現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

ついに明かされた「泰西王侯騎馬図」の謎

2021-05-31 22:02:02 | 会津藩のこと

実践倫理宏正会の会誌『倫風』5月号のグラビアに「泰西王侯騎馬図」が

載っていました。もうビックリ仰天です。この屏風絵は会津鶴ヶ城にあった

もので、現在は東京のサントリー美術館と神戸市立博物館に別れて展示

されているものです。

美術史家で筑波大学教授の「守屋正彦」氏の解説には「キリシタン大名の

蒲生氏郷が会津に伝えた」とあります。西洋風の絵であり、蒲生氏郷は

キリシタン大名であったことから、短絡的にそのような説が出回って

いましたが、現代では否定されています。

 蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

黒川を「会津若松」、城を「鶴ヶ城」と命名する。

高山右近と親しく、キリシタンとなる。洗礼名はレオン(またはレオ)。

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この屏風絵は、長崎にあったイエズス会の神学校セミナリオで制作されたものと

考えられています。

画の教師はイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオ

この図は、アムステルダムで1609年に作られた世界地図の上部を飾る騎馬図を元に描かれたと推定され、氏郷は1595年に他界しているので、氏郷の代には存在していなかったことになります。

では、いったい いつ、会津鶴ヶ城の天守に飾られたのでしょう?。



会津は奥羽の抑えとして、有力な大名によって統治されてきました。源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼした後、三浦一族の佐原(芦名)氏を補任する。

その芦名は1589年伊達政宗に滅ぼされる。だが、翌1590年、秀吉は小田原北条氏を滅ぼした後、伊達政宗を仙台に追い払い、信長の娘婿の蒲生氏郷を会津90万石の大守とした。しかし1595年氏郷が歿すると、その子秀行を宇都宮に転封し、越後の上杉景勝に与える。

秀吉が亡くなった後、会津の上杉は石田三成と手を組み家康をはさみ討ちにせんとしたが、家康は宇都宮からとって返して関ケ原で石田三成を討った。

関ケ原の後、1601年上杉は山形県の米沢に封じ込められ、会津には蒲生氏郷の子「秀行」が再度入る。秀行の妻は家康の三女「振姫」でした。

 この絵が会津にもたらされたのは、この蒲生秀行とその子忠郷、

その弟の忠知の時代、1601年から、忠知が伊予松山に移封される

1627年までの間と考えられます。

会津は、蒲生忠知と入れ替わりに伊予松山より加藤嘉明が入封。その加藤氏は 1643年、2代目の明成の時に改易となり、将軍秀忠の庶子の保科正之が入封します。

NHKで「泰西王侯騎馬図の謎」という特集番組が放映された時、

この屏風は、「この際に、将軍家から保科正之に与えられたものではないか」との坂本満氏の説を取り上げてましたが、これも根拠のない話。

2代将軍秀忠は1614年に「キリスト禁教令」を発して、キリシタンを厳しく弾圧していますから、このような絵を贈ることは考えられません。

1612年には蒲生秀行が歿し、その子忠郷が跡を継ぎますがまだ10歳。

母親の振姫が後見人として実権を握っていました。まさにこの時期、1614年前後、イエズス会は 蒲生秀行の妻「振姫」にこの絵を贈り、禁教を緩めてもらうようすがったのではないかと考えられます。

なぜ会津だったのか?。それは「振姫」が家康の三女であり、将軍秀忠の妹だったからというのが私の推理です。


『泰西王侯騎馬図』に描かれている王は

2021-05-31 17:15:08 | 会津藩のこと

『泰西王侯騎馬図』

 

描かれている王侯は、右から、ペルシャ王、アビシニア王(エチオピア王)、フランス王アンリ4世、イギリス王あるいはギーズ大公フランソワ・ド・ローランあるいはカール5世とされている。異教徒のペルシャ王は黒人で槍を持つのに対し、

キリスト教国の3人の王は王笏を持ち、ペルシャ王の方を向いている。キリスト教国の三人の王が、ペルシャ王にかしづいているような不思議な構図なのである。

 

神戸市博物館に保管されている方は、右から タタール汗、モスクワ大公、トルコ王、および神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とされ、キリスト教徒と異教徒の王が闘う構図になっている。構図も不思議な絵なのだ。世界地図の周囲に飾りのように描かれていた小さな絵を、等身大にまで拡大して描いた人は、まったく無名のキリシタン画家とはいえ、すばらしい才能である。

これが基になった絵か?


『泰西王侯騎馬図』 サントリー美術館への経緯

2021-05-31 17:14:28 | 会津藩のこと

会津鶴ヶ城の天守閣にあったという『泰西王侯騎馬図屏風』。

八曲一双のうち半分は、長州藩士「前原一誠」の遺族から、池永氏へ、

そして現在、「神戸市立南蛮博物館」の所蔵するところとなっている。 

 

では、残る 4曲一双は?

