現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

消え行く「村野藤吾」の建築

2012-02-14 09:44:26 | 村野藤吾
「村野藤吾」で検索すると 24,000件もヒットする。
「知る人ぞ知る」で、建築に関心の無い人は知らない
だろうが、“村野藤吾信奉者”が、まだまだ多くいる
ということに、うれしく思う。

ところが、その項目の中で、「谷村美術館閉館」や
「大阪なんば新歌舞伎座」「小倉市民会館」 
「千里南センタービル・千里市民センター」
「米子市公会堂」などが取り壊しになるという記事。
身を切られる思いだ。

私は子供の頃「法隆寺は世界最古の木造建築」と
聞かされ、また、室町・鎌倉の寺院建築も現存して
いることから、火災にさえ遭わなければ、木造建築
でも1000年持つ。ましてコンクリートなら未来永久に
存続するものと思っていた。

法隆寺が世界遺産登録を申請した時、「千年の間に
柱も瓦も何度も補強され 取り替えられているので、
千年前の建物とはいえない」とフランス人の選考委員
から異議申立てがあったそうだ。

そういえば、姫路城の芯柱だって取り替えられている。
伊勢神宮など 20年ごとに 全とっかえだ。

現「目黒区役所」となっている「旧千代田生命ビル」の
写真もネットで見れた。それを見て、私は愕然となった。
「村野藤吾」の建築にかける理念は すべて踏みにじられて
いるではないか。目を覆いたくなった。私が、このブログで
書いてきたことは、もう今の「目黒区役所」では感じ取れ
ない。これが「建築物」の末路なのか。ああ無常。

村野藤吾が「千代田生命」に与えたもの

2012-02-14 09:01:14 | 村野藤吾
「村野藤吾」の建築は 300件ほどあるが、そのどれもが、
案内文には 必ず「村野藤吾の設計になる」と、建築家の
名前を誇らしげに紹介している。

「千代田生命」も「わが社で誇れるのは本社ビルだけだ」と
自嘲的に云われた時代もあった。

そもそも、千代田生命は、戦前は日生、第一と肩を並べる
大手だったが、戦後、住友、明治に抜かれ、昭和35年、
創業50周年を迎えた時には、5位に転落していた。

そこで、起死回生を目指して、村野藤吾に本社ビルの建設を
依頼したのだ。「どこよりも誇れる本社ビル」というのが、
社員の士気高揚になるはずだった。

だが、高度成長期、他社が合理化、効率化で突き進む中、
千代田ビルは、それとは真反対の、「ゆとり」と「癒し」の
ビルだった。社員の士気は上がるどころか「のんびり」
「ゆったり」の社風に染められて、千代田は業界8位に
まで転落した。

だが、高度成長期に翳りが見え始めた昭和60年(1985)年
前後、このビルは最も脚光を浴びることとなる。

「モウレツ、壮烈社員」から「人間性回復」「文化的、
快適生活」へと価値観の転換があり「千代田生命ビルは
それを 20年も先取りしていた」として、マスコミの
取材攻勢を受けることとなった。その時、私は広報部に
勤務していて、NHKはじめ、多くの週刊誌、建築雑誌の
取材や、見学者を受け入れ、鼻高々、最高に幸せな時代
だった。

だが 会社は、バブルの崩壊、不良資産の処理に汲々とし、
手段を選ばぬ悪あがきで、ますます首を絞め、にっちも
さっちも行かなくなって倒産した。

私が入社した昭和46年、本社ビルを案内してくれた当時の
担当者が「“ぜいたく過ぎる”という声もありますが、
保険会社にとって不動産は、(大地震などで) 万が一
保険金が支払えなくなった時に、これを売却して支払いに
充てるというための備えでもあるのです」と説明された。

