浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)

2013-12-23 20:43:00 | 読書
 この本は読む価値あり。

 想田さんは、現在が「熱狂なきファシズム」へと向かっていると警告する。ほんとうに真面目に、今の日本社会の現状を憂い、この現状を分析しようとしている。

 そのなかで、現在の日本の民主主義が「消費者民主主義」であるとし、人々は「消費者」、つまり政治行政からサービスを受けるだけの受け身の存在であると認識しているのではないか、そうではなく民主主義制度下の国民は、主権者として、「みんなのことは、みんなで議論し主張や利害をすりあわせ、みんなで決めて責任を持とう」(58頁)ということでなければならないと主張する。その通りである。

 だが、こういう考え方をすると、それを批判したり揶揄したりする人たちが多数出現する。

 想田さんのブログに、想田さんがあのホリエモンこと堀江貴文とツイッターで議論したことがあったそうだ。東京でのオリンピックの開催についての議論だ。福島原発問題が全く解決していないのに、オリンピックを開催することに想田さんは異議を唱えたのだろう。

 まずそのブログを紹介する。

http://documentary-campaign.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html

 想田さんと堀江との応酬をまとめてくれた人がいたようで、そのまとめのなかの赤字にしたところ、これこそまさに多数派の感情なのだろうし、多数派はその感情に乗っていろいろ発言しているのだ。そこには「知的営み」はない。人々は、どういう状況であっても、おそらく幸せなのだ。彼らには、民主主義なんか、どうでもいいのかもしれない。

堀江は、想田監督の異議を「ウザい」「ヤバい」「なんか怖いっす」と原始的な生理的嫌悪感を述べる言葉でつぶやき、それに対して、多数のフォローワーから、「せっかく涼しくて気持ち良いと思たら、堀江さんが気持ち悪い人と戦っていた」との、同じく生理的嫌悪感に同意するようなコメントが入る。

フォローワーからみると、「堀江軍994120 対 想田軍29650 」であり、堀江が多数派である。使用済み核燃料の問題はあいまいにしてもかまわない、なんでそんな先のことを考えて暗くなっているの、マゾ、キモい、オリンピックも決まったし楽しもうよ、というのが、多数派である。

「これまで安全だし、地震が起きてもたいしたことなかったから、なんで、電源喪失の事なんか考えないといけないの?キモい、左翼」という論理とつながりる。TPPだって、「なんでそんなにクヨクヨするの?牛丼安くなるじゃん。」ぐらいだろう。

クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。「キモい、怖い、マゾ」であり、排除である。


 そしてもう一つ。これも複写させていただく。

 アーサー・ビナードさんが、今年8月にこういうことを話していたそうだ。

「実は、東京に、オリンピックが来るんです!!日本政府と僕の母国が、絶対に東京でやらせたいんです。オリンピックが来ることには、大きな意味がある。2020年まで待つのではなく、2013年のこの時期に、「東京に決まりました!」という発表には意味がある。どういう意味かというと、安全宣言!、安全宣言!!このタイミングで、実は、「安全宣言」が必要なんです。今、核のからくりに目覚めている人が増えているんです。多くの人が行動し始めている。日本政府と僕の祖国の核利権が、そこで安全宣言を出して、もう一度、みんなを思考停止状態にして、戦後ず~っとやってきたアンポンタン国民作りを、もう一回再稼働させて、日本人を被曝させながら、みんなをジリジリ殺しながらも、思考停止状態に戻したい。
そこで、一番、日本人がアンポンタンになるのは何かというと、東京オリンピック!!」
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追及を続けること

2013-12-23 17:48:53 | 政治
 平成版治安維持法たる特定秘密保護法は廃止されなければならない。そういう方向性をもって組み立てられなければならない。マスメディアは、もっともその法の攻撃対象にされるわけだから、廃止に向けた報道は欠かしてはならない。

