浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

消費税増税の世論調査の背景

2013-10-05 21:49:02 | メディア
 もうボクの家のテレビは、電波を受けない。DVDなどの映画を見るためのものとなっている。ボクはそれがテレビの善用だと思う。

 テレビは、愚民化のための番組がずらりと並んでいるし、またニュースは、権力の翼賛報道、つまり権力機関の広報部という役割を果たしている。

 消費税増税が発表されたとき、ボクはまったく知らなかったのだが、なかなか見事な演出をしたようなのだ。新聞の社説については、東京、毎日、朝日のそれをこのブログでも取り上げた。日経、読売、産経なんぞは取り上げるのもあほらしい、権力の広報部の仕事を忠実に、いつもこなしているからだ。

 さて、ボクが見ていないテレビであるが、『赤旗』の報道を読むと、あの世論調査の結果はテレビがつくり出したなと思わざるをえない。見事な演出だし、すべてのテレビ局は演出通りに動いたようだ。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-05/2013100501_01_1.html

 もうテレビ局が送ってくる番組なんかを見てはいけない。テレビは、レンタルのDVDを見たり、あるいは町田の住人のように、有線の時代劇チャンネルを見るために使うべきだ。
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無心

2013-10-05 20:58:01 | 読書
 すでに日課となってしまった。

 夕方、西の空が赤くなり、さらに闇が覆う寸前まで、ボクは畑に立つ。畑では、いろいろな労働が待っている。とても数時間では終わらない。だから、少しずつ、少しずつ、ことを運ぶ。

 だが、畑には、時期がある。種をまく時期、植える時期、肥料をやる時期、収穫する時期・・・だから、気ままにゆっくりやっているということではない。そういう時期を意識しながら、シャベルを持ち、鍬を振るう。

 最近何度か気づいたことがある。観賞用かぼちゃを植えてあった畝にブロッコリーの苗を植えようと、畝を崩し、肥料をやり、そしてもう一度畝を作るーその作業のさなか、ボクはその作業をしているとき、何も考えていないということに気づいたのだ。ただひたすら、その目的のために身体を動かす。

 そう、まったく無心なのである。

 昨日はさつまいもを掘っているとき、今日は生姜を植えてあったところを耕していたとき、同じように、ボクは何も考えていないボクを発見したのだ。

 今日は、この無心というのは、宗教者や武士の思想ではなく、本当は農民の思想ではなかったのかと思ったほどだ。無心ということに気がついても、農民は日々の労働の中でそれを思想として昇華させていく時空をもたない。何よりも、日常のなかで体験するものであるから、無心はまさに日常そのものだったから、あえて言挙げすることもなかったのだ。

 だが宗教者や武士は、そうではない。彼らが無心になるのは、日常の時空から特異点を越えて無心に入る。だからこそ、彼らは無心を論じたのではないか。

 農作業は、まったく個人的な作業である。ボクは、いつも一人で(といっても、周囲には農作業をしている人はいるが)、作物を育てている畑を耕す。たとえ家族で畑にいたとしても、その作業は徹頭徹尾個人の作業であるだろう。

 以前、農作業を始めた頃、ある人に農作業は「苦行」だと話したことがあった。「苦行」とは、「神仏に奉仕するために肉体的欲望と物質的生活とを抑制する修行」であると、『広辞苑』にはある。

 鈴木大拙が『無心ということ』を書いているが、別に座禅を組まなくても、「心の底の心というか、あるいはその底からぬけて出た心の外の心」を、農作業で感得できるような気がする。

 農作業は、自らを自然の前に差し出すことでもある。暑い夏の光、冷たい風、夜の闇の接近など。自然に応じて汗を流し、冷たい風に身震いし、そして夜の闇が完全に畑を覆う前に引き上げて行く。

 ひょっとしたら、農作業を主体的に捉え直すことにより、普遍性を持った思想につながるのではないかという、大それた気持ちを抱いた。

 今日、帰宅したら、ひろたまさきさんから論文のコピーが届いていた。「福沢諭吉-脱亜入欧の思想」。『講座東アジアの知識人1 文明と伝統社会』(有志社)所収の文である。まだ読んではいないが、知識人は歴史の進展に一髪の力を添えているのかという疑念を、ボクは最近持ち始めている。諭吉は下級武士出身である。農作業の体験はあるのだろうか。

 ボクは、安藤昌益について、時間があったら勉強してみようかと思う。
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「浜松と民芸運動」、準備できた!

