現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「飯沼貞吉」決死の電線敷設

2021-08-22 19:36:56 | 「八重の桜」

『会津史談会』会誌 第23号(昭和18年2月)で見つけました。

飯沼貞吉」が逓信省に勤めていた時の話です。

(昭和15年10月8日付「読売新聞」に掲載されたという「八木鐘次郎氏」の談話を 要約しました)。

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時は明治27年7月25日、朝鮮半島の豊島沖で 日清戦争の火蓋が切られた。そのニュースは「釜山電信局」からただちに東京に送られた。だが、日本軍はすでに 仁川、京城まで進んでいるが、海岸線には支那軍が上陸していて、陸路の通信は途絶えていた。

そこで、電信敷設の任に当たったのが「飯沼貞吉」改名して「飯沼貞雄」。彼は 300名の人夫を連れて、敵地の中を京城まで電信設備の敷設という難事業に向かった。

出発の時「危険だから、ピストルを持って行くように」と仲間に言われたが「飯沼貞雄」は「私は白虎隊で死んでいるはずの人間ですから、命は捨ててますよ」と 笑って答え、「元気で行ってきます。きっとやりとげますよ。船を使わんでも、東京と通信ができるようにしてみせますよ」と明るく旅立っていった。

白虎隊生き残り「飯沼貞吉(雄)」の決死の電信設備の敷設が、日清戦争の戦況を逐一東京に伝え、勝利へと導いたのだった。

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日本の電信(電報)事業は明治3年1月、東京と横浜間の開通に始まる。電信網の全国整備に伴い飯沼貞吉は技術専門家として東奔西走する。明治6年には東京から長崎まで1340kmが開通。
飯沼貞吉は明治5年10月に下関電信局(赤間関)に勤務し、明治6年4月に小倉電信局に転勤した。
アジアで電信を独力で構築した国は唯一日本のみで、その後の通信大国への基礎となった。そして逓信省仙台逓信管理局工務部長を最後に大正2年(1913年)60歳で退官、正五位勲四等に叙せられている。
 
昭和6年(1931年)2月12日没、享年77歳。
 
 

語られなかった「飯沼貞吉」のその後

2021-08-22 19:36:40 | 「八重の桜」

自刃した白虎隊で唯一人生き残った「飯沼貞吉」は、蘇生してから後のことを多くは語らなかった。そこで、語られた話から「定説」が作られたが、そこには抜け落ちた話があった。

飯沼貞吉は「たまたま息子を探しに来た印出新蔵の妻ハツに助けられ、背負われて塩川に辿り着き、旅館で介抱を受けた」というが、まず、一晩で婦人が 少年とは言え、重傷の男子を背負って、一晩で塩川まで行くのは不可能。また当時 塩川に旅館は無かった。

貞吉の話には、塩川に行くまでの何日間かの話が欠落している。それを補う史料が、40年ほど前、飯盛山近辺の古い農家を取り壊した際、屋根裏から古い鉄砲とともに出てきた。

それは「自分が貞吉を発見し、彼を不動滝の奥の岩屋に連れて行き、毎日食事を届けて、そこで傷が治るまで一ヶ月ほど? 匿った」というもの。

それには最後に、「飯沼氏は、農民に助けられたことを恥じて隠そうとしているのか、士族の印出ハツの名はあげても、自分にはお礼の言葉もない」と
苦言が書かれてあった。

私は、このニュースを「歴史読本」で見たが、その後もずっとこのニュースは無視され、未だに貞吉の証言だけが建て節として流布している。

 

最近、もっとすごい話が出てきた。貞吉は、明治元年、長州藩士「楢崎頼三」に連れられて、長州小杉(現山口県美弥市)に行き、そこで「楢崎氏」に養育されたというもの。“仇敵”長州人の庇護を受けたことなどは、彼は一切語っていない。しかし、本当だとするとすごい話だ。



長州藩士に扶養されたのは、飯沼貞吉だけではない。『八重の桜』にもしばしば登場する会津藩士「秋月悌次郎」は、落城後、長州藩士の「奥平謙輔」を訪ね、将来のある会津藩の少年達を託した。後年、陸軍大佐となった小川亮」と 山川大蔵の弟で東京帝大総長となった「山川健次郎」は、奥平氏の庇護の下に出世したのである。