松平家が所有していたが、実は、戦争中、一時私の家に保管されていた。

叔父「牧原源一郎」は、福島県選出の国会議員として、東京の目黒区に家を構えていた。そして、どういういきさつか、松平容保のご子孫から この襖絵を預かっていたようだ。しかし、戦争末期、空襲が激しくなり、「東京では危ないから、疎開する」と、運び出され、そのまま行へ不明になってしまった」と叔父が語っていたのを 聞いたことがある。

とろがところがである。最近になって、叔父源一郎の長女(美智子)が戦後嫁いだ先の高瀬家で「この絵は私の家で預かっていた」とのこと。高瀬家は江戸時代から続く漆器店「白木屋」の店主で、幕末も明治にも、相当の金を拠出して会津の経済を支えてきた豪商。高瀬喜左衛門氏は青年会議所、商工会議所等の会頭を務め、会津若松市長にもなった人物。

その高瀬家からいかなる経路で渡ったものか。昭和30年代の末、西宮市の藤井氏が所有していたのをサントリー美術館が購入した。

そのとき、「出所を明かさないという条件で、某氏から買取った」というような説明がなされていた。なにかいわくありげである。

殿様から預かった品が、持ち出されて  行くへ不明になったとあれば、世が世なら切腹もの。事実、叔父源一郎の妻「みと」は戦後自殺している。自殺の理由は不明だが、この絵の紛失にからめて、フィクション(つくり話)として推理小説を書きたいと思っていたが、そのことを父に話すと、父にひどく叱られた。父は「戦後は、殿様も(生活に)苦労されていたから、(極秘に)手放した(売った)のだろう」と。

30年ほど前、東京の上野精養軒で毎年開催される「会津会」に 私が初めて出席したときのこと。松平の殿様(保定氏)も臨席されていて、後方の末席に座っていた私のところまで来られ、「牧原さんには、大変お世話になりました」と、初対面の私に丁重に頭を下げられた。

私はびっくり、大変恐縮した。そのとき この 『泰西王侯騎馬図』のことが脳裏をかすめた。


「泰西王侯騎馬図屏風」神戸市博物館への経緯

2021-05-31 17:13:32 | 会津藩のこと

『泰西王侯騎馬図屏風』。会津鶴ヶ城の天守閣に秘蔵されていたもので、元は八曲一双の大作だったが、現在、神戸市立博物館と東京のサントリー美術館に 四曲一双ずつ別々に保管されている。いずれも、国指定重要文化財。

 

以前は、「鶴ヶ城落城の時に 長州の前原一誠によって略奪された」などと言われていた。とんでもない間違い。

落城後、松平容保は東京に移送されたが、その時の持参品の中にはいっていた。屏風から切り離され、巻かれた状態だったという。

明治になって、前原一誠は、奥平謙輔とともに、会津藩の再興に尽力してくれ、会津藩士は下北に移住し、「斗南藩」として再興することになった。

その恩情に感謝して、明治三年、お礼にと、半分の四曲一双を前原氏に贈ったのだった。

「略奪した」など、前原氏には恩を仇で返すような大変失礼なことをした。

その前原一誠は、明治9年、奥平謙輔とともに萩の乱(不平士族の反乱)を起こし、捕えられて処刑された。

この「王侯騎馬図」は、神戸の富豪「池永」氏が、昭和初年に、私財を投じて「池永美術館」を設立した際、前原一誠の遺族から贈られたとのこと。池永氏は家屋敷を売って、美術品を買い集め、戦後は美術館ごと神戸市に寄贈された。

それで今、神戸市「南蛮美術博物館」に展示されています。

 

 


幕末の京都明暗寺は勤王攘夷派

2021-05-27 21:54:05 | 虚無僧日記

「虚無僧は幕府隠密だったために、明治になって廃止された」と

一般に云われているが、とんでもない。幕末、勤王に加担したため

幕府に捕らえられて、処刑されているのだ。

京都の霊山護国寺には「勤王の士」として祀られている。

 

 画像

【天誅組・生野の変】
明暗寺徒素行墓
膳所藩士。士籍、はく奪され、京都・
明暗寺で虚無僧となり素行と称し、玄堂に師事。
後、但馬国・養父郡・明暗寺出張所に居住、
後、生野の変で、播磨神崎郡・
福崎新村で姫路藩兵に捕縛。
7月六角獄で刑死。享年45
案内板の【本田小太郎】は、
明暗寺 素行の俗名。

 

