浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

自民党憲法改正草案(その4)

2013-06-26 08:37:43 | 日記
 ボクがこの草案に違和感を持つのは、こういうこともある。この草案の説明書も言うべき「日本国憲法改正草案Q&A」に現行の日本国憲法についてこう記されている。

 現行憲法は、連合国軍の占領下において、同司令部が指示した草案を基に、その了解の範囲において制定されたものです。日本国の主権が制限された中で制定された憲法には、国民の自由な意思が反映されていないと考えます。

 ボクはこの記述が一つの事実、つまり占領下でマッカーサー司令部によりまず憲法草案が示されたことは認める。だがしかし、なぜそうなったかの説明がいっさいないのも、自民党らしい。知らせたくないことは知らせないという姿勢は、自由を政党名に冠している自民党のいつもの姿である。
 ポツダム宣言を受諾した日本は、大日本帝国憲法の改正を課せられたのだが、しかし政府の周辺にいる人びとには、自ら憲法を作成する、その力がなかったのだ。

 この文の末尾、「国民の自由な意思が反映されていない」というのも疑問である。マッカーサー草案は、議会は一院制であった。それを二院制にしたのは日本人ではなかったか。これは一つの例でしかない。マッカーサー草案はそのまま現行の日本国憲法になったのではなく、20歳以上の男女による選挙によって選ばれた議員たちが国会で十分に審議して日本国憲法として公布された事実をきちんと記すべきではないか。

 ボクは、現行の日本国憲法は「改正」する必要はないという立場だ。自民党の憲法草案は、現行憲法の基本的人権の尊重や平和主義などの原則をなくしてしまう、破壊的なものだと認識している。

 また同時に、現行憲法の制定過程に占領軍が関わっていることは事実であり、その経緯を知ってはいても、良いものはよい、というある種確信みたいなものを持っている。占領軍は白紙の状態で憲法草案を作成したのではないのである。世界の憲法史の流れの中に位置づけられる内容をもっているし(その意味では適当に作成したのではない)、また日本人(鈴木安蔵ら)が作成した憲法研究会案を参考にしてもいる。

 さて、占領下では、現行憲法の制定だけではなく、様々な改革が行われた。自民党の意見だと、「了解の範囲において」作成されたものがよくないというのなら、占領下に行われた農地改革や労働改革、教育改革などもよくないと思っているのだろう。第一次安倍内閣の時、それこそ徹頭徹尾日本人が作成した教育基本法であるにもかかわらず、大きく改悪してしまったのも、その意思があったのだろう。要するに、大日本帝国憲法の時代に戻りたいのである。

 そういう気持ちが出ている。天皇を「元首」にしようというのも、大日本帝国憲法への郷愁のなせる技であろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ことば

2013-06-26 07:51:31 | 日記
 ことばとは、それ自体意味を持つ。それが他者に向けられるとき、意味が伝達される。その場合、伝達しようという内容だけではなく、それに付随したもろもろのことを、時に伝えてしまうことがある。

 他者に何事かを伝えようとするとき、ボクたちはことばを選び出す。ボクたちは伝えようとする何事かを正確に伝えるために、自らの脳に蓄積したたくさんのことばのなかからもっとも適切なものを選び出すのだ。

 しかし、自らの脳には、感情や思考、知識その他諸々のものがあり、それは大海となって存在している。ボクたちは一人ひとり、その大海、すなわち独自の「観念空間」をもっている。それらはことばで整序されているのだが、整序されていないものもある。考えるということは、整序されていることばに、未だ整序されていない何事かを関連づけていくことでもある。考えることをしないと、未だ整序されていない何事かが、「観念空間」の大海に漂流し続けることになるか、あるいは大海の底に沈んでいくかしてしまう。

 何事かを正確に伝達するために、「観念空間」から選び出すことばは、すでに整序されたことばでなければならない。未だ整序されていないことばを選んでしまうと、そこに意図せざる意味をつけ加えてしまうことがある。もちろんことばとしての意味はあるのだが、他者はそのことばのなかに、それが選ばれた後景を考えてしまうことがある。