2013-10-05 13:38:56 | 日記
 今、若い人の間で、民芸のブームが始まろうとしているといわれた。浜松楽器博物館の北側にあるアトリエぬいや。ここには、芹沢介に教えを受けた型染めの山内武司の作品などが展示販売されている。

 昨日初めて訪問したのであるが、この店は14年前からあるという。まったく知らなかった。

 ということは、民芸というものは、関心を持たなければまったく視野に入らないものなのであろう。ボクの場合でも、たまたま「東区の歴史」の講座を依頼されて、東区の諸々について調べはじめて、人生ではじめて民芸というものを正視することになったというわけである。

 この店で、型染めの作品を見て回ったが、決して安い物ではない。ボクは手ぬぐいを二枚購入したが、一枚は1200円であった。店内に飾られた暖簾などは、30000円などという値札がつけられていた。経済的な余裕がないと、とてもじゃないけど次々と買っていく、ということはできない。

 民芸品の本性は、まず有用性にある。日常的に使えるものであるということだ。そしてそれは、機械ではなく手によって制作されなければならない。となると、ここで値はたかくなる。現代社会においては、人件費が高い。人が、いやその人の家族も含めて、現代社会で生きていくためには、それ相当のカネを稼がなければならない。民芸品の本性として、多様性と低価格というものがあるが、前者は別として後者はここで切り離される。

 さらに民芸品は、「民衆性」が強調される。民衆がつくり、民衆が使う、というわけだ。だから民芸運動の初期の頃は、無名性というものも強調された。無名の人によって作られた民衆向けのものに、柳らは「美」を見出したのだ。

 そういうものもあるが、しかし民芸館などに展示販売されているものは、決して無名の人の作品ではない。すでに民芸品をつくる人びとは、無名どころか有名になってしまっている。もちろんその有名も、全国的な規模か、それとも地方的な規模かは別として、少なくとも芸術品に近いものを作る人ととして見なされている。

 となると、現代に於いて民芸品とはいかなるものか。ボクが定義づけるとすると、有用性があるもので、一般民衆向けに手仕事で作られ、機械製品と比べたときには高額のものであるが、しかし独特の美しさを有しているもの、ということになるのだろうか。

 民衆の生活にとっては、日用品のなかの、ちょっとした贅沢品、とでも言えるかも知れない。

 アトリエぬいやの前に訪ねた、ざざんざ織の「あかね屋」では、たとえばネクタイが一本15000円、名刺入れが6300円という具合であった。実はせっかく来たのだからと、名刺入れを買ってしまった。名刺入れは先日芹沢介美術館を訪問した折に購入しているので、本当は不要なのだが、名刺入れ以外にこれなら買ってもよいというもので価格が折り合うものがなかったのだ。

 まあ、ボクにとっては高額のものであるが、町田の住人と異なり奴隷ではないので、何とか自分の判断で購入できるのである。


 「浜松と民芸運動」というテーマで調べ始めたのだが、静岡の芹沢介美術館、東京の日本民藝館訪問、そして浜松の工芸品購入、そして関連した文献の購入、そして関連文献のコピー。時間的には文献の読み込みなどに厖大な時間を費やしている。

 1時間半の講演である。その講師料は7000円である。現在は復興なんとかで、所得税が10%を超える額が天引きされるから、6000円程度。まったくの赤字である。

 しかし、新しいことに挑戦し、ボクの知見も大いに拡大した。今まで全く知らなかった民芸を知り、柳宗悦を知り、民芸の美がわかるようになった(ほんの少しだけだけど)。自らを成長させたテーマではある。

 引き受けたものについては、とにかく全力であたり、できうる限りの時間とカネを投入する、というのが、ボクが仕事をするときの原則である。すべからく「よいもの」を提供しなければならない。「よいもの」をつくるには、時間とカネを投入するしかないのである。

 「浜松と民芸運動」、スライドの制作が終わった。

 さて次のテーマは・・・・・。
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