吹けない』と拒絶する」。
「インド人と日本人は“火”と“氷”。全く考え方が違う」と
ホッフマンは言う。
その“火”と“氷”のインド人と日本人の間をとりもつのが
ホッフマンの役目。国際コミュニケーション学科とは、双方
の考え方の違いを顕わにして、その上でどう理解しあえるか
考える学科なのだそうな。尺八でインド音楽、そしてコミュニ
ケーション学科の慶応大学の講師。おそれいりました。
京都の祇園祭は毎年7月1日から1か月間にわたって
行われ、そのハイライトが7月17日の「山鉾巡行」と
「神輿渡御」。
ところで、なぜ「7月17日」なのか。それが、
ユダヤの「謝肉祭」の日と一致するというのが
最近話題になっているようです。
この日は、ノアの箱舟がアララテ山に到着した日で、
「人類の救いの日」であり、「新しい歴史の最初の日」
だったというです。
ノアの箱舟が到着したアララテ山は、現在のアルメニヤ
近郊にある「タガーマ州のハラン」と云われています。
えっエッえ?「たがーらはらん」??。なんと「高天原
(タカマガハラ)」と似ているではないですか。
祇園祭りに登場する山車の中には、ラクダの絵や
古代ヘブライで用いられた織様が多く存在している
のも不思議です。
船型の山車もあります。
旧約聖書の『創世記』の一場面を描いた16世紀末の
タペストリーや、ダビデ王を描いた図も。
しかし、これらは江戸時代以降のものであり、なぜ、
キリシタン禁制の江戸時代にユダヤの旧約聖書の図柄が
公然と飾ることができたのかが謎です。
その他、「神輿(みこし)」は ヘブライの秘宝「契約の
聖櫃(アーク)」と極似している。「アーク(聖櫃)」とは
モーセが神から授かった「十戒石板」(モーぜの十戒)を
保管するための箱で、全体に黄金が貼られており、
上部には二つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっている。
日本の神輿も金で覆われていて、神輿の上には鳳凰が
飾られている。アークの下部には二本の棒が貫通しており、
移動するときには肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして
騒ぎ立てた。
そのことから、「モーゼの十戒」を納めた「アーク(聖櫃)」は
日本にまで運ばれてきて、四国の剣山頂付近の洞穴に
隠されているとか・・・・。
東日本大震災と津波から2年経って、岩手県から流された
小さな小船がアメリカ西海岸に漂着した。その中に
「石ダイ」が5匹生息していたというニュースがありました。
「石ダイ」は日本近海に棲む魚ですから、2年もの間、
小さな舟の中で生き続けていたことになります。
それで思い出すのが、5千年も前に縄文人が大挙して、
丸木舟で南アメリカに渡ったという説です。
それは、エクアドルで発見された土器が縄文土器と
全く同じだったということからの推測です。
震災で流された舟がアメリカに辿りついたということから、
潮流の乗って、丸木舟でも太平洋を横断できることは
解りました。しかし、2年もの間、食料はどうしていたので
しょう。「石ダイ」のように、魚が舟に飛び込んできたので
しょうか。
最近、DNAの検査で、日本人男性の42%が持つ「YAP+」と
いう特殊な塩基配列は、アフリカ、地中海沿いの中東から
イタリア南部、アルタイ、チベット、インド洋のアンダマン諸島、
エスキモー、アメリカのネイティブインディアンに見られる。
しかし、中国、韓国には全く見られないということが解って
きました。日本人と中国、韓国人とは、似て非なる民族という
ことです。
アメリカ大陸のインディアンやインカ帝国を築いたのは、
古代縄文の日本人。
アンデスから発見された2体のミイラからは、稀少なウイルスが
見つかり、これも南西日本とチリの一部の地域でしか存在しない
ものとか。
5千~1万年前に、鹿児島の鬼界ガ島や桜島で大きな火山爆発があり、
その雲が日本国中を覆い、作物がまったく採れなくなり、縄文人が、
大挙してベーリング海峡ルートと、南太平洋ルートでアメリカ大陸に
渡ったと、考えられているようです。
ティム・ホフマンの話しから
日本に来た時、初めて会う日本人は、みなフレンドリーで
親切だった。時間は守るし、平和で安全、安心できる国と
感じた。ところが、長く居ると、外国人ということで、言い
知れぬ差別を受ける。
「アメリカ人がインド音楽を尺八で吹く」ということに、
興味より嫌悪を感じるようだ。自分は、日本の尺八に惹かれ、
その可能性を広げ、全世界に広めたいのに、そのことに、
日本人はとても冷ややか。
インドに初めて行った時、空港でもタクシーでも、市場でも
金をボラれ、ふんだくられ、物を盗まれ、不快だった。
インド人は知らない人からは、盗ってやろうとする。
でもそれは、「インドに来るならば、いろいろ勉強してこい。
強くならねば この国では生きていけない」ということを
学ぶための“試験”なのだと 後で判った。
長くいると、インド人は、とても友好的、家族的になる。
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これは、また別のアメリカ人の話。
日本人は、初対面では、名刺を交換し、親しげに挨拶を
交わし「また お会いましょう」といってくれる。だが、
その後電話がかかってくることは まず ない。次の
ステップに進まないのだ。
これも、なるほどである。私の名刺入れには1,000枚ほどの
名刺が入っているが、一度きりの人ばかり。一期一会?
そして、長くお付き合いを続けている人の名刺は無い。
「牧原」で検索をかけたら、「牧原直亮」が出てきた。
私の先祖だ。昌平校に学ぶ仲間たちと日本各地に伝わる
怪談話を集めて『今斉諧』という書を編纂したらしい。
その中のひとつ。
「美濃大垣と越前の堺、根尾野村あり、山に仙女が住む
と言う。朝倉義景の臣下某の娘らしい。朝倉滅亡の後、
山に篭り、女子を産む。その子巌穴に成長して、木の
実を食べて生きながらえ、今二百六十歳に及ぶと言う」。
いかにも、薄墨桜で有名な根尾村らしい伝説だ。
「長寿」で検索すると、この手の話は、結構出てくる。
「徳川時代、超長寿の一家がいた。慶長7年生まれの農夫、
萬平(満平とも)は、天保10年の記録によると 240歳、
妻(後妻)132歳、長男萬吉199歳、その妻、196歳、その
子 萬造152歳、その妻151歳であった。渡辺崋山の門弟が
この3夫婦を描いた一幅が残っている」という。
「人魚の肉を食べて不老不死となり、生き続けなければ
ならなくなった八百比丘尼の伝説」も有名。この話などは、
死ねずに生き続けることの苦しみを語っている。
「人生限りがある」から充実した毎日が過ごせるのだ。