高知県室戸岬
高知県足摺岬
一休の母について、日野中納言の娘「伊予局」とか、藤原顕純の娘、
花山院の娘などと、色々云われているが全部嘘である。根拠は
全く無い。
母について書かれた唯一の書は、一休没後まもなく弟子達によって
編纂された『一休和尚年譜』である。そこには、
「母は藤原氏、南朝の高官の胤、後小松帝の寵愛を受けていたが、
懐剣を隠し持って帝の命を狙っていると后に讒言されて、宮中を
追われ、民間にはいって一休を生んだ」としか書かれていない。
日野とするのは、後年楠木の残党が禁裏を襲って三種の神器を奪う
事件が起きた時、日野某が手引きしたことによるものと考えられる。
昭和36年、大阪に住む楠木の子孫と名乗る人が、系図を公開し、
新聞に載り話題となった。そこに
「楠木正成の三男正儀(まさのり)とその子正澄が河内倉満ノ庄
津田村(現枚方市)を経て、八箇ノ庄水島(現門真市三つ島)に
移り住んだ。正澄の三女が後小松院の官女となり、一休を産んだ」
と、かなり具体的に書かれてあった。「慶長17年(1612)年に書き
写した」との奥書もあって、真偽論争もされぬまま、忘れ去られて
いる。京都大学教授の「東 光(あずまひかる)」という教授が
太鼓判を押して発表したので、後に何かの記事に「“今東光”氏も
楠木説」とあって笑ってしまった。「今」氏もあの世で ビックリ
していることだろう。
門真市三つ島の下三島公園横に「一休の母の墓」というのがある。
たぶん、昭和36年にこの記事が公表されからのものと思われるが、
もしそれ以前から、そういう言い伝えがあったとすると、この
「楠氏系図」を裏付けるものとなる。真相はいかに。
ネットで「一休さん」のDVDを入手した。
東映アニメとしてテレビ放映されたものだ。
S50.11.19放映の、第6巻「さむらいと千菊丸」
を見て驚いた。一休が不審な侍に付け狙われる。
蜷川新右衛門から、「一休の父は天皇、母は楠木
正成の娘。そのため、南朝方の残党が 一休(千菊
丸)を大将として、足利幕府を倒そうとする企み
があり、それを警戒して見張っているのだ」と
教えられ、争いはやめようと一休は知恵を絞る。
正に、敵味方どちらにも組しない「この端渡る
べからず」の一休さんとして描かれていたのだ。
「一休の母が楠木の血を引く」と明記した史料は
無いが、そう推測しうる状況にはある。それを
東映アニメでは「一休の祖父が楠木正成」と断じて
いたことには驚いた。但し、年齢的には4代前だ。
私は「 正成-正儀-正澄-娘-千菊丸(一休) 」
と考えている。
宗教哲学者「梅原猛」氏は、そのの著『観阿弥と正成』で
「観阿弥・世阿弥は楠木氏と血縁関係にある」と明言している。
伊賀の旧家、上嶋家に伝わる「上嶋家文書」の中の
「観世 福田 系図」に、「観阿弥の母は橘正遠の娘」と
記されているという。 楠木氏は橘姓なので、正遠は正成の
父ではないかと考えられている。上嶋文書の真偽については、
東大教授の平泉澄氏や、京大教授の林屋辰三郎氏も、
正当性を証明しているとのこと。
つまり系図は
楠木正遠----正成------正勝
| |
| |--正儀-----正澄-----女--- 一休
|
|
女--------観阿弥-----世阿弥
そして一休は、正勝の弟正儀の孫娘と後小松天皇との間に
生まれた子。一休と世阿弥はともに、南朝方の楠木の血が
流れていたのだ。
このことは、早くから知られていたのだろうか。
小説などで、一休と世阿弥が組んで、南朝の再興を願い、
足利義満の暗殺を図ったというような話もある。
後小松天皇の御落胤であった一休は、天皇になるべき
人でしたが、義満が自分の子「義嗣」を天皇にするために
安国寺に押し込められていました。
義満が亡くなり、義嗣の立太子の件も反故にされたの
ですから、一休に「立太子」の話が舞い込んできます。
この時一休17歳。将軍「義持」自ら、一休の元に赴き
ますが、一休は 将軍様に対して「あかんべぇ」をして
追い返したといいます。
そして後小松天皇からも呼び出しを受け、次の天皇を
相談されるのですが、一休は天皇の位を弟に譲るのです。
もし一休が天皇になっていれば、101代天皇になれたの
でした。応永元年1月1日生ですから、よくよく「1」に
縁のある人です。
一休は、天皇の位も肩書きも捨てて、一生を托鉢僧として
生きる覚悟を決めたのでした。
