8/11に放映された NHK「ドキュメンタリー 戦場の漫才師たち
~わらわし隊の戦争」を見て、慰問団について関心を持った。
吉本興業のトップスターたちが、慰問団として中支・南支に
派遣されていたという話。「荒鷲隊」をもじって「わらわし隊」
とはスバラシイ。エンタツやアチャコ、柳屋金語楼は知って
いたが、紅一点のミスワカナは知らなかった。
You-Tubeを見ると、ミスワカナの漫談や歌がレコードに吹き
込まれていて、いくつかが聞ける。男尊女卑の世の中、特に
戦場で戦っている兵隊さん相手に、夫である相方の玉松一郎を
徹底的にコケにし、やりこめる。それがうけたというのも不思議。
ワカナには、歌と踊り、そして各地のお国訛りや、中国語さえも
自由に漫談に取り入れるという才能があった。
戦中慰問で、戦場の現実を見つめ、次第に心病んでいったか、
やがてヒロポンに溺れ、終戦の翌年、36歳で逝ったという。
森光子が演じた「おもろい女」のモデルが、ミスワカナだった
とは知らなんだ。番組でも森光子(90歳)がインタビューに応じ、
「妹のように可愛いがってもらった」と語っていた。
森光子は嵐寛三郎の従妹であり、映画界の名門の出だが、
森光子も「わらわし隊」に参加していたのだった。
あの時代を自由奔放に生き、鉄砲玉のように逝ったワカナの
生き様に、私は心惹かれる。私も、現代に逆らい、そして
老人ホームなどの慰問で、尺八と漫談で、笑いを呼ぶ虚無僧
なのだから。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
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昭和16年5月30日 新潟慰問団
NHK「わらわし隊の戦争」を見て、戦中慰問団に関心を持ち いろいろ調べてみました。
慰問団は、吉本興行だけでなく、映画俳優も地方の温泉芸者も、また、各県、各市ごとでも結成され、派遣されていたようです。
父の所属していた歩兵第116連隊の記録にも、慰問団のことがしばしば登場します。
昭和16年5月12日 映画慰問団宜昌へ帰る
5月30日 新潟慰問団来る
5月31日 慰問団第二大隊へ
6月13日 第二大隊へ「特殊慰問団」来る
はて「特殊慰問団」とは何でしょう? 調べてみましたが不明です。
性を売るのかと想像してしまいます。
11月 5日 夕刻慰問団来る。「ハイカラ」にして新しきも、
郷土色稀薄なり
やはり、「郷土色」が望まれていたのでしょうか。
父は福島県会津若松の出身だったので、故郷 福島の飯坂温泉から芸者連中の慰問団が来た時は なつかしく大歓迎。
「衣食住は経理室の役目だから」と 彼女らの世話を 経理室に与えてもらった。経理室の連中の喜びようといったらない。風呂焚き役は奪い合いになった。夜は経理室一堂、彼女らと会食し、日頃の憂さを忘れ 楽しい一夜となった」とある。
さて、この先は、とても公表できない内容です。(が、あえて・・・)
その慰問団の団長が「戦地の土産話に、ひとつ頼む」と要求してきたのは、・・・・・。
なんと、中国人の首を斬ることです。
中尉が 捕えていた少年を連れ出してきて・・・・・・。
父は少尉でしたので、父祖伝来の名刀「会津三善(みよし)長道」を軍刀に仕立てて携行していました。その「軍刀を貸してくれ」との要求に
父は「父祖伝来の刀、もし刃こぼれしたら どうしてくれる」と言って断った。 当時、にわか作りの[昭和刀」は戦地では すぐサビて使い物にならなかった。ホンモノノの刀はサビずに輝いていたとのこと。
まったく、市民をも狂気にさせる戦争、ホントにアホらしく、
バカバカしい。許せんことです。
以前、NHK「ラジオ深夜便」で、「日本兵捕虜尋問所の真実」の著者、ノンフィクション作家 中田整一氏の話を聞いた。
「 トレイシー」と呼ばれる「日本兵捕虜秘密尋問所」の膨大な記録を精査した内容の本だそうな。
著 者: 中田整一
出版社:講談社
発売日: 2010/04/09
アメリカは、日本と戦争になりそうと判断すると、日本語教育を始め、海軍で1,000人、陸軍で5,000人、日本語を話せる兵隊を養成した。
そのためには、日系二世だけでなく、日本人の捕虜が必要だった。それで、捕虜を大切に扱った。捕虜には、暴力的なことは一切せず、煙草を与え、食事をもてなし、まず安心させた。そして捕虜収容所では、快適な二人部屋を与え、尋問には黙秘権を与え、「話たくなければ、何もしゃべらなくてもいい」と言いながら、部屋での、日本人同士の会話は全部盗聴し、日本語、日本人の性格、思考回路から方言まで、徹底的に記録したという。
