今ボクは「国学」を脱構築する作業に取りかかっている。なぜそれをとりあげるか、もちろんその背景に、現代日本の様相がある。現代日本の様相に非常な批判精神を持っているが故に、ボクは「国学」を俎上にあげるのだ。
そして現在の様相を貫くことばは、反知性主義ではないかと思い当たった。「国学」についても、本居宣長は、『古事記』に記されていることはいかに荒唐無稽のことであっても、「信じる」という立場で『古事記』を「研究」した。理性的に、あるいは合理的に、批判的精神を発揮することはなかった。
今、安倍政権がおこなうことは、すべて「反知性」的なことばかりである。そして安倍政権を支持する、たとえばネトウヨといわれる面々は、知性のかけらもない姿をさらしている。あの在特会のデモで叫ばれていることばは、これ以上汚い言葉はないような、悪罵で覆われている。
このような反知性主義は、「国学」に発して、1930年代にもういちど台頭し(たとえば「浪漫派」)、そして2010年頃にまた台頭してきている。理性的、合理的に考えることをしないで、とにかく「(盲目的に)信じる」という姿勢は、何も見えない「暗黒」のなかに入り込んでいくということである。そして確かにそういうところへ入り込むには「勇気」というか「無謀」というか、そういう意志が必要なのだろうが、今はこのような雰囲気があるように思う。
現在を特徴付けることばは、「反知性主義」である。
そして次に考えることは、この「反知性主義」とは、どのように闘えばよいかということだ。これはきわめて難しい。その答えを、とにかく探し出すしかない。
そして現在の様相を貫くことばは、反知性主義ではないかと思い当たった。「国学」についても、本居宣長は、『古事記』に記されていることはいかに荒唐無稽のことであっても、「信じる」という立場で『古事記』を「研究」した。理性的に、あるいは合理的に、批判的精神を発揮することはなかった。
今、安倍政権がおこなうことは、すべて「反知性」的なことばかりである。そして安倍政権を支持する、たとえばネトウヨといわれる面々は、知性のかけらもない姿をさらしている。あの在特会のデモで叫ばれていることばは、これ以上汚い言葉はないような、悪罵で覆われている。
このような反知性主義は、「国学」に発して、1930年代にもういちど台頭し(たとえば「浪漫派」)、そして2010年頃にまた台頭してきている。理性的、合理的に考えることをしないで、とにかく「(盲目的に)信じる」という姿勢は、何も見えない「暗黒」のなかに入り込んでいくということである。そして確かにそういうところへ入り込むには「勇気」というか「無謀」というか、そういう意志が必要なのだろうが、今はこのような雰囲気があるように思う。
現在を特徴付けることばは、「反知性主義」である。
そして次に考えることは、この「反知性主義」とは、どのように闘えばよいかということだ。これはきわめて難しい。その答えを、とにかく探し出すしかない。