「一休とんち話」の『この橋渡るべからず』は、どちらの端
にもこだわらない中道を説いたものですが、そこには、一休は
父が北朝の天皇、母が南朝の楠木という、全く相反する対極に
ある血を受け継いでおり、南朝からも天皇に祀り上げられる
存在でありながら、北にも南にも与しない生き方を選んだと
いう深い意味が込められているのです。
落語の「一目(ひとめ)上がり」に出てくる「一休の悟(ご)」
「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。
汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、
花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども 水も
濁さず影も止めず」。
この「一休の悟(ご)」の出典を探していますが
見つかりません。おそらく、原典と思われる話が、
『一休関東噺咄(はなし)』の上巻・第四にありました。
◆「傾城に引導渡さるる事」
「傾城」とは「遊女」のこと。東海道「赤坂の宿」(現、愛知県
豊川市)の遊女「が臨終にあたって、
一休に「遊女の身では罪深く、 成仏できないと聞きますが、
ぜひ引導をお願いしたい」と一休に懇願する。そこで一休、
「僧は衣を売り、女は紅を売る、柳は緑、花は紅、喝」と。
『一休関東咄』は江戸時代の寛文12(1672)年の刊行。
一休は関東まで赴いていませんので、当時の戯作者の
作り話です。そしてこの短文を元に落語で、これだけの
「詩偈」を創った人の才能には感心します。
一休の父は北朝の「後小松天皇」だが、母は、南朝の忠臣
「楠木正成」の血筋。「楠木正行」の弟「正儀(まさのり)」の
孫娘。であるから、一休は南朝方からも担ぎだされる立場にあった。
その仲介をしたのが「森女」。「森女」とは「住吉の森の女」。
住吉神宮の神官「津守氏」の一族で、「王孫」とか「上郎」と
書かれているので「後村上天皇」の孫娘と思われる。
その住吉神宮は大徳寺と深い関係にあった。津守氏の一族の
者が大徳寺の住持になっており、また大徳寺の窓口として
明との交易で多くの収入を得ていた。
であるから、応仁の乱で焼かれた大徳寺を再建することは
住吉神宮の願いでもあった。
そこで「森女」が、薪村の一休を訪ねる。盲目の女性が
一人で薪村まで旅することなどできるわけがない。
「森女」は、住吉神宮の神官に付き添われて、一休を訪ねた。
輿の乗ってやってきたのだ。その時交わした“旧約”を一休は
無視する。その約束とは、一休が大徳寺の住持となって、
大徳寺を再建することだった。しかし、一休はそんな依頼を
無視する。
しかし、その後、応仁の乱の戦火は薪村まで及ぶようになり、
一休は堺の「住吉神宮」に身を寄せる。そこで「森女」に再会し、
「旧約」を新たにする。
一介の托鉢僧で生涯を終えようとしていた一休が81歳にもなって
「大徳寺の81世 住持」になったのは、住吉神宮の後押しが
あったからなのだ。
一休の没後まもなく弟子たちによって書かれた『一休和尚年譜』に、
「応永27年(1420) 一休27歳、夏の夜 鵜を聞きて省あり」と記されているので、近年の「一休」の物語や漫画本では、よく
「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば、生まれる前(先)の父ぞ恋しき」
の歌が載せられている。
『年譜』では「烏(からす)」ではなく「鵜(う)」になっている。
ただし「鵜」と書いて「カラス」と読ませることもあるそうな。
また、「父」ではなく「親」「母」というのもある。「前」は「さき」とも読む。
『年譜』にも、一休作と言われる1,000首ほどの「一休道歌」の中にも、この歌は無かった。
京田辺市の「一休寺・酬恩庵」で発行している『みちしるべ一休』には、
「一休が、烏の鳴声を聞いて“詠み人知らず”のこの歌を思い出して大悟したとある。
つまり、この歌は「一休が詠んだのではなく、その以前から人口に膾炙されていた」ということになる。
一休は「鵜の鳴くのを聞いて悟ったのに、“鳴かぬ烏”とは、逆におかしい。
一休は何をどう悟ったのかが、振り出しに戻ることとなる。
ネットでは、この歌は「白隠の作」というのもあった。
「白隠(1686 - 1769)」の法を継ぐ者(印可を受けた者)は50余人。その最初に「印可」を与えられたのは、なんと「お察(おさつ)」という女性。