 『東京新聞』は、其の立場を明確にしている。今日の記事。

自民、秘密法報道に反論文書
2013年12月23日

 自民党の反論文書が取り上げた東京新聞の記事八本、延べ十カ所のうち六カ所は特定秘密保護法で「テロ」の定義が拡大解釈される恐れがあると指摘した内容だ。

 反論文書は、いずれの記事も「事実に反する」と主張。根拠として「テロ」の定義を定めた一二条を引用し「拡大解釈の余地はない」としている。

 しかし、条文は「政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人に強要する」だけでテロと解釈されかねない書き方になっていると日弁連が指摘し、本紙も繰り返し報道してきた。実際、国会周辺のデモをテロと結び付けた自民党の石破茂幹事長のブログでの発言もあり、自民党の反論で懸念は払拭(ふっしょく)されない。

 文書は「法案は憲法が保障する国民の権利を制限しかねず、民主主義を揺るがす重大な問題点をはらんでいる」との記事にも反論。「本法は、国民の知る権利に資する報道または取材の自由に十分配慮しなければならない旨を定めている」と主張している。だが、本紙が「配慮」は努力規定にすぎず、知る権利が担保されたわけではないと指摘してきた点には答えていない。

 毎日新聞の「国会や司法のチェックも及ばない」という記事には「国会の求めに応じ、特定秘密を提供しなければならず、国会で必要な議論ができる」と反論。確かに、法律上は国会に特定秘密を提供できることになっているが、政府が「安全保障に著しい支障がある」と判断すれば出さなくてもよいとする規定もあり、すべての秘密が提供されるわけではない。


 そして社説。


秘密保護法 自民の「反論」は正当か
2013年12月23日

 特定秘密保護法を批判する報道に対し、自民党が「反論」と称する文書を同党の国会議員に配布した。反論権は十分に認め、謙虚でありたい。それを踏まえても、中身には疑問を持たざるを得ない。

 文書のタイトルは「特定秘密保護法に関する誤った新聞報道への反論」だ。東京新聞(中日新聞東京本社)や朝日新聞、毎日新聞の報道や社説を二十三本、取り上げて、それぞれ逐条的に「反論」を加えている。

 例えば、「『行政機関の長』が、その裁量でいくらでも特定秘密を指定できる」と書いた新聞について、「反論・事実に反します」と冒頭で記す。さらに「特定秘密は、法律の別表に限定列挙された事項に関する情報に限って指定するもので、(中略)恣意(しい)的な運用が行われることはありません」と記している。

 問題なのは、肝心の別表の中身があまりに茫漠(ぼうばく)としていることだ。外交分野では「外国の政府との交渉」と書いてある。こんな言葉では、どんな交渉も含みうる。拡大解釈も、恣意的な運用も可能であろう。どこが「限定」していると言えるのか、不可解というほかはない。

 「国会や司法のチェックも及ばない」と書いた新聞にも、「反論・事実に反します」とし、「国会の求めに応じ、特定秘密を提供しなければならず、国会で必要な議論ができます」と書く。

 この記述は、議員が誤解しよう。たしかに国会の秘密会に提供する定めはある。だが、行政機関の「長」が「安全保障に著しい支障を及ぼすおそれがないと認めたとき」に限られる。

 そもそも特定秘密とは「安全保障に著しい支障があるため、特に秘匿するもの」である。支障がないと行政側が判断する情報は元来、特定秘密になりえない。法を読む限り、論理矛盾でないか。

 テロリズムの定義をめぐっても、「反論」があった。政府とは異なる解釈ができる条文の書き方で、根源的な問題である。法律自体が欠陥なのだ。

 自民党の文書は「一部の新聞は誤情報を流して国民を不安に陥れています」と記している。批判に背を向ける姿勢がうかがえる。

 報道機関は良心に従い、権力を監視し、問題点があれば、報道し、言論を述べる。野党も追及する。国民もデモなどで声を上げる。民主主義社会では正常な風景である。国民を不安に陥れるのは、秘密保護法そのものである。
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無知で悪いか!

