『宋史』の「律暦志」に記載されている「礼楽義」
乾徳4年(966)春、拾遺の孫吉を遣わし、成都にあった孟昶の宮県
(楽器の配置のさま)を京師に取り寄せた。太常に調査させたところ
楽器が音律に合っていないことが分ったので破棄させた。
楽器の中に叉手笛があります。楽工が調査したところ、どれも雅音
(正しい音楽)と相応しておりました。調べてみますと、唐の呂才は
「白雪」の琴の歌を作り、馬滔は「太一」の楽を用い、当時にあっては
宮県の席に与り得ました。
ましてやこの笛は十二旋宮に相当しているのですから、八十四調に
通すこともできます。形状は雅笛に似て、それより小さく、長さ九寸。
黄鐘管に等しく、左に四つ右に二つ、穴が六つあります。
楽人が手に取るときは、両手を交わらせ、拱揖(両手を前に組んで
会釈すること)したようになります。拱宸管と名づけたいと思います。
十二案・十二編磬・登歌両架に一つずつ設置することを法規に定めて下
太祖はいつも雅楽は音が高くて悲哀な感じが漂い、中和に合って
いないと感じていた。王朴・竇儀は音楽に詳しい人物であったが、
両人とも既に亡くなっていた。そこで和�餐に原因を調べさせた。
�餐は「朴が定めた律呂の尺は、古制である西京銅望�帋の石尺に
比べて四分短くなっております。音が高いのはこれが理由です」
と答えた。そこで古法により、別に新尺を作らせ、律呂を定めさせた。
これ以後、雅音は和やかで伸びやかになった。これについては
に記載されている。