さて、飯沼貞吉は、その後明治3年、静岡の学問所に入学。
明治5年(1872年)工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。最初の勤務地が長州山口県だった。

その後、国内各地で電信の開設に尽力し、1894年(明治27年)日清戦争では、大本営付き 陸軍歩兵大尉として出征。その電信技術が日清・日露戦争の勝利に多いに寄与した。

1905年(明治38年)札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。だが、会津戦争のことを人に語ることは無かったという。

死後、飯盛山の白虎隊の墓の横に埋めくれ」と願っていたが、会津では「生き残りは恥だ。それを一緒に並べるわけにはいかねぇべ」と少し離れたところに墓が立てられた。それほど、生き残った者は死に損ない」と侮蔑された時代だったのだ。


白虎隊隊長「日向内記」の名誉回復

2021-08-22 19:36:22 | 「八重の桜」

白虎隊の話は、ただ一人蘇生して生き残った「飯沼貞吉が語った話」というのが元になって、「戸の口原で敵の砲撃を受け、大方が戦死、生き残った者がようやく飯盛山までたどりついたが、城の焼けるのを見て、もはやこれまでと、全員自決した」と、どの本にも書かれているが、私としてはどうも腑に落ちない点があった。白虎隊士の多くが生き残っているから、「全員戦死か自決」というのは嘘であると。

飯沼貞吉の話では、隊長の日向内記食料を取りに行くと言って 強清水まで引き返し、そのまま帰ってこなかった」と。

そのことで、日向内記は、「戦わずに逃亡し、白虎隊士を置き去りにした」と非難され、戦後は姿をくらまさざるを得なかった。子孫も「日向」姓を名乗れずに、長い間消息不明だった。最近になって、日向の子孫が名乗り出、漸く再評価されつつある。



「白虎士中二番隊」は37名いた。23日未明より敵の襲来を受け、3隊に別れて逃走した。

教導役「篠田儀三郎」に従った17人の内、飯沼とともに飯盛山で自刃したのは6名だったようだ。内一人 飯沼貞吉が蘇生。その他の場所で自刃した者3名、合わせて9名。飯沼達が自刃する前に「城へ戻ろう」と飯盛山を下りたところで敵に遭遇し撃たれて死んだ者が4名

半隊長の「原田勝吉」に従った7人と、小隊長の「山内弘人」に従った者が13人、合計20名は無時に帰城しているのだ。



日向内記は、入城できた隊士を再編成して、籠城戦のさなかも隊長として活躍している。

冨田国衛著「会津戊辰戦争 戸ノ口原の戦い 日向内記と白虎隊の真相」

それを考慮してか、『八重の桜』では「日向隊長失踪」の話は登場してこなかった。


旧主の帰城に関する農民の請願書

2021-07-09 22:53:19 | 「八重の桜」

会津世直し一揆は、明治元年10月3日1868年11月16日)から同年12月1日1869年1月13日)に旧会津藩領内で発生した世直し一揆ヤーヤー一揆とも。

会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し、以後、領内各地に波及していった。このことから、「領民は松平容保の圧政に苦しんでいたので、その反発で起きた」などと論じられているが、これも偏向史観で書かれたもの。

これも後世の作。想像で描いているにすぎない。

 

そもそも、口火となった事件は、原本を見ると「二十人の農民が小荒井村の庄屋宅に陳情に押しかけた」だけで、会津藩の元役人の説得で退去している。それが「二十」の「十」の字に「ノ」を付け加えて「二千人が押しかけて庄屋宅を焼き討ちした」ことになった。二千人が押しかけたとなるとすごい暴動だが、二十人では大した問題ではない。打ち壊されたという庄屋の名前は私は知らない。こうした作為的な話は許せない。

長州や薩摩は農民も一緒になって戦ったのに、会津藩では領民はソッポを向いた」というのも誤り。会津藩でも2000人の農民が戦争に加担している。もっとも「農民でも戦いに加われば士分に取り立てる、100石取りにする」というおいしい餌に飛びついたのだが。

