現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

群馬県太田市へ

2007-11-19 21:23:39 | 虚無僧日記
11/17 一絃琴の真道さんの姪御さんの結婚式
に招かれ群馬県太田市へ。名古屋から4時間。
早めに着いて、徒歩で図書館に向かった。

実は太田市には、江戸時代、虚無僧寺の利光寺
があった。それを調べるためである。聞くのが早い
かと、受付事務の人に「利(理)光寺」について尋ね
るが、判らないとのこと。

無いはずはない。それなら自分で探しますと、
中に入れてもらった。郷土史関係はなぜか特別
コーナーになっいる。


「太田市史」とその「史料編」を見たら、あった。
経験と勘で、見つけるのはパソコンより早い。
虚無僧の留場証文や幕府の禁令、虚無僧の取締りの
触書など結構史料があった。
虚無僧研究会の会報『一音成仏』の原稿締切も迫
ってきた。これで何とか書けるか。


もっと多忙に

2007-11-19 14:56:07 | 今後の予定
「忙しい」とは、「心(りっしんべん)を亡くす」と書く。
「忘れる」という字も、「心を亡くす」だ。心なくしては
仕事はうまくいかない。「忙しい」なんて言ったら罰が
当たる。
津軽三味線の吉田兄弟は年間500ステージをこなして、
ようやく認知されるようになった。自分も「一日3公演」
と思ってたら、12月9日に4つも仕事がはいった。一つは
やむなくお断りしたが、さて3件無事こなせますでしょうか。

12月9日の予定
10:00 名古屋駅西口ニューグランドホテル
    着物のファッションショー

15:00 尾張旭市渋川福祉センター
    篁風会詩吟の伴奏

18:00 ホテルオークラ
    木曽義明氏後援会?

H19年11月の活動

2007-11-19 14:40:13 | 虚無僧日記
8月以来、毎月10件前後の仕事があった。3日に1件
の勘定だ。朝起きると、その日の楽譜を用意したり、
原稿を考えたり、チラシを作ったりで、毎朝戦場だ。
とても朝起会など行ってられないと思っていたが、朝
起に参加しても、きちんと仕事が収まっていくから不
思議。無駄な労力を省き、いかに効率良く仕事を処理
していくかを考えるようになった。

 3(土)東区歩こう文化の道 建中寺で尺八ライブ
 4(日)京都明暗寺全国古典尺八大会
 9(金)中区平和福祉会
10(土)中区短歌会館『第6回一路会』
11(日)津市センターパレス『明るい社会を築く会』
17(土)群馬県太田市 ロイヤル 家住家結婚式
18(日)中区短歌会館文化祭
22(水)中村公園 老人福祉施設けあらーず
23(木)中区平和福祉会 文化祭
25(日)緑区文化小劇場 関西吟詩Dブロック大会



明るい社会を築く会

2007-11-19 03:58:22 | 虚無僧日記
こんな世の中に誰がした。こんな世の中だからこそ、
なんとかしなければと、あちこちでいろいろな団体が
活動している。その一つが「明るい社会を築く会」。
各地域ごとに結成されている有志によるボランティア
団体だ。以前三重県安濃町の「明るい・・・」に招かれ
た縁で、11月11日は津市の会に招かれた。終始ニコ
ニコ“明るい虚無僧”で、笑いを呼んだのが好評だっ
たようだ。

私の講演と尺八を聞いてくださった方が、「是非尺八を
習いたい」と、15日に名古屋まで来てくださった。こう
して感動してもらえ、尺八の仲間が一人でも増えること
が、なによりもうれしい。私の生きている証だ。

来年3/20宗次ホールで公演

2007-11-19 03:40:15 | 虚無僧日記
毎朝、朝起会で「上機嫌の実践」の誓いをし、一日、
心浮き浮き、笑顔でいると仕事もうまく行く。仕事が
上手くいけば、そこで次の仕事がくる。思ったことが
すぐ実現するから不思議。

「カレーのCoCo一番」のオーナーが、名古屋の中心、
栄に「宗次ホール」を造って話題になっている。年間
500もの自主企画公演を目標にし、しかも質の高いコン
サートのみを提供するという。“そのようなホールで
演奏できたら”とひそかに望んでいたら、出演の話が
来た。

話は、私の中学からの旧友竹内明彦氏から。彼はヤマハ
に永年勤め、このほど定年退職。長唄三味線や鼓、能
にも造詣が深く、そちらでもプロとして活動している。
彼が10日の「一路会」に、ステキな女性を伴って観に
きてくれた。彼女はお筝の奏者。宗次ホールで来年3月
20日公演するにあたり、尺八のパートナーを探している
とのこと。私の演奏を聞いて、めがねに叶ったようだ。
即、出演を頼まれた。夢が即叶えられたことに、私の
相好もまたほころぶ。



街路の清掃奉仕

2007-11-08 07:41:08 | 心の問題
あちこちで、いろいろな団体が清掃奉仕をしている。
道路の中央分離帯などへの、車からのポイ捨ては
後が絶たないが、それでも、名古屋の町は比較的
きれいだ。

名古屋市はゴミの分別収集が、他より遅れた。
それだけに、ゴミ問題が深刻となり、数年前から
徹底的に分別に取り組んだ。その功が奏したか。

数年前は、道端の清掃をすると、毎朝45ℓ用の
大きいゴミ袋が一杯になるくらいのゴミが散乱
していた。煙草の吸殻も100本近くあった。
今朝は、数本拾っただけだった。良心が戻って
きたか。世の中捨てたもんじゃない!

