このコラムは、なかなか刺激的だ。
余録:「あなたはうんと詩を読んだらいいですね」。…
毎日新聞 2013年10月01日 00時22分
「あなたはうんと詩を読んだらいいですね」。ある女性記者にデスクはこう勧めた。戦後間もない小紙の大阪本社学芸部、デスクは後の作家・井上靖(いのうえ・やすし)、女性記者とは同じく山崎豊子(やまさき・とよこ)さんだった▲後に井上の代表的短編になる「猟銃」の原稿を発表前に読ませてもらい、「詩のような小説ですね」と感想を述べたのも当時の山崎さんだった。いわば新聞社においてはコラム子の大先輩にあたるお二人だが、いやはや身近なところにもすごい時代があったものである▲「あなたはおそらく生涯、原稿用紙と万年筆だけあればいい人なんだ。臆(おく)せず書くことですよ」。こちらは新聞社を離れた山崎さんへの週刊新潮の名編集者、斎藤十一(さいとう・じゅういち)の助言である。そう背中を押された連載「ぼんち」が山崎さんのプロの作家としての出発点となる▲「白い巨塔」「不毛地帯」「大地の子」「運命の人」。常に時代を代表する話題作を世に送り続けた山崎さんが亡くなった。先の斎藤に言われた「芸術家に引退はない。書きながら柩(ひつぎ)に入るのが作家だ」との言葉そのまま、週刊新潮に「約束の海」を連載中の訃報(ふほう)だ▲「小さい山も、大きな山脈も、断崖絶壁もあった」。そう振り返る作家生活の底に流れていたのは、戦争で亡くなった同世代の友への思いだったという。「今も友達の顔が浮かぶ。生き残った者として何をなすべきか。書くものの根幹にはいつもその問いがあった」▲執筆を牢獄(ろうごく)にたとえた山崎さんは長編が仕上がると「完結! 出獄!」と叫んだという。物語でしか描けぬ時代と人間の真実を苦行僧のように書き続けた作家は今、天国の友と何を語らっているのか。
実は、ボクは井上靖を読んだことがない。そうか、井上の作品は、詩のような小説なのか。今まで読んでこなかったことが恥ずかしくなる。いや、待てよ。『氷壁』は読んだことがある。そしてこの本は、夏に読むといいよと薦めたことがある。『氷壁』には「詩のような」という形容はあてはまらないと、振り返って思う。
井上靖は、静岡県に関わる作家だ。「詩のような」作品を読んでみようと思う。
山崎豊子は、長編ではあるが、『大地の子』、『運命の人』など、すべてではないが読んでいるから、山崎の作品の世界は知っている。
どんな本でもそうだが、何らかのきっかけがないと、読もうという気にならない。新聞の書評は、そういうきっかけをつくりだす広場だ。だが、最近の書評は、それを読んでも触手が伸びない。
ボクが今まで知らなかった世界を教えてくれる文に出会いたいと思う。
最近も梯久美子さんの文を読んで、島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫)を買った。まだ読んではいないが、ボクの人生を豊かにしてくれそうな本だ。
本のなかに記されている活字によって、今まで本や人との交流の中から創りあげてきた自分自身の知的世界が新たな振動を受け、さらに豊かな新しい自分がつくり出される。活字を追うことは、自分の思想を鍛えることでもあり、思考を豊かにすることでもあり、さらに自分自身が生み出す文に栄養を与えることにもなる。
また、本には、そこから新たな知識や新しい見方を得ることにより、自らの「武器」(平和や民主主義を維持発展させるための)を鋭利にする砥石の役割もある。そうした「武器」を鋭利にし、より多くの人の心に突き刺さることばを生み出すためには、幅広い教養、広汎な読書体験が背景になければならない。
本に始まり、本に帰る、そうして、日々、ボクらは自らを鍛え続けるのだ。
「読書の秋」が来ている。