画像

明暗寺看xx堂墓  
明暗寺33世玄堂。明暗寺 素行の師。
大阪に住み尺八を教えながら勤王党に参加。
天誅組や生野の挙兵では虚無僧に扮し京都に
密通していたが捕縛。
出牢するも、慶應2年病死。享年不詳。

 


尺八の流派 琴古系

2021-05-25 20:26:02 | 筝尺八演奏家

琴古流: 江戸中期に、下総一月寺と武蔵鈴法寺の浅草出張所で尺八指南を務めていた黒沢琴古の流れを汲む会派の総称。

初代 黒沢琴古   宝永7(1710)年 - 明和8(1771)年 本名は黒沢幸八。

福岡藩黒田美濃守家臣であったというが、福岡藩士の中に黒沢姓は見つからないとの調査報告あり。

脱藩して虚無僧となり、全国の虚無僧寺を回って本曲を修得し、一月寺鈴法寺の浅草出張所で尺八の指南役を務め、曲の収集、整理を行い、30余りの曲を制定した。

琴古の死後、弟子の宮地一閑が一閑流を名乗ったため、二代目琴古によって琴古流と称すようになった。

2代目黒沢琴古  延享4(1747)年ー 文化8(1811)年 本名は黒沢幸右衛門(後に幸八)

初代の実子。父同様に一月寺、鈴法寺の指南役を務め、江戸中に稽古場を作り庶民の普及にも一役買った。

 

3代目黒沢琴古 安永元(1772)年ー文化13年(1816) 本名は黒沢雅十郎(名は諸説あり、後に幸八)

2代目の実子。最初の号は琴甫。江戸時代の名手で作曲も多く尺八の製管も行なった。3代目が執筆した『琴古手帖』は当時の琴古流のことを知る貴重な史料。

4代目黒沢琴古 生年不詳 - 万延元(1860)年本名は黒沢音次郎(後の幸八)。

3代目の実子。

 

荒木派・古童会

初世 古童

豊田古童 生年不詳 - 嘉永3年(1850)。本名は豊田勝五郎。初代山田如童久松風陽に師事し、風憬、後に古童と称した。通称は「風憬古童」。

二世 荒木古童

文政6(1823)年 ー明治41(1908)年] 本名は荒木半三郎。号が竹翁近江水口藩士荒木亀三郎の三男。幼少から芸事が好きで尺八を嗜んだ。最初は一閑流横田五柳に付き、その後琴古流の豊田古童の門下となった。1850年に豊田古童が死去し古童の名を継ぎ久松風陽の門下となった。明治4年普化宗の廃止後、楽器としての尺八の復興に力を注いだ。後年長男に古童の名を譲り自らを竹翁と名乗った。弟子には初代川瀬順輔上原六四郎三浦琴童など多くの名手がいる。

三世 荒木古童

明治12(1879)年ー 昭和10(1935)年  本名は荒木真之助。二世古童の長男。明治末期から昭和初期にかけて活躍。同門の初代川瀬順輔と共に三曲合奏に力を注ぎ、名人とうたわれた。童窓会等を主催し多くの弟子を育てた。

四世 荒木古童

明治35(1902)年ー昭和18(1943)年  本名は荒木聚。号が梅旭(1923年より)。三世古童の四男。東京の生まれ、早稲田実業、東洋音楽学校卒業。9歳で父から手ほどきを受ける。尺八の他に雅楽洋楽三弦等を学び研究。三世古童没後に四世古童を襲名。早くに嘱望されたが41歳で亡くなった。

五世 荒木古童(竹翁)

昭和13(1938)年 本名は荒木達也。四世古童の三男。東京の生まれ。早くに父が亡くなったため、その高弟吉田錦童から尺八を習い、また三世古童の高弟の木村士童(友斎)が後見人となる。慶応大学卒、アメリカ、ウェスリニアン大学の尺八客員教授として渡米。現地でアメリカ人女性と結婚し、長くアメリカに滞在する。一時帰国し、慶応の尺八と箏のクラブ「竹の会」の指導にあたるが、現在はアメリカ在住。

六世 荒木古童

(1970年- )本名は荒木半三郎。アメリカ在住。五世古童の三男。琴古流古伝本曲を父より習得し、ケルト民俗音楽を独習。1977年アルバム「ペイパーボーイズ」にてカナダ年間最優秀「ジュノー賞」受賞。2005年に自作のCD「An Tua - Six of One, Five of the Oher」で年間世界最優秀「新芸術家賞」受賞(ダブリン)。2008年に六世古童襲名。よって父五世古童は竹翁を継承。

 

川瀬派・竹友社

明治27年に初代二世荒木古童の弟子だった川瀬順輔の一派。琴古流の宗家を名乗ったことで荒木派と激しく対立し、裁判沙汰にまでなった。判決では「琴古流はそれぞれが独立会派であって、都山流のような、組織化し、全体を統括する宗家は存在しない」です。

