現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

友あり遠方より来る

2010-03-28 09:23:41 | 虚無僧日記
3/27 東京からN氏、大阪からK子さんがみえた。
東京から名古屋に移り住んだのが17年前。当時
借金地獄で夫婦別居中、それまで築いてきた人間
関係をすべて断ち切って、私は東京から逃げ出した。

弟子たちも捨てて、頼まれていた仕事もキャンセル
してきたのだから、多くの人に迷惑をかけた。
名古屋に来て数年は無一文だったから、お詫びの
挨拶状も出せなかった。

最近になってN氏は、私が「名古屋で虚無僧して
いるらしい」という噂を耳にし、私のホームページ
を見て居場所を知り、K子さんを誘って二人で来て
くれたのだ。

不義理をしてきた私としては会わせる顔などないが、
18ぶりの再会に、過去の楽しかった日々の記憶が
イッキによみがえり、多いに話がはずんだ。

こうして遠方からでも訪ねてきてくれた朋友に感謝。
うれしい一日だった。

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保険会社の設立

2010-03-26 10:43:53 | 社会問題
生命保険業は、数学と法学と営業で成り立っている。
カタチある品物を売るわけではない。紙と人だけだ。

男女別年齢別生命表や健康度合いから“死ぬ危険度”を
算出し、それに利率やら手数料を勘案して、保険料が
決まる。明治の初め、まだ日本人の生命表も無い時代に
創業者たちは、どうやって保険料を決めたのだろうか。

明治35年の時点では、泡沫会社が100社もあって、できては
潰れしていた。日本生命の社医だった矢野恒太は、その後
農商務省にはいり「保険業法」の制定にもかかわって、
「相互組織の会社」関連の法律を制定する。そして明治35年
に第一生命保険相互会社を設立し、日本初の「アクチュア
リー会」会長となった。まさに医者であり数学と法律の権威
であり、そして事業家だった。

慶応義塾の塾頭まで務めた門野幾之進は、16歳から47歳
までの31年間、教職にありながら、千代田生命保険相互
会社を設立して、わずか1年で、1万件の契約を獲得した。
当時の保険証券は、表彰状のように一枚一枚毛筆で手書き
だった。コンピュータも無い時代である。保険料の算出やら、
事業の収支はすべてソロバンでの手計算だ。

明治人の意気込みと能力の高さには驚くばかり。現在の
自分は、保険会社を設立することなどできようか。わが
一路会の会員を1万人にして、免状を1万枚書いてみたい
ものである。夢か?
明治の世に都山流を起こした中尾都山は、樺太から朝鮮、
台湾まで行脚して、3万人の会員を獲得した。それが今
なぜできぬ。

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生命保険か生活保険か

2010-03-25 07:50:08 | 社会問題
1868年 福沢諭吉は『西洋案内』の中で、「生涯請合い」のこと
として「生命保険」を紹介した。この時点ではまだ「生命保険」
という言葉は使っていない。

いつ、どこで誰が「生命保険」という言葉を言い出したのか不明
だが、「Life Insuarans」を「生命保険」と訳したのは、誤訳だった
と私は思っている。「LIfe(ライフ)」を「生命」と訳したため、
「命を保証するのか?」とか「死ぬのを待っているようでイヤだ」
との悪いイメージを持たれた。

「生命保険」は「人の命」を保証するのではない。
「自分の老後の生活」「死後の家族の生活を保障」するのだから、
「ライフ」は『生命』ではなく『生活』。『生活保障』と訳す
べきだったと、私は長年主張してきた。近年、ようやく「生活
保障」という言葉が使われだしている。

ちなみに、生命保険の方は「保障」。「さしさわり無きよう保つ」か。
損害保険は「補償」という漢字を使う。損害を被ったときに補填する
という意味。生損保ともに「保証」するものではない。

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最初の生保会社は安田か明治か

2010-03-25 07:35:04 | 社会問題
1868年、福沢諭吉が『西洋案内』を著してから 13 年後、
安田善次郎が「共済五百名社」を設立した。安田生命の
前身だ。

『西洋旅案内』では、掛け金について「年の老若、生来の
病身と達者とによりて、年々金を納むる高にも多少あり」
と記されていたが、「共済五百名社」は、会員500名
限定で、掛け金を一律にしたために、早く死んで大金を
受け取る人と、長年払い続ける人とで不公平感があった。

そこで、福沢門下で、愛知県豊橋出身の医師 阿部泰蔵が、
アメリカに留学して、生命表に基づいて保険料に差を
つける生命保険制度を学んで帰国し、明治14年に創設
したのが「明治生命」。近代的保険会社の日本初である。

「共済五百名社」が行き詰まり「安田生命」となるのは
明治27年。

安田も明治も共に「日本初の保険会社」と主張していたが、
平成16年、両社は合併し「明治安田生命保険相互会社」と
長い長い社名になった。

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第一生命 株14万円

2010-03-24 08:57:10 | 社会問題
第一生命株、売り出し価格14万円に(読売新聞) - goo ニュース

鈴花は第一生命の「終身保険」500万に入っていた。古い契約
なので、年間の保険料はわずか 1万円ほど。それでも今回、
株式化で30万円ほどもらえるとのこと。うらやましい!