その膨大な資料が公開されたのだ。アメリカにとって捕虜は貴重な情報源だったのだ。
しかし、日本は逆だった。日本本土には16,000名もの連合軍捕虜がいた。そしてその1割が死んだとも。捕虜を徹底的に虐待した結果だ。「捕虜になったらこうなる」との見せしめにし、「生きて俘虜の辱めを受けるなかれ」と、教えた。
これは、軍上層部としては「捕虜となって情報を敵に漏らすことを怖れたため」だったのかもしれない。
日本人捕虜の多くは、思わぬ厚遇を受け、懐柔され、驚くほどよく、しゃべったという。そこには「捕虜となったからには、生きては国に帰れない」というあきらめもあったという。
中には、捕虜となっても一切無言で通し、自決したもの。機会を伺って、反乱を起こし、射殺された者もいた。彼らに共通していたものは、「生き恥を晒して、日本には帰れない」「もう死んだも同然」の思いだったという。すでに、故郷では「戦死」と伝えられ、立派な墓も立てられ、軍神として祭られているはずだ。今さら帰れないという思いがあったのだ。
こうして捕虜として、かの地で亡くなった人たちは、もっと哀れだった。厚生省も彼らの存在は無視し通してきたという。100万柱とともに、まだまだ、知られざる兵士の遺骨が帰国できずに眠っているのだ。
長崎の原爆投下は、はじめ小倉の予定だったが、霞と煙にさえぎられ、次候補の長崎に落としたといわれている。
しかし、8月9日は「長崎」と決まっていたという見解もある。しかも事前に予告され、軍の上層部は知っていたという。
広島同様、前日に「第二総軍」の幹部が集められており、軍幹部も県の上層部も 被爆を免れている。
8月7日「こちらはニューディリー、信ずべき情報によれば、米軍は来る8月9日に、広島に続いて長崎に原子爆弾を投下する予定であることを発表しております。繰り返し申しあげます」という放送が流されていたのを、軍は傍受していたともいう。
長崎には何百人かの米兵捕虜がいたが、8月9日は、他へ移され、全員難を避けているとのこと。
原爆を積んだB29が、小倉から長崎へ向かっていることまで、参謀本部の諜報機関は掴んでいながら、迎撃の命令が出なかった。
だが 直前になって、長崎では「全員避難せよ」の放送が流れたとも。何者かが、情報をキャッチして、軍の指示を得ずに流したのか。
「なぜ、長崎に?」
長崎には真珠湾攻撃に使われた魚雷を製造する三菱兵器工場があった。長崎は「真珠湾の報復」だったとか。
すべては、アメリカと天皇とのトップ・シークレット。「密約」があったという。「原爆によって戦争を終結し、日本国家の存続、再建のため」という大義名分。そのために多くの市民が「人柱」となった。
1996年放映された、山崎豊子原作の『大地の子』が再放送。
陸一心(松本勝男)は満蒙開拓団信濃郷の一員として祖父・母・二人の妹とともにソ連国境に近い黒竜江省の開拓地に居た。父親は応召して不在。
昭和20年8月9日、7歳の時、ソ連が国境を越えて侵攻。
逃げる途中祖父、母と末の妹が死に、かろうじて生き残った妹あつ子とも離れ離れになって逃げ惑う。人買いに売られ、善良な小学校教師の陸徳志に救われ、育てられる。しかし文化大革命の嵐。日本人の子という理由で労働改造所に送られる。養父の必死の嘆願で救い出され、大学まで行かせてもらい、鉄鋼技師として働くようになる。やがて日中国交再開で日中共同事業の製鉄所建設に携わる中、偶然にも日本企業側の所長松本耕次が父とわかる。
妹と再会するシーンが泣けた。
その妹「あつ子」に目を奪われた。極貧の中での重労働、身体を壊し、病に倒れる。頬がこけ、痩せ衰えて死んでいく。その顔がすごい。ネットで調べて、演じたのは「永井真理子」と知る。
ミュージシャンで役者としてはド素人。どういう経緯で抜擢されたのか分からないが、彼女のブログ
「台本を読ませていただいたのですがもう涙が止まらなくなってしまい、すぐに出演を受けさせていただきました。とにかく作品の力が強くて役者としてど素人の私が「やらなきゃいけない。これは運命だ」とまで思えた作品でした
役者としての演技をどう評価されたかはわかりませんが、私の人生の歴史に大きく刻まれたお仕事でした」
この死相現れる迫真の演技。いや演技ではない、もう実写かと思えるほどリアル。もう泣けて泣けて、一晩眠れませんでした。
[大地の子] 主演 上川隆也 不朽の名作ふたたび!日中共同制作スペシャルドラマ アンコール放送 | NHK
放送予定はこちら 大地の子 https://www.nhk.jp/p/ts/8NYG2RL9ZV/?cid=dchk-yt-2107-18-...