二代目の川瀬勘助が早世し、現在の宗家は三代目川瀬順輔。

 

竹盟社 : 大正10年初代川瀬順輔の弟子山口四郎を中心として創設。四郎の五男の山口五郎は平成4年に人間国宝に認定された。平成11年に逝去。

日本竹道学館 : 昭和3年 初代川瀬順輔の孫弟子兼安洞童を館長として開設。現在の三代目館長の小野正童は小野正志の弟。

美風会 : 昭和8年 初代川瀬順輔門下の鳥井虚無洞の弟子吉田晴風の門下の佐藤晴美が創始。

鈴慕会 :初代川瀬順輔の弟子青木鈴慕が創始。長男の青木道夫死去により次男の静夫が二代目青木鈴慕を踏襲。平成11年人間国宝に認定。現在三代目青木鈴慕。

童門会 :三世荒木古童の弟子納富寿童の系統。納富寿童(本名は安治)。明治28年佐賀県の生まれ。佐賀中学時代から尺八を始め、大正4年上京。三世荒木古童の内弟子となり、大正5年寿童を名乗った。大正7年独立し、寿会を主宰。

荒木古童を主宰者に童窓会を結成し、その幹事を務めた。昭和6年荒木派独自の楽譜を出版。日本三曲協会理事を務めるなど一時は琴古流の代表格になった。昭和10年三世荒木古童の死去に次いで、四世古童の早世で、荒木派の大数が納富寿童の寿会に流れた。昭和42年人間国宝に認定。48年嗣子・哲夫に寿童の名を譲り、寿翁と改名。昭和51年逝去。

怜風会 広門怜風の一派

 

 

尚、京都明暗寺系の虚無僧本曲を踏襲する 近藤宗悦の宗悦流は琴古流に属さない。琴古流は江戸・東京を中心てするグループである。




尺八の流派 明暗系

2021-05-24 22:02:38 | 虚無僧日記

明暗流というのは、虚無僧尺八の曲を愛好する人たちの総称。もとより江戸時代の虚無僧が吹いた曲はテープ録音が残っているわけではなく、そのまま伝承されることは考えられない。明治、大正、昭和と虚無僧本曲の名人が次々と現れ、それぞれ独自の奏法を確立した。それによって、その継承者たることを自認する団体がいくつも設立されている。従って、明暗流とはいっても都山流のように宗家がいるわけではない、各団体の集合体。総称である。

京都東福寺の子院善慧院に寄宿して明暗寺が法人登記されているが、ここに虚無僧が常駐しているわけではない。ここに登録されている会員は200名ほどいるが、吹く曲はまちまち、同名異曲。明暗流の主流は実は浜松の普大寺の流れの名古屋の西園流が底層になっている。それに対して、近年、酒井竹保一派を中心にして、京都明暗寺の曲を復活する動きが出てきている。虚無僧本曲として世界的に愛好されているのが海童道の曲だが、伝統的虚無僧曲ではなく、海童道のオリジナルである。

明暗真法(じんぽう) : 京都明暗寺で虚無僧本曲を伝えていた尾崎真龍(しんりょう)の系統。明治初めの普化宗廃止で明暗寺は廃絶。その弟子に勝浦正山がいた。ながらく途絶えていたが、いかなる根拠に基づくのか、酒井松道の竹保流を中心に復元が進められている。

竹保流 : 藤田松調(近藤宗悦の弟子、大正はじめに松調流を創始)の門下だった初代酒井竹保(竹翁)が、師弟対立して大正6年に創始。旧字譜(フホウ譜)を使用し、流祖作曲の新本曲と共に、明暗系の古典本曲を伝承する。酒井竹保は勝浦正山やその弟子の源雲海にも学んでいる。福本卓道は二代目酒井竹保に学ぶ。現在は三代目宗家の酒井松道

浜松普大寺系 : 普大寺の最後の住職が玉堂梅山。門弟に堀内是空がいた。

西園(せいえん)玉堂梅山に学んだ名古屋の兼友西園(かねともせいえん)の系統。普大寺の遺曲11曲を伝える。5世の小原西園。名古屋の岩田律園は、父の岩田祥園から西園流を学ぶと共に、谷北無竹と浦本浙潮からも学んでいる。

