[이츠와 마유미 ft. 가와이 이쿠코] 恋人よ (연인이여) (Live)
#恋人よ (#고이비토요.#연인이여) (Live) 영상은 가수, 이츠와 마유미 (五輪真弓.Itsuwa Mayumi) 와 바이올...
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1日中聞いていても飽きない「川井郁子」のヴァイオリン。
その秘密は何なのか。昨晩(9/4)NHK Eテレでとりあげていました。
舞台姿と日常の顔のギャップにまず面食らいます。
作曲家の三枝成彰さんからも、「いろいろな演奏家がいるけれど、これほど両極端な人は見たことがないと」と云われたとか。
「以前は、舞台でも、あまり目立たないような衣裳を着て、どちらかといえば守りの気持ちで 弾いていました」。
もともとは舞台恐怖症だったそうな。「舞台で真っ白になったらどうしようという気持ちが先に立ち、逃げ帰りたいと思ったこともあった」といいます。
「それが、10年前、デビュー作『レッド・ヴァイオリン』のコンサートで、ジョン・ガリアーノの挑発的なデザインのドレスを着たら“別の女性”になれた感覚があって、クラシックのスタンダードな弾き方にとらわれず、自由に感情を込めることができたんです」と。
作曲家の意図を忠実に再現しなければ、というクラシック演奏家の呪縛のようなものから開放された瞬間でした。
それまでは、舞台に立つ自分とお客様とが完全に分離していました。お客様が審査員のように見えてしまって(笑)。
でもこのときから、自分が皆を引っ張っていっているというか、ハートのやりとりを感じることができたんです」
よく解ります。衣装で 全く違う自分というか、潜在的に隠れていた自分がコロッと現れる。私もそうです。観客を引っ張っていく、そうでなければプロでない。
彼女に影響を与えたのは。韓国のヴァイオリニスト「チョン・キョンファ」だという。それまでは、「ブラームスの・・・、ヴェートーベンの・・・を弾く」だったのが、キョンファは「クラシックを通して自分を表現している」と。
川井郁子 舞台「月に抱かれた日」ガラシャとマリー・アントワネット(予告編) Ikuko Kawwai Stage Preview 「Gratia & Marie-Antoinette」
Unframmed(ジャンルや既成概念の枠を超えた)なアーティスト活動に取り組む「川井郁子」自身の総合プロデュースによる〈Unframed ...
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久野 久(くの ひさ)、1886- 1925年。滋賀県膳所町(現・大津市))出身の日本初のピアニストである。
経歴
少女時代に近所の神社の石段で転倒し、片足に障害を負う(後に、ピアノのペダルがうまく踏めないほどだったという)。母の死後に京都の叔父に引き取られ、叔父の勧めで自活のために邦楽を学ぶ。しかし、邦楽の世界に限界を感じていた兄の勧めで15歳の時に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学、そこで初めてピアノを学ぶ。当初は成績も良くなかったが、猛練習を行って上達し、研究科に進む。
1910年、東京音楽学校の助教授となる。このころ、建築家の中條精一郎家の娘、百合子にピアノを教えている。そののちに作家となった宮本百合子は、小説『道標』のなかで、久をモデルにした「川辺みさ子」を、回想の場面に登場させている。
1915年、自動車事故で一時重体となるが翌年に復帰。1917年、東京音楽学校教授となる。
1918年には上野の奏楽堂で「ベートーヴェンの午后」と題するリサイタルでソナタ5曲を演奏して大成功を収めた。
1923年、文部省の海外研究員としてベルリンに、そののちウィーンに移るが、ヨーロッパの生活習慣にまったく無頓着な行動(常に和服姿で過ごす、西洋式マナーを習得していない等)をとり、周囲の反発を買う。自身のピアノ演奏に関しても、エミール・フォン・ザウアーの教えを受けたとき、基礎からのやり直しを言い渡されたことに絶望し、1925年4月20日未明にバーデン・バイ・ウィーンのホテル屋上から投身自殺を図り、同日正午頃に搬送先の病院で死去。文京区伝通院に埋葬されている。