youtube#video
日本でも「原爆の開発」は進められていて、核分裂の実験装置では当時 世界最高水準のサイクロトンが東京の「理化学研究所」と京大、阪大の3ヶ所に4台あった。しかし戦後、マッカーサーの指令で、すべてことごとく破壊された。東京の2台は、東京湾に沈められた。
終戦の翌年、昭和46年の10月、アメリカの新聞にこんな記事が載り、米軍関係者を驚かせた。
「終戦3日前の8月12日、日本は朝鮮半島で核実験に成功していた。その後、南進してきたソ連兵が、日本人科学者6人を拘束し連行。彼らはソ連の原爆開発に携わっている」と。
これは誤報だったようだが、アメリカがソ連の原爆開発に神経を尖らせていた時期の疑心暗鬼だった。
日本の高い能力をアメリカも認識していたのだ。
そういえば、湯川英樹は、師の仁科教授の「核融合」の理論をこっそりアメリカに売り渡し、アメリカの原爆開発を手助けした。その功績で、戦後いち早く、
日本人初のノーベル賞に輝いたとか、ネット上にありましたっけ。
福井県に本社を置く非鉄合金の先端企業「大阪合金工業所」の会長「水田泰次」氏(88) が、1988年10月発行の『広島高等学校排球部史』に次の一文を寄稿している。
「4月に 京都大学工学部に入学したが、 5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出されて、広島市内に住居があり、親がいるということで、内密に情報を教えてもらった。米国の学会から秘密裡にニュースが送られて来、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行うことに決まったから、できるだけ早く、親を疎開させなさいということです。その時、湯川秀樹も傍にいて、黙って座っていた」
水田氏は早速帰郷し、理由は誰にも話せず、父を無理やり、廿日市まで大八車で家財を積んで疎開させた。
10年ほど前、日本原水爆被害者団体協議会のポスターを見て、衝撃を受けた。
アメリカの報道官だったジョー・オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」の写真が全面に使われていた。
そして、オダネル自身の説明が添えてあった。
1945年長崎の爆心地近くの火葬場で撮影されたもの。
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「10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まばゆい程の炎が、さっと舞い立ち、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
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以来ずっと、この少年の写真のことを気にかけていたら、2008年にNHKで
ドキュメンタリー番組として放映されていたものを、YouTubeで見た。
NHKスペシャル
解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI
語り 柴田祐規子
この写真を撮った「ジョー・オダネル」について取材したもの。
ジョー・オダネルは2007年の8月9日、まさしく長崎原爆の日に85才でこの世を去った。そして、この写真は、50年封印され、彼が、その封印を解いて、公開する気になった動機。公開してからのアメリカ国内での反感、特に退役軍人からのいやがらせに、彼の家族はさいなまれることに。
そして、オダネルのからだも、原爆症に侵され苦しむことに。
彼の死後、息子によって トランクの中から オダネルの肉声を録音したテープが発見される。
『アメリカは きのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだった。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
「原爆は戦争を終わらせるために必要だった」と教え込まれてきた。
しかし、あの小さな子どもたちが、何をしただろうか。
戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。
1945年、あの原爆は、やはり間違っていた」。
「はだしのゲン」の露骨な表現より数倍も、この一枚の写真が
戦争のすべてを語って、見たものの心を揺り動かす。
「広島も長崎も、原爆投下の日時は予告されており、軍の首脳部は知っていた」という。
原爆投下の前日に「(西部方面)第二総軍」の幹部クラスの会合が行われていた。
