選挙が行われている。浜松では市長選、市議会議員選挙、県議会選挙であるが、例年よりも静かであるような気がする。少なくとも、夜はあの宣伝カーは動いていない。
候補者は、投票してもらわないと困るので、この時期だけ平身低頭する。当選したら議員は「先生」と呼ばれ、だんだん高慢になる。もちろんそうならない議員もいるが、保守系の人間はほとんどそうなる。
すでに昨年から選挙運動は始まっていて、立候補者とその周辺の人々は忙しく活動していた。
さて今日、朝日新聞社が発行している『Journalism』四月号が届いた。特集は「選挙報道はどう変わるべきか」である。まだ2篇しか呼んでいないが、興味深い論考が多いように思う。最近の『Journalism』は、なかなか読ませる内容が多い。
巻頭は、映画作家の想田和宏氏。「ニッポンの選挙には「議論」が欠けている 放送法を理由に腰が引けたテレビの選挙報道」という長い題であり、それだけで内容が予想できる。
日本の選挙も選挙制度も、「政策論争が起きないように設計されている」という指摘がある。これは歴史的にそうであって、要するに政治権力が1925年に普通選挙法を成立させたときに、いわゆる無産政党の伸張を阻止するためにつくりあげた制度で、それが戦後70年の今もその精神が貫かれているのである。
相田氏は「日本の選挙には、「議論」が不在なのである」とも記しているが、その通りであって、だからこそ地方議会には「議論」がない。要は議論できるような人は議員にほとんどならないのである。
テレビについては、以下のような紹介がある。テレビ局で報道の最前線にいる人の話。
番組で安倍政権の方針や対応に批判的な視点を示すと、すぐに官邸から抗議の電話が入るので、番組作りをするときには常に「」官邸がどう文句を言ってくるか」を考えることが常態化しているというのである。
そうして、テレビ局は、“自粛”に走る。
なおこの指摘は面白い。
選挙運動を手伝うことは、地元の権力構造への入口として機能している
地元の団体に参加していると、選挙に積極的に関わっている人の姿を見ることもある。たしかに、指摘されていることは十分あると思う。庶民のなかには、権力や権威とつながることが好きな人が一定数いるのである。
候補者は、投票してもらわないと困るので、この時期だけ平身低頭する。当選したら議員は「先生」と呼ばれ、だんだん高慢になる。もちろんそうならない議員もいるが、保守系の人間はほとんどそうなる。
すでに昨年から選挙運動は始まっていて、立候補者とその周辺の人々は忙しく活動していた。
さて今日、朝日新聞社が発行している『Journalism』四月号が届いた。特集は「選挙報道はどう変わるべきか」である。まだ2篇しか呼んでいないが、興味深い論考が多いように思う。最近の『Journalism』は、なかなか読ませる内容が多い。
巻頭は、映画作家の想田和宏氏。「ニッポンの選挙には「議論」が欠けている 放送法を理由に腰が引けたテレビの選挙報道」という長い題であり、それだけで内容が予想できる。
日本の選挙も選挙制度も、「政策論争が起きないように設計されている」という指摘がある。これは歴史的にそうであって、要するに政治権力が1925年に普通選挙法を成立させたときに、いわゆる無産政党の伸張を阻止するためにつくりあげた制度で、それが戦後70年の今もその精神が貫かれているのである。
相田氏は「日本の選挙には、「議論」が不在なのである」とも記しているが、その通りであって、だからこそ地方議会には「議論」がない。要は議論できるような人は議員にほとんどならないのである。
テレビについては、以下のような紹介がある。テレビ局で報道の最前線にいる人の話。
番組で安倍政権の方針や対応に批判的な視点を示すと、すぐに官邸から抗議の電話が入るので、番組作りをするときには常に「」官邸がどう文句を言ってくるか」を考えることが常態化しているというのである。
そうして、テレビ局は、“自粛”に走る。
なおこの指摘は面白い。
選挙運動を手伝うことは、地元の権力構造への入口として機能している
地元の団体に参加していると、選挙に積極的に関わっている人の姿を見ることもある。たしかに、指摘されていることは十分あると思う。庶民のなかには、権力や権威とつながることが好きな人が一定数いるのである。