こちらはマンドリンの先生のブログ。
マンドリン教室の講師と演奏だけで食べていけている人は
20人位しかいない。(ふむ、尺八と同じだ)
「あの人は、下手なプロより上手い」とよく言われる。
(ふむ、尺八界にもプロ顔負けの名人がいる)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「自分が2番目に好きなことを職業にしなさい」という
言葉を聞いたことはありませんか? 「自分が1番好きなことを
仕事にすると、お金が絡んでくるので、好きなことも嫌になり、
やめてしまう可能性もあるから、1番好きなことは趣味に
とっておいて、2番目に好きなことを仕事にしなさい。」という
意味だそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ほほう。そういえば 聞いたことがあります。
プロとなると、頼まれれば、好きでない曲も演奏しなければ
なりません。自分の技量を超えた難しい曲でも演奏しなければ
なりません。たしかに苦痛も伴います。時間にも追われ、
やっつけ仕事もあります。でもそれを、こなしていくのが
「プロ」というものでしょう。それに見合った報酬が
いただけたら、「プロ」ならではの大満足です。
「完璧にこなすのがプロ」と言うなら、
オリンピックでミスや失敗をするのは
プロとはいえない。だからオリンピックは
“アマチュア競技”か。
だがオリンピック選手は、プロ以上に難しい
技に挑戦している。だからオリンピックは
“競技”なのだろう。
フィギア選手が「アイスショー」のプロに転向
すると、より無難な技で、完璧さ、安定感、
安心感のある演技で観客を魅了する。
プロは技術だけでなく、プラスα、観客を魅了
する“オーラ”がある。
音楽家もそうだ。音楽大学を出て、技術は完璧でも、
オーラがなければプロといえない。演歌歌手は、 音大には合格できなくても、観客を惹きつける “花”がある。それがプロとアマの違いか。
プロとアマの違いは何だろう。
プロにも二通りある。楽譜通り正確に吹くプロ。それはそれで
感動を与えるが、往々にして何かつまらない演奏になる。
オリンピックのフィギア スケートは難易度の高い技に挑戦して
緊張と感動を与えてくれる。一方、プロのアイスダンス ショーは、
完璧なすべりで 観客を魅了する。そこには、見ていて、絶対に
失敗しないという安心感もある。
それと同じか。楽譜にしがみついて吹くのは、たとえ完璧に
吹いても、観客に不安感を与え、プロではない。プロは楽譜が
あったとしても、余裕を見せる。
演奏の姿勢もアマとプロの差が現れる。プロは舞台に出てくる
ところから違う。観客を呑むオーラを発する。終始うつむき
加減の演奏では、観客に“見せる姿”にならない。
プロの尺八家 阪口夕山氏が「私にとって 古典本曲は“趣味”です」と。
「古典本曲ではお金をいただかない」という。「古典本曲のプロではない」と
いうのか。「古典本曲は人に聞かせて金をいただく性質のものではない」
という意味か。
私はプロの虚無僧でござる。舞台で演奏するのも、街頭で尺八を吹くのも同じ。 舞台演奏でも「お代は見てのお帰りに」で、「感動していただけたら それに応じた喜捨を」と告げている。その方がチケットの売り上げより 多かったりして、反応が即金額で示されるから、真剣勝負。
先日「カタチばかりの虚無僧が多いが、初めて“ホンモノ”の 虚無僧を見た気がした」と言っていただいた。
ようやく板についてきて、ホンモノになれたたか。
「プロとアマ」で検索して、ある方のブログ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「プロは、他人に満足を提供して、お金をもらえる人、
アマは、お金を払って、自分の満足を得る人」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なるほど、けだし明解な定義でござる。