明暗対山流 : 西園流の兼友西園の門下の樋口対山(本名は鈴木孝道)の系統。樋口対山は滝川中和(一閑流)や荒木竹翁(琴古流)や尾崎真龍(真法流)らにも古典本曲を学んで、明治4年の普化宗廃止で取り潰された明暗寺を京都東福寺善惠院に明治21年に明暗教会として再興し、35世看首となった。明暗教会は本曲を32曲とする。36世看守は対山の弟子の小林紫山。昭和25年には、紫山と同門の37世看守谷北無竹(琅庵)が(宗)普化正宗明暗寺を設立。昭和36年には、紫山の弟子で無竹にも学んだ38世の小泉止山(了庵)らが明暗導主会を設立。全国各地の明暗尺八分道場には免許皆伝導主がいる。39世の福本閑斎(虚庵)は止山の弟子。40世の芳村宗心(普庵)(明暗忘竹会、現会長は酒井玄心)は紫山の弟子の明珍宗山の弟子。現在の41世看首の児島一吹(抱庵)は37世の谷北無竹の弟子で、38世の小泉止山にも学ぶ。
なお、富森虚山は小林紫山の弟子。明珍宗敏は明珍宗山の弟子。小澤一山は小泉止山と児島一吹の弟子。高橋呂竹は谷北無竹とその弟子の佐藤如風の門下で、山上月山、後藤桃水、磯譲山にも学ぶ。

根笹派錦風流 : 弘前に伝わる普化尺八の一会派。本曲として津軽十調子の他、外曲の3曲を伝える。乳井月影(にゅういげつえい)が有名で、その弟子に永野旭影(武士方風)と折登如月(町方風)がいた。「コミ吹き」と「チギリ手」という独特の技法がある。

布袋軒派 : 仙台の布袋軒の系統。最後の住職は13代看主の長谷川東学で、その弟子に小野寺源吉がいた。長谷川東学の先輩格の虚無僧に黒沢照雲がおり、小梨錦水はその弟子。浦本浙潮(政三郎)(東京慈恵会医科大学教授、日本民謡協会初代理事長)は小梨錦水と宮川如山らに本曲を学んだ。後藤桃水(日本民謡協会初代顧問、民謡の父と称される)は小梨錦水と勝浦正山(真法流)に本曲を学んだ。

越後明暗寺派 : 開山は加賀の武将の菅原吉輝、後の堀田隼人で的翁文仲と号す。代々堀田姓を名乗り、最後の住職は15代堀田侍川(龍志)。その弟子の斎川梅翁(本名は藤本梅吉)が、伝承曲の「三谷(下田三谷、越後三谷とも)」と「鈴慕(下田鈴慕、越後鈴慕とも)」を伝え、さらに梅翁は小山峰嘯に伝えた。また神保政之助が、師の堀田侍川と共同で作曲したと伝わるのが「奥州三谷(通称、神保三谷)」で、浦山義山と引地(ひきち。)古山に伝承。

越中国泰寺派 : 富山県高岡市の古刹国泰寺は、紀州由良興国寺の末寺という縁で、富山、新潟の古典尺八愛好家によって、一派が形成され、毎年6月の開山忌に集まり、虚無僧姿で読経に合わせて尺八を吹く。

博多一朝軒 : 寛永年間に一応(一翁)が開山。明治4年の廃宗の際の看主は17代魯伯(磯姓)。その後も法燈は18世伯堂、19世施行(磯敬助)と続いたが、財政的な苦境に陥り所在を転々とした。昭和26年に津野田露月らの尽力で新築家屋を購入して一朝軒が再興され、施行の娘の光代が津野田露月について尺八修行をして20世一光となった。現在は光代の夫の磯譲山が21世を継承。

明暗露月派 : 津野田露月は樋口対山、勝浦正山、浦山義山に学んで熊本に居住した。

普化宗谷派 宮川如山の弟子谷狂竹の信奉者のグループ。宮川如山は初め勝浦正山(真法流)についたが後に樋口対山に入門し、さらに長谷川東学にも学んだ。孟宗竹の三尺六寸管を吹いた熊本の西村虚空は、谷狂竹の弟子で2世宗家。

千笛会高橋空山は宮川如山に学ぶと共に、勝浦正山、小林紫山らからも学んだ。高橋空山の弟子の藤由越山が、千笛会を主催。

全国古典尺八楽普及会 : 初代川瀬順輔門下の竹内史光は、師の紹介を得て、谷北無竹より対山流本曲を伝授され、折登如月乳井建道から根笹派錦風流小山峰嘯から越後明暗を学んだ。また大阪の廣沢静輝からも古典本曲を学んだ。中部本曲同好会を13年間開催していたが、平成14年の29回で幕を下ろした。

古典尺八研究会桜井無笛は中村掬風(きくふう)から一朝軒の曲を伝承され、谷北無竹、小林紫山、津野田露風らからも明暗本曲を修得。門田笛空(もんでんてきくう)は琴古流を始めた後で桜井無笛に入門し、会を引き継ぐ。