渡欧の前(おそらく1922年か1923年)に東京蓄音器株式会社でベートーヴェンの『ピアノソナタ第14番』の録音を残しており、これが彼女の唯一の録音となってしまった(死後の1926年に追悼盤としてリリースされた)。
評価[編集]
久の演奏がヨーロッパで受け入れられなかったことについて、
音楽学者の渡辺裕は、久の演奏は、テンポの揺れがなく、「楽譜通り」のもので、その後の主流となる原典主義の演奏法を先取りするものであったと述べている。
中村紘子によれば、久の演奏法は指を大きく曲げ、手首を鍵盤の下まで下げるという独特のものだったという。
渡辺 茂夫(1941- 1999年)戦後復興期の日本で活躍したヴァイオリニスト。
天才少年の誕生
1948年7歳で最初のリサイタル。翌年以降毎年1回の定例コンサートを行う。
渡米
1954年(13歳)暁星中学校に進学。東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏。来日したヤッシャ・ハイフェッツから「百年に一人の天才」と評される。
1955年渡米、ジュリアード音楽院に無試験入学が許可される。
最後の栄光
1956年(15歳)ニューリンカーンのハイスクールに通学。指揮者アルフレッド・ウォーレンスタインからは、「世界一の演奏家になる」とのお墨付きを得た。ジュリアード音楽院で史上最年少の奨学生に選ばれ、全額支給される。
青春の終わり・悲劇の幕切れ
1957年2月、情緒不安定を訴え精神科に通院。乏しい報酬と心もとない支援金により耐久生活を余儀なくされる。
異国の地で人間嫌いと疎外感がつのるようになり、自殺願望をほのめかすようになり、睡眠薬を大量に服用する。一命はとりとめたものの、脳障害が残り、日本に送還され、その後四十年以上に渡って在宅療養を続けた。
暇さえあれば、Youtubeでいろいろな映像を見ています。
尺八とヴァイオリンは共通するものがあります。
ヴァイオリニストの千住真理さんと川井郁子さんが、
対談でこのように言っていました。
「ヴァイオリニストにとってコンクールで優勝する
ことは登竜門。しかし入賞は十代のうちに。
コンクールで入賞するための演奏は別。楽譜通り
完璧に弾けてもプロにはなれない。
プロとして世に出るには、コンクール用の
弾き方ではダメということです。わかる わかる。
尺八は 本当に その人の個性が出ます。音色や
吹き方で、映像を見なくとも、誰か わかります。
一流プロの演奏は、それぞれに特徴があって実に
面白いものです。
「川井郁子」のヴァイオリンは音色も美しく、
ルックスも魅惑的で、惚れ惚れ。何時間 聞いて
いても疲れない。まさに癒しの女王です。
ジャズピアニストの「松居慶子」と共通するものが
あります。そして両者とも尺八が はいる曲が
ありました。
「千住真理」の名器「シュトラスヴァリウス」の
力強く奥深い音色には感動でした。
ヴァイオリンも尺八も、楽器によって音色も
表現力も違う。プロにとっては、演奏の
良し悪しは「楽器9割、腕1割」といいます。
「プロとアマ」で検索したら、その違いについて、いろいろ
出てきました。まずはビジネス書から、
「プロ」と「アマ」の13の違い | Find the meaning of my life.1028users
Professiona Amateur
1 人間的成長を求め続ける → 現状に甘える
2 自信と誇り → ぐちっぽい
3 常に明確な目標を指向 → 目標が漠然としている
4 他人の幸せに役立つ喜び → 自分が傷つく事は回避する
5 可能性に挑戦し続ける → 経験に生きる
6 思い信じ込むことができる→ 不信が先にある
7 自己訓練を習慣化 → 気まぐれ
8 時間を有効に習慣化 → 時間の観念がない
9 成功し続ける → 失敗を恐れる
10 自己投資を続ける → 享楽的資金優先
11 使命を持つ → 途中で投げ出す
12 出来る方法を考える → できない言い訳が口に出る
13 自分のシナリオを書く → 他人のシナリオが気になる
ふむふむ、「プロの仕事には“締め切りがあり”、
アマチュアには“締め切りが無い”」なんてのもありましたな。
私も毎日締め切りに追われています。私の仕事は、イベントの
たびに「企画、構成、譜面づくり」そして「練習」。
「稽古不足を幕は待たない」(梅沢富男『夢芝居』)ですな。