尺八の世界でも、素人さんは会費を払って舞台で
演奏して、自己満足に浸る。観客の不興などは
関係なし。プロは、主催者からお金をいただいて
主催者と観客に満足を与える。
いかに主催者の期待に応え、お客に満足して
いただくか、それがプロの仕事でしょう。
「プロとアマ」の違いから転載
させていただきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
プロと呼ばれる方は気持ちの持ち方が違うと感じます。
■出来る方法を考えるのがプロ、できない言い訳をするのがアマ
プロは、困難な仕事であっても、それに意欲的に挑戦し、
できる方法を考える。アマは、できない言い訳を考える。
■常にチャレンジするのがプロ、現状に満足するのがアマ
■仕事を楽しむのがプロ、仕事を楽しめないのがアマ
■行動を起こすのがプロ、批判をするのがアマ
壁に直面した時、プロは、何が悪いのか?なぜそのように
なったのか?どうすれば解決するのか?を考え行動に起こす。
アマは文句を言って思考停止してしまう。
■時間を効率的に使うのがプロ、時間を浪費するのがアマ
■約束を必ず守るのがプロ、約束を守らないのがアマ
心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる
めざそう!プロの道
プロとアマでは “間(ま)” の処理の仕方が違う。尺八に
限らず、歌でもそうだ。素人は息継ぎが下手。フレーズごとに
ブツッと切れる。プロは息継ぎがわからないように、次の
フレーズへとつなげる。プロの技を公開しよう。
車の運転をイメージしてもらうとよい。ブレーキをかける時は、
少しずつ、徐如に踏んだり、離したりしながら踏んでいく。
それと同じようにデ・クレッシェンドして 息を抜く。
素人の “間” は、急ブレーキを かけられた時のように
ガクッと切れる。
そして、そこで、完全に息が止まってしまうと “素(す)” に
なってしまう。それが何回も繰り返されると、聞きずらい。
スッーと息を抜いて、止まった瞬間にブレーキを離すように、
“吸い”にはいる。 “間” が短い時は、瞬時に吸う。
“間”が長い時は ゆっくりと おもむろに 吸う。完全に息が
切れることのないようにすると、音は無くとも “間” は
つながって聞こえる。
ようするに “間(ま)” の間(あいだ)にも “気” は みなぎって
なければならないということ。
私の子供の頃、昭和20年代、テレビはまだ無い。歌など
歌う機会はめったになかった。
幼稚園にはいって、歌の授業があった。手拍子を叩き
ながら歌を歌う。歌は手拍子を叩きながら歌うものだと
思っていた。いつも上手に叩けてほめられていた。
ところが、小学校にあがって1年の時、音楽の授業で歌を
歌う時、私は得意になって手を叩いた。すると先生が
「誰ですか!手を叩くのはやめなさい!」と。それまで
親にも叱られたことのない“おりこうさん”で通してきた
私は、皆の前で叱られたことに激しいショックを受けた。
それから歌は全く歌えなくなったのだ。歌ったことがない
から当然音痴だった。
NHKラジオにクラスで出演することになった。先生は
私に向かって「牧原、お前は歌わんでよろしい」と、皆の
前で命じた。もう音楽が恐怖でしかなかった。私にとって
音楽は「音が苦」となったのだ。
音楽の成績が悪いのを心配した親は、わが家にピアノの
先生を招いてピアノを習わせた。そのピアノも私にとっては
苦痛でしかなかった。
そんな洋楽に対するコンプレックスから、反動で尺八を
始めたのだ。尺八なら、大人も吹けない。音も出せない。
音が出るだけで自慢できる。優越感にひたれる。尺八は
自己流で覚えたが、好きこそものの上手なれ。ピアノを
習っていたことで、五線譜が読めたから、昭和40年代の