明暗蒼龍会岡本竹外の会派。現会長は高橋峰外三橋貴風徳山隆は岡本竹外から学んでいる。

海童道(わだずみどう) : 道祖は元普化宗の管長の海童(田中)普門。明治44年福岡生まれ。「博多一朝軒の出と自称しているが、一朝軒の磯一光は「田中普門なんか知りません」と否認している。何かトラブルがあったようだ。独立して海童道の宗祖となる。呼吸法と音の関係を追求して独自の境地を開拓。横山勝也の師匠でも知られる。海童道祖は中村掬風らから学ぶと共に、浦本浙潮と九州系と奥州系の本曲を交換した。

国際尺八研修館 : 昭和63に設立。横山勝也氏を館長とする団体。横山勝也は横山篁村、横山蘭畝に学んだ後に、福田蘭憧、海童道祖に師事。

直簫流尺八 : 宗家は横山勝也と二代目酒井竹保に古典尺八を学んだ田嶋直士



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・如道会 : 神(じん)如道は弘前市に生まれ、根笹派錦風流の折登如月の弟子。琴古流を学ぶと共に、尺八本曲研究のため数十年にわたって全国を行脚して、各地に伝わる本曲の採集に努め、普化尺八を中心とする尺八古典本曲を集大成して独自の芸風を立てた。現在の会主は神如正。

・百銭会 : 神如道の弟子だった父から幼少より古典本曲を学んだ善養寺惠介(ぜんようじけいすけ)が主催。善養寺惠介は、東京芸大入学後に山口五郎にも師事。

・虚竹禅師奉讃会 : このページに奉賛会の設立の経緯が掲載されています。奉賛会主催で超流派の「尺八本曲全国献奏大会」を6月(各地)と11月(京都東福寺内明暗寺の本部)の第一日曜に開催。

・虚無僧研究会 : 尺八古典本曲の研究会。本部は東京新宿区法身寺。住職は小菅大徹。「虚無僧追善供養尺八献奏大会」を本部及び虚無僧寺に因縁の場所で開催。

・尺八本曲東海連盟 : 小原西園が中心となり、流派を超えた尺八本曲大会が毎年3月下旬に名古屋にて開催。

・琴古流協会 : 江戸期に、全国の普化宗の寺院や軒に伝わる古典本曲を集大成した黒沢琴古の流れを継承する諸会派の協会。黒沢琴古が指南役を勤めた務めた下総一月寺と武蔵鈴法寺のいわゆる両本寺系の尺八古典本曲36曲の他、三曲尺八などを伝える。上原六四郎(虚洞)が考案し、初代川瀬順輔が普及させた点符式記譜法が使われる。

・竹友社 : 琴古流の会派。明治27年に初代川瀬順輔(荒木古童二世(竹翁)の弟子)が創立。現在の宗家は三代目川瀬順輔。琴古流楽譜を扱っています。

・竹盟社 : 琴古流の会派。大正10年に山口四郎(初代川瀬順輔の弟子)を中心として創設。四郎の五男の山口五郎は平成4年に人間国宝に認定されたが、平成11年に逝去。

・日本竹道学館 : 琴古流の会派。昭和3年に、初代兼安洞童(初代川瀬順輔の孫弟子)を館長として開設。現在の三代目館長の小野正童は小野正志の弟。楽譜も扱っています。

・美風会 : 琴古流の会派。昭和8年に、吉田晴風(初代川瀬順輔門下の鳥井虚無洞の弟子)の門下の佐藤晴美が創始。(「みそたねくんの目次」に美風会の解説があります。)

・鈴慕会 : 琴古流の会派。初代青木鈴慕(初代川瀬順輔の弟子)が創始。現在の代表は人間国宝(平成11年に認定)の二代目青木鈴慕。

・童門会 : 琴古流の会派。昭和42年に人間国宝となった納富寿童(荒木古童三世の弟子で、昭和51年逝去)の系統。

・宗悦流 : 近藤宗悦は、40歳ごろに出身地の長崎を出て京都明暗寺に入り、尾崎真龍に弟子入りして明暗真法流を学び、また三曲尺八の手付けを行って関西外曲の素地を作った。尺八を水平近くに構えるためチャルメラ宗悦と異名を取ったが、音は素晴らしく大きかったという。宗悦流は大正中頃まで関西尺八界に君臨した。現在は廃絶。

・都山流 : 初代中尾都山が19歳の明治29年に大阪で創始。中尾都山は、祖父の寺内大検校の合奏相手だった近藤宗悦の尺八を学んで独学で合奏技術を身につけ、また近藤宗悦の弟子の小森隆吉に明暗尺八を習って虚無僧修行も行ったという。都山流は、近代的な記譜法と作曲理論、楽曲性を重視した自作本曲、独自の三曲尺八や新曲、教授法と組織化などに新機軸的を打ち出して、尺八界最大の全国的流派に成長させた。しかし、初代の子の二代中尾都山(稀一)が早世の後、三代目襲名に際して内紛が生じ、それがきっかっけとなって(財)都山流尺八楽会、新都山流、(社)日本尺八連盟の3派に分裂した。

