民藝を理解するためには、柳宗悦を読まなければならない。もちろん柳の伝記も繙かなければならない。中見真理『柳宗悦ー「複合の美」の思想』(岩波新書)は、もう読んである。そして一昨日借りてきた、松井健の『柳宗悦と民藝の現在』(吉川弘文館)も読んだ。今は水尾比呂志『評伝 柳宗悦』(ちくま文庫)を図書館に請求中である。
柳が民藝に開眼した契機が、李朝白磁をみてその美しさに感動したことであったことから、ボクは李朝白磁や朝鮮文化における「白」を調べ、さらに柳の「朝鮮の友に贈る書」を読んだ。感動的な文である。
私は久しい間、朝鮮の藝術に対して心からの敬念と親密の情とを抱いているのである。私は貴方がたの祖先の藝術ほど、私に心を打ち明けてくれた藝術を、他に持たないのである。またそこにおいてほど、人情に細こまやかな藝術を持つ場合を他に知らないのである。私はそれを眺ながめてどれだけしばしば貴方がたを、まともに見る想いがあったであろう。それは歴史以上に、心の物語りを私に話してくれた。私はいつもそこに貴方がたの自然や、人生に対する観念を読む事が出来る。貴方がたの心の美しさや温かさや、または悲しさや訴えがいつもそこに包まれている。想えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その藝術からの衝動に因るのであった。藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とが逢あう場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞えている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。藝術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである。美は愛である。わけても朝鮮の民族藝術はかかる情の藝術ではないか。それは私の心を招くのである。どれだけしばしば私はその傍らに座って、それと尽きない話をかわしたであろう。
私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧あこがれ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。
この文も、聴講者に示す意味があると思った。「痛ましい朝鮮の歴史」は、日本人がいつも心のどこかに置いておかなければならないことだ。
そしてもちろん、この地域における民芸運動に関する文献も読む必要がある。その文献は、もう揃えてある。それは明日の仕事にしよう。
今から、今日届いた『本田靖春 「戦後」を追い続けたジャーナリスト』(河出書房新社)を読むつもりだ。
秋の到来のせいか、読書熱が高まっている。活字を追えない生活は考えられない。活字を追わないと、たとえ牛肉を食べても、思想は痩せていく。
柳が民藝に開眼した契機が、李朝白磁をみてその美しさに感動したことであったことから、ボクは李朝白磁や朝鮮文化における「白」を調べ、さらに柳の「朝鮮の友に贈る書」を読んだ。感動的な文である。
私は久しい間、朝鮮の藝術に対して心からの敬念と親密の情とを抱いているのである。私は貴方がたの祖先の藝術ほど、私に心を打ち明けてくれた藝術を、他に持たないのである。またそこにおいてほど、人情に細こまやかな藝術を持つ場合を他に知らないのである。私はそれを眺ながめてどれだけしばしば貴方がたを、まともに見る想いがあったであろう。それは歴史以上に、心の物語りを私に話してくれた。私はいつもそこに貴方がたの自然や、人生に対する観念を読む事が出来る。貴方がたの心の美しさや温かさや、または悲しさや訴えがいつもそこに包まれている。想えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その藝術からの衝動に因るのであった。藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とが逢あう場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞えている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。藝術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである。美は愛である。わけても朝鮮の民族藝術はかかる情の藝術ではないか。それは私の心を招くのである。どれだけしばしば私はその傍らに座って、それと尽きない話をかわしたであろう。
私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧あこがれ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。
この文も、聴講者に示す意味があると思った。「痛ましい朝鮮の歴史」は、日本人がいつも心のどこかに置いておかなければならないことだ。
そしてもちろん、この地域における民芸運動に関する文献も読む必要がある。その文献は、もう揃えてある。それは明日の仕事にしよう。
今から、今日届いた『本田靖春 「戦後」を追い続けたジャーナリスト』(河出書房新社)を読むつもりだ。
秋の到来のせいか、読書熱が高まっている。活字を追えない生活は考えられない。活字を追わないと、たとえ牛肉を食べても、思想は痩せていく。