逆に、西軍の侵攻に農民は積極的に歓迎し協力したというのも、西軍は「協力すれば年貢を半分免除する」と約束したからである。それは何人かの庄屋の証言にある。

 和知菊之助(上羽太=現在の西郷村上羽太地区の庄屋)

 石井?(下羽太村=現在の西郷村下羽太の庄屋)

 内山忠之右衛門(庄屋)(黒川=現在の西郷村小田倉黒川の庄屋)
 
 

薩摩ではそもそも「半士半農」の士族が多く、彼ら下層侍が倒幕に立ち上がった。長州も「奇兵隊」は大部分農民や下層藩士だった。彼らは明治になって職を解かれ、結局士族にはなれず、農民一揆や萩の乱を起こし、ほとんどが殺されてしまった。

会津の農民は重税にあえぎ、藩主「容保」を恨んでいたというような論調が一人歩きしている中、全く逆の史料を見つけた。

会津史談会誌』第21号(昭和15年9月)
旧藩公(容保)の御帰城に関する領内民衆の請願書

明治2年12月。「容保」公は東京で謹慎。実子「慶三郎(容大)」に「斗南三万石」の仕置きが下された後のこと。

東谷地村、上西蓮村、赤崎村、下谷地村、中目村」の百姓惣領代 5人と 若松町人惣代 4人 連名で、民政局や太政官宛に出されたもの。

「恐れ乍ら書付をもって嘆願奉り候」で始まり、会津が開城し、容保公父子はじめ家臣がそれぞれ預けられ、謹慎させられたことは、下賎の身には弁(わきま)え難いことですが、一途の直心より日夜寝食を断ち愁眉を相悩ましおる民、たって
愁訴懇願奉るべき人数を押し止め、私共申し合わせ・・・・・

そして「御旧主様より蒙った御仁政、御厚鴻恩」として34項目も挙げている。

第1項が「九十歳以上の老人へ御扶持米下され置き候事」
第2項は「孝子、義僕、節婦の賞賛」
第3項は「七十歳以上の者への饗応」
第4項は「八十歳以上の者への歩役御用免除」

そして「子供が三人以上いる家庭への扶助」「病気の者への手当て」「窮民への臨時手当て」「独居老人への扶助」「雨が降らず、また日照りが続けば、神社での祈祷」「身弱、障害者には賦役、ご用免除」「火事で被災したものには過分の手当てと貸付金」と、細事にわたり34項目も挙げている。

そう会津は日本で最初に“社会福祉政策”に取り組んだのです。

明治15年(1882年)県令として赴任した三島通庸は、赤子から老人まで情け容赦なく道路建設に駆り出した。労働に加われない者には 代わりに金品を納めさせた。

明治になって、日清、日露戦争で日本政府は莫大な借款を抱え、農民はますます疲弊し、田畑や娘を売る羽目になる。

明治新政府にくらべれば、藩政時代の方がはるかに良かったのでした。


会津戦争、農民の怒り

2021-07-09 21:35:06 | 「八重の桜」

「福沢諭吉」が「立国は私」と論じたように、明治維新は被支配者層の反乱・革命ではなく、所詮「士族」の政権争い。農民にはえらい迷惑。



8月日21、22日、石筵の村々は 会津藩兵により焼かれた。
16集落453戸のうち母屋が159戸、ほかに土蔵、小屋、隠居屋など112棟。退却する時は敵に宿所や糧食を与えないように村々を焼き払うのが、戦の常套とはいえ、焼かれた方はたまったものではない。

一方、西軍も会津藩領にはいると、略奪分捕りの後に「愉悦的」な放火を繰り返した。

長州藩士「杉山素輔」は、「八月二十三日、猪苗代から十六橋にいたる間の村々を焼きながら進軍した」と書いている。この中には野口英世の生家もあった。

野口英世を扱った渡辺淳一原作の映画「遠き落日」は、冒頭、官軍の略奪に三田佳子演じる英世の母「しか」が逃げ惑うシーンではじまった。よくぞ描いてくれたと感激。



彼らは戦勝気分で 村々を愉しみながら焼いていったのであろう。
街道筋の村ばかりでなく、集落を見つけるごとにこれを焼き、街道からはどんどん離れ、山ぎわや田んぼの中の道を通ってようやく十六橋に着いたという話である。
 