「プロとアマの違い」。ある「デザイナーさんのブログ」から
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マジシャン(奇術師)のプロとアマの違いを聞いたことがあります。
アマは自分の満足にこだわり、プロはお客様の満足にこだわる。
プロはお客様をどうやって驚かせようか、感動させようかということを
優先させ、一番自信のあるマジックを磨きます。失敗して場を白けさせ
ないように練習を重ね、演出に知恵を絞る。
アマチュアは 自分の好きな演目にこだわり、中途半端な完成度でも
演じてしまいます。だからお客様も白けてしまうのですが、それでも
気にしない。たとえ高度な技術を持っていても、つまらないのです。
デザインについても、アマチュアの中にも、ものすごい才能や技術を
持った人はいるでしょう。しかし、アマチュアは、作品を完成させ、
自分が満足すれば終わりなのです。
アマチュアはお客様を喜ばせるより、まず自分が楽しくなること、
満足することを優先します。だから、自分が関心あるところに
こだわります。
アマチュアならそれでいいのです。好きなことにこだわれるのが、
アマチュアの特権なのです。商品が完成するまでに力を注いだら
終わりです。
ところがプロは そうはではありません。お客様を満足させる=
喜ばせることにこだわるのです。そのために、何に、どのように
こだわればよいのか、ということに知恵を絞り、緻密に計算します。
どんなブランドストーリを作ればワクワクしてくれるのか
どのようなコーディネートにすれば気にいってくれるのか、
どのようなシルエットにすれば喜んでくれるのか、
どのようなプロモーションツールで演出すれば驚いてくれるのか、
誰をモデルに使えば憧れてくれるのか、
どんな接客をすれば満足してくれるのか、
自分のもっている技術や才能をどうやって活かせば、
お客様が一番喜ぶ姿を見ることができるか・・・を考えます。
相手が喜ぶことが何より優先するので、嫌いな仕事、つらい仕事でも
我慢することができます。あえて困難な道を選んだり、苦手な業者とも
付き合うことも厭わないでしょう。
プロにとって売り上げというのは、芸人がもらう「おひねり」や
「投げ銭」みたいに、お客様が喜んで、満足してくれた気持ちを
お金に託していただくことなのだと思います。
だから喜びを与えているかどうか、を売り上げで確認します。
売り上げが足りないのは、まだまだお客様に喜びや満足を与えて
いないからだと素直に反省します。
そして、相手を喜ばせるためには、むやみに努力すればよいのではなく、
頭をフル回転させなくてはいけないということを知っているのです。
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はい、虚無僧の私も まっこと同じでございます。
観客に喜んでもらえた、感動してもらえた、その度合いで、
「お布施」の多寡が決ります。だから、あの手この手、
毎日が生みの苦しみ(いや“楽しみ”)で努力しているのです。
Wikipediaで「アマチュア」を見ると、定義は 次のようでした。
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1.プロに匹敵する知識や技術を持っているが、職業として行うための
資格を持っていないか、持っていてもそれを職業としていない人物
2.知識や技術を持っており、場合によっては職業として行うための
資格を持っているが、その技量がプロには及ばない人物
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尺八で言えば「尺八師範」の資格を持っていなければ、どんなに
上手でも「アマ」か?。最近では、流派に属さないで、プロに
なっている人がどんどん出てきている。私もその一人。
二番目の「師範」の資格を持っていても、その技量が「プロ」に
及ばない者。これは、尺八の世界では多い。
「○○流師範」の肩書きを持つ御仁は2万人もいらっしゃるが、
その 99.5% は 素人同然。残り0.5パーセントの 100人が、プロ級の
腕前を持っている。しかし、腕はよくとも「プロ活動」をしていない
人が半数以上。腕はあっても「プロ」と「アマ」の違いは何か?
