『ハンナ・アーレント』という映画を見たことについて、以前ここに書いたことがある。
今月号の『Journalism』4月号、そこに千木良悠子氏の「混迷の社会状況の中で、確かな灯りを探して知の遺産に思いを馳せる」という文を発見した。千木良氏は作家・演出家・俳優である。といっても、初めて知る名である。
その文が、『ハンナ・アーレント』に言及している。氏は、それだけではなく、プラトンの『饗宴』、ソンタグの『反解釈』、橋本治『恋愛論』にも言及しているのだが、しかしボクはこれらについては読んだことがなく、氏の文意があまり読みとれなかった。
氏は、このように書く。なかなかの達意の文である。
多様性の名の下に、個人の嗜好は無限に細分化され、余さずマーケティングの対象になり、あらゆる文化的な事象は、欲望充足のための装置となりかけてしまっている。芸術批評は機能せず、若干の才能は投資の対象になるか否かで価値判断される。時代と対峙し、歴史的作品を遺した先行作家たちの業績は容易く忘れ去られる。むしろ忘れさせるように社会が機能しているようにすら思われる。
知の価値は無残に凋落し、思考の場所は閉ざされ、情報の濃霧が人々の視界を遮る。気がつけばいつのまにか頼るもののない荒野に置き去りにされている。そこは手に握る草1本も生えていない砂と岩に覆われた見知らぬ土地で、私たちは乾いた風に嬲られながらあてどなく彷徨っているうちに、かつて自分たちが知性の水で喉を潤わせていた記憶すら失ってしまうのだ。
この文で、「嬲る」(なぶる)が使われているが、ボクは文中にこの語が使われるのをはじめてみた。
内容的には、現在の状況を的確に捉えているように思えた。なるほど「知の価値」は無残に凋落している。書店に行けば、「知」とはまったく無縁の地平から生み出されてきた捏造と虚偽、「思いつき」などが詰まった本がうずたかく並べられている。その積まれ方が、かかる本がよく売れていることを物語る。
そういう状況の中で、『ハンナ・アーレント』の映画で、ハンナが講義で語ったことばが生きてくる。氏も引用しているのだが、ハンナはこう講義したのだ。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。・・思考の風がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで、破滅に至らぬよう
現在の日本には、思考をしなくなった人が増えていると思う。特に官僚や裁判官だ。
アイヒマンは、「自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない、命令に従っただけなのだ」と語る。ハンナ・アーレントはそれを“悪の凡庸さ”と呼ぶのだが、権力者の意向を忖度して考え行動する人間が増えている。思考しないことがラクであり、思考しないで命令に従っていることが、「立身出世」の捷径だからだ。
そういう場に、日本全体を替えてしまおうという力が強くなっている。そうであってはいけない教育や研究の場も、あるいはメディアなど公共的な場も。
息を潜めていたアイヒマンは、日本の各所で、堂々と動き始めている。そして「何も考えずに、命令に従っていれば良いのだ」と号令をかけ始めている。
今月号の『Journalism』4月号、そこに千木良悠子氏の「混迷の社会状況の中で、確かな灯りを探して知の遺産に思いを馳せる」という文を発見した。千木良氏は作家・演出家・俳優である。といっても、初めて知る名である。
その文が、『ハンナ・アーレント』に言及している。氏は、それだけではなく、プラトンの『饗宴』、ソンタグの『反解釈』、橋本治『恋愛論』にも言及しているのだが、しかしボクはこれらについては読んだことがなく、氏の文意があまり読みとれなかった。
氏は、このように書く。なかなかの達意の文である。
多様性の名の下に、個人の嗜好は無限に細分化され、余さずマーケティングの対象になり、あらゆる文化的な事象は、欲望充足のための装置となりかけてしまっている。芸術批評は機能せず、若干の才能は投資の対象になるか否かで価値判断される。時代と対峙し、歴史的作品を遺した先行作家たちの業績は容易く忘れ去られる。むしろ忘れさせるように社会が機能しているようにすら思われる。
知の価値は無残に凋落し、思考の場所は閉ざされ、情報の濃霧が人々の視界を遮る。気がつけばいつのまにか頼るもののない荒野に置き去りにされている。そこは手に握る草1本も生えていない砂と岩に覆われた見知らぬ土地で、私たちは乾いた風に嬲られながらあてどなく彷徨っているうちに、かつて自分たちが知性の水で喉を潤わせていた記憶すら失ってしまうのだ。
この文で、「嬲る」(なぶる)が使われているが、ボクは文中にこの語が使われるのをはじめてみた。
内容的には、現在の状況を的確に捉えているように思えた。なるほど「知の価値」は無残に凋落している。書店に行けば、「知」とはまったく無縁の地平から生み出されてきた捏造と虚偽、「思いつき」などが詰まった本がうずたかく並べられている。その積まれ方が、かかる本がよく売れていることを物語る。
そういう状況の中で、『ハンナ・アーレント』の映画で、ハンナが講義で語ったことばが生きてくる。氏も引用しているのだが、ハンナはこう講義したのだ。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。・・思考の風がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで、破滅に至らぬよう
現在の日本には、思考をしなくなった人が増えていると思う。特に官僚や裁判官だ。
アイヒマンは、「自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない、命令に従っただけなのだ」と語る。ハンナ・アーレントはそれを“悪の凡庸さ”と呼ぶのだが、権力者の意向を忖度して考え行動する人間が増えている。思考しないことがラクであり、思考しないで命令に従っていることが、「立身出世」の捷径だからだ。
そういう場に、日本全体を替えてしまおうという力が強くなっている。そうであってはいけない教育や研究の場も、あるいはメディアなど公共的な場も。
息を潜めていたアイヒマンは、日本の各所で、堂々と動き始めている。そして「何も考えずに、命令に従っていれば良いのだ」と号令をかけ始めている。