浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】松下竜一『ルイズー父に貰いし名は』

2013-10-06 23:21:53 | 読書
 10年以上前、静岡の沓谷霊園には、大杉の遺児二人が参列していた。ボクは見かけただけで話しをすることはなかった。二人とも、物静かな感じだった。そのなかには、本書に描かれたルイズはいなかった。

 今年の9月16日、大杉豊さんはルイズこそが、大杉栄・伊藤野枝を継いだ人だと語ったことが思い出された。ボクは、ルイズ、伊藤ルイさんが書いた本をその後2冊読み、ルイさんが人間と社会に関する鋭い感受性をもつなかで、様々な運動に関係していたことを知った。

 そして、松下竜一さんによって、大杉・野枝の子どもたちがいかなる人生を送ったのかを知った。そこには伊藤ルイさんの生きてきたすがたが、詳細に描かれていた。

 無政府主義者大杉栄と伊藤野枝との間に誕生し、その父と母は国家権力により無残にも惨殺された。そしてその後、その子どもたちが生きた時代は、狂信的な天皇制ファシズムの嵐が吹き荒れた。圧倒的多数は、国家権力の側にたち、大杉栄と伊藤野枝とを「敵」とみなし、さらにその子どもたちをも「敵」の子どもとみていたはずだ。

 そういう時代に、その子どもたち、すべて女性であるから彼女たちとしよう、彼女たちはどのように生きてきたのか。「大杉と野枝の子ども!」という事実ではあるけれども、いわばそのレッテルは、彼女たち自身、あるいはその周辺の者たちをもしっかりと拘束していた。両親は、大日本帝国の抑圧の時代であっても、自由な精神を維持しながら生きることができたが、その子どもたちは、その拘束がきわめて強かったが故に、自由には生きられなかった。

 「大杉と野枝の子ども!!」という拘束は、彼女たちには重圧であっただろう。この松下竜一の著書は、その重圧を赤裸々に明らかにすると同時に、伊藤ルイという人間がその重圧を克服して、父母と同じような精神の自由、行動の自由を取り戻していく過程を描いたものだ。

 ボクは読みながら、何度も本を置いて宙を見た。その重圧を、ボクも十分に感じることができたからだ。そのなかで特に長女魔子への重圧の大きさを想像した。

 魔子は「大杉と野枝の子ども!!」から逃れるすべはなかった。ルイらは、「大杉と野枝の子ども!!」を実際は隠すことはできなかったが、自分自身の心の中で見ないようにすることはできたようだ。だが魔子は無理だったのだろう。

 本書は、「大杉と野枝の子ども!!」から、伊藤ルイというひとりの人間へと「脱皮」(このことばではない他のことばをつかいたいのだが、最適なことばがでてこない!)していく過程を、誠実に追跡した本である。

 ボクは『豆腐屋の四季』から、松下の本は読んでいるが、このひとの、人間を見る目の確実さと誠実さ、そしてその筆力に感服してきたが、今回も同様な感想を持った。

 なお、この本は『松下竜一 その仕事』17(河出書房新社)である。この後、このシリーズの18『久さん伝』を読むつもりだ。
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責任

2013-10-06 21:38:02 | 日記
 ドイツに住む女性たち(?)によるブログは、ドイツから見た日本のすがたを教えてくれる。ドイツ紙の記者が書いた「システムエラー」という文をかみ砕いて紹介している。

 まずその文を読んでほしい。


http://midori1kwh.de/2013/10/06/4302

 いわれるように、日本の社会は、上からの命令や指示を受けることに長けている人が出世していく。どこの職場でも、公務員の職場でもそうだ。

 そういう人の価値観と云ってよいかどうか、まあ態度といおうか、価値観というとそういう人はそんなもの持ってはいないから、態度かな。とにかく上からの指示や命令にまったく逆らわずに、己を空しくして生きている。自分自身の考えがないからこそ、上からの指示や命令に従う。だから「従う態度」というほうがいいだろう。

 「従う態度」は学校教育でも、「・・・する態度を養う」をあちらこちらにちりばめている学習指導要領が示すように、日本の学校教育の根幹でもある。「君が代」が天皇の支配が永遠に続くようにという内容だから、歌いたくないから歌わない、歌わないから口を閉じていると、何らかの罰が下される。しかし、歌っていなくて、口をぱくぱくさせてあたかも歌っているかのような「態度」を示せば問題とはならない。とにかく上からの指示や命令に「従う態度」を示すことを教えられるのだ。

 「従う態度」で生きていけば、まあ楽だろう。考えなくてすむからだ。

 そういう「態度」の日本人が圧倒的に多い。「従う態度」の人は、自分自身の思考がないから、上の指示や命令に従うし、自分とは異なる考えを持つ人間がいるなんてことは考えないから、自分の下にいる者は自分の指示や命令に従うのが当たり前だと思っている。

 「従う態度」の人は、自分自身が考えるということをしないから、あるいは自分の考えに基づいて判断し実行するということをしないから、「責任」を感じることができない。何か問題が起きたら、ボクは上からの指示や命令に従っただけ、あるいは今までの慣習のままに動いただけ、ということで「責任」を感じる基盤がないのである。