・(財)都山流尺八楽会 : 都山流の会派。昭和40年に認可。二代中尾都山の母レンが三代中尾都山を襲名。現宗家の四代目中尾都山は初代都山の孫。公刊楽譜を扱う。平成14年に山本邦山が人間国宝に認定。本曲は、流祖やその弟子たちが作曲した自流のものを対象とする。

・新都山流 : 都山流の会派。昭和50年に宗家を中尾美都子(二代中尾都山の長女)、会長を島原帆山として都山流尺八協会が設立。昭和54年に都山流日本尺八連盟、昭和55年に新都山流日本尺八連盟と名称変更した後、昭和56年に宗家中尾都山(美都子)を中心に新都山流の体制が確立した。中尾美津子も本曲を作曲している。

・(社)日本尺八連盟 : 都山流の会派。昭和56年に結成されて島原帆山が会長に就任。帆山は昭和57年に人間国宝に認定されたが、平成13年に逝去。自流本曲だけでなく、古典本曲を含めた全ジャンルの尺八楽を演奏対象とする。

・晃山流 : 平塚晃山が都山流から独立して創始。

・洋山流 : 勝田洋山が都山流から独立して創始。

・上田流 : 初代中尾都山の弟子の上田佳山は、14歳で入門して20歳ごろの明治45年には流内の最高職格まで登りつめた。しかし、公認を得ないまま自作の新曲を公演したことで批判を浴び、大正6年に破門、独立して上田芳憧と号した。大正10年に上田流と命名。現宗家は芳憧の長男の上田佳道。記譜法や奏法は都山流を継承し、芳憧作曲の新本曲の他、古典本曲も演奏対象とする。

・洋山流 : 服部洋山が上田流から独立して創始。

・村治流 : 村治虚憧が上田流から独立して創始。


尺八の流派 都山系

2021-05-24 21:13:00 | 虚無僧日記

宗悦流 近藤宗悦は、40歳ごろに出身地の長崎を出て京都明暗寺に入り、尾崎真龍に弟子入りして明暗真法流を学び、また三曲尺八の手付けを行って関西外曲の素地を作った。尺八を水平近くに構え、チャルメラのような大きな音と、転がす奏法が特徴で、チャルメラ宗悦と異名を取った。大正中頃まで関西尺八界に君臨したが、現在は廃絶。


都山流 : 初代中尾都山は、明治9年10月5日に枚方の油問屋の次男として生まれた。祖父の寺内大検校の合奏相手だった近藤宗悦から尺八のてほどきを受け、独学で箏三弦との合奏技術を身につけ、また近藤宗悦の弟子の小森隆吉に明暗尺八を習って虚無僧修行も行った。そして19歳の明治29年に大阪で開軒。

近代的な記譜法と作曲理論、楽曲性を重視した尺八本曲を数多く作曲、地歌・筝曲の尺八譜や新曲譜の出版、教授法と組織化などに新機軸的を打ち出して、一代で満州から台湾まで門弟3万人という尺八界最大の流派を築いた。

昭和31年、宮城道雄の後を追うようにして80歳で亡くなると、妾レンとの間に生まれた稀一が二代目を継承した。稀一は都山69歳の時の子。甘やかされて育ち、尺八から逃げ、酒に溺れ肝硬変を患った。そして昭和49年、30歳の若さで他界する。苦しみもがき壮絶な最後だったという。

二代目の早世により、三代目の椅子を巡って大騒動が起きた。稀一の遺児はまだ7歳の美都子。都山流の規定では世襲でこの美都子が三代目となるところだったが、門弟のナンバー1で常務理事の高平瞠山が、稀一の母(初代の妾)と組んで、稀一が亡くなる直前、理事会を招集して規定から「世襲制」の条文を削除し、母親のレンを三代目に決めた。

高平艟山は金の亡者で、レンを宗家にして、自分が理事長に就任すると、報酬2000万を勝手に決めた。昭和49年の2000万は大企業の社長並みである。都山流会費の私的流用、門弟の昇格試験などに公然と賄賂をとるなど悪辣で評判が悪かった。そして高平艟山の不正に不満を抱く幹部連中を都山流から追放した。

そこで追放された島原帆山たちの一派が、稀一の遺児美都子を宗家にして「都山流協会」を立ち上げた。つまり姑レンが「都山流楽会」。そして嫁(稀一の妻和子)側が「都山流協会」となった。