畑俊六総司令官以下、若松只一、岡崎精三郎の両参謀、太宰博邦特高警察課長、さらに、高野源進広島県知事といった最上級幹部クラスは生き残っているのだ。
高野知事は、前夜遅くまで畑俊六司令官と酒を飲み交わしておりながら、翌朝8時15分の原爆投下の時間には なんと福山に居た。昼間の空襲を避けて、夜に移動する情勢下にあったとはいえ、なぜ福山に行ったのか、用件ははっきりしていない。
原爆投下の後、10時間かけて広島に帰り、即「復興対策本部」を立ち上げている。
畑司令官自身、原爆の破壊力のすごさは把握できていなかったであろうが、とりあえず、何人かの人に原爆投下の危険を知らせた。
前日の会合に集まったメンバーの中で、畑俊六に楯突いた粟屋広島市長は 家族とともに爆死している。「6日の朝8時までに、西部方面の将校全員、学徒動員の中学生を集めろ」という命令に対して、粟屋広島市長は「今、広島に集めても仕事も無いし、食料もない」と反対した。それに対して畑は「一週間たてばわかる」と答えた。
広島市長が抱いた疑問「なぜ、6日の朝8時までに、大勢の人を集める必要があったのか。それは、
広島は当時市民の大半が疎開してしまって、空っぽだった。「これでは原爆の被害者のサンプルがとれぬ」というアメリカの極秘要請にこたえたものだった。
天皇とアメリカとの間に秘密の通信があり、天皇の承知のもとに、広島・長崎への原爆投下が行われたのだ。
そして「終戦後の天皇の地位保障」を条件に、アメリカの 原爆投下を受諾した。
追記
テニアンとエノラゲイ搭乗員との交信は東京の陸軍・特殊諜報部隊でも傍受していた。
広島の「(西部方面)第二総軍本部」にも当時最新の通信システムが置かれており、インド・デイリーからやテニアンから発せられる通信をすべて傍受していた。その通信所は原爆で吹き飛ばされたので、通信に携わっていた職員は全員亡くなっている。彼ら職員に緘口令を強いていたとしても、大事のことであり、秘かに身内に口外していたであろうことは考えられる。
以前、中日新聞で こんな記事が連載されていた。
「藤原章生 広島の謎」 その中で
福井県に本社を置く 非鉄合金の先端企業「大阪合金工業所」の会長「水田泰次」氏(88) が、1988年10月発行の『広島高等学校排球部史』に次の一文を寄稿している。
「4月に 京都大学工学部に入学したが、 5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出されて、広島市内に住居があり、親がいるということで、内密に情報を教えてもらった。米国の学会から秘密裡にニュースが送られて来、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行うことに決まったから、できるだけ早く、親を疎開させなさいということです。早速帰郷し、理由は誰にも話せず、父を無理やり、廿日市まで大八車で家財を積んで疎開させたものです」
ジャジャジャ~ン。
さて、この後も執筆者の「藤原章生」氏は、いろいろ疑問を呈している。
西村教授は、アメリカの学会からどうやって、そのような情報を得たのか。
無線も手紙もすべてチェックされている中、情報を得る手段は無かったはず。
不思議とのこと。その時、湯川秀樹も傍にいて、黙って座っていた。
何か意味ありげ。
原爆が完成し、西部ニューメキシコ州の砂漠で世界初の実験に成功したのは
45年の7月16日。日本のいくつかの都市を攻撃目標と定めたのは、7月25日。
最初の投下を広島と決定したのは8月2日。
それが、なぜ、5月の時点で「広島に投下される」という情報がはいったのか
これまた不思議。まるで未来を見通せるタイムマシーンでもあったかの話。
「原爆投下は予告されていた」で検索すると、次のサイトと関連書籍が出てくる。
①「Author:ひろもと」のブログ『読書日記』
②『原爆投下は予告されていた!第五航空情報連隊情報室勤務者の記録』黒木雄司著(1992年)
岡山市在住の黒木雄治さん(77)=元安治川鉄工建設和歌山工場長の証言
Amazonでは「この本は現在お取り扱いできません」となっている。「発禁本」か!?
③『原爆の秘密 昭和天皇は知っていた』大分県在住のノンフィクション作家「鬼塚英昭」著(2008年)
④『原爆投下は予告されていた。国民を見殺しにした帝国陸海軍の犯罪』 古川愛哲著 講談社(2011年)
「なぜ広島と長崎では高級将校の死がほとんどないのか? 福島原発事故と原爆投下、
2つの悲劇に隠された驚愕の真実! 被爆直後の長崎に上陸した米軍捕虜救出部隊の証言、
そして原爆投下を黙認した日本軍上層部の陰謀…「昭和史最大の闇」を東日本大震災が暴いた。