 中江兆民が、そういう国民性を厳しく指摘していた。今その本が身近にないので示すことはできないが、日本人はその点では変わっていない。

 「責任」を感じるためには、個々の人間が精神的に自立し、自由に自らの思考を羽ばたかせることができるような社会にしなければならない。

 特に日本の社会は、本当に責任を負わなければならない者が責任を負わない。今までも、日本の社会はそれでよしとしてきている。いわば日本の宿痾である。
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見えなくなっている現実

2013-10-06 11:39:56 | 日記
 このブログの記事と写真を見つめたい。

http://kobajun.chips.jp/?p=14251
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固唾をのみながら見る

2013-10-06 11:27:57 | 日記
 原発事故の収拾作業に従事した北海道の男性が、癌にかかり労災申請しているという。果たして労災申請が認められるかどうか。

 『北海道新聞』の記事である。

福島第1原発で4カ月 札幌の55歳男性が労災申請 がん「被ばくが原因」(10/06 07:25、10/06 09:21 更新)
 東京電力福島第1原発事故後の2011年7月から10月まで同原発で作業し、その後膀胱(ぼうこう)がんなど三つのがんを併発した札幌市在住の男性(55)が、発がんは作業中の放射線被ばくが原因だとして労災の申請をしていたことが5日分かった。原発事故後、被ばくを理由に労災を申請した人はこの男性を含めて全国で4人。いずれも審査中で、労災が認定された例はまだない。

 男性は重機オペレーターとして同原発の原子炉建屋周辺でがれきの撤去作業などに従事した。被ばく線量が4カ月間だけで原発作業員の通常の年間法定限度である50ミリシーベルトを超えたため、同年10月末で現場を離れた。

 12年5月に膀胱がんが見つかり、札幌で手術。今年3月には大腸がんと胃がんも見つかった。現在も通院しながら抗がん剤治療を続けている。転移でなく、それぞれの臓器で独立して発病していた。<北海道新聞10月6日朝刊掲載>
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ノンフィクションの作家・本田靖春

2013-10-06 06:47:10 | 読書
 ふと空いた時間に手にとって読んでいる『文藝別冊 本田靖春』(河出書房新社)に載せられている本田自身の文は、名文である。うまい文章を書く人は各所にいるが、長文も短文も、深い内容を持ちつつ名文を書ける人はそうはいない。

 ボクは、金嬉老事件を書いた本田の『私戦』を、自分自身がその事件を『本川根町史』に書くために読んだ。その内容もさることながら、事件を見る本田の視点に膝を打った。そして迷うことなく、その部分を引用させていただいた。

 それからしばらく間を置き、現在ではジャーナリズムの担い手とは決して言えない朝日新聞社が発行している『Journalism』8月号、その特集は「ジャ-ナリストが薦める100冊」というものだが、そこに魚住昭が本田靖春を強く、強く推薦していたので、そのなかに紹介されていた『我、拗ね者として生涯を閉ず』上・下(講談社文庫)と『誘拐』(ちくま文庫)を読んだ。これらについては、すでにこのブログで紹介している。前者は本田の遺書ともいうべきもので、自らの壮絶な闘病を詳しく描いてはいないが、内容それ自身が、本田自身の人生をなぞり、またこの本を読む者に鋭いメッセージを書き込んでるが故に、壮絶というしかない本だ。後者は、誘拐殺人事件を取り上げたものであるが、東京オリンピックを準備している社会を客観的にとらえ、加害者と被害者とその家族双方の生き来し方を、時空の中で客観的にとらえた「名品」である。

 そしてさらにボクは、時間ができる頃を見計らって、『本田靖春集』を読むつもりである。残念ながら、浜松市立図書館にはないので、相互貸借で静岡市立図書館(浜松市立よりも良い本を揃えている。ここからボクはかなり借りている)から借りようと思っているが、これらに収録されているのは単行本として発行されたもので、長文である。

 しかし、この本には、三本の短文がある。「虫眼鏡でのぞいた大東京」は、調べた数字と取材で得た情報と本田の感懐が奇妙に入り交じり、独特の文体と共に、味わいのある文となっている。「不況の底辺・山谷」は、本田が売血の実態を鋭くかつ粘り強く追跡したところであるからこそ、「労務者」たちの「実態」から不況の山谷を描くことができている。「政治的「政治記者」の体質」は、本田の記者としての矜持をもとに、沖縄密約問題の渦中になった西山記者と政治部の記者の実態を批判したものだ。本田の、西山記者に対する批判、なぜ国会ではなく、新聞にそれを書かなかったのかという指摘は、重要である。政治部の記者は「新聞記者」ではなく、政治屋の世界の住人であって、「知る権利」などとは無縁の位置にいる。

 本田の政治記者への批判は、しかし今、ふつうの「新聞記者」にもあてはまるようなっていると思うのは、ボクだけだろうか。

 本田が駆け抜けた新聞記者という仕事、すくなくとも、本田の「反骨」だけでも見習うべきである。そのためには、本田を読むべきだ。魚住は本田の本を三種も推薦しているが、よくわかる。

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