現代音楽興隆の波に乗って、活躍の場はたくさんあった。
というわけで、音楽音痴だった私が、今「尺八音楽」で
食べさせてもらっている。
音楽に才能が無かっただけに、人一倍の努力はした。
だからこそ、音楽がダメな人にも、どんな練習をしたら
よいか指導ができるのだ。
先月亡くなった井上さん。
1年前、「老人会で『刈干切唄』を歌うので、
尺八の伴奏をして欲しい」と頼まれた。家に
来てもらって、合わせてみたら、全くひどい
音痴なのだ。音程もとれない。間も悪い。
聞くと、「自分は歌が全くダメだが、子供の頃
『刈干切唄』を聞いて感動し、いつか自分も
歌ってみたいと思い描いてきた」という。よりに
よって、民謡の中でもこの歌は難しい。もっと
簡単な唄にすればいいものを、どうしても『刈干
切唄』を歌いたいとのこと。3ヶ月特訓した。
仕事で多忙の中、多いときは週3日も来て練習した。
尺八をテープにとり、毎日聞いて、音程と流れを
聞くことから始めた。発声練習では、ドレミファソ
ラシドもできない。根気よく練習を重ね、老人会で
みごと初舞台を踏んだ。案の定尺八とキィが狂っ
たが、そこはすかさず私が合わせてあげた。全く
歌えなかったのだから、彼なりには満足したこと
だろう。
長年の夢を一つかなえて彼は逝った。『刈干刈唄』
のせつない節が耳に残る。
近年、「コミュ力」(コミュニケーション 力)が大切と
さかんに言われるようになりました。
昔は、必要なモノ(ニーズ)があって、それを求めて
買いに行った。店の店員の応対がどうあろうと、必要な
モノが手にはいれば、それで良かった。満足した。
バブル期、店員とのコミュニケーションをとるのが
うっとおしいと、自動販売機や、スーパーのレジで
無言で支払いを済ませる傾向となった。
その流れで“コミュニケーション”をとるのが下手に
なった。最近はその反動が起きているという。
乱立ぎみの「コンビニ」。出勤前や帰宅時、駅を降りて
無意識にコンビに入る。その時の店員の応対次第で、
つい何かを買ってしまう。
逆に、店員の応対が気にいらなければ、何も買わずに
他店に行くことも。
私もそうだ。「コピー借ります」「トイレ借りま~す」と
入っていって「どうぞ」と快い返事が返ってくれば、
「何か買わなければ悪い」と思う。逆に全く無視されると、
「買うもんか」と思ってしまう。
名古屋は 50m圏内にコンビニが3軒もあったりする。乱立
競争激化の地域なので、店員の資質がモノを言う。つぶれる
店も多い。私が不快に思った店は みんなつぶれている。
ところが、最近、外国人の店員が多くなって
こんな 笑えるおかしな ミス連発。
「宛名は上様で」と頼んだら「ウカサマデイ」と書かれた。
「白紙で」と云ったら「ハクシデ様」に
「但し書きは」と聞かれて「品代」と 答えたら」「シラナイ」。
名古屋城の本丸御殿の再建で、その襖絵の複製も進んで
いますが、河村市長が「複製品より本物を展示してはどうか」
と提起して物議を呼んでいます。本物は 空襲の直前に
持ち出され保管されていたもので、すべて重要文化財に
指定されています。そのまま展示すれば 劣化も進む
ことから関係者は反対していますが、市長は考えを
変えないとのこと。
たしかに、本物には重みがあり、複製品は所詮レプリカ。
心血注いで模写をしている方々には失礼ですが、明るく
きれいすぎて、安っぽく見えます。芸術性を感じさせない
のです。
もっとも、本丸御殿も所詮レプリカですから、襖も模写で いいでしょう。本物は天守閣のガラス・ケース内で順次 公開すればいいでしょう。
河村市長は、天守閣も、建設当時の木造で建て替えよう。
金の鯱(しゃちほこ)も創建当時の純金で造り直せと、
本物にこだわっていますが、財政難の折、その必要が
あるのでしょうかね。
火事で江戸城天守閣が焼けた後、保科正之は、「今の世に 必要ないと再建を止めさせました。
「河村」対「保科」、さてどちらに軍配が上がるでしょう。