1945年以前の日本の社会は、大日本帝国憲法下、自由や人権が強権により抑圧されていた。働く人々の権利保障もなかった。
しかし、1945年以降、労働基準法や労働組合法、そして何よりも日本国憲法が制定され、労働者の権利が守るべきものとして力を発揮するようになった。
とはいっても、西欧のレベルにまで達することなく、日本の労働者の権利保障の状態は1980年代後半以降、下降線をたどるようになった。その背景には、本来労働者の権利を守り、さらに拡充すべき労働組合が力をなくしていったからだ。全国的な労働組合組織の「総評」が解体され、それが「連合」になってから、労働組合は労働者の権利を守り拡充するという役割を放棄し、みずからの会社を守り、その会社から「いただく賃金」だけをアップさせていこうというものに変質した。すでに多くの労働組合は、労働者の権利を守るために存在しているわけではなく、労働組合の人事は、会社の総務部人事課が采配するようになっている。
労働者の力が弱くなるということは、相対的に経営者側の力が強くなるということになる。厳しい労働条件のもとで、あるいはセクハラやパワハラで迫害されるなど、そうした労働者が増大する社会状況を背景に、あまりの非人間的な扱われ方に人間の尊厳をかけて闘いに立ち上がる人々が、少ないけれども確実にいる。
労働法の基本的な理念は、労働者は立場が弱いからこそ、団結権、さらに団体交渉権が保障され、そのうえに団体行動権が存在する。労働組合が団体行動権を行使すれば、当然会社側に不利益が生ずる。労働者の権利は、それを前提にして組み立てられているから、労働者の団体行動がたとえ違法なことを行っても、正当な争議行為のもとではその違法性が阻却されることになっている。
ところが、今日来た『週刊金曜日』を見て驚いた。最近は、労働者・労働組合がそうした権利を行使しようとすると、会社側が裁判所に「営業妨害」、「平穏権の侵害」だなどと訴え、裁判所はそうした訴えを認めてしまうというのだ。
今や、経営者は裁判所を「信頼」しているというのである。
もともと裁判所は国家権力の一つであるから、最終的には国家権力を擁護するのであるが、しかし個々の労働者の権利に関わるような事例は、経営者から見れば明らかに社会的弱者である労働者の主張を認めることが多かった、とボクは記憶している。
しかし今や、裁判所は経営者の味方になっているようだ。
ああ、世も末だ。ここまで権利保障のレベルが、先進国といわれる日本で低下しているとは思わなかった。
こういう社会になると、多くの人は泣き寝入りするか、それとも「革命」(暴動)を起こすか、選択の幅はなくなってくる。社会の安定という観点から見て、これはあるべき事態ではない。
日本は、経営者、国家機構が「団結」して、野蛮な資本主義を再生しようとしているようだ。