浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

浜松の民藝運動

2013-10-04 22:38:22 | 日記
 今日の午後、浜松の民藝運動を探索するために、二軒訪問した。 

 ひとつは、ざざんざ織の継承者、平松久子さんの工房件店舗兼自宅である。平松さんは81歳。

 民藝運動の勃興期に、柳らの思想に共鳴してざざんざ織を創始したのが、平松實。それを継いだのが二代目の哲司。そして三代目が市朗。しかし三代目の市朗が亡くなったことにより、今ざざんざ織は、哲司の妻・久子だけがつくる。今のところ後継者はいない。

 ざざんざ織は、絹糸でつくる。そして草木染。そして手織りである。たいへん手間がかかる作品である。

 そして次に、芹沢介に師事した山内武志の作品が売られているアトリエぬいやである。

 そこには、芹澤のカレンダーが売られていたので購入した(ミニのほう。和紙で本格的につくられているのはなんと1万5000円)。



 これは印刷したものだが、なかなか美しい。

 そして山内が制作したもの。



 しかし今晩はなぜか眠い。今日は出歩いていたので疲れたようだ。

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あらしの中で

2013-10-04 06:16:20 | 日記
 横殴りの雨が目の前を通り過ぎていく。唸るような風が、庭木を思い切り揺らす。もぎとられた木の葉が、空を飛ぶ。どこのものかわからない植木鉢が、道路を走る。そんなあらしのなか、ボクは出発した。今年の9月16日の朝のことだ。

 この日は、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一が国家権力により虐殺されて90年となる日。墓地がある静岡・沓谷霊園で墓前祭を行い、午後には追悼集会を開催した。多くの人が、嵐の去った後、交通機関の復旧により集会に参加してくれた。

 この事件が起きたのは、1923年だ。虐殺は、大杉らだけではなかった。労働運動を担っていた平澤計七らも殺された(亀戸事件)。この時代、働く人々の労働環境は過酷であった。そしてそのような環境を改善しようという人々の数は多くはなかった。人々は耐えていた。

 また「女工」の過酷な労働実態を報告した『女工哀史』を細井和喜蔵が刊行したのは1925年である。

 ボクも昔、遠州地方の織物工場の「女工」の労働実態を「織場地獄」として書いたことがある。たとえば「前借証書の変造で/虐げられる女工/毒手に罹り浜松駅頭に泣く親娘」(『静岡民友新聞』1927・10・4付)「酷使工場主を告発/男女工40名に就業17時間」(『静岡民友新聞』1935・6・12付)など。工場法という労働者保護の法もあることはあったが、実際はなきがごとくであった。

 昨日、最近働き始めた○○さんの労働実態の過酷さについてメールを取り交わしていた。そのなかに彼女だけではなく、ほかの会社で働く人も、一週間徹夜に近い状態で働いていたとか、あるいは別の人も終電後にタクシーで帰宅しているという内容があった。

 若い正社員の労働は、労働者保護法がまったく機能していない時代と同じような実態であると断言してもよいだろう。実際の労働現場では、労働基準法が機能していない。

 今、労働組合の組織率は17.9㌫(2012年)。8割の労働者は、無防備でいる。そしてたとえ組合があっても、多くは「御用組合」だ。
 労働者はひとりひとりでは弱い、だからこそ団結することにより経営者と対等な立場に立って労働環境の改善に取り組む、という教科書に書いてあるような、まったく原則的なことすらできていない。

 働く人々は、孤立して、あらしのなかにある。

 自然界のあらしは耐えていれば必ず去って行く。だが、労働現場のあらしは、黙っていては去って行かない。

 さあどうする。今は労働現場の外にいるボクは、考えあぐねている。
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