最近、スズメが激減。スズメの巣となる日本家屋が減ったからとか。名古屋では、近年スズメの代わりにヒヨドリや百舌(もず)が増えた。百舌がスズメを殺のだとも。
最近ハトの群れも消えた。代わりに朝はカラスの鳴声がする。
事業ゴミとして飲食店が残飯を早朝に出すが、そこにカラスが集まり、ビニールを突っつき破り、中の残飯が散乱して大変なことになっている。
なぜハトは減ったのだろう。ハトの死骸も見ない。
矢追純一氏の『カラスの死骸はなぜ見あたらないのか』。
だいぶ前だが、本屋で立ち読みした。「カラスは死ぬと突然消える」の珍回答で、結論はなく「??」の訳のわからぬ内容だったので、買わずにやめた。
早朝、車に轢かれた猫の死骸を見かけることがある。1時間後にはもう痕跡ぐらいしか残っていない。やはり猫も消えるのか? 実は、カラスがきれいに食べてしまっていた。骨までもしゃぶりつくす。カラスは街の掃除屋さんでもある。
カラスは頭がいい。追払ったりすると、ちゃんと覚えていて、仲間を集めて仕返しにくる。今日、車(カー)の上にカラスの糞。ヤラレタかぁ!糞害に憤慨。
「カラス研究所」のサイトに
「カラスなぜ鳴くの」と題して、「森に住むハシブトガラスは、
葉に隠れて見えないので自分の居場所を知らせ、お互いの
コミュニケーションをとるため、様々な種類の鳴き方する。
見通しのよい都会に棲むハシボソガラスは、あまり鳴かない」
とのこと。そういえば、京都の将軍塚で見たカラスの大群は
ギャーギャーすさまじかったが、名古屋のカラスは無言で
モクモク。
嫌われ者だが、「からす なぜ鳴くの、カラスは山に」の童謡
『七つの子』は尺八でも定番の人気メニューだ。
だが、この歌詞「七つの子」とは変だ。7羽も雛(ひな)がいる
のか?7歳なら もう十分成鳥だ。
野口雨情記念館の館長(雨情の孫娘)の話では、「雨情の子供が
7歳のころに作られた歌」であり、また「野口雨情が7歳の時
母親と別れたことから、7歳の子供への思いをカラスの子に
託して詩にした」のだそうだ。
嫌われ者のカラスではなく「人間の子供」であれば、人情味も
また違う。
昭和29年(1954)、9月26日、台風15号により、青函連絡船の「洞爺丸」が函館湾で沈没した。他に4隻の青函連絡船も沈没し、死者 1,430名。
1912年のタイタニック号(1,513名死亡)に次ぐ海難事故と、世界に報道された。
当時 私は6歳、小学1年。新聞報道や映画ニュースで その惨状を知った。その後、雑誌『小学○年生』だったか、船長の娘が語るというカタチで、事故の顛末が載った。絵が好きだった私は、その時の、洞爺丸と近藤船長のイラストに感動し、何度も模写したので、その記憶が鮮明に残っている。
「なぜ 台風の中、船を出航させたのか」という怒りの声が渦巻き、その怒りは、洞爺丸と運命を共にした船長に浴びせられた。
船長の妻は、夫の死を悲しむ暇もなく、連日遺体収容所に赴いて遺族の前で「近藤の妻です。大変申し訳ありませんでした」と泣きながら謝り続けたという。
事故直後、近藤船長の妻の声が発表された。
『夫はこれまで、どんな事態に直面しても、絶対に慌てた事はありませんでした。生き残った部下の方から、当夜 最後までブリッジに頑張り、仁王立ちになった夫の行動を知ると同時に、世間の批判は益々募るばかりでした。
夫の遺体は揚がらなくとも、乗客や船員の遺体は全部遺族の元に届けていただきたい』と。
船長の遺体は、一週間後、救命具を付けず、愛用の双眼鏡をしっかりと胸に握り締めたままの姿で発見された。それは明らかに、船長としての職務を全うした
“殉職”だった。
当時の気象観測技術では、台風の進路を正確に把握することはできず、船長の経験と勘による判断を“ミス”として責任を問うのは酷なことだった。
台風が北海道を襲うなんて稀れ。経験のない事態だったのだ。
だが、世論の批難を受けて、海難審判は「人為的事故」と結論づけた。
水上勉『飢餓海峡』
「洞爺丸沈没事件」と「岩内大火」を題材に書かれた小説。
洞爺丸沈没事件から8年後、まだ記憶が生々しい昭和37(1962)年1月から週刊朝日に連載された。そして、昭和40(1965)年に 映画化された。
冒頭、洞爺丸の沈没で、無数の遺体が七重浜に打ち上げられるシーンが、モノクロの暗い映像で映し出される。あれは 当時のニュースの実写だったのだろうか。私が「洞爺丸事件」を記憶しているのは、この『飢餓海峡』の映像によるのかもしれない。
質店を襲撃し金を強奪した犯人「樽見京一郎」役が「三國連太郎」。それを執拗に追う刑事役が「伴淳」。絶妙のコンビだ。「別人に成り変って、事業で成功した犯人を追う刑事」という設定は、松本清張の『砂の器』と同じだ。(『砂の器』は、1960年5月から『読売新聞』に連載)
洞爺丸事故の死者数は、乗客・乗員1,314名中1,155名死亡。生存者は159名。ところが「氏名不明者」や「遺体の見つからない行方不明者」もいた。
当時、救難に当たった自衛官の話が興味深い。
「洞爺丸が沈没して多数の遺体が七重浜に流れ着くと、身元のよくわからない若い女性の遺体にすがりつき、自分は夫であると言って遺体を引き取って、国鉄からの見舞金を搾取しようとする男も現れた。そういうのは1人や2人にとどまらなかった。
殺した遺体を 紛れ込ませたり、そこで自殺して、補償金を得ようとすることも、あの混乱状況では、なんでもできただろう」と。
実際、「遺書」を持った遺体もあったが、事故死として補償金は支払われた。
3等客船の客には、青森と函館を往復する「かつぎや=ヤミ屋」が多かった。
戦後の人心荒廃した せちがらい世だった。まさに『飢餓海峡』は、そんな“闇の時代”に生まれた作品だったのだ。