その時 私は それが「有り得ない話」とは思えずに聞いて
いた。そして、それが現実になったのだ。

村野藤吾と丹下健三 (3) 「広島」

2012-02-13 21:48:56 | 村野藤吾
2006年(平成18年)、丹下健三の「広島平和記念資料館」と、
村野藤吾の「世界平和記念聖堂」がともに、戦後の建築としては
初めての重要文化財(建造物)指定となった。

広島の「原爆資料館(広島平和記念資料館)」は、1955年
丹下健三の設計。原爆ドームを取り壊すか、原爆の遺構として
保存するか、激論が交わされた中、平和公園一帯の整備も
含めて提案した丹下健三のスケールの大きさが世間の耳目を
集めた。

その前年、1954年「「世界平和記念聖堂」が完成している。
こちらは、広島カトリック教会がローマ教皇の承認を得て、
原爆被災者の慰霊のために「教会」の再建を志し、コンペを
行ったもの。

コンペには 177の応募があり、「丹下健三」の案が1位に
押されていた。しかし、この「丹下」案に審査員の一人だった
村野藤吾が異議を唱えた。それには、丹下の明らさまな
「モダニズム」に 施主のカトリック教会が難色を示した
ともいわれる。

その結果、「丹下案」を「2等」とし、「1等は該当無し」と
なった。そして、教会側の意向により?、審査員だった
村野藤吾に設計が任されることとなった。建築界の一大
スキャンダルだ。

その後、丹下健三は「平和記念資料館」のコンペで一等となる。
そして「世界平和記念聖堂」は村野藤吾が設計することとなり、
同時期に建設が進められた。宿命の対決だ。

この建設にあたっては、戦後のインフレ、貨幣価値の下落、
朝鮮戦争後の資材高騰、建設コストが跳ね上がり、村野は
施工にも困難を極めた。そして 村野は この建築の設計料を
受け取らなかったという。

広島での宿命のライバルの作品が共に「重要文化財」として
保存されることになったことに、ある種の運命的な感慨を
覚える。

村野藤吾と丹下健三 (2)

2012-02-13 20:44:17 | 村野藤吾
村野藤吾の「生誕100年祭」が、1991年(平成3年)、
建築界の御歴々を集めて、千代田生命で行われた。
私は、これに立ち会い、ビルの案内をかって出た。
千代田生命が、村野藤吾の代表的建築のひとつで
あることを内外に示す、絶好の機会だった。

そして そのパーティで、乾杯の音頭をとったのが、
宿命のライバル「丹下健三」だった。丹下健三は
その時 78歳。髪は黒々としていて若々しかったが、
鈴木都知事との癒着を取り沙汰されていて、心なしか
元気はなかった。そして「丹下健三の挨拶」も
私は記憶している。

「村野先生は 93歳まで、亡くなられた前日まで
元気にお仕事されていた。千代田生命ビルを完成
した時は 75歳。ますます油の乗った絶好調の時期
だった。私は、今78歳だが、皆から『もうやめろ、
やめろ』と云われてまして・・・・。 みなさんも、村野
先生を見習って、80、90まで元気に働いてください」

というようなお話だった。

丹下健三は、1913年(大正 2年)9月 4日 - 2005年(平成17年) 3月22日(92歳)
村野藤吾は、1891年(明治24年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日(93歳)

丹下健三は村野藤吾より22歳若い。共に90過ぎまで生きた。

丹下健三の葬儀は、自ら設計した「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で行われた。
村野藤吾の葬儀は、大阪市中央区玉造にある「聖マリア大聖堂」。(ここは
細川ガラシア夫人のゆかりの地)。

東京と大阪と異なるが、共に「聖マリア大聖堂」というのが因縁を感じる。
ただし、丹下健三は、自ら設計した「聖マリア大聖堂」の地下墓地に
眠るが、村野藤吾の墓は京都南禅寺にある。いかにも、洋の東西、
時代、宗教をも超越した村野藤吾らしい。




村野藤吾と丹下健三 (1)