では「プロ」とは? Wikipediaで見ると
「本来の意味は その分野で生計を立てていること」と。
となると、尺八家の中で、尺八の演奏だけで生計を立てている人は
ほんの0.1パーセントの 20人位でしょう。この定義では、私も
はずされる。私は、年金があるから食べていける。
Wikipediaでは、さらに
1.ある分野について、専門的知識・技術を有していること、
あるいは専門家のこと。
2.そのことに対して厳しい姿勢で臨み、かつ、第三者が
それを認める行為を実行している人
さて、これで私もようやくプロの仲間入りができるか。
別のサイトで、ある評論家が「何事も超一流のプロ以外は皆アマ」と。
けだし明言。ダントツの超一流以外の者が「プロ」を自認するのは
おこがましい。そんな謙虚さも必要か。
一流のプロは、専門外のことをやらせても一流に
やり遂げる。
その昔(S50年代)、TVの「芸能人の隠し芸大会」で、
クレージーキャッツの面々が、尺八で『テイク・
ファイブ』他、ジャズを吹いた。
当時の尺八家で『テイク・ファイブ』を吹ける人は
いなかった。クレージーキャッツのメンバーの一人、
石橋エータローが、福田蘭童の息子であることは
知っていたが、ハナ肇や加藤茶、高木ブーまでが、
全員で尺八を吹いたのだから驚きであった。
その他、三味線やダンスなど、役者が専門外のことで
一流の演技をすることに、“さすがプロ”と思う。
「プロとアマ」で検索して、こちらは「陶芸家」のブログ。
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陶芸家には、プロの試験も認定制度も資格もない。
土を握って焼成すれば、プロもアマもない。
全国的な陶芸公募展でも、プロだから入選、アマだから
選外という事はない。プロと呼ばれている人でも選外に
なるし、アマと呼ばれている人でも入賞する。プロも
アマもない、あるのは作品だけなのだ。
うまく定義できないが、「プロであるという心意気を
持っていれば、下手くそでもプロである」。
逆に「すごい技を持っていても、自分はアマと思っている限り、
アマと呼ばれている領域から抜け出る事はできない」。
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はて、 要は、本人の心根次第か?
ただし、この方 「他人が決して真似のできない技を
持っている人が超一流」と述べている。それには納得。
尺八の世界も同じ。プロでも年収300万以下では、 食べていけないのだから、プロとはいえない。 その点では、私はプロといえない。
逆にアマでも、プロ以上に上手な方もいる。だが、 技術的にはすばらしくとも、プロとして認められるには、 強烈な個性、オリジナリティを持っているか否かだ。 その音色、演奏を聴いただけで誰だかがわかる。 それは他人には真似できないものを持っているか否かだ。
ひるがえって私。「9孔尺八」で「5孔」では吹けない半音階の
移行の曲でも吹奏は可能。1尺3寸~2尺4寸までの尺八で、 どんなキイにも対応できる。
それで、演歌、詩吟、琵琶、一絃琴、ご詠歌、声明、
バロック、前衛音楽、舞踊などの伴奏の仕事が舞い込む。
「余人をもって替え難し、オンリーワンの尺八プロ」。
言い方を替えれば「隙間(すきま)産業」で細々と食べて
いけるのでござる。