浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

何と!

2013-12-30 22:52:15 | 読書
 岩波文庫の『『青鞜』女性解放論集』が届いた。ボクはまず最初の与謝野晶子の「山の動く日来る」で有名な「そぞろごと」(抄)を読む。

 そして次に平塚らいてうの「元始女性は太陽であった」を読む。恥ずかしながらボクは、らいてうが書いたこの文の全文をはじめて読んだ。

 何と格調高く、声を上げて朗々と読むにふさわしい文であることか。その文の背景にちりばめられた「知」と、そして抑圧をはねかえそうとする精神の高揚と、まさに熱情、いやらいてうがいう「熱誠」。

 ある意味で女性だけではなく、人間解放を求めるような文意に、そして20代半ばにかかる文を書ける女性がいたことに、ただただ心を動かされる。

 ボクは、日本の歴史を通して、女性の地位は明治民法下にもっとも低かったという思いを持っている。だからこそ、その下で呻吟していた女性たちの精神に、この『青鞜』の与謝野とらいてうの文を読んだときの、驚きと賛意と賞賛が湧き起こったことを想像できる。

 今から100年程前、『青鞜』に集まった先駆的な女性たちの生と動きは探求するに値するのではないか。

 伊藤野枝は、この『青鞜』を生きる杖としてすがった。野枝だけではない。多くの女性がこの『青鞜』に自らの感情や思想を託そうとした。だとしたら、今こそ、100年前に生きた女性たちが何故に『青鞜』に集い、そこから何を得ようとしたのか、そしてそれに触発されてどう生きたのかは、学ぶべきことではないか。

 彼女たちの動きが何を獲得し、何を獲得しなかったのか。ボクらは調べるべきではないか。

 ボクは今、伊藤野枝を中心に読書を進めている。ここから学びとることは多いとボクは思う。このブログの女性読者よ、奮起せよ。


 なお齋賀琴の「戦禍」は、この本に掲載されている。平和が脅かされつつある時、多くの人に読んでもらいたい、ほぼ100年前のこの文を。
 
 
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【本】井出文子『自由 それは私自身』(筑摩書房)

2013-12-30 21:08:22 | 読書
 この本は、1979年10月30日発行。裏表紙に、1979年11月14日読了と書いてある。ボクが書いたものだ。発売されると同時に購入し、そして読んだことになる。
 
 伊藤野枝に関心を抱いたのは、『美は乱調にあり』(瀬戸内晴美、角川文庫)を読んだからであった。この本の裏表紙に、「1978年9月7日読了」、そして「1983年9月19日」と書いている。ボクはこの本は二度読んでいる。

 今読み終えた『自由 それは私自身』も、二度目ということになる。

 ボクは『美は乱調にあり』を読んで野枝に関心を抱き、そして『自由 それは私自身』も読み、さらに「1974年5月25日第4刷発行」の『伊藤野枝全集』上・下(學藝書林)を購入したことになる。

 ボクは本を読むときは線を引いたり、書き込みをする。『自由 それは私自身』には、ただ1箇所鉛筆で括弧を書いていた。その文ー

 多くの人間の利己的な心から、全く見棄てられた大事な「ジャスティス」を拾い上げる事が、現在の社会制度に対してどれ程の反逆を意味するか。(97頁)

 今から30年も前に読んだ本、括弧を付した文は、今こそ大きな意味となっている。しかしこれは、野枝が読んだ本、エマ・ゴールドマンの伝記(ポリト・ヘイヴェル著)からの引用だ。20世紀初頭から、時代の本質は変わっていないということでもある。嗚呼・・

 だが先に進もう。

 野枝は「感情の自由」に生きた。しかし「感情の自由」に生きることは、ふつうは不可能だ。おそらく多くの批判にさらされるだろう。だが、野枝はそう生きた。著者の井出は、こう記している。