街の大掃除

2007-11-08 04:32:07 | 虚無僧日記
禅寺では、朝3時に起きて座禅だ。そして作務と
称する掃除。真如苑でも朝起会でも「禊(みそぎ)」
と称して、毎朝早朝から街路の清掃を行っている。
「ゴミは己の穢れ、ゴミを拾うことは、自分の汚れ
を取ること、捨てる人が居るから、拾わせていただ
ける、己の心を清めてくれる」と教えられる。

今日の昼、栄周辺で、ボランティアによる清掃が
行われていた。社名のはいった法被を来てゴミ拾い
をしている人もいる。

帰宅したら、郵便受に“武富士”の葉書大のチラシが
入っていた。表面には、月一度「武富士クリーン運動」
として営業所周辺の清掃をしていることが、れいれい
しく載っている。これこそ“禊(みそぎ)”か。

橋から飛び降りたくなるよ

2007-11-08 04:31:12 | 虚無僧日記
新瑞(あらたま)橋の上で尺八を吹く。
パンチパーマに白いズボンの兄さんが寄ってきて、
すぐ傍らに立ってこちらを見つめている。ちょっと
ヤバイ。腹を決めて吹き続けていると、やおら手を
伸ばしてきた。一瞬ドキッ!。千円札を偈箱に入れ
てくれたのだった。ホッとする。

またしばらく、兄さんは橋の欄干にもたれ、川面を
見つめながら聞いている。そしてまたやおら千円札
を無造作に偈箱に入れて、

「あんたの尺八聞いてると、おいら、ここから飛び
降りたくなっちゃうよ」と。その後、
「もっと明るい曲吹けないの?、もっとパァーと、
明るく、マンボとかさ、オレ踊っちゃうからさ」

マンボ?はてさて、「黒猫のタンゴ」を吹いたら、
踊り始めたが、すぐ
「それタンゴだろ!マンボじゃないよ」
「今度もっと勉強してきます」
「なんだ、アンタ、おぼっちゃんだな」

天蓋で顔を隠していても、わかるのか。試された。
何言われても動じない自己形成が、私には必要
なのだと教えられた。


軽自動車だから軽油?

2007-11-07 22:48:33 | 社会問題
信じられない!
ガソリン代が高くなったせいか、「ガソリンより
安いからと軽油を入れた」とか、「軽自動車だから
軽油だと思って軽油を入れ、車が動かなくなった」
というトラブルが増えているそうな。セルフスタンド
での給油が増えたことがトラブルの一因とも。
(名古屋はセルフスタンド普及率日本一)

もっと驚いたのは、TBSでホンダの軽自動車を
紹介する際、「軽だから、ガソリンより安い軽油
なのでお得」と、説明していたという。

GS店員の書き込みでも、「軽だから軽油でしょ!
なんで高い方入れるの、訴えてやる」とか「そんな
こと常識でしょ、プロならもっと勉強しなさい。
おばさんでも知ってるわ」といったお叱りが出る
とあって笑えた。常識が通用しない人もいると
いう一例か。

セルフスタンドでは、給油機に「軽油はディーゼル
車専用、軽自動車用ではありません」と表示して
いないと、訴えられかねないご時勢だ。


明暗寺看首児島抱庵師

2007-11-06 10:27:41 | 筝尺八演奏家
11/4京都東福寺塔頭明暗寺で「第105回尺八本曲全国
献奏大会」があった。主催は「虚竹禅師奉讃会」。

虚竹禅師は明暗寺の開祖。明暗寺は江戸時代は、妙法
院の裏山にあったが、明治になって普化宗が廃宗とな
った際、虚竹禅師像他什物が東福寺塔頭善慧院に預け
られた。その後、明治の半ばに東福寺が火災で焼けた
ことにより、尺八愛好家たちによって、東福寺再建の
浄財を集めるという名目で「明暗教会」が発足した。
そういう事情で、善慧院に明暗教会が置かれ、戦後
「宗教法人普化正宗明暗寺」として登記された。
善慧院は臨在宗の正規の寺であるが、虚無僧尺八愛好
家たちのよりどころとしての明暗寺としても機能して
いるのである。

明暗教会会員の多くは、正業を持ち、趣味として虚無僧が
吹いた曲を吹くのであって、虚無僧を生業にしているわけで
はない。

「尺八本曲大会」は、善慧院住職平住仰山師による「般若
心経」の読経ではじまり、続いて明暗寺看首としての児島
抱庵師の先導で「調子」を参加者全員で吹奏する。

その後児島抱庵師のご挨拶。滋賀県のお医者さんと聞いて
いる。もの静かな方で、淡々とした語り口にも、凛とした
気品がある。この落ち着き払った、すべてを捨て去ったよう
な悟りきった物腰。これこそ本物の“虚無”だ。私の究極の
目的とするところだが、なんのかんの講釈しているうちは、
到底近づきがたいと知る。