「第一生命」は明治35(1902)年、矢野恒太によって、日本で最初の
「相互会社」として創立した。それまでにすでに明治、日本、安田
の前身の会社など数十社もの保険会社が設立されていたが、
すべて株式会社だった。さらに怪しげな共済制度も加えれば100社
以上もあり、“できては潰れ”で、保険会社は信用を失いかけていた。
そこで矢野は「利益は株主ではなく契約者に分配する」という
“相互組織”の保険会社を設立した。“相互組織の第一番目”の
会社だから「第一生命保険相互会社」というのだ。

矢野恒太は岡山県出身。私の義父(妻の父)が岡山出身で、遠縁に
あたるらしい。義父は慶応在学中、矢野恒太の家に下宿していた
とのこと。矢野恒太の葬儀の時は、第一生命から黒塗りの車が
お迎えにきた。そんな縁で、第一生命には親近感がある。

第一に遅れること1年半、千代田が二番目の相互会社として設立
された。明治37(1904)年のことである。それが、太平洋戦争の後、
戦後のインフレで保険会社は壊滅状態になり、GHQの勧告に
よって、日本、住友、明治など多くの株式組織の会社は相互会社と
して再出発した。

戦後長い間、生保業界は18の相互会社と株式会社2社の20社
体制でやってきたのだ。

それがバブル崩壊で、千代田はじめ多くの中小生保が外資系に
売られ、「株式会社」となってしまった。千代田も今は、AIG傘下の
「スター生命保険株式会社」だ。

そして今春、第一が株式会社となると、相互会社として残るのは、
日本、住友、明治安田、富国、朝日の5社のみとなる。

「助け合いの精神にのっとった非営利組織の相互会社こそ理想」と
いう信念で勤めてきた私にとっては残念なことだが、第一生命は
株式会社化で、今後どのように発展していくのか、ニッセイと第一
の首位争いを見守りたい。

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書道教授

2010-03-24 07:04:55 | テレビ・映画・芸能人
3/23 日テレ 松本清張生誕100年記念作品『書道教授』

「テレビは見ない」と公言している私だが、清張作品に
染まっている鈴花に話を合わせるため、昨晩『書道教授』
をみた。

松本清張作品の中で『書道教授』というのは知らなかった
からだ。週刊朝日に連載されたシリーズ「黒の図説」の
短編作品らしい。

テレビドラマでは、例によって原作とはだいぶ脚色改変
されているようだ。
テレビでは、主人公の銀行員・川上克次(船越英一郎)は
愛人のホステス・神谷文子(荻野目慶子)を殺害していない
のだが、ラスト殺人犯として逮捕される。「殺していないの
だから、いずれ無実が証明されるだろうに」と、消化不良
だった。

原作は、やはり本人が殺していたのだ。それなら、ラスト
で逮捕されれば、スッーと溜飲も下がるのにと思う。

テレビドラマはいつも原作を捻じ曲げてしまうから矛盾が
出る。作家の意図をぶち壊してしまって良いのか。音楽なら
著作権がうるさいのに、ドラマでは許されることに、私は
疑問を感じる。

ま、それはともかく、配役がそれぞれ適役でよかった。
“サスペンスの帝王”と云われ、いつも追い詰める役の船越
英一郎が、追い詰められる役。その愛人役の荻野目慶子、
女の怖ろしさにゾッーとさせられた。書道教授の勝村久子役の
杉本彩、美しさの中に厳しさ、冷たさと優しさ、怪しげな魅力
を漂わす。
名前は判らないが、刑事役もわさびが効いていた。

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新聞・テレビの未来

2010-03-22 22:44:26 | 社会問題
新聞が全く役に立たなくなった。会社勤めの時は
広報部だったので、毎朝新聞全紙を読んで、必要
記事を切り抜き、スクラップ・ブックに貼り付けて、
関連部署に配信していた。切り抜きは相当数あった。
ところが、ここ数年、必要あって切り抜いた記事は
一枚も無い。

去年半年間新聞をやめた。しかし、なんの不自由も
なかった。その後、また「新聞をとってくれ」と
“頼まれて”、断れない私。また取り始めたが、
毎日毎日新聞と広告のゴミの山がどんどん溜まって
閉口している。マスコミは“まずゴミ”の所以だ。

テレビも全く見ない。私だけかと思ったら、先日
3/22 NHKで「新聞・テレビの未来」と題して
討論番組があったそうな。

見ていなくとも、内容はネットで判る。その内容に
関しての様々な意見もネットに氾濫している。

パソコン音痴の私も日に4、5時間はパソコンを
触っている。ニュースは新聞よりも先にわかる。
くだらないテレビに付き合っている時間は無い。

NHKを全く見ない人が12%。その中に私も居る。
アナログから地デジになったら、もう私の家の
テレビも終わりだ。テレビの終焉は近い。

【2チャンネルの書き込みから】

 NHKのこういう番組って、現場の関係者をスタジオに
 おいて結局は差し障りない意見言わせて、視聴者の
 メールを紹介して 意見を戦わせるわけでもなく、
 言いっぱなしで終わるんだよな。 正直、時間の無駄。


