浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】大岡昇平『事件』(双葉文庫)

2013-10-10 21:52:40 | 読書
 この小説は、裁判そのものを扱ったものである。一人の女性が殺された。そして一人の男が殺人を犯した。加害者と被害者、そして事件そのものを取り巻いて、多くの人がそれらに関わる。加害者、被害者、その家族、加害者、被害者に関わりがあった人々、弁護士、検察官、裁判官・・・

 裁判の推移の中で、これら関係する人々の視点から、事件の姿が徐々に明らかになっていく。今は、被害者の視点からの報道が多いが、事件が起き、加害者・被害者がすぐに特定されても、ほんとうは事件の全体像は見えない。事件に関係した、あるいは関係させられた人々の多様な眼が事件を明らかにしていくのである。

 長い小説である。しかし、大岡ならではの理知的な文章と、文の運びは、決してあきさせない。同時に、大岡はこの小説を書くため、裁判の勉強をかなりしたであろうことが想像できる。

 刑事事件の裁判とはいかなるものか、どのように進められるのか、そうしたものを理解するためにも良い本だ。
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スト-カー殺人

2013-10-10 21:17:53 | 日記
 三鷹で女子高校生が殺されるという事件が起きてから、毎日この事件に関する報道がある。痛ましい事件である。未来ある少女が、一瞬のうちに殺された。あまりの悲惨にことばがでない。なぜ?という疑問が起こる。

 まず起きるのは、警察の対応への不満である。今日の『中日新聞』社説は、、それを衝いている。

 
ストーカー殺人 相談は重大事件である 2013年10月10日

 今度は東京の女子高生が犠牲になってしまった。男につきまとわれ、殺害されたストーカー事件。相談はあったのに、なぜ警察は守れなかったのか。もっと相談者の立場になって動くべきだ。
 悲劇は八日夕、三鷹市の住宅街で発生した。私立高校三年の女子生徒(18)が自宅近くで、待ち伏せしていた男にナイフで刺された。学校帰りだった。
 警視庁の調べに、池永チャールストーマス容疑者(21)は殺人の容疑を認めているという。かつてソーシャルメディアのフェイスブックを通じて知り合い、交際していた相手だった。
 別れ話に恨みを募らせてのストーカー殺人の可能性がきわめて高い。女子生徒は事件の直前に警察署にSOSを出していた。
 崖っぷちに追い込まれた焦りや恐怖を、警察は果たしてどの程度深刻に受け止めたのか。
 四日朝、登校した女子生徒からトラブルの相談を受けた担任教諭は、地元の杉並署に連絡した。しかし、つきまとい行為の現場が自宅周辺だったので、担当者は最寄りの三鷹署への相談を勧めた。
 なぜ杉並署は乗り出さなかったのか。被害実態はおろか女子生徒の身元も確かめず、三鷹署に情報さえ伝えていなかった。お粗末といわれても仕方ないだろう。
 被害者にとっては杉並署であれ三鷹署であれ、同じ警察だ。現場を抱えてはいないが、機転を利かせられなかったか悔やまれる。
 三鷹署にも対応の甘さがあったのではないか。両親と一緒に相談に訪れた当日に凶行を許してしまった。結果責任が問われる。
 担当者は池永容疑者に警告するため携帯電話に電話したが、連絡は取れなかった。女子生徒の帰宅を見計らい安否確認の電話をしたというが、自宅には赴かなかった。事件はその直後に起きた。
 いつ急展開して重大事態に至るか予測できないのがストーカー犯罪だ。相手への同情心からか、すぐには刑事罰を求めない被害者がいることも落とし穴になる。
 過去、幾度となく同様の煮え湯を飲まされてきたはずなのに、警察の危機意識はいまだに希薄なのではないか。もし、そうだとすればストーカー規制法を設けた意味がなくなる。
 警察庁はストーカー相談への積極的な対応を都道府県警に促しているが、まだ踏み込みが足りない。犯罪捜査の中で取り扱い順位をもっと引き上げ、陣容を整え直すほどの時期に来ている。