 ことばに対する感性を磨かなければならない、と思う。同時にことばの大切さ、恐ろしさも。

 ついでに記しておけば、行間にたっぷりと意味をこめた文というものもある。ボクはそれは不得手であるが、ある学者が一般向けに書いた本には、その行間に筆者の思いや情熱が凝縮されていると感じたこともある。その学者は、二つの文体を持っている。純然たる学術論文を書く場合と、そうでない場合と。

 何事かの意味を伝えようとするとき、無意識にことばを選んではならない。無意識に選ばれたことばは、時には刃となりうる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案(その3)

2013-06-25 15:35:21 | 日記
 第一章は「天皇」についてである。

 ボクはこの草案をみて、やはり天皇制ではなく、共和制にすべきだったと思う。天皇制は、時の権力者に大いに利用されてしまうからだ。

 それは第3条に関わる。第3条は以下の通りである。

   (国旗及び国歌)第三条  国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
              2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。


 1999年「国旗・国歌法」が制定された。同法の本則はたった2条である。
     第1条 国旗は、日章旗とする。
     第2条 国歌は、君が代とする。

 制定の際、強制はしないよいうようなことを政府は言明していたが、実際はその後東京や大阪の卒業式などで強制の嵐が吹き荒れた。

 東京都の教育委員であった米長邦雄が、2004年の天皇主催の園遊会で、とくとくとこう語った。「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」。すると、天皇は「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と語った。まあ常識的な内容であって、とりたてて問題とするものではない。これが普通なのだ。米長らが異常なのだが、いまもってその嵐は吹き荒れている。もちろん、それに抗する人々がいるからこそ、憲法草案に、より強制の度合いを強めようとして第3条を草案に入れ込んだのだろう。現天皇すら首をかしげることをさらに強化しようとしているのだ。
 
 それも、第2項も書き入れ、国民に「国旗及び国歌」の尊重義務を課そうとしている。

 フランス憲法も、国旗、国歌を憲法で規定している。しかしその場所は、第一章主権の第2条である。以下に示すが、こういう人権規定や人民主権の流れの中に、国旗や国歌が位置づけられているのである。
  
  
  フランスは、不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出生、人種または宗教の差別なく全ての 市民に対し法律の前の平等を保障する。フランスはすべての信条を尊重する。
  国旗は、青、白、赤の三色旗である。
  国歌は、ラ・マルセイエーズである。
  共和国の標語は、「自由・平等・博愛」である。
  共和国の原理は、人民の、人民のための、人民による政治である。


 もちろん自民党草案にある第2項なんてない。この条項には、自民党の草案関係者の日の丸・君が代を国民に強制しようとする強い意志を感じる。しかし、この「国旗及び国歌」が第一章天皇のところにあるのだ。つまり、日の丸・君が代が天皇制と密接な関係にあることをここで証明しているのである。

 ボクは、しかし、自民党関係者のために、ここに置いていいのかと、逆に心配してあげるのだ。天皇制とリンクさせる危険性についてである。

 それは、第4条の「元号」にもいえる。
 
(元号)第四条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。

 これは第一章に内容的に入れざるを得ないものではあろうが、元号法がすでにあるのだ。こうして憲法に入れ込もうという背後に、これもまた強制しようという魂胆があるのだろう。すでに元号よりも西暦のほうが一般的になっているのだから、これはアナクロニズムともいえる。

 しかし元号表記の本質は、天皇の生き死にによって国民の時間の観念を支配する目論見であるから、天皇を祭りあげようとする者たちには、必須の条文なのだ。だが、元号や一世一元の制は、もとはといえば中国にルーツがある。ボクは、ナショナリストたちに、それでよいのか!と言いたくなってしまうのだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案(その2)