 感情には、素朴なエゴイズムがあり、恐ろしい不安定もある。しかし、一口に感情といってもそれにはさまざまな質の相違があるのであり、人間の本質的な生命につながり、理知や理性の流露の場となり支えとなるのもまた感情や感覚である。むしろ理知や理性は感情や感覚をあとから整理し理論化していくものだ。理知や理性はおおくのばあい、かえって保守的な要素がつよいといえるかもしれない。野枝は自身の感情の質の分析や、理論化をする十分な時間をもたなかったが、自身の感情にあくまで忠実にしたがい、世のわけしりの知性をこばんだ。

 最後の文、まさにボクができなかったことである。自身の感情を抑え、世のわけしりの知性の軍門に降った。それはおそらくボクだけではなく、多くの人がそうであろう。野枝に魅力を抱く理由の一つ、ボクはここにあると思うのだ。野枝は、ボクらがなし得ないことをなした。

 野枝自身もこう書いている。

 ーー自分のものときまった、何人も犯すことの出来ない体や精神をもっていながらそれで他人の都合や他人のためにその体や精神をむざむざと委してしまうのは意久地がないと云うよりは寧ろ生れた、甲斐がない生甲斐がないと云うより他仕方がありません。・・他人が自分の行為に対してどんなおもわくをもつかと云うようなことまで考える程の余裕が私にはもてないのです。そして私はそのことを決して悪いとは思いません。私はとうとう凡てを排して自身(原文は自信)を通しました。そして皆の一番尊敬している、そしてまた私を縛するに最もたしかなものだと信じていた道徳や習俗を見事ふみにじりました。(「従妹に」『青鞜』4ー3)

 野枝は又、こうも記す。

 ーー破滅と云う事は否定ではない。否定の理由にもならない。私は最初にこの事を断って置きたい。不純と不潔を湛えた沈滞の完全よりは遙かに清く、完全に導く・・
 (「自由意志による結婚の破滅」『婦人公論』1917年9月号)

 意味を十分に理解できないので、井出氏の説明を記す。

 通過することによって、より深い人間の完成に近づくのだと野枝はいっている。(171頁)「破滅」ということは「否定」ではない。「破滅」を恐れて、「私」を失っていくような不純と沈滞からは、よりよき「私」の完成をえることができるはずはない。(170頁)

 野枝の「破滅」はちがっていた。「破滅」をとおして自分をポジティヴにおしだし、よりつよく再生していこうとするものだった。たとえそれが世の流れにさからい、平安をこわすものであっても、自身の真実の声、「私」にとっての正義であるならば、なにを恐れる必要があろう。むしろ「破滅」を通過することによって、より深い人間の完成に近づくのだと野枝はいっている。(171頁)


 野枝は、28歳で官憲の暴力により生命を奪われた。その28年間、野枝は求道者であった。みずからの生をひたすら求め続けた。社会的規範をはじめいかなるものも、その障碍とはならなかった。野枝はまず「利己」に気づき、そして「個人」に至った。その「個人」が「社会」のなかに存在することを知ってからは、同志・大杉栄と共に、「社会」に全身で関わっていこうとした。その途次、官憲は彼らを斃した。

 求道者・野枝が求め続けた先にどういうものがあったのか、それは永遠にわからない。だからこそ、ボクらは、野枝がもし生きていたら、どういう生の軌跡を描き、どういう思想を打ち出すことができたのかを、知りたくなるのだ。

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「ねじれ」ということば

2013-12-30 16:06:43 | 政治
 今日の『中日新聞』社説。

 参議院選挙の前、テレビや新聞(「中日新聞」を除く)は、「ねじれ」の解消が良いことであるかのような報道をしていた。「決められる政治」こそあるべきものだと、主張していた。確かに「決められる政治」ができた。与党の「暴走」が始まっている。マスメディアが待ち望んでいた事態だ。さぞうれしいだろう。