2012-02-13 20:39:28 | 村野藤吾
建築界の巨匠「村野藤吾」と「丹下健三」はよく比較される。

丹下健三は、赤坂・大津のプリンスホテル。村野藤吾は、箱根・
新高輪・京都宝ヶ池の各プリンスホテルを手がけた。同じプリンス
とは思えない、全く異なる二人のキャラが強烈に出ている。
私は「村野派」だ。

丹下健三は、1964年の東京オリンピックのために造られた
「国立屋内総合競技場」。そして目白の「東京カテドラル
聖マリア大聖堂」で、一躍有名になった。

そして1991年の新宿の「新都庁舎」。丹下は、34年前の1957年、
「旧東京都庁舎」も手がけている。ビルの前に「太田道灌」の
像があった。このビルは、外壁が「鉄とガラス」で構成され、
これぞ「現代建築、モダニズム」と絶賛されていた。

その時、村野藤吾は「あのようなものを造ってはいかん」と
批判的であった。私は千代田生命の不動産部勤務の時、何度か
都庁に行ったが、 都庁の職員は、書類を山積みにし、もう
フロアーも足の踏み場も無いほど、ゴミゴミ、メチャクチャ
な使い方をしていた。「建物は、そこに住む人、働く人の
心にまで影響する」というのが村野の持論だった。

そして 村野藤吾は、「自分ならこうする」とばかりに、
千代田生命ビルを、丹下の「旧都庁ビル」と同じく、「鉄と
ガラス」のビルとしながら、重厚で繊細、シンプルで華麗、
モダンでクラシックという、全く相反する価値観をすべて
包含する「ポスト・モダン」の美を完成させた。

丹下の「旧都庁舎」は、34年で壊され、新宿に超高層ビル
として新たに建設された。これには鈴木都知事との癒着が
噂された。赤坂プリンスも閉館となり 壊される。村野の
建築は、半世紀を経てますます輝きを増している。


古い木造住宅密集地に近代ビルの現出

2012-02-12 10:17:39 | 村野藤吾
昭和41年に「千代田生命ビル」は完成するのだが、
それが「千代田生命」と知ったのは、実は昭和45年、
大学4年、就職活動で「採用広告」を見た時だった。

アメリカンスクールは戦前からあり、近くには
アメリカの大使館もあったらしく、戦時中、東京
大空襲でも、この一画には焼夷弾が落とされなかった。
(アメリカ軍の情報収集力はすごいものだ)。

だから、私の家も含め、この辺一帯は、戦前からの
古い木造住宅が密集していた。

そこに突如「近代的なビル」が建つ。周囲の景色と
どう調和させるかが課題だった。

「光を跳ね返すようなガラスの壁や、重圧的な
コンクリートの壁は創りたくない。むしろ光を吸収
するようなビルにしたい」と村野藤吾は考えた。

当時、丹下健三の「鉄とガラス」の建物や、コンクリートの
打ちっ放しが「現代建築」としてもてはやされていた。
村野は「あんなものを造ってはいけない」と秘かに思っていた。

千代田生命ビルは、本体は、鉄とガラスの建物なのだ。
それを、巾1mほどのバルコニーを設け、その外面に、
巾1m 間隔で「柱」を立てることとした。

その柱をコンクリートで作れば、重すぎる。やがて
ヒビ割れや シミが出き、汚くなる。

村野藤吾は、その柱をアルミの鋳物で造ることにした。
「そんなことはできない」とアルミ専門業者は断ってきた。
そこで「古河鉄工」にやらせることにした。鉄工業者は
表面をきれいに磨きあげて、サンプルを出してきた。

村野藤吾は、その溶接部分の凸凹を見て「これだよ」と。
そして、鋳型に砂をまぶして、表面をあえてザラザラに
したのだ。そして、その厚みを何mmにしたらよいか。
総重量を支えきれるのか、薄ければやがて穴が開く。
厚ければ総重量が重くなる。何度も研究開発を重ねて
1700本ものアルミのルーバー(柱)ができた。