「白隠」の親戚で「駿河国 原(現沼津)の庄司家の娘」。若い頃から信仰が厚く、利発であったため、ある日、白隠が「闇の夜に鳴かぬ烏の・・・」の歌を書いて、父親に持たせた。すると、それを見た彼女は「なんだ 白隠も この程度か」と言ったとかで、以来、寺に呼んで禅の公案を学ばせたとか。
「白隠」と言えば「隻手の手」の公案が有名。そして、この「鳴かぬ烏」も公案の一つとか。
東映アニメの「とんちんかんちん一休さん」に出てくる話。
清貧に甘んじ、誠実に生きた武士の子が、その父の死後、貧しさに負けて泥棒をして食いつないでいた。その子を立ち直らせようと一休さん、一計を案じる。
その子の前で一芝居を打って、わざとスリをさせる。
分厚い重い財布を盗んで「しめ、しめ」と大喜び。
財布を開けてみたら「お位牌」。文字を見ると、なんと父親の戒名。その子は、ブルブル震え「父上、父上、申し訳ございません!」と、地の触れ伏して、おいおい泣きだした、とさ。
そこで一休さん「闇の夜に 鳴かぬ烏(からす)の声きけば
生れぬ先の父ぞ恋しき」と、諭したのでした。
◆次は、私の創作話「一休さん」
一休さんは糊口をしのぐために、扇子に絵を描いて売って歩きました。さて、何の絵を描いたでしょう。そう「烏(からす)」の絵です。
さて、一休さん絵の評判を聞いた将軍様が「どれ、一休とやらを連れて参れ。百本ほど買ってやろう」と家来に申しつけました。
お召しにより、一休さん。扇子百本を 将軍様の前に差出しました。
将軍様が その扇子を開いてみると・・・・・。
「ななな なんじゃ、これわぁ!」と、将軍様は大怒り。
扇子はどれもこれも、ただ真っ黒に染められていただけでした。
一休さんは すまし顔で、「“闇夜の烏”見えませぬか?」と。
そして「闇の夜に 鳴かぬ烏(からす)の声きけば 生れぬ先の親ぞ恋しき」と詠んだのであります。
将軍様は その意味が判らず、目を白黒するばかり。
民百姓の声無き声を聞けば、天命を知るということでしょうか。
無教会主義の「キリストの幕屋」が発行している『生命の光』という冊子に、付いていたチラシに目を奪われた。
「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき」という古歌があります。この歌を大切にされてきた横田さん。東京大空襲で両親を失い、孤児となって波乱の人生。数奇な運命の中で「生まれる前の父=キリスト」に出会った。
と、いやはや びっくり仰天。
私は、この「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき」の
歌は「一休さん」の作とばかり思いこんでいましたが、
「生まれぬ前の父」が「キリスト」とは、目の覚めるような回答ではありませんか。
そこで、ネットで検索してみると、キリスト教関係者が、結構この歌を利用していることを知りました。いやはや、一休さん、キリスト教にまで影響を与えていたのですね。
いろいろ検索してみると、「この歌は“詠み人知らず”」というのが数点。これは「江戸時代中期の白隠禅師の歌」というのもあり。
「百人一首で覚えた記憶がある」というのも。「これは間違いでしょう」と思ったら、関連記事が ありました。
池田弥三郎の『百人一首故事物語』 河出書房新社, 1984.12.4 「百人一首」の大会で、わざと 無い 歌を詠む。その「から札」の例として、
「鯨吼ゆる 玄界灘をすぎゆけば ゴビの砂漠に 月宿るらむ」そして
「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ先の 父ぞ恋しき」
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「鈴木大拙」は、次のように解説していました。
一休禅師の「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき」という道歌があります。
「生まれぬ先の父」こそ「見えないいのち」、「大いなるもの」「如来」であると言えます。
また「鳴かぬ烏の声を聞く」とは、「釈尊の教えたる経文を読み、行を行ずることで聞こえてくる『声なき声』であります。
と、なるほど。「生まれぬ前(先)の父」は、如来であり、キリスト教徒にとっては「キリスト」というわけですな。