2013-06-25 15:14:35 | 日記
 もう少し前文に言及する。前文というのは、憲法全体の趣旨、沿革などを格調高くうたいあげるものだと思っていた。石原慎太郎などという政治家が、現憲法の前文を翻訳調だと揶揄していたが、私はそうは思わないし、理想に燃えとても立派な内容が書かれていると思う。

 それにひきかえ、たとえば第2段。「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」とある。「大戦の荒廃」となると、あたかも被害者というか自然現象で起きたかのような記述となっている。そういう姿勢で「国防軍」を設置するというとき、かつて日本軍国主義に蹂躙されたアジア太平洋諸地域の人々は、どう思うだろうか。
 また、だいたいにして3・11の東日本大震災における原発事故の収拾がつかないままでいるのに、それを「乗り越えて」とあるのも、自民党の方々が3・11をあまり深刻に受けとめていないのだということを感じる。

 ちなみに第3段。「(A)日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び(B)家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」であるが、(A)の主語は「日本国民」、(B)の主語は「家族や社会全体」でいいのだろうか。相互の関連を持たない語句が結合されているため、趣旨が不明確になっていると思われる。悪文である。

 それにひきかえ、石原が「翻訳調」であるとする現憲法の前文は、この草案に比べ格調が高いし、内容も素晴らしいものだ。また主語も曖昧ではない。あらためてここに掲載しておこう。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案(その1)

2013-06-25 06:21:46 | 日記
 じっくりと、自民党の日本国憲法改正草案を検討している。

 まず全体的な感想だ。ボクは、これに携わった人々の立ち位置に、こういう人たちもいたのかと空恐ろしくなった。というのも、基本的にすべて上から目線であって、社会的弱者や社会の矛盾などについては一切の顧慮をしていないということだ。彼らの立ち位置は、常に国家からの視線であって、人々をどう統治するのかという視点で貫かれている。

 彼らは選挙を通して一時的に議員として存在しているにすぎないのに、あたかも彼らは人々の上に君臨する絶対主義的な国王の周辺にいるかのように、統治者としての自覚にあふれている。それほどまでに自信をもつのはどうしてなのかと思うのだ。

 統治者としての彼らの視野に、もちろん権利の主体としての個人は存在せず、同時に「憲法」のあるべき姿を国際的かつ歴史的に検討しようという意欲もなく、ひたすらひとりよがりの独善的かつナショナリスティックな内容を、これでもかこれでもかと投げ込んでいる。

 安倍政権を、英国のエコノミスト誌は「ウルトラ・ナショナリスト」と規定していたが、その自民党の憲法草案であるが、安倍の周辺にいるウルトラナショナリストたちだけがつくったのではあるまい。しかしこういう内容であるということは、自民党にはそうした輩がいっぱいいるという証左でもある。

 試しに彼らの草案の「前文」を読んでみればいい。

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。


 前文には、彼らが日本国民のことを歯牙にもかけていないことを証明している。国民は、「国家を形成」する、「国を成長させる」、「国家を末永く子孫に継承する」ことのために存在している者たちなのである。まさに国民は、国家の従僕であるかのようなのだ。ことばとしての「国民主権」はあるが、この前文の行間に、その思想はまったく入ってはいない。

 また「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合」うとあるが、「基本的人権を尊重する」は、防人としての国民と、飛鳥時代の「17条の憲法」の語句との間にはさまれてその意義を抹殺され、同時にそれとて「国家を形成する」手段として位置づけられている。

 堂々とこのような代物を出してくる自民党の諸氏には唖然とするほかないし、これが英訳されて国際社会に出されていけば、ここでも嘲笑の的になるだろう。

 恥ずかしい人たちが、政治権力を掌握している。その政党の人々が国会や地方議会の選挙で当選していく。国民の知的レベルの問題でもあるということを痛感する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呪詛

2013-06-24 20:54:52 | 日記
 町田の住人の風邪はなかなか治らない。その原因は、誰かが呪詛しているからだという。そんなことはないと思うが、暖かくなれば治っていくだろう。