2013-12-23 08:10:05 | 読書
 買ってあった『日本は民主主義を捨てたがっているのか』(岩波書店、ブックレット)を読みはじめた。想田和弘という映像作家が書いた本である。

 まだ全部を読み終えたわけではないが、ボクはこの本は、多くの人に是非読んで欲しいと思う。

 さてまだ途中ではあるが、想田さんはツイッターで国会議員の片山さつき他の人たちといろいろ議論しているとのこと。そこで共通していることは、「知らなくてもいい」ということだ。

 自民党憲法草案という、想田さんがその憲法は「国民の基本的人権が制限され、個人の自由のない、国家権力がやりたい放題できる、民主主義を捨てた全体主義の国」をつくろうとしていると断じる(その通り!!)草案について、国会でこういう討議がなされたことが紹介されている。

 民主党 小西洋之議員「安倍総理、芦部信喜という憲法学者を御存知ですか?」
 安倍首相 「私は存じあげておりません」

 そして小西議員は他の憲法学者をあげるのだが、首相は「存じあげていない」と答える。しかし憲法を変えようという政党の党首が、芦部という戦後憲法学の権威者について「知らない」と堂々とこたえるところに、問題がある。

 想田さんは、首相が無知であることをツイッターで指摘した。すると、「芦部とかどうでもいいよね」、「どうでもいいです。しつこい。私もそんな人知らんわw 知らない事を「恥ずかしいね」って罵倒される可能性はだれにでもあるものです」など、安倍擁護論が寄せられたという。

 しかし想田さんは思う、首相という国家の最高権力者として、安倍首相には豊富な知識や的確な判断力は必要ではないか、と。だが擁護者たちはそうは思わないらしい。

 ボクは、日本人はあるときから、「無知に居直る」ことを始めたと思っている。昔は教室に於いて、「知らないことは恥ずかしい」という空気があった。「知」に対する謙虚さ、というものが存在していた。しかしいつの頃からか、「知らなくてもいいじゃないか」という空気に変わった。ボクは何となくそうした変化があったことを覚えている。

 もちろんそうした高校生は少なかった。それがだんだん増えていき、彼らはインターネットのなかで、「無知である自分でもよいのだ」という確信を確かめ合ったのではないか。いやインターネットだけではなく、たとえば定期試験の結果を見せ合って、できない者同士が喜び合っている姿が、あるときから見られ始めた。昔は、定期試験の点数を見せ合うことはあまりなかった。あるときから隠さなくなり、低い点数を言い合って喜ぶ姿がでてきたのだ。すると、低い点数でも良いと思う生徒たちはまったく勉強から逃亡し始めた。高校生にとって「知」は不要であるという雰囲気が醸成されてきた。他方、大学受験を志向する高校生は、入学するために勉強はするが、受験の勉強だけをするようになった。あたりまえだ、大学側が入試科目を減らし、入りやすくしたからだ。それだけではない、勉強しないできた高校生を入学させるために、AO入試だとか、ありとあらゆる試験形態を導入して、大学は勉強しなくても入ることができる場となった。あらゆる段階で、「知」はなくてもいいよ、と言い始めたのだ(にもかかわらず、小中学校では学力テストがどうのこうのと騒いでいる。そうではなく、学校や社会では「知」がとても大切である、という雰囲気をつくり出すことこそが求められているのではないか。まあでもそれも難しい。学校にもはや知的な雰囲気は残っていないからだ。まず、教員が勉強しないし、本も読まない)。
 
 どこの高校でも、つまり「知」はいらなくなったのだ。大学に合格するための手段としての「知」、高校では赤点をとらなければよいという低いレベルの「知」だけがまかりとおっている。教員の側も、それに対応した「知」のみを提供するようになっている。

 「知」に対する謙虚さがなくなった日本人には、安倍首相が似つかわしい、ということだ。無知に居直る国民と無知のまま政治の舵取りをする安倍自民党政権。

 今は、「無知の時代」なのだ。「無知」が大手を振って闊歩している。しかしその先には「地獄の門」が待っているはずだ。
 
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