こうした被害をこうむった恨みが 村人同士の争いとなっている。

会津藩兵に家を焼かれた「石筵の農民」8人が、その腹いせもあってか、西軍の道案内をして会津にはいった。そして、役目を終えて、意気揚々 村に帰る途中、猪苗代の村人に打ち殺されたという。猪苗代の農民は西軍によって家を焼かれていたからだ。


「西郷四郎は頼母の実子説」の検証

2021-07-07 13:39:34 | 「八重の桜」

『会津会会報』第114号(平成20年)に 「小池明」氏により
「西郷頼母と きみ」の写真が掲載されていました。
明治5年と明治19年に撮影されたもの。
(よくぞ、このような写真が出てきたものと感心します)

小池氏の説明によれば、「文久2年(1862) 西郷頼母は
藩主(容保)に京都守護職の辞職を迫って勘気を蒙り、
家老職を解かれて、会津城外の長原村に【栖雲亭】を建て、
そこに蟄居した。しばらくして、そこへ 伊与田為成が
訪ねてきた。伊与田為成(350石)は 京都勤番中、妻が
病死したことで、殿から格別の暇をもらい、会津に帰る
ことになったが、その際、殿から「頼母の栖雲亭を訪ね、
『余は汝のことを忘れてはいない』と伝えよ」と言伝を
託されてきた。

(『八重の桜』でも、そのようなシーンがあったような)

そして、伊与田為成は、その後もしばしば栖雲亭を
訪ねて西郷と昵懇となり、娘「きみ」に西郷の身の
周りをさせるほどにもなった。

と。なるほど、西郷頼母の栖雲亭蟄居は5年に及び、
その間、「きみ」と情を通じるようになり、一子が
生まれたとしても不思議はない。


星亮一『西郷四郎の生涯』によれば、「行儀見習いの
名目で西郷家に仕えていた伊与田喜平衛の娘 きみ と
情を通じ、密かに生ませた子を 頼母の実弟 山田
陽次郎の配下の志田貞二郎に預け育てさせた。

慶応4年(1868)8月23日、西軍の侵攻で、頼母の
母、妻、娘たち21人が自刃するが、「その前日、
妻の千重子が用人を津川に差し向けている事実が
ある」とも。

頼母も四郎は写真でみても、小柄で、顔つき、目鼻
口元そっくりである。実子説は限りなく真実に近い。
そして「伊与田きみ」も丸顔で目元キリッとして
四郎に似ている。

さて、その後の「きみ」さんは、慶応2年、
会津藩士「遠山主殿」と結婚している。
ちょっと待って、四郎が生まれた年じゃん。
この時「きみ」20歳。
ところが2年後の慶応4年6月夫「遠山主殿」は
戦死。8月頼母の妻、娘たち自刃。それぞれ
伴侶を失った二人は、10月に結婚。

と書かれているが、まさか、頼母は箱館に行って
いたはず。

そして明治3年、「きみ」は伊与田家の者と一緒に
津軽(青森県上北郡)に移住する。そこで箱館で
捕えられ津軽藩のお預けとなっていた頼母と劇的な
再会をする。う~ん、ドラマチック。

その後、明治5年西郷頼母と妻きみは静岡県の
西伊豆に居た。ここで頼母は「謹申学舎」という
塾を開いて伊豆一帯の師弟の教育に当たっていた。
上記の写真はこの時撮影されたもよう。

明治13年(1880年)頼母は日光東照宮の禰宜となり
旧主容保をた補佐する。た。明治20年(1887年)、
日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。