 さて今日は久しぶりに畑に立った。最近は梅雨らしく雨がよく降るので、雑草の生長が著しく、部分的には野菜が雑草に隠れてしまっていた。

 そのため、今日は2時間ほど除草作業を行った。2時間ほどやれば、畑仲間からとったなと思われるくらいになる。枝豆のところなどを集中的に除草した。

 除草しながら、呪詛ということを考えた。

 『浅羽町史』編纂の過程で、大正時代の青年団の機関誌が発見された。浅羽町というのは、まったく当時は純農村であった。したがって青年たちはほとんどが農業従事者であった。他方、大正期は都市文化が成立し、農村から都市への人口流入があった時期だ。カルピスが売り出され、映画館ができたりした。サラリーマンが出てくるのもこの頃だ。都会で中流家庭の生活が始まった。

 青年団の機関誌には、都会へのあこがれが強く書かれていた。毎日毎日戸外で農作業に従事する。暑い日も、寒い日も、みずからの肉体を駆使する。土にまみれ、日に焼け、汗を流す。一方で雑誌などに書かれる都会での生活。恐ろしいくらいのギャップがあっただろう。

 青年たちは、都会へのあこがれを記す。といっても、ストレートに書くのではない。基本的な書き方はこうだ。都会を肯定的に紹介しながら、しかしボクたちには農村でしなければならない仕事がある、というトーンである。都会生活を体験したい、しかしそれは無理だ、だからガマンするしかない、そのガマンするということを、自らに納得させるように書くのだ。

 今日ボクは、太陽の下、除草しながら、当時の青年たちの気持ちを想像した。

 というのも、先日用事があって東京に行った。有楽町周辺ではきれいに着飾った人々が生活の豊かさを表現しながら歩き回って居た。若い人たちは、東京に向かう。昔も今も、大都会、とくに東京は魅力的である。何でもある。カネがあれば何でも買えるし、おいしいものも食べることができる。

 今も、昔と変わらずに、野菜や米を育てている人々は、みずからの肉体を駆使して、暑さや寒さのなか、じりじりと太陽に灼かれながら農作業を行っている。

 ボクは、先日の東京で過ごした時間を思い出したのだ。畑にでている自分と、繁華街を歩んでいる自分とのギャップを思い切り感じてしまったのである。

 今では、生きる場を、一応自ら選択することができる。都会生活か、それとも地方か。しかし、大正期の農村青年たちは、選択の余地はなかったはずだ。都会の情報を得ながら、ひょっとしたら、都会への呪詛、というものを感じたのではないだろうか。ボクはもう一度、青年たちが書き残した文を読み直そうと思った。ボクの読み方は浅かったのではないか。

 今、日々畑仕事をしていると、今まで見えなかったものが見えたり、考えていなかったことを考えるようになった。

 呪詛というものが、日本社会の奥底に、ボクたちには見えないままに漂流しているのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治に期待できない、しかし・・・

2013-06-24 05:57:09 | 日記
 都議選で民主党が凋落した。前々回の衆議院選挙で、自公政権の格差拡大政策をはじめとした悪政にこりた人々が民主党に投票し、民主党政権を生み出した。おそらく国政改革に対する強い意欲があったと思うし、ボク自身も鳩山内閣が行おうとした政策に期待を寄せたりもした。

 しかし、ほとんど成果を上げないままに、官僚の抵抗にあった鳩山内閣は挫折し、菅内閣は消費税の増税を突然主張、さらに3・11の大日本大震災、さらに原発事故に遭遇、この原発事故は自公政権がもたらしたものといってもよいものであったが、これらの処理の過程でいいように官僚に利用された。そして野田政権。

 この野田政権こそ、民主党をつぶした張本人であろう。ボクはこの野田政権とその施策は、官僚やアメリカなど自公政権を支えていた勢力に完全に利用されたのではないかと思っている。もちろん野田自身もそのような状態を知ってそれに乗っていったのだと思う。

 期待が大きかっただけに、民主党に対する期待はずれが大きかった