 ポイントは、下線を引いたところだ。今回の場合も、殺人をおかした青年と被害者とは過去交際関係にあったという。そういう場合は、相談者は、即刑事事件として扱って欲しいとは要求できないだろう。そこを警察がどう踏み込むかである。この事件の教訓は、相談があったらストーカーに対して何らかの措置をとると同時に、相談者の保護をその時点から始めるということだろう。

 もうひとつ、この事件の容疑者と被害者とはFacebookで知り合ったという。ボクはFacebookはやっていない。今注目されているLINE、twitterもしていない。インターネットでメール交換をし、情報を得、こうしてブログを書く、もうそれだけで多くの時間を割いている。これ以上インターネット世界とつきあうつもりはない。それよりも、本を読んだり、人と話しをするほうがよほど価値があると思う。
 もちろん、インターネットを介してだけの人間関係をつくるつもりもない。インターネットを利用した「出会い」が報じられるが、最初からボクは胡散臭いと思っている。

 だから、この事件を知ったとき、Facebookなんかを介しての交際に、眉をひそめざるを得なかった。インターネット空間はある意味「虚」の世界である。「虚」の世界と「実」の世界とを、峻別する志向をもつべきではないかと思う。

 何時終わるともしれないこの取材に走り回っているだろう○○さん、健康に留意して欲しいと切に思う。

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ヘイトスピーチ

2013-10-10 09:20:41 | 日記
 今日の『中日新聞』の「特報欄は、京都朝鮮学校に対するヘイトスピーチに関わる民事訴訟の判決についてであった。

 在特会をはじめとする連中のヘイトスピーチの中身は、まったくおぞましいというしかない。「韓国人をたたき出せ」とか、「殺せ」とか、公衆の面前で語られる内容では決してない。

 ボクは「在日」の歴史を研究する中で、朝鮮人差別の問題についても言及してきた。近代日本に巣くう根強い差別をえぐり出すことに力を注いできたが、しかし韓流ドラマやKポップが日本で受け容れられるようになったことから、やっとそういう差別が消えつつあると思った。

 ところが、ネットでの差別発言、在特会を中心にしたヘイトスピーチを知るにつけ、やはり差別は消えていないという確信を持った。たとえみずからの閉塞した生活に対するうっぷん晴らしであろうとも、そういう差別的な言辞がはき出されるということは、背後に強固な差別意識が潜在していることを証明していると思うのである。

 在特会が、とはいわないが、その延長線上に、沖縄の人々のオスプレイ配備反対の行動に対する悪罵がある。

 『琉球新報』の社説「「人種差別」判決 憎悪表現禁止へ議論急げ」にこういう部分がある。

おぞましい言葉の矛先は沖縄にも向けられた。1月に41市町村の首長らがオスプレイの配備撤回を訴えて東京都内を行進した際には、日章旗や旭日旗、米国旗を手にした団体が「売国奴」「日本から出て行け」などと数時間ののしった。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-213510-storytopic-11.html

 ヘイトスピーチは、支配層の気持ちを代弁する尖兵なのではないかと思ってしまう。支配層の意向を忖度しながら行動しているから、たとえば新大久保での在特会のデモは機動隊に庇護されているのではないか。

 今回の京都地裁の判決は、評価できる内容であった。高額な賠償金を支払わせる決定は、その種のヘイトスピーチを根絶していく手段にもなるのではないかと思う。

 『中日新聞』「特報」欄は、ヘイトスピーチだけではなく、在日の日系ブラジル人の少年が、ただブラジル人であったというだけで、日本人の少年グループにより集団暴行を受け殺害された事件についても記している。

 日本人にある「異質」なものを排除しようとする意識は、若い者たちのなかで再生産されているようだ。

 オリンピック招致だなんだと騒いでいるが、足下のこういう差別問題を放置しておいてよいのか。オリンピックは、中国や韓国、ブラジルからも選手たちがやってくる。日本は、こうした国際大会を主催する資格はないのではないか。
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