楽会」本部は 京都市北区紫野北舟岡町12 

協会(現新都山流)」は、京都市北区紫野北舟岡町27-170 目と鼻の先で対抗している。

 レンが亡くなると、楽会は初代都山の本妻の孫「中尾正幸」を4代目宗家に迎えた。

 レンの孫娘である美都子の都山流協会は、その後島原帆山が脱会して昭和54年に都山流日本尺八連盟、昭和55年に新都山流日本尺八連盟と名称変更。昭和56年 中尾美都子宗家となって新都山流を建てた。

 

というわけで、現在は次の三派に別かれている。

「都山流尺八楽会」宗家は初代都山の本妻の孫「正幸」。平成14年に山本邦山が人間国宝に。

「新都山流」 宗家は初代都山の妾のひ孫「美都子」

「日本尺八連盟」 島原帆山は昭和57年に人間国宝に認定され、平成13年に逝去。 現在の宗家は坂田誠山。

 

その他都山流から脱退して樹立された流派

晃山流 平塚晃山が都山流から独立して創始。

洋山流 勝田洋山が都山流から独立して創始。

上田流 : 初代中尾都山の弟子の上田佳山は、14歳で入門して20歳ごろの明治45年には流内の最高職格まで登りつめた。しかし、自作の新曲を公演したことで批判を浴び、大正6年に破門、独立して上田芳憧と号した。大正10年に上田流と命名。2代宗家は芳憧の長男の上田佳道。記譜法や奏法は都山流を継承し、芳憧作曲の新本曲の他、明暗系の古典本曲も演奏対象とす。平成16年佳憧死去により、弟の芳誠が3代目を継承。



5孔にこだわる三本会

2021-05-23 18:28:21 | 虚無僧日記

さて、これからは尺八の主流は7孔になるかと思われたのですが、

琴古流の青木鈴慕、海童道の横山勝也、都山流の山本邦山といった伝統流派を守る第一人者たちは、頑強に従来の5孔尺八で貫き通しました。

鹿の遠音(青木鈴慕・横山勝也)/Shika No Tohne(Aoki Reibo&Yokoyama Katsuya ) - YouTube 

    左 : 青木鈴慕           右 : 横山勝也

初代 山本邦山 | 日本コロムビアオフィシャルサイト

山本邦山は5孔でジャズもみごとに吹く。

この三人は、日本音楽集団が結成された昭和39年、それに対抗するかの如く、「尺八三本会」を立ち上げ、現代曲にも果敢に挑戦。毎年すばらしい成果を発表していきました。

これぞ尺八ならではの魅力。それにしびれて尺八を始めた人も多く、5孔は根強く残りました。

しかし、彼らプロは血の出るような努力と研鑽の結果吹けるのであって、素人尺八家は到底及ばない。それほどの努力に費やす時間も無いならば、7孔を使えばいともカンタンに吹ける。プロの演奏に近づけられる。ならば7孔を使えばいいのにと私は思うのですが、なぜか素人でも5孔で挑戦することに生き甲斐を感じている人が多いようです。もひとつは「7孔は難しい。吹けない」という思い込みがあるようです。

 


多孔尺八

2021-05-23 17:58:37 | 虚無僧日記

昭和40年前後、宮田耕八朗、村岡実、米谷威和夫らが7孔尺八で大活躍しました。

赤とんぼ(尺八:宮田耕八朗・箏:野坂恵子) - YouTube

宮田耕八朗は日本音楽集団の中心メンバーとなり、長澤勝俊など洋楽系の作曲家によって作曲された曲をフルートの如く正確に吹き、尺八界に新風を巻き起こしました。多孔に難色を示す横山勝也は、日本音楽集団を脱会。以後三橋貴風はじめ、日本音楽集団に参加した若手尺八家はほとんどみな7孔尺八を使用しました。

画像5 - 第16回「音の匠」は、尺八奏者・三橋貴風さん - 塩ビ管を使った合成樹脂尺八「NOBLE管」の開発を讃えて - Phile-web三橋貴風先生使用管 | 梵竹

3.邦楽合奏のための『空(くう)』(福嶋頼秀作曲) 日本音楽集団 第214回定期演奏会「5人の作曲家、5つの新作。」 - YouTube

村岡実は美空ひばりの「柔ら」を始め、演歌、歌謡曲3,000曲の尺八伴奏を務め、独自の演歌尺八を築きました。

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米谷威和夫は、なんと民謡の伴奏に7孔を使用。「会津磐梯山」など大正・昭和に作曲された新民謡には7孔が適していました。

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ドレミファソラシドの7音階にさらに転調して♭#の音でフォルテを要求される曲には7孔尺八が超便利ということです。

 

かくして、昭和40年代はプロの半数が7孔尺八を使用し、これからは尺八は7孔全盛になるかと思われたのですが…