明治22年(1889年)から明治32年(1899年)まで、
福島県伊達郡の霊山神社の神職を務める。この時
西郷四郎が訪ねてきて50日ほど滞在している。

実の生みの母「きみ」と対面したのだろうか。
実は明治23年「きみ」と頼母は離婚している。

明治36年(1903年)西郷頼母が会津若松の十軒長屋で
74歳で亡くなった時、側に仕えていたのは別の女性だった。

「きみ」は 明治26年、南会津郡伊南村の神官
「大宅正則」に嫁し、大正14年まで生きた。




西郷頼母の本姓は「保科」

2021-07-07 13:36:57 | 「八重の桜」

昭和6年12月に出された『会津史談』第1号に
西郷頼母の『栖雲記』が載りました。ガリ版刷りで
見にくいのですが、その最後に「由緒書」として

一 清和源姓 本国信濃 井上掃部助頼季の流
  保科、又 穂科、或いは 星名

一 我が家系は、保科正直の弟 正勝 の子 民部
  正近、子無きをもって娘を西郷房茂に嫁せし
  妹の子「頼母近房」を養い、沼沢吉通に嫁せし
  妹の子を妻とする也

一 西郷家も清和源氏にして徳川の親戚たり

さて、何がなんだか。要は

会津藩祖「保科正之」は、実は徳川二代将軍「秀忠」の
隠し子で、信州高遠の「保科正光」に預けられる。
その保科正光の叔父「正勝」の流れが、会津藩家老と
なった「保科」氏。

つまり、会津藩主には「保科」の血は流れておらず、
家老の「保科」こそ「保科」の血筋。

ところが、この会津藩家老となった「保科」氏にも
二つの流れができます。

初代「正近」が亡くなる前にその子二代「正長」が病死。
正長には生まれたばかりの「九十郎」がいたが、赤子だった
ため、無事成長するかどうか分からない時代。

そこで、「正長」の妹とその夫「西郷房茂」の次男「近房」を
養子に迎え、さらに正長の3番目の妹を「近房」にめあわせた。

(甥子と叔母の結婚)

しかし実子「九十郎」が無事成長したので、「近房」は
全知行を「九十郎」に譲り、新たに 500石を拝領、分家して
実父の姓である「西郷」を名乗った。

成人した本家の「九十郎」は「保科民部正興」と名乗り、
しばらく藩政の中枢にあったが、京都から迎えた妻「藤木氏」が
身内を重臣にとりたて、藩の人事と政治に口出ししたという罪で
「民部」は 鹿瀬水沢(現新潟県阿賀町)に追放、流刑となり、
会津藩筆頭家老の保科本家は断絶。

このことにより、いったん正興に本家を譲った「近房」が
保科家の本流となるが、藩主と同じ姓では畏れ多いと、
「西郷」姓でのまま 代々筆頭家老を務めます。


その「西郷」家も「徳川」の親戚という。徳川二代将軍
秀忠の母は、家康の側室「西郷の局」。その縁戚とか。

となると、家老「西郷」家は、会津藩祖「保科正之」の祖母
「西郷の局」にもつながるということ。

家老「西郷頼母」が、『栖雲記』の最後に、「保科と徳川の
縁戚」であることをあえて書き記したのも 意味が深い。

「西郷頼母」は、明治になって旧姓「保科」に改め、
「保科頼母」を名乗った。そうなると「西郷」家を継ぐ者が
いない。そこで「志田四郎」を養子にして「西郷四郎」と
名乗らせた。

さて、四郎が頼母の実子であると思われる決定的?史料が
見つかった。

『頼母の日記』の中に「明治21年1月23日、四郎は別家して
西郷と称せむことを願い置いたが、今日願い済みの指令を
【本籍】伝法寺村なる伊与田が方より送りこしたれば、
四郎のもとにへやる」というもの。

四郎の【本籍】は、実母「伊与田きぬ」方にあった。
「志田」ではなく「伊与田」家にである。いかが。




「西郷四郎」実子説の再考 その3

2021-07-07 13:36:00 | 「八重の桜」

さて、「保科頼母」は、明治20年、日光東照宮の神職を辞し、
福島と東京を行き来しながら「大同団結」運動に加わり、
代議士に立候補する準備をしていた。

そんな中、明治21年1月23日、「四郎は別家して西郷姓と
なることを役場に申請していて認められ、その通知が本籍の
ある伝法寺村の伊与田家より送ってきたので、それを四郎の
もとにやった」。と「西郷頼母」の日記に書かれている。