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三味線と琵琶

2010-03-21 10:59:20 | 虚無僧日記
三味線は室町の末に琉球から伝わった「三線(さんしん)
=蛇味線(じゃみせん)を、琵琶法師たちが扱ったので
琵琶の撥のようなもので弾くことになった。

というので、琵琶と三味線は同じようなものかと思って
いたが、琵琶の音階は中世以前なので陽になっている。
半音を出すには、糸の押し加減で出す。尺八同様半音が
不安定だ。それがまた琵琶の魅力になっている。

さてさて、6月6日『九条の会』で、与謝野晶子の詩
『君死にたもうなかれ』を頼まれた。それを含めて
40分のオンステージ。ワンマンショー。白石和子の
独り語りの様な仕事とあって、今からあれこれ思案
している。

琵琶と三味線と箏を使って歌おうかと思って、琵琶も
始めた。そして判った。琵琶は陰気で不気味な音だが、
フレットの音階は陽なのだ。三味線は音色は明るいが
陰音階に適している。『君死にたもうなかれ』は長文
なので、陰陽織り交ぜ演じてみたい。そのための発声
訓練も始めた。おっと尺八はどうしよう?。



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君死にたもうことなかれ

2010-03-21 10:59:06 | 虚無僧日記
「君死にたもうなかれ」。明治37年日露戦争で徴兵され、
旅順にいる弟のことを思って、与謝野晶子が書いた詩だ。

私は、生来、この詩には反感を持っていた。会津武士の
血を引く家系だから、“お国のため”に“個人の利”は
捨てるものとごく自然に思っていた。

しかし、最近になって、会津武士一徹と思っていた母方の
祖父が、実は「反戦思想家」だったことを母から聞かされた。
祖父が「天皇の写真など見たくない」と云っていたというのだ。

母の兄がいよいよ戦地に赴くとなった前の晩、祖父は兵舎に
息子を訪ねたが、「終始無言だった」と聞かされていた。
一言も発しなかったという祖父に、私はさすが「会津武士」と
畏敬の念をもっていた。
しかし、厳しい祖父だったが、息子を無言で送り出す、その
胸のうちは、「無念の悔しさ」だったのかと、今になって
判った。

母の兄は医学部を卒業したばかりで、医師になるはずだった。
そして病弱で徴兵検査では「乙種」だったのだ。それでも、
太平洋戦争末期、ついに赤紙が来た。入隊してからの叔父は、
屈強な農村出身の古年兵になぐられっ放しで、顔はアザだらけ
だったという。祖父はそんな息子が不憫だったのだろう。家宝
の刀を黙って差し出した。「自決せよ」との意味だったのかも。
銃で自殺すれば「天皇陛下から下賜された弾を無駄にした」と
いう罪で、重罪人となるからだ。結局それからまもなくして
終戦となり、叔父は無事帰ってきた。銃のかわりに尺八を持って。
その叔父が私の最初の尺八の師である。

そんなふうに思えてきた今日だから、私はあえてこの詩に挑戦して
みようと思っている。

江戸時代まで、兵農分離されていた。領地を取った獲られたの
分捕り合戦は侍がやることで、農民も商人も関係ないことだった。
明治になって、戦争は兵隊というプロ集団がやるものという考えが
まだ残っていた。
「なんで、商家の主が戦争に行って人殺しをしなければならないのか」
与謝野晶子はそれを素直に口にしたのだ。それがまだ許される時代
だった。

その後、次第に「軍国主義」に冒され、昭和の時代となると、さすが
与謝野晶子も「君死にたもうなかれ」など云えなくなり、戦争を鼓舞
する詩を書いている。そんなイヤな時代が、今また忍び寄っている。
だからこそ、今「君死にたもうことなかれ」なのだ。


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プロはなんでも

2010-03-20 19:54:07 | 虚無僧日記
福山雅治のように、プロは専門外のことをやらせても
人並み以上にやる。と云われて私も発奮。尺八以外の
ことに目覚めた。

子供の頃は、音痴で歌も歌えず、ピアノもギターもトラン
ペットも何を習ってもダメだった私。唯一尺八だけが残った。
むろん、を尺八は音痴では吹けない。自分で音程を作る楽器
なのだ。人並み以上の努力をして、今“尺八音楽”で食べている。

苦節40年。音痴だった私が、さらに歌手デビュー。でも
尺八を吹きながらでは歌えない。となると三味線がいい。
というわけで目下独学で三味線を練習している。

3本の糸の調弦もいろいろ変えて、いかに指の動きを少なく
するか、研究している。今日は保育園の卒業式とあって
「一年生になったら」を弾き語りするのに、1=C, 2=F,
3=Cにしてみた。ドレドファラファソがカンタンに弾けるでは
ないか。

こうなってくると三味線が楽しくなってきた。


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