浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

逆転

2013-12-15 22:27:45 | 読書
 高校1年生の頃、ボクは如何に生くべきかに苦しんでいた。そのなかで、今では見向きもされない人生論なんぞを読んでいた。そのなかでボクは亀井勝一郎の本を読み、そのなかに「悔いなき死」という文言をみつけた(書庫に行けばその本が何という書名なのかがわかるのだが、車で5分のところにあり、寒いから行きたくはない)。

 その文言は、死に向かってのことばではあるが、ボクは「悔いなき死」を迎えるためには「悔いなき生」を生きていかなければならないと、そのことばを逆転させた。そして「悔いなき生」を実現するためには、如何にすべきかをボクは考え、今に至っている。

 そして今、ボクは石川公彌子『〈弱さ〉と〈抵抗〉の近代国学』(講談社、2009年)を読んでいるのだが、日本浪漫派の保田與重郎の思想に関する記述のなかに、亀井についての言及があった。亀井も、はじめマルクス主義者であったが転向して、日本浪漫派のひとりになった人間なのだが、そこに亀井の文が引用されていた。

 「自己解体」をして、戦時体制下の「国民の中」へ入り、「民族再生につながる道」を歩み、その際は「我いかに生くべきかが問題ではなくまづ我いかに死すべきかが問題なのである」という亀井の言説が紹介されていた。

 まさに亀井の思想は「死の思想」であった。その思想は、戦争を肯定し、戦争を担う思想であった。

 ボクは、高校時代、亀井の「死の思想」を「生の思想」に転換して、その後を生き延びてきた。戦時下の亀井の思想とは、真逆の道を、ボクは歩んでいる。

 この本で、亀井と再会するとは思わなかった。

 ボクは高校生の頃、もちろん亀井だけを読んでいたのではない。なぜ逆転できたのかを振り返ると、おそらく久野収の本のなかだったか、これもうろ覚えなのだが、死を見据えた思想はファシズムの思想である、というような記述を発見していた。

 生きるということは死に向かって生きるということなのであって、まさに生と死は矛盾的統一なのである。その際、生を見据えながら死にいたるということと、死を見据えながら生きていくことの両方が可能なのであるが、ボクは前者を選んだということになる。

 この本を読んでいて、若い頃のことを思い出してしまった。
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【本】井上ひさし『日本語教室』(新潮新書)

2013-12-15 15:13:26 | 読書
 井上ひさしの戯曲は大好きで、戯曲そのものの本も持っているが、彼の日本語に関する本も好きだ。
 書庫を整理していたら、この本が出てきたので読みはじめたら面白いので、あっという間に読んでしまった。堅苦しくはなく、講座で話されたものを本にしたものだ。

 まず「母語は精神そのものです」を読んで感じたこと。

 文科省が、なぜか英会話を中心とした英語教育に力を入れようとしているが、ボクはそれにすごい違和感を持っている。ボクは、日本人みんなが英語を話せるようになる必要はないと思っている。日常生活になくてはならないものではないから、英語を教育すればするほど差別が大きくなるような気がする。

 まず、ネイティヴのような話し方はできなくてもよい、ジャパニーズ・イングリッシュで十分であること。ボクはそれで困ったことはない。十分にみずからの意思を伝えることはできる。それよりも、英文を読めることのほうが重要だと思う。
 英語教育よりも、日本語教育をしっかりとすること。日本語能力に欠ける者は、英語のよきつかい手にはならない。英語であっても、みずからの主張を論理的に構成していくためには日本語能力がものをいう。
 この本に「母語」のことが記されているが、人間にとって母語はきわめて重要であり、その母語が未熟な状況では、英語だけではなく、日本語も十分に話せなくなる。実際帰国子女のなかには、そういう子どももいるそうだ。
 またボクが若い頃、英語を流ちょうに話す人間に浅はかな者が多かった。今はどうなのかは知らない。英語はコミュニケーションの手段であって、何をコミュニケートするのかが大事なのである。(日本語は、コミュニケートの手段だけではない!)語るべき「何を」がなければダメだと思う。

 そのほか、日本語はどうつくられたのか、外来語は物事を単純化してしまう、言葉は絶えず変化する、日本語はどのように話されるか・・・等等。興味深い話しが綴られている。買う必要はなく、図書館で借りて暇があったら読めば良い。

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2013-12-15 08:15:33 | 日記
  先月、浜松市で一人暮らしの女性(72歳)が殺されるという事件が起きた。昨日、その「犯人」として、日系ブラジル人の女性(24歳)が逮捕されたという。新聞報道は、実名である。彼女は、被害者の経営するアパートの住人で、友人の女性(24歳)と同居している。

 逮捕理由は、「顔見知りで生活に困窮していたとみられる」。「親族ら関係者の聴取や聞き込みなどから」浮上したのだそうだ。被疑者は否認しているという。

 新聞報道からは、その女性を逮捕する理由が明確ではない。事件と結びつく物的証拠も証言も記されていない。

 ボクは、この被疑者には弁護士がついただろうかと心配になる。

 浜松市には、ブラジル人が多く住んでいる。何か事件があると、犯人は「外国人」ではないか、という声がすぐでてくる状態だ。確かにブラジル人が関わった犯罪があることは事実であるが、その「犯人」として即座に「外国人」が出されるのは、ある種の差別である。

 どういう展開になるか。まさかえん罪ではないだろうね。静岡県はかつて「えん罪のデパート」といわれた時代がある。

 犯人を捕まえて欲しいのは当然だが、犯人でない人を逮捕することだけはやめてほしいと思う。



 
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