この時、戸籍上「頼母」は「保科」姓に、「四郎」は「西郷」
として別家した。「保科」の戸籍はこの時 作られ、「明治12年
吉十郎の死後まもなく、四郎を養子にした旨」書かれたのでは
ないだろうか。

この明治21年。「西郷四郎」は 講道館で柔道一直線の時代。

このあと「大同団結運動」が瓦解し、明治22年(1889年)
から明治32年(1899年)まで、「頼母」は福島県伊達郡の
霊山(りょうぜん)神社の神職を務める。

「西郷四郎」の方は、明治23年6月23日、嘉納治五郎が
洋行中、留守を託されていながら、『支那渡航意見書』を残して、
講道館を出奔する。四郎25歳。

「頼母の会津出奔」「四郎の講道館出奔」「大同団結運動」に
関わった頼母、中国の辛亥革命に関わる四郎。「頼母」と
「四郎」は顔つき、体格だけでなく、性格も生きざまも
よく似ているのである。

講道館を出奔する前の5月9日、「西郷四郎」は、郷里
津川に帰省していた。その帰途、霊山神社に 父「頼母」を
訪ねている。その時、そこに母「きみ」の姿は無かった。
四郎が訪ねてくる直前「きみ」と「頼母」は離婚していた
のだ。離婚の理由を四郎は詰め寄ったが、頼母は一切無言で
あったという。

「きみ」は 明治26年、南会津郡伊南村の神官「大宅正則」に
嫁し、大正14年まで生きた。墓は伊南村にある。

明治36年(1903年)西郷頼母が 会津若松の十軒長屋で
74歳で亡くなった時、側に仕えていたのは別の女性だった。
(下女・斉藤なか)。葬儀は、「保科頼母」の養子として
入籍した11歳の「保科近一」を喪主にして行われた。

大正8年、四郎の実母?「志田さた」が82歳で亡くなる。
この時、四郎54歳。神経痛に冒されていて、2年後の
大正11年12月23日、尾道で亡くなった。かつて
「講道館の四天王」と もてはやされた「西郷四郎」の
葬儀に、講道館関係者の参列は一人も無かったという。

「西郷四郎」にも子はなく「孝之」を養嗣子にしている。
その最期まで「頼母」と「四郎」は似ているのである。



「西郷四郎」実子説の再考 その2 

2021-07-07 13:35:40 | 「八重の桜」


さて、実子説を否定する根拠は、「伊与田きみ」は
慶応2年「遠山主殿」と結婚している。慶応2年なら
「四郎」を産んですぐ。四郎が生まれたのが 慶応3年
1月となると、実子説は はなはだ不可思議となる。
そして、遠山主殿の子も宿し、一女「つや」を産んでいる。

「遠山主殿」は「遊撃隊・伊右衛門(350石)」の倅で
慶応4年6月12日、父とともに白河和田山で戦死した。
父58歳、主殿31歳。

会津戦争が終わった明治元年の10月に「頼母」と
「きぬ」は結婚したという話もあるが、頼母は出奔して
箱館に行っていたのであるから、ありえない。

夫「遠山主殿」と舅を失った「きみ」は、実家に戻り、
明治3年「伊与田家」の人たちと一緒に 青森県上北郡の
伝法寺村に移住する。「上北郡」は盛岡藩だったが、
斗南藩として分け与えられた土地である。当時の記録に
「伝法寺村」に移住した会津藩士として「伊与田善助」の
名がみえる。(また「田名部村」には「伊与田為義」とある)


「そこで箱館で捕えられ津軽藩のお預けとなっていた頼母と
劇的な再会をし結婚する」という話もあるが、「頼母」は
榎本武揚らとともに東京に護送され、館林藩にお預けに
なっていたはずであるから、これも作家の創作話のようだ。

ただし、後年、明治21年「四郎」を分家して「西郷家」を
継がせた」という日記に「本籍・伝法村」とあるのは
どう考えたらいいのだろうか。

賊徒、囚人の身で館林藩に預けられていた「頼母」である。
謹慎が解けても、一家は全滅、会津の家も焼かれ、帰る家は
無かった。その時「頼母」が頼ったのは「青森県上北郡
伝法寺村」に居ると判った「伊与田きみ」だったのだろうか。