 だがその一方で、確実に民主主義や平和、人権は、死に向かっている。特定秘密保護法案には反対していたが(「読売」「産経」を除く)、しかしこの流れは、メディアがつくりだしたものではないか。


年のおわりに考える 民主主義は深化したか
2013年12月30日

 今年も残すところあと一日。振り返れば、久々に首相交代のない一年でもありました。安倍晋三首相の下、日本の民主主義は「深化」したのでしょうか。

 今年、日本政治最大の変化は、参院で政権与党が過半数に達しない国会の「ねじれ」状態の解消です。民主党政権の一時期、解消されたことはありましたが、二〇〇七年から六年ぶりのことです。

 ねじれ国会では与党が法案を成立させようとしても、野党が反対すれば不可能です。内閣提出法案の成立が滞り、政策を実現できない「決められない国会」に、国民のいらだちは高まりました。

◆ねじれ解消したが
 ねじれ国会のこの六年間は頻繁な首相交代の時期と重なります。ねじれが政治不安定化の一因になったことは否めません。

 では、ねじれ国会が解消されて日本の政治は本当によくなったのでしょうか。

 経済再生、デフレ脱却を最優先に掲げてきたはずの第二次安倍内閣が「本性」を現した象徴的な政治的出来事が、年末になって相次いで起きました。

 その一つが、特定秘密保護法の成立を強行したことです。

 この法律は、防衛・外交など特段の秘匿が必要とされる「特定秘密」を漏らした公務員らを厳罰に処す内容ですが、国民の知る権利が制約され、国民の暮らしや人権を脅かしかねないとの批判が噴出しました。

 しかし、安倍首相率いる自民党政権は衆参で多数を占める「数の力」で、採決を強行します。

 首相は「厳しい世論は国民の叱声(しっせい)と、謙虚に真摯(しんし)に受け止めなければならない。私自身もっと丁寧に説明すべきだったと反省している」と述べてはいます。しかし、首相が国民の声に本気で耳を傾けていたら、成立強行などできなかったのではないでしょうか。

◆「自民一強」の慢心
 そして、第二次内閣発足一年に当たる二十六日の靖国神社参拝です。第一次内閣で参拝できなかったことを「痛恨の極み」と話していた首相ですから、積年の思いを果たしたということでしょう。

 国の命による戦死者を、指導者が追悼し、慰霊するのは当然の責務とはいえ、首相の靖国参拝にはさまざま問題があります。

 靖国神社が一宗教法人であるという政教分離の問題に加え、極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社への首相参拝は、軍国主義礼賛と受け取られかねないからです。

 首相の参拝には、国内はもとより、日本軍国主義の犠牲となった中国、韓国をはじめ近隣諸国から激しい反発が出ています。東アジアの火種を避けたい米政府も「落胆した」と批判しています。

 足元の自民党内の一部や友党である公明党の反対を押し切っての参拝強行です。そこには多数党の頂点に立つ首相なら何をやっても乗り切れる、という「慢心」があるように思えてなりません。

 その翌日には、沖縄県の仲井真弘多知事が米軍普天間飛行場の県内移設に向けて、名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認します。

 知事に承認させるため、政府と自民党は手を打ってきました。年間三千億円の沖縄振興予算という「アメ」と、世界一危険とされる普天間飛行場が固定化してもいいのかという「ムチ」です。

 県民の多くが求めた国外・県外移設を、安倍政権は一顧だにしません。県選出の自民党国会議員には県外移設の公約撤回を迫る周到ぶりです。

 これらはたまたま時期が重なっただけかもしれません。

 しかし、いずれも民主主義とは相いれない、自民党「一強」ゆえの振る舞いです。野党の言い分や国民の間にある異論に耳を傾けざるを得ない「ねじれ国会」であれば、躊躇(ちゅうちょ)したはずです。

 今夏までのねじれ国会では歩み寄りの努力を怠り、ねじれ解消後は議会多数の「数の力」で押し切り、異論をねじ伏せる。そんなことで自由、民主主義という価値観をほかの国と共有すると、胸を張って言えるでしょうか。

