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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「もう隷従しないと決意せよ」

2013-12-31 21:43:51 | 読書
 年末あるパーティに出た。浜松市の経済界のトップも参加していた。ボクの周辺の何人かも、名刺をもってその人たちに挨拶に行っていた。ボクはもちろんそういうことはしない。ボクにとって、屈従は唾棄すべきものである。彼らは自らをトップであると自覚しているから、いそいそと挨拶に来る者たちは自分に屈従する者たちだと認識しているであろう。
 ボクはいかなる人間であろうと、対等の個人としてでなければ人間関係を結ばない。年齢や経済力、政治力・・・すべてを捨象して、対等でなければならないのだ。そして対等の関係の中で唯一働くのは、相互の謙虚さである。個人としての人間はそれぞれ得手不得手、特技、知識などを持っている。それぞれがそれぞれ持っているものを尊重し合うというところに、個人としての対等関係が成り立つ。
 ボクは、いかなる人間に対しても、同じ姿勢で向かい合う。屈従はしないし、居丈高にもならない。

 さて今ボクは『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)を読んでいる。16世紀フランスの青年が書いたものだ。その人の名は、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ、モンテーニュの友人でもあった。

 このブログの表題は、その文の中にあったものだ。

 ボエシは書く。

 ただひとりの圧制者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。

 民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえてみずからを抑圧させているのである。彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、皆民衆自身なのだ。(18頁)

 もう隷従しないと決意せよ(19頁)


 農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことを行えばそれですむ。だが、圧制者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧制者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧制者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。(70頁)

 こういう姿を見せる人びとを、ボクはいつも見てきた。圧制者というか支配体制を支える人たちだ。そういう人がいろいろなレベルで立ち働いている。あたかも隷従が楽しいかのような、あるいは隷従こそが自らにとっての自由であるかのように生きている人びとがいた。 
 解説を書いているのは、西谷修。実はまだ全文を読んではいないのだが、西谷の解説が素晴らしいので、それを紹介する。

 一人の支配者は独力でその支配を維持しているのではない。一者のまわりには何人かの追従者がおり、かれらは支配者に気に入られることで圧政に与り、その体制のなかで地位を確保しながら圧政のおこぼれでみずからの利益を得ている。そのためにかれらはすすんで圧政を支える。かれらの下にはまたそれぞれ何人かの隷従者がいて同じように振る舞い、さらにその下にはまた何人かの・・・という具合に、自ら進んで隷従することで圧政から利益を得る者たちの末広がりに拡大する連鎖がある。その連鎖が、脆弱なはずの一者の支配を支えて不動の体制を作り出している。

 圧政は一者の力によってではなく、この体制のもとで地位を得かつ利益を引き出す無数の追従者によってむしろ求められ、そこに身を託す多くの人々によって支えられている。そしてその底辺には、圧政を被り物心両面で収奪されるばかりの無数の人びとが置かれているということだ。(230~1頁)


 そのパーティで、ある人がこう言っていた。ヒラの時にはふつうの人だった人が、管理職なったら全然人が変わって強い口調でいろいろ言ってくる、と。ボクはこういった。あなたの職場の人が、そういう管理職としての姿勢をつくっているのだ、と。

 一時でも屈従の姿勢を見せると、相手は自分自身のほうが「上」であると錯覚するのだ。そうではなく、一切の屈従を示すな、とボクは語った。

 「自発的隷従」を拒否しながら生きた人びとがいた。伊藤野枝であり、平塚らいてうであり、そして大杉栄であり・・・・・・

 ボクは彼らから、まだまだ学ぶことがある。この本を読んでしまったら、『美は乱調にあり』の三度目を読みはじめよう。

 ここ数年、特定秘密保護法案への姿勢を除き、メディアの「自発的隷従」の姿を見せつけられてきた。メディアこそ、「自発的隷従」から脱皮しなくてはならないはずだ。

 Tさん、この本読みましたか?そしてKHさん、時間がないかもしれないけど、この本、読んでおいたほうがいいよ。

 2013年から2014年へと時間が進むとき、ボクはベートーベンの第九をyou tubeでスピーカーにつないで聴きながら、この本を読む。自らは決して自発的隷従を拒否せん、と。

  
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オスプレイがやってくる!

2013-12-31 19:00:05 | 政治
 オスプレイの拠点が広がるようだ。以下は、「共同」配信記事。

政府、オスプレイ拠点を本土拡大 4月から選定、日米共同使用も 
2013年12月31日 17時47分

 政府は、2015年度に自衛隊への導入を目指すオスプレイの整備拠点を沖縄以外の複数の自衛隊飛行場などに建設するため、4月から候補地選定を本格化させる。日米共同使用で米側と調整している。普天間飛行場に配備されたオスプレイの訓練場所の分散を加速させる狙いがある。

 日米両政府は13年10月の外交・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会で、沖縄でのオスプレイの駐機と訓練の時間を削減することで合意。安倍首相は沖縄県の仲井真知事に「オスプレイの訓練を、半分をめどに沖縄県外の複数の演習場で実施する」と明言した。
(共同)