「頼母」は 明治3年(1870年)館林に謹慎中?「保科」と
改姓する。しかし、そう自称しているだけで「戸籍上」では
ない。明治新政府によって戸籍が作られるのは、明治5年
以降である。(いわゆる「壬申(じんしん)戸籍」)。


そして明治5年(1872年)「頼母」は、伊豆で 依田佐二平の
開設した「謹申学舎」の塾長として迎えられる。その時、
「頼母」は伊豆に「きみ」を伴っているのである。
明治5年、「謹申学舎」の生徒「依田勉三」と「頼母・きみ」の
三人が一緒に撮った写真がある。(『会津会会報』第114号 平成20年)

明治5年9月23日、「四郎」の養父「志田貞二郎」が
38歳で亡くなる。この時「四郎」6歳。津川の小学校に
あがる。明治6年には、全国で戸籍が策定されるので、
「四郎」は津川の「志田貞二郎」の三男として届けられた。


明治8年(1875年)「頼母」は 都都古別(つつこわけ)神社
(現・福島県東白川郡棚倉町)の宮司となるが、明治10年、
西南戦争が勃発すると、西郷隆盛との交遊があったため、
謀反を疑われ、宮司を解任される。

そこで「頼母」と「きぬ」は一子「吉十郎」を連れて 一時、
会津に帰っていたのではないかと私は推論する。

そして、津川の「志田家」に預けていた「四郎」のことを知り、
引き取って面倒をみたのではないだろうか。この時、「四郎」は
まだ12、3歳。父「志田貞二郎」は明治5年に亡くなっていた。

明治12年8月、頼母の一子「吉十郎」が亡くなる。
「保科家」の戸籍では、このわずか10日後の8月19日
「四郎」を養子に入れているのである。この「保科家」の
戸籍は、この時点では無かったはずである。後述する
明治21年ではなかろうか。この時「西郷頼母」の本籍地は
まだ「青森県の上北郡伝法寺村」にあった。養子にしたと
しても、正式に「伝法寺村」の役場に届けたかは疑わしい。


明治13年、「頼母」は日光東照宮の神職になったが、
この時は「四郎」は同行していない。「四郎」は会津に
取り残されたことになる。

明治15年3月「四郎」は 友人の佐藤与四郎とともに
上京する。「陸軍大将」を夢みて、郷土の先輩「竹村庄八」を
頼って、徒歩で上京した。しかし、16歳の少年で、
身の丈わずが5尺(150cm)。読み書きもロクにできなかった。
そこで「竹村」に「無理」と諭される。「竹村」は慶応義塾に
通っていた。

「四郎」は 陸軍士官学校をあきらめ、加納治五郎の柔道塾に
住み込みで弟子入りする。その時の姿は、髪はボウボウ、
着物はボロボロ。「スダスロウ」と名乗るが、聞き取れな
かったという。(会津弁ではシとスがはっきりしない。
福島はフクスマとなる)。

この時「志田四郎」と名乗っているということは、まだ
戸籍上も養子として入籍されていなかったことになる。
「講道館修行者誓文帖」には「福島県越後国蒲原郡清川村
43番地、志田駒之助 弟、士族 志田四郎 14歳 
明治15年8月20日」と書き、なぜか「15歳」と
訂正している。「志田家」の戸籍では「慶応2年」の
生まれだから「16歳」のはずだが、1、2歳、若く
ごまかしている。身長が低かったためか。


「志田家」の戸籍から抜かれたのが、明治17年。
その時から「四郎」は、正式に「西郷」を名乗ったので
あろう。

その明治17年、「頼母」は日光に居り、「四郎」は東京に
居たので、「養子縁組・入籍」は、手紙でのやりとりで、
「伊与田」氏を通じて、本籍の「伝法寺村」の役場に
出されたと考えられる。


「伝法寺村」は 1889年(明治22年)滝沢村などと合併して
「四和村」に。その「四和村」は 1955年(昭和30年)
「三本木市」に編入された。

さてさて、『会津会会報』第114号(平成20年)に
「西郷頼母ときみが明治19年横浜で撮った写真」が
掲載されている。撮影者は、先の明治5年、伊豆で
撮った時と同じ「鈴木真一」。「頼母」の妹「美遠子」の
夫で、横浜で写真業を営んでいたという。

