浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】直木孝次郎『日本神話と古代国家』(講談社学術文庫)

2013-12-09 21:24:36 | 読書
 「日本近代史における「国学」」というテーマで話すための勉強の一環で読んだもの。直木孝次郎氏は古代史家。きわめて良心的な学者であって、古代史の記述に使われる「記紀」を批判的に検証したもの。

 古代史は、資料が少ないため、したがってまた依拠すべき資料として、どうしても「記紀」に依存してしまうことから、「記紀」についてはきちんと学問的に検討していくことがいかに重要であるかを論じたもの。

 同時に、「記紀」の記述が時々頭をもたげてくることがあるが、そのときにいかに暴力的なものに変化するかを、津田左右吉らの研究をもとに明らかにしている。

 「記紀」、とくに「古事記」は、本居宣長がこれをとりあげてからある種の「権威」として使われるようになったのだが、その点で、「古事記」についての脱構築も必要だと思って読んだ。

 歴史を研究しようとする者は、すべからく読むべし、である。

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「次は憲法」というが、実質的に「壊憲」が進められている。

2013-12-09 20:48:39 | 政治
 『東京新聞』の記事。「次は・・」ではなく、「解釈壊憲」、「立法壊憲」で、憲法を無化しようとしている。この事態は、『東京新聞』を除いたマスメディアがつくり出したものでもある。

次は憲法 警戒を 数の力 安倍カラー全開へ

2013年12月9日

 特定秘密保護法は、反対の声を押し切る形で成立した。国会での圧倒的な「数の力」を背景に、今後“安倍カラー”は全開モードになりそうだ。識者からは「次は憲法」と警戒する声が上がる。

 政治アナリストの伊藤惇夫さんは「政権与党の数のおごり、抑止力になることを期待できない公明党、非力な野党。もうあとは世論に期待するしかない」と嘆く。

 安倍晋三首相が「成長戦略実行国会」とネーミングした臨時国会は結局、お得意の「理念型政策」にシフトしたとみる。「支持率は低下傾向に入っているが、まだ景気、経済に対する期待感で支えられている部分がある。ただ、今後もこの路線で突っ走ると、さらに下がる可能性が高い」と予測する。

 迷走した日本維新の会とみんなの党については「野党と与党の間の“ゆ党”。国民にはヌエのような政党に映っただろう」と切り捨て「今後も安倍政権の補完勢力というニュアンスが強まっていくのではないか」と指摘。「総与党化」の状況に「国会の存在意義がなくなる」と危惧する。

 昨年十二月の政権発足後、憲法改正への意欲をたびたび表明した安倍首相。改正の発議要件を緩和する九六条改正を打ち出したが、世論の反発を受け、いったんトーンを弱めている。

 かわりに進めているのが集団的自衛権の行使容認に向けた動きだ。中国や北朝鮮を念頭に「安全保障環境の厳しさ」を繰り返し強調。日米同盟強化と米軍と自衛隊の一体化推進を図る。

 集団的自衛権について検討する「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置したほか、外交・安全保障の包括的な指針となる「国家安全保障戦略」策定のための懇談会もつくって次々と布石を打っている。今月四日にはその司令塔となる国家安全保障会議(日本版NSC)も発足させた。

 軍事評論家の前田哲男さんは「NSCと秘密保護法をてこに、これから“安倍安保”が着々と展開されるはずだ」と語る。前田さんが注目するのは、政府が近くまとめる新たな防衛力整備の指針「防衛計画の大綱」と国家安全保障戦略だ。「自主防衛を前面に打ち出し、専守防衛を実質的に放棄する可能性がある」と警告した。

 政府は来年にも、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更を目指す。前田さんは「解釈改憲で自衛隊に集団的自衛権の任務が与えられれば、憲法九条は空洞化する。それが定着すれば本格的な改憲を進めるのではないか」と危ぶんだ。





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「バクダン」

2013-12-09 20:41:35 | 日記
 最近、驚くべき資料を手にした。詳細をここに記すことはできないが、内容的にきわめてショッキングなことが書かれている。

 まだ十分な調査をしていないので何とも言えないが、公になれば相当大きなニュースになるだろう。日本の現実のあり方が、浮き彫りになる事実である。そういうことにはならなかったけれど、そうなる可能性は十分にあった。そういう事実を記した資料にぶち当たってしまった。

 今それに関連して、『日米地協定入門』(前泊博盛・創元社)を読み始めている。

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火野葦平

2013-12-09 08:37:44 | 日記
 先週末のNHK・ETV特集、火野葦平に関するドキュメンタリーをみた。

 実はボクは火野葦平を一度も読んだことがない。戦争文学のなかでも、どちらかというと時局便乗の小説家だと思っていた。

 しかしそうではなかった。彼は自らの戦時下のありかた、自らの作品について、戦後それらを対象化し、真摯に向きあおうとしたようだ。

 時局に便乗し、戦時中でもうまいこと泳ぎ、戦後も時流に乗りながら、うまいこと生き続けたものがいっぱいいる。

 残念ながら、日本という国は、日本国民というのは、責任を追及することがない。支配体制にくっついていれば、支配層そのものに対する責任追及が行われないので、うまいこと生きていけるのだ。

 本当は、その時々の政治に関して、責任追及がなされなければならないのだが、それがないので、のっぺらぼうの政治が続く。原発事故だって、誰も責任が問われない。多くの国民の財産を奪い、健康を奪い、精神的な苦痛を無限につくりだしているのに、誰にも責任がないような事態が続く。国民が追及しても、それは「一部」だとして、だらだらと無責任状態が続く。司法も責任追及をしない。

 日本はそういう社会だ。

 となると、責任追及というものを考えるとき、それは常に個人的になされる。個人個人が自らの責任を追及するのだ。ほとんどの人はノーテンキに自らの責任なんて考えないのだが、なかには真摯に向き合おうとする者がいる。

 火野葦平もそうした一人のようだ。だから、彼は自死を選んだのか。

 社会的に責任が追及されていれば、個人的に思い悩みながらも、他者との関わり合いのなかで考えていくことができる。

 「過去のことは水に流そう」という風潮にのらないでいると、日本では個人が自己完結的に苦しまざるを得ない。その果てにあるのが、自死?

 ボクは、火野葦平の苦悩を探りたくなった。

 時局に対する責任、という問題だ。常にみずからのあり方はこれで良いのかという自問自答の問題である。

 そういう問題が、問われつつある。

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