だが、人間の目は“節穴”ではない。中が空洞であることを
見抜く。そこで、一階など、手が触れるところのルーバー
には、3分の1ほどの高さまで、砂を入れるよう指示した。
当時は海辺の砂だ。「塩分が含まれていて、金属を腐食させる」と
部下が異議を唱えると、村野藤吾は、「ならば、砂を全部
煮沸して塩分を除くように」と。


こうして、コンクリートのようで重さを感じさせない。
金属のようで光沢のない、世界で初めての「アルキャスト」が
現出したのだ。
全体を緑ががったダークグリーンに加工されたアルミの柱は、
壮観であり、圧巻であるが、それでいて光を吸収する優しい
美を讃えていた。

人は「肌触(はだざわ)りの建築」と評した。また、竣工当時、
このビルは「新しさを感じない」とも。

ヨーロッパのクラシックなビルのようであり「復古調」と
評された。だが、5O年、半世紀を経ても、このビルは
「古さを感じさせない」。まさに、村野藤吾の芸術は、
洋の東西、過去と現在、時空を超越した「モダニズム」
なのだ。




村野藤吾の伝説

2012-02-12 08:54:33 | 村野藤吾
千代田生命ビルの建築を請け負った時、村野藤吾はすでに70歳。
それから5年。ようやく全容が完成しつつあった。先生75歳。

木1本、石ひとつの配置も、村野先生は御自ら決められた。
決して他人任せにしない。地下に設けられた茶室の坪庭に
自然石が置かれている。5、60cmほどの石だが、実は1m以上
もの大きな石が埋まっていて、地面から出ている部分は
“氷山の一角”なのだ。

このさりげない石ひとつにも逸話がある。村野藤吾は、
しばらく考えこんで「ここに」と指示した。地下の狭い
空間で、石工が苦労して、石を埋めた。

すると 一週間ほどして、先生は また 坪庭を眺め、
「あの石を5cm 右にずらすように」と。云うは易く、
行うは難しだ。また土を掘り起こして、埋め直し。

妥協を許さない“師”だった。また「村野先生」だから、
誰もが素直に指示に従ったという。


別館最上階の「ヘリ」の部分にも逸話がある。
村野藤吾は、下から33mも上を見上げて「僕はあそこは
5cmと指示したはずだ。出すぎている」と、不満を漏らされ、
足場を上っていこうとされた。先生は75歳のご高齢。
「お怪我でもされたら」と現場主任は真っ青。
「先生、私が上って見てきます」と。

そして最上階まで上って確認すると、先生のおっしゃる
通り、2cmオーバーしている。その主任は「先生の
おっしゃる通りでした」という意味で、両手で円を作って
合図した。すると先生は「そうか? 指示通り(5cm)か、
おかしいな」と不満ながら、指示通りならば仕方がないと、
直しは あきらめられた。

現場主任は、ホッとした。今さら直しようがなかった
からだ。


村野藤吾のナチュラリズム(自然主義)

2012-02-12 08:09:13 | 村野藤吾
村野は 日本家屋でも、ホテルでも、正門から玄関までの演出に
こだわった。

千代田生命も、正門から建物の正面玄関まで、ゆるいカーブの
スロープになっている。右手には木々が植えてあり、枝葉の
間からビルが見え隠れする。

その玄関前の木立だが、これまた逸話がある。
村野藤吾は、この玄関前の木々を「武蔵野の森」と定めた。
そして、自ら、東京の西に広がる多摩丘陵を散策し、気に
入った林を見つけると、地主と交渉し、そっくり買い上げ、
その木々が元在った通りに移植することを部下に命じた。

つまり、まず、木と木のそれぞれの位置を測量し、元あった
通りの配置で、千代田生命の玄関前に移植させたのだ。
植木職人や造園家の恣意がはいらない、自然のままの森を
現出させたのだ。