明治19年、「頼母」は日光東照宮の禰宜であったが、
こうして横浜まで出てくることは可能であったようだ。





「西郷四郎」実子説の再考 その1

2021-07-07 13:34:59 | 「八重の桜」

「伊与田為成の末裔」という方からコメント欄に「戸籍」に
ついて質問をいただきました。それで、再度 検討した結果、
一部を訂正させていただきます。

「伊与田為成」の娘「きみ」は、「西郷四郎」の実の母では
ないかと思われる女性です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

姿三四郎のモデルとなった「西郷四郎」は、1866年3月20日
(慶応2年2月4日)志田貞二郎の三男として会津若松で
生まれ、16歳で「西郷頼母」の養子となったとするのが
定説ですが、「西郷頼母」の実子ではないかという噂は、
養子にしたときからささやかれていたようです。

その根拠は、「西郷頼母」研究家の「牧野登」氏が 昭和58年に
出した『史伝西郷四郎』に詳細に論じられているとのこと。
2013年6月に出されたばかりの 「星亮一」著『伝説の天才柔道家・
西郷四郎の生涯』に12項目が紹介されています。


「西郷四郎実子説」

文久2年(1862) 西郷頼母は、藩主(容保)に京都守護職の
辞職を迫って勘気を蒙り、家老職を解かれて、会津城外の
長原村に【栖雲亭】を建てそこに蟄居します。

しばらくして、そこへ 伊与田為成が訪ねてきた。伊与田為成
(350石)は 京都勤番中、妻が病死したことで、殿から格別の
暇をもらい、会津に帰ることになった。その際、殿から
「頼母の栖雲亭を訪ね、『余は汝のことを忘れてはいない』と
伝えよ」と言伝てを託されてきた。

そして、伊与田為成は、その後もしばしば栖雲亭を訪ねて
西郷と昵懇となり、娘「きみ」を「行儀見習い」として、
西郷の側に預け置いたようです。

西郷頼母の栖雲亭蟄居は5年に及び、その間「きみ」と
情を通じるようになり、「きみ」が身籠った。

その時「きみ」は20歳。慶応2年2月4日に男児を
産んだ。しかし、明治になって作成された『保科家の
戸籍』では、一年遅い「慶応3年1月4日生」となって
いる。

ついでに、「四郎」が「保科頼母」の養子として入籍したのは
『保科家』の戸籍では「明治12年8月19日」。
『志田家』の戸籍では「明治17年4月4日」。

この違いは何なのかが 謎である。


「四郎」が「頼母」の実子ではないかとする根拠のひとつに、
「会津藩筆頭家老の西郷頼母」と、津川の「御用場役」の
「志田貞二郎」とでは、家の格が違いすぎるというのがある。

「西郷」家と「志田」家の関係を調べてみると、なんと、
「志田」家は、「西郷頼母」の実弟「山田陽次郎」の配下の
者だった。そこで、実子説では、

「伊与田きみ」が身籠ったことで、西郷頼母は 実弟の
「山田陽次郎」に相談し、生まれた子を「山田陽次郎」の
配下「志田貞二郎」に預けた。その時、「貞二郎」は
33歳、妻「さた」は29歳、と説く。

「志田家」は、会津の西数十km、阿賀野川を下った
新潟県の津川の在地豪族で、幕末には「御用場役
150石」。

会津戦争の時、「四郎」は 「津川に避難していた」と
いうより、津川の「志田貞二郎」の家に預けられていた。

慶応4年(1868)8月23日、西軍の侵攻で、頼母の母、妻、
娘たち、そして妹、親戚の21人が自刃するが、「その
前日、妻の千重子が用人を津川に差し向けている事実が
ある」とも。津川の志田家に「四郎」のことについて
何事かを託したのだろうか。

「志田貞二郎」は「山田陽次郎」の「朱雀寄合二番隊士」
として越後戦線を転戦、戦後は越後高田に幽閉された後、
津川に生還している。「山田陽次郎」は「頼母」と前後して
仙台から箱館に行き、そこで「頼母」と合流している。