◆大事なことは面倒
 引退を表明した世界的なアニメ作家、宮崎駿さんは「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」と指摘します。

 多様な意見があり、利害が交錯する現代社会では、意見を集約して方向性を決めることは手間のかかる作業です。選挙結果を金科玉条に、多数で決める方が議員にとって、はるかに楽でしょう。

 最後は多数決で決めるとしても少数意見にも耳を傾ける。議論を尽くして、よりよい結論を出す。説明、説得を怠らない。

 民主主義を実践するのは面倒です。しかし、その地道な作業に耐える忍耐力こそが、民主主義を深化させる原動力になるのです。
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確認しておくこと

2013-12-30 16:04:28 | 政治
 安倍政権のファッショ的な政治運営は、民意を反映しているわけではない。民意を反映させない選挙制度により当選した者どもが、勝手な政治をしているのだ。自民党、公明党は、国民の多くに支持されているわけではない、このことは常に確認しておかなければならないことだ。そのことを『東奥日報』の社説が書いている。


死に票多い選挙が背景に/強引な政権運営

 2013年は「民主主義が死んだ年」として記憶される可能性大である。民主主義とは、主権者たる国民の意思が政治に反映される制度であるが、安倍晋三首相の強引な、世論無視がまかり通った年だった。

 原因は、突き詰めれば、膨大な「死に票」を生む選挙制度にある。選挙制度は早急に、何らかの見直しが必要だ。

 昨年12月の衆院選での自民党の得票率は、比例代表27%、小選挙区43%にすぎない。1強状態は決して民意を映した姿ではない。それを自覚し、謙虚な政権運営を心掛けるなら救いもあるが、政府・自民党は数のおごりを隠そうとしない。

 10月の共同通信世論調査で国民の半数以上(50.3%)が反対した特定秘密保護法案を、衆参合計たった68時間の審議で、強行採決してしまった。

 今また、南スーダンで国連平和維持軍(PKO)として活動する韓国軍への銃弾1万発無償提供を、国家安全保障会議(NSC)と、持ち回り閣議で即決。武器や弾薬を提供することはないという政府見解を、あっさり変更した。

 この調子でいけば、国民の53.1%が反対(共同通信の電話世論調査)する、憲法解釈見直しによる集団的自衛権の行使容認も強行されかねない。政策の善しあし以前に、政治手続きとして危惧の念を抱かざるを得ない。

 3月、総務省が明らかにした数字によると、昨年の総選挙で落選者の獲得した得票総数は53.06%で、当選者のそれを上回った。

 また、死に票が50%以上の小選挙区が、6割の188に及び、長野3区や東京1区では死に票率70%を超えた。本県1区も59.53%と高率で、県全体でも44.54%と半数近い。選挙に行く気が薄れる一因でもあろう。

 参院選は、改選数1人区から5人区まであり、死に票率の算出は衆院選より難しいが、「1票の格差」是正へ選挙区定数4増4減が行われた7月の参院選では、改選1人区が2増えて31になり、衆院選に近づいた。山梨県選挙区では死に票率62.7%に上った。

 今年は「1票の格差」をめぐる訴訟が相次いだが、死に票は、大多数の意思反映がゼロになるという意味では、1票の格差以上に憲法第14条の「法の下の平等」に反する可能性もある。

 10月3日付本紙夕刊に載った河野洋平氏のインタビューが興味深い。1994年、細川護煕首相の衆院選・小選挙区比例代表並立制の導入に、自民党総裁として合意したが、本心は「小選挙区制は必要ない」だった。政権交代可能な制度をつくるのが目的でもない。自民党の分裂を避けるために同意したという。

 「与党の間違いをチェックする野党がいることが、議会制民主主義で最も重要だ」とも河野氏は述べた。合意したご当人が今ごろになってそれに言及するのは、ひどい結果を招いてしまったという悔恨がよほど強いのだろう。もし不良品なら、早めに直した方がいいのではないか。
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靖国神社