千代田生命を訪れ、帰る人は、建物の中から玄関に向かうと、
玄関部分が長四角の額縁のようになっていて、あたかも
「武蔵野の森」の絵画を見るような清清しい気分になるのだ。

ついでに、玄関前の長い庇(ひさし)を支える数本の柱だが、
これまた「木」のように、裾はカーブを描き、上が先細りの
ステンレスの円柱で、それぞれ太さが違う。つまり金属の
ポールだが、林のように配置されているのだ。

1本1本手作りで、当時の技術では、先細りの円筒を
造るのは大変な苦労をしたそうだ。

この数本の円柱の配置もまた 逸話がある。弟子たちはど
うしても幾何学的に配置してしまう。何度図面を描いても
村野は承服しなかった。そこで弟子たちは、図面上に
「おはじき」を投げて、散らばったところに立てることに
したら、ようやく先生の了解が得られたという。こうした
伝説的な話は数限りない。

村野藤吾の椅子

2012-02-11 23:44:44 | 村野藤吾
「建築をやるなら、まず椅子の設計をやりなさい」と
村野藤吾は云う。「住まいでも職場でも、人が長時間
留まるのは《椅子》の上。快適さを感じるのは椅子の
良し悪しだ」と。

村野藤吾は、各役員室、応接室、会議室、大会議室、
食堂や喫茶室の椅子まで、全部自身でデザインされた。

大会議室の椅子など、肘掛や脚の部分がアールを描き、
実に繊細。今にも折れそうに か細い。すぐ壊れや
しないかと誰もが心配した。

村野藤吾はいう「繊細で華奢(きゃしゃ)なものこそ、
大切に扱われ、長持ちするのだ」と。

なるほど、小学校の椅子など頑丈に作られているが、
扱いも乱暴になり、すぐ壊される。すぐ壊れそうな
ものは、丁寧に大事に扱おうとする心が働くものだ。

大会議室の椅子は、平成5年まで30年使われていた。
私が名古屋に転勤になる直前、さすが、ニスも剥げ、
布の部分もほつれが目だってきたので、全部廃棄し
取り替えられることとなった。

新しい椅子は、村野の設計した会議室にはそぐわない 
がっしりした色気もないものだった。

村野藤吾のデザインした椅子が廃棄処分されると知って、
私は2脚もらい受けた。それが今2脚、私の部屋に
鎮座ましましている。村野藤吾の遺品だ。

村野藤吾の意匠が次々と壊され、無くなっていくのを
私は断腸の思いで見聞きし、千代田生命と決別したので
ある。

千代田生命ビルへのいざない

2012-02-11 21:50:16 | 村野藤吾
私は昭和23年生まれた時から中目黒の隣りの祐天寺に
住んでいた。駒沢通りは「開成道路」と言われ、
当時としては道幅が広く、子供の頃は横断するのも
怖かった。

祐天寺のお寺から先、目黒川に向かって急な下り坂に
なっていた。そこに「アメリカン・スクール」が
あった。昭和27年まで、日本はアメリカに占領されて
いたのだから、アメリカ兵の子供達も多く通っていた。
ジュディ・オングも通っていたそうな。

アメリカでは、今でもそうだが、スクールバスは
追い抜いてはいけない交通ルールがある。駒沢通りは
アメリカンスクールのスクールバスや子弟の送迎の
外車で、よく渋滞していた。その交通渋滞を改正
するため、占領解除後、警察からの要請もあって、
アメリカンスクールは立川に移転することとなり、
土地の買い手を求めていた。

昭和35年、私は慶応の中等部にはいり、毎日、
アメリカンスクールの前を通って三田まで通っていた。

やがて、建物の取り壊しが始まり、巨大なビルが
形となって現れた。私はてっきり「アメリカン・
スクール」が校舎を建て直しているのだと思っていた。