浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「戦禍」

2013-12-26 22:41:23 | 読書
 『自由、それは私自身』(筑摩書房)を読んでいる。副題に「評伝・伊藤野枝」とある。ずっと前に出た本だ。書庫には女性史に関係する本もたくさんある。調べてみたら、これがあった。平塚らいてうの『元始、女性は太陽であった』の三冊本もあった。また瀬戸内寂聴の『青鞜』(上下)もあった。年末年始は、これに没頭することになる。

 さて、伊藤野枝を中心に『青鞜』についていろいろ調べていたところ、『青鞜』同人に齋賀琴という人がいたことを知った。この女性が書いた「戦禍」(1915年11月号)の内容が簡単に紹介されていた文章に出会ったのだ。読みたいという気持ちが強くなった。早速、浜松市内の図書館で『青鞜』復刻版をもっている浜北図書館に行き、それをコピーしてきた。

 読んでみた。素晴らしい。長い文ではないけれど、うまくまとめている。趣旨もきわめて明確である。日露戦争時の自分自身の体験をもとにして、1915年という第1次大戦下、戦争というものがいかなる本質をもっているのかを率直に描いている。

 この齋賀琴、有名ではないけれども、彼女が書いたものすべてを読んでみたいと思う。生まれは千葉県市原市。「戦間期」となりつつある現在、この女性を調べる意味は大いにあると思う。

 「戦禍」の出だしは、以下の通りである。

 人間の歴史は戦争の連続であると申します。事実左様でも御座いませう、人智の発達しない太古のその頃から科学文明の著しい進歩を来した今日に及びますまで、幾代幾世紀の間、人類は互ひに血を流し、虐殺し、侵略して参ったので御座います。昔を野蛮と罵り、今日を文明と誇りますものの、その実今日の文明は野蛮だと云ふ昔の虐殺、侵略を一層甚だしくするための手段として用いられて居ります。勿論これは一面から見た話で御座いますが、併し現在世界の先進国と呼ばれる国々が互ひに干戈を交ふる事一年余、いつと云ふ平和の見込みもつきかねます今日では、戦争の残酷さと、直接、間接に及ぼす災害の莫大な事を考へますと、同時に所謂文明の恩沢とか科学の貢献とか申すことを疑りたくなって参ります。恐ろしい戦争の惨禍は只に幾多の貴い生霊を犠牲にし、その白骨を風雨に曝すばかりではなく、残された人々の上に負ひ難い苦痛を授けます。一国にとりましても勝敗何れにかかはらず、損害をもたらすもので御座います。何故に人類は多額の費用と時と知識とを無益にして徒らな殺生に耽るのでせうか・・・・
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何もなかったかのように・・・

2013-12-26 09:08:47 | 日記
 沖縄・辺野古、東日本大震災の被災地、原発事故に関する最近の報道をみるにつけ、何ごともなかったかのように「今」が過ぎていくような気がしている。

 これらの、「何ごともなかったかのような」動きの背景には、札束がある。地方自治体の諸施策を見ても、そこに共通するのは「利権」である。「利権」とつながらない公共政策はないといってよい。

 政府も自治体も、カネは国民にではなく、「民間」に投入する。あるいは「民間」が儲けられるように差配される。以前よく聞いた「民間でできることは民間へ」である。もちろんこの「民間」は民間企業である。

 沖縄では、辺野古の米軍基地新設の他に、毎年沖縄に3000億円以上のお金が投入される。これももちろん沖縄の住民にではなく、沖縄の企業、いやおそらく本土の大企業であろうが、そこにお金はまわっていくことだろう。そのおこぼれを沖縄の企業とそこに連なる人々が受け取る。

 東日本大震災の被災地に、大防潮堤が建設されるという。住民たちの声を一切聞かず、その計画は実施の方向で動いている。東日本の海岸は、コンクリートの壁で覆われることになる。原発事故の除染も同様だが、そこに投入される莫大なカネのほとんどは大手ゼネコンの懐に入る。

 いかなる事態が起きても、それを利用して「利権」構造が強化される。

 原発の再稼働も、もう目前だ。何ごともなかったかのように、日本は、死者や被災者の、そして反対派の住民たちの懸念を蹴飛ばしてどんどん動いていく。そういう国だ、日本は。

 日本の住民の多くは、「何ごともなかったかのように」生きている。何も学ばず、何も知ろうとせず、何も考えようとせず・・・・そういえばこのことは、中江兆民が書いていた。むかしから、ずっと同じ。



 
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