2013-12-30 15:58:09 | 読書
 12月27日の「筆洗」。

<ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ち上がる…>。石垣りんさんの「弔詞」という詩だ。終戦から二十年たって職場の新聞に掲載された戦没者名簿に寄せて書いた

▼<ああ あなたでしたね。/あなたも死んだのでしたね。/活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとじられたひとりの人生。/たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合つて、ドブの中で死んでいた、私の仲間。>

▼靖国神社には、合祀(ごうし)された戦没者名を記した「霊璽簿(れいじぼ)」が収められている。だが、この若い女性の名はそこには書かれていないだろう。神霊とされるのは「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々」だからだ

▼戦争で犠牲になった人を思い、記憶し続けるのは、とても大切なことだ。ただ、どうしても気になるのは、同じ犠牲者でも神とされる人とそうでない人を分ける、弔い方のありようだ

▼しかも例えばキリスト教徒や仏教徒の遺族が故人を「神」にするのはやめてほしいと言っても、聞き入れられない。安倍首相は閣僚の靖国参拝を「心の問題で自由だ」と言うが、合祀を拒む人の心の問題はどうなのか

▼<戦争の記憶が遠ざかるとき、/戦争がまた/私たちに近づく。/そうでなければ良い>と、石垣さんは書いている。


 靖国神社は、死者を差別しているのだ。戦死者すべてを祀るわけでもない。明確に取捨選択している。国家にとって必要であったかなかったか。民間人の戦死者は、国家にとって必要ではなかったから、知らない。

 信教の自由が、憲法には保障されている。しかし、靖国に祀って欲しくはない、という声は無視される。

 「心の自由」は、国家の操る方向に沿っている場合のみ保障される。だがそれでは、人権とは言い得ない。
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企業のあり方

2013-12-30 08:44:13 | メディア
 昨日の『中日新聞』の社説は、記録に値するものだ。

 経済界は、本当にわがままである。経済界の主流は、多国籍企業ならぬ無国籍企業。もう日本経済がどうの、日本人の働く人々がどうの・・なんてことは考えなくなっている。経済界が求めるものは、税金からどれほどのカネを自らの下に引き出すかである。実際、政府も、地方自治体も、多額のカネを企業に投資している。たとえば、新しく企業立地すれば補助金を出し、海外に事務所を設けようとすれば部屋代を出してあげ、新しく何かを研究開発しようとすれば、これまた補助金や助成金がくる。また倒産しそうになれば、大企業ほど政府が手をさしのべてくれる。さらに法人税などをまけてくれることもある。

 日本政府は、企業保護には手厚い。なぜ政府や地方自治体はそういうことをするかというと、そのお金が労働者の賃金となって市中に流れるようになって経済が活性化すると予想していたからだ。しかし今はそうではない。労働者の賃金を削り、非正規雇用を増やし、企業幹部だけが莫大な報酬を受け取り、一方では補助金や助成金を政府・自治体からもらい、税金もまけてもらい、内部留保をひたすら増やす。

 企業から公共性が失われている。

年のおわりに考える 国民生活支える企業に
2013年12月29日

 二〇一三年は賃上げをめぐり政府と経済界が攻防を繰り広げた一年でもありました。そこから見えてきたのは勤労者を物質と見る企業の倫理欠如です。

 政府と経済界、労働界による政労使会議が、企業収益の拡大を賃金上昇につなげていくとの合意文書をまとめました。

 安倍政権の経済政策は金融緩和や公共事業、成長戦略の「三本の矢」で、勤労者の所得増を実現しないと完結しません。目標に近づく合意だけに、安倍晋三首相は「経済の好循環に向けた確固たる土台を築けた」と総括しました。

