大杉栄・伊藤野枝に関する文献を読むと、当然ながら平塚らいてうの名が何度もでてくる。ボクは、平塚らいてうについての伝記などを読んだことはない。書庫にはらいてうの自伝『元始女性は太陽であった』があるのに。
しかし、やはりらいてうも魅力的な女性である。かつてボクが伊藤野枝に心を動かされ、こういう女性こそ、と思ったのは、今途中まで読み進めている『自由、それは私自身』によるものであったという確信めいたものを持ち始めている。つまりこの本は、再読である。
さて野枝が持つ魅力と同じようなものを、らいてうも持っていたことがよくわかる。それは自由でありたいという意志と、それにもとづく自由な行動である。家庭的、社会的、制度的束縛と対峙し、それにぶつかっていく鮮烈な生は感動的でもある。特に野枝の生は、一貫している。
だが、らいてうの場合は、この孫の目から見れば、たいへん内向的で、人の前で話もできないような人だったらしい(「はにかみやで人を恐れ、大きな声がでない・・」)。自らの内面を見つめながら、他方では現実をも忘れずに見つめている、だからこそ時に社会的活動に積極的に進み出て行った。特に戦後に於ける平和運動への積極的関わりは特筆すべきであろう。そしてらいとうが書き記した平和に関する論考は、現在でも十分に価値を持つ。
らいとうは、こう記している。
「わたくしたちは、いつでも現実を視る鋭い眼と、はるかな未来を見通す長い眼と、心の内側を凝視する、かつて瞬をしたことのない深い眼とーこの三つの眼をもって生きたいと思います」(再引用 254頁)
らいとうがもっていたこの三つの眼は、日本人がもつべきことなのであろう。この本を読み、らいてうの生き方、考え方にも興味を持ってしまった。
しかし、やはりらいてうも魅力的な女性である。かつてボクが伊藤野枝に心を動かされ、こういう女性こそ、と思ったのは、今途中まで読み進めている『自由、それは私自身』によるものであったという確信めいたものを持ち始めている。つまりこの本は、再読である。
さて野枝が持つ魅力と同じようなものを、らいてうも持っていたことがよくわかる。それは自由でありたいという意志と、それにもとづく自由な行動である。家庭的、社会的、制度的束縛と対峙し、それにぶつかっていく鮮烈な生は感動的でもある。特に野枝の生は、一貫している。
だが、らいてうの場合は、この孫の目から見れば、たいへん内向的で、人の前で話もできないような人だったらしい(「はにかみやで人を恐れ、大きな声がでない・・」)。自らの内面を見つめながら、他方では現実をも忘れずに見つめている、だからこそ時に社会的活動に積極的に進み出て行った。特に戦後に於ける平和運動への積極的関わりは特筆すべきであろう。そしてらいとうが書き記した平和に関する論考は、現在でも十分に価値を持つ。
らいとうは、こう記している。
「わたくしたちは、いつでも現実を視る鋭い眼と、はるかな未来を見通す長い眼と、心の内側を凝視する、かつて瞬をしたことのない深い眼とーこの三つの眼をもって生きたいと思います」(再引用 254頁)
らいとうがもっていたこの三つの眼は、日本人がもつべきことなのであろう。この本を読み、らいてうの生き方、考え方にも興味を持ってしまった。