 まさに本土の沖縄化が進む、ということである。となると、静岡県にも必ず来るだろう。
まず富士山の裾野には東富士演習場がある。そこにオスプレイの拠点を建設することもあるだろう。

 それだけではない、もし航空自衛隊がオスプレイを購入するとするなら、浜松基地ということも考えられる。今まで、新しい装備が購入される度に、まず浜松基地に来て、それが各地の航空自衛隊基地に展開していくという歴史がある。

 今日届いた『けーし風』(新沖縄フォーラム)を読んでいたら、こういう記述があった。

 オスプレイは身体に本当に響いてくる・・・CHヘリは53にせよ46にせよ、うるさいことはうるさいのですが、身体に振動はそんなになかった。やはり低周波を発生するオスプレイは特別です。身体に異常を来すのではないかという懸念を、みなさん持っています。これまでのCHの撤去を求める声はそんなになかった。オスプレイになって初めて身体に異様な振動を感じるようになって、異常をきたすのではないかと不安が募り、「これじゃいかん」ということで反対運動に踏み切ったわけです。

 オスプレイは、こういう輸送機であり、それが配備されると、沖縄と同じような振動が本土にまき散らされるということだ。沖縄の矛盾が本土にも波及してくるということでもある。

 今から反対行動を、静岡県でも始める必要がある。


 
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【本】師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)

2013-12-31 16:12:22 | 読書
 とても人前では言えない言葉を平然と街頭で叫び、アピールしている人びとがいる。「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」、「寄生虫、ゴキブリ、犯罪者。朝鮮民族は日本の敵です」などと、これ以上ないような汚い言葉をつかう。といっても、このような言葉は街頭だけではなく、インターネットの世界でも平気でつかわれている。

 まさに人間性を疑うべき人々といえよう。たとえ朝鮮人に敵意や嫌悪感を持っていたとしても、ふつうの人間はこのようなことばをつかうことは決してない。こういうことばをつかう人々に対しては、理性的な対応は難しいだろう。

 彼らは在日朝鮮人には「特権」があるなんていっているが、あるのは「差別」であって「特権」ではない。彼らは根拠なき言説を丸呑みし、その言説を悪罵に変えて発する。議論なんかできるものではない。

 ボクは新大久保や鶴橋の彼らの行動を直に視たことはないが、彼らが堂々とインターネット上で見せる動画をみて、あまりの野蛮さに驚いた。

 しばらく前、韓流ドラマがはやり、これで日韓関係は改善されたと思っていたが、決してそうではないことがわかった。特に排外主義的な安倍政権が成立してから、彼らのような動きをする人やそれを支持する人が増えてきたように思う。

 さて本書は、そうしたヘイト・スピーチをどうしたらよいか、という本だ。

 この本で分かったことは、まずいつまで経っても日本の人権状態は後進国であるということだ。人種差別撤廃条約など国際機関が世界的に人権保障を拡充しようとしているとき、いつも日本は足を引っ張っている、ということだ。北朝鮮の悪しき人権状況を批判出来ないのではないかと思ってしまう。

 もう一つ。日本人であるボクはヘイトスピーチを聞いても身体的にどうにかなるわけではない。怒りや情けなさ、何とかなくさなければとは感じるけれども、身体的な変化は起きない。ところが、ヘイトスピーチの対象である「在日」の人たちは、身体的に様々な打撃を受けるというのだ。

 だとすると、やはり師岡氏が言うように、法的に規制されなければならないと思う。確かに、新大久保や鶴橋にはコリアンがたくさん住んでいるから、悪罵の対象とされれば決していい気持ちはしないし、まさに暴力的な振る舞いと共に悪罵が投げつけられるのであるから、精神にも身体にも大きな打撃を受けるだろう。

 それ以外にも、悪罵の対象とされる人々には様々なダメージが加えられる。無力感、恐怖の醸成だけではない。差別構造がより強化される。

 師岡氏は、カナダやドイツ、イギリスなどのヘイトスピーチに関する法規制を調査し、日本でも規制がされなければならないと主張する。しかし日本では、そういう規制をつくりあげてしまうと権力が濫用するのではないかというおそれが常につきまとうため(実際、そういうことは日常的になされている)、法規制には慎重な人が多いという。
 しかし実害が生じている以上、法規制は必要だと、師岡氏は主張する。

 ボクは、差別というものの存続は、法的・制度的差別があるからだと主張してきた。つまり国家が差別を公認しているからだと主張してきた。だから法的・制度的をなくすことがとにかく大切だとしてきた。

 ところがこの本を読み、差別についてもひどい差別が存在していることがわかった。被差別については、法的・制度的差別はなくなっているはずだ。しかし差別はある。

 そこでさらに国家は、差別をしないだけではなく、差別してはならないという政策を実施すべきではないかと考えた。差別は違法であるということをあらゆる時、場所で訴えながら、さらにあまりにひどい差別には罰則を含む制裁がなされること、こういうことが必要ではないかと思った。

 差別は、自然にはなくならないということだ。

 あのヘイトスピーチに眉をひそめる人々は、この本を読むべきだ。というのも、ヘイトスピーチに曝されている人たちの現状を知ることができるからだ。現状認識から、解決への道が導き出されるはずだ。

  
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