◆発言ぶれる経団連
 その一方で、主要企業千三百社が加盟する経団連の米倉弘昌会長の発言はぶれています。政労使会議後には「経済拡大の成果を従業員に配分するよう企業に訴えたい」と語ったのに、その後の記者会見では「各社それぞれが判断すべき」と後退してしまいました。

 賃上げの仕掛け人は安倍政権であり、物価が下がり続けるデフレからの脱却が狙いです。賃金が上昇すれば家庭の財布のひもが緩くなるので、企業のもうけも増え、景気がよくなって物価も上がり、デフレから抜け出せる。首相のいう経済の好循環です。

 賃金水準は労使が決めるべきもので、政府が口を出す話ではない。こう主張してきた経済界は、なぜ折れたのでしょう。そこにはからくりがあるのです。法人税額に10%上乗せしている東日本大震災の復興特別法人税を一年前倒しで一三年度末に廃止するという税制の見直しです。

 政府は経団連の求めに応じて企業の税負担を六千五百億円ほど軽くする代わりに、賃上げの実現を迫りました。ここに、自ら負担すべき費用を国などに押しつける企業の性癖がにじみ出ています。

◆危うい「人間尊重」
 かつて経済同友会の終身幹事を務めた故品川正治さんは、早くから「近ごろの経済界はおねだりが多い」と企業経営者に自省を求めていました。米倉会長の一貫性を欠く発言の背景には、おねだりしたがゆえに政府に押し切られたという敗北感があるのでしょうか。

 経団連の企業行動憲章は「安全で働きやすい環境を確保し、ゆとりと豊かさを実現する」と、人間尊重の経営を加盟企業に促しています。それは、企業は生活者と共存共栄の関係にあるという信頼を得られるよう努力することが求められる-との意味でもあります。

 しかし、現実は人間尊重どころではありません。その象徴が労働力を鉄や電力などの原材料と同じように扱い始めたことです。

 明治時代から、企業と従業員は企業のもうけをほぼ等しく分かってきたのに、一九九八年を境に従業員の賃金を削減し、企業さえよければとばかりに、もうけの大半を奪い取るようになりました。日大教授の水野和夫さんは、資本と労働との暗黙の契約を破る「企業の暴走」と言い切っています。

 給与所得者の平均年収は九七年の四百六十七万円をピークに二〇一一年は四百九万円まで減りました。〇四年には当時の自民党政権が経済界の要請を受け、専門職に限られていた労働者派遣を製造業にまで広げる法改正に応じたことで、「人間らしい生活を営める所得層」、いわゆる購買力をつけた中間層を衰退させています。

 非正規労働者は一二年に二千万人を超え、雇用者全体の38%に達しました。四人に一人は年収二百万円以下に抑えられ、消費減退に加えて未婚者増や少子化を加速させました。人として守るべき道からの逸脱であり、倫理の欠如と言わざるを得ません。

 企業は内部留保を三百兆円規模にまで積み上げ、従業員への配分増をためらっています。人件費や電力コストが高すぎるなどを理由に「日本を出ていくしかない」と語る経営トップも少なくなく、残ってほしければ法人税の負担軽減を-などとおねだりもします。

 しかし、悲観してばかりでは将来が暗くなります。建設機械世界第二位のコマツは、海外に進出した生産拠点の一部を国内に戻し、今や生産額の半分近くを日本で稼いでいます。材料費などを海外と総合比較すると国内のコストは必ずしも高くはないといいます。

◆経営者の自負示せ
 国の経済安定には外貨獲得も欠かせません。生産拠点が国内に舞い戻れば雇用も増えるでしょう。

 年約五百兆円の日本の国内総生産の約半分を企業が生み出し、その企業では全就業者の七割が働いています。四千万人を超える従業員と家族を、どうすれば食べさせていけるかという国民生活に資する経営モデルに改めるべきです。

 減税要求など、政府への安易なおねだりを慎み、国民生活を安定させることこそが「経済の主役は民間」と誇らしげに語る経営者の自負というものです。

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