「共通の古典をもたない社会は野蛮に近づいたということではないか」(284頁)ということばが心にずしりときた。
もうそうした文言が、まったく力を失っている時代にボクらはいる。会話の中で「その本読んだことがある!」という時代、教養という言葉があって、教養を身につけないと恥ずかしいという時代があった。
岩波文庫に入っている文学や思想、社会科学系のもの、そうしたものにひたすら挑戦していた時代、そういう過去があった。しかしそういう時代は、おそらく来ないだろう。
今の若者は、とても忙しい。高校生や大学生は、バイトにスマホ、メール、ゲーム・・・しなければならないことはたくさんある。活字を追うなんて、そういう時代遅れの行動は今の若者にはふさわしくない。メールだって活字だよ、という声もある。
加藤周一の指摘は、おそらく力をもたない。ボクのようなオールド世代の一部の者だけが、「その通り!」と頷くだけなのだ。
さて本書はとても参考になった。天下の碩学である加藤周一の、『日本文学史序説』の補遺でもある。
最初に記されているのは、「日本文化の核心」についてである。加藤はそれを「長いものに巻かれろ」であるという、「集団主義」。「日本の文化は権力批判の面で弱かった」と。
「日本人は私的空間、身の回りの日常生活に密着していて、そこから離れない。抽象的・普遍的な方向へ行かない、それは日本文学の特徴の一つです」(40頁)
確かに、日常生活に於いて、公的空間のこと、抽象的・普遍的なことに話しが及ぶことはほとんどない。きわめて非政治的であるという政治性の中に、日本人はいる。
中国の詩人、たとえば陶淵明などは、その詩に於いて権力に対する非常に厳しい批判を行っているのだそうだが、しかしそれらは日本には紹介されないという。
そして古代日本の文学者にとっては、「花鳥風月」がその関心の的となる。しかし自然を謳うのではない。すでにとりあげるものは決められている。鳥ならばホトトギスでありウグイスであって、他の鳥は謳わない。月は謳うけれども、星は謳わない。彼らには星は「見えない」のだ。
さらに日本の和歌の「恋愛」は「ものおもひ」であって、「特定の相手」ではない。『万葉集』までは、日本でも「特定の相手」だった。中国でもギリシャ・ローマでも、恋愛は「特定の相手」であった。『古今集』以降は、「非常に漠然としている恋愛的心理状態」を「恋愛」として、「ものおもひ」として謳われる。
なるほど、である。
※ とするならば、ボクの場合は『万葉集』である。「漠然とした恋愛的心理」にあこがれることはしない。この女性が好きだ、でボクは通す。但し、だからといって「特定の相手」の人生を邪魔することはしない。静かに見つめているのだ。
いずれにしても、この本は、様々な知見を与えてくれる。4月の講座のために読んでいるのだが、とても参考になる。
もうそうした文言が、まったく力を失っている時代にボクらはいる。会話の中で「その本読んだことがある!」という時代、教養という言葉があって、教養を身につけないと恥ずかしいという時代があった。
岩波文庫に入っている文学や思想、社会科学系のもの、そうしたものにひたすら挑戦していた時代、そういう過去があった。しかしそういう時代は、おそらく来ないだろう。
今の若者は、とても忙しい。高校生や大学生は、バイトにスマホ、メール、ゲーム・・・しなければならないことはたくさんある。活字を追うなんて、そういう時代遅れの行動は今の若者にはふさわしくない。メールだって活字だよ、という声もある。
加藤周一の指摘は、おそらく力をもたない。ボクのようなオールド世代の一部の者だけが、「その通り!」と頷くだけなのだ。
さて本書はとても参考になった。天下の碩学である加藤周一の、『日本文学史序説』の補遺でもある。
最初に記されているのは、「日本文化の核心」についてである。加藤はそれを「長いものに巻かれろ」であるという、「集団主義」。「日本の文化は権力批判の面で弱かった」と。
「日本人は私的空間、身の回りの日常生活に密着していて、そこから離れない。抽象的・普遍的な方向へ行かない、それは日本文学の特徴の一つです」(40頁)
確かに、日常生活に於いて、公的空間のこと、抽象的・普遍的なことに話しが及ぶことはほとんどない。きわめて非政治的であるという政治性の中に、日本人はいる。
中国の詩人、たとえば陶淵明などは、その詩に於いて権力に対する非常に厳しい批判を行っているのだそうだが、しかしそれらは日本には紹介されないという。
そして古代日本の文学者にとっては、「花鳥風月」がその関心の的となる。しかし自然を謳うのではない。すでにとりあげるものは決められている。鳥ならばホトトギスでありウグイスであって、他の鳥は謳わない。月は謳うけれども、星は謳わない。彼らには星は「見えない」のだ。
さらに日本の和歌の「恋愛」は「ものおもひ」であって、「特定の相手」ではない。『万葉集』までは、日本でも「特定の相手」だった。中国でもギリシャ・ローマでも、恋愛は「特定の相手」であった。『古今集』以降は、「非常に漠然としている恋愛的心理状態」を「恋愛」として、「ものおもひ」として謳われる。
なるほど、である。
※ とするならば、ボクの場合は『万葉集』である。「漠然とした恋愛的心理」にあこがれることはしない。この女性が好きだ、でボクは通す。但し、だからといって「特定の相手」の人生を邪魔することはしない。静かに見つめているのだ。
いずれにしても、この本は、様々な知見を与えてくれる。4月の講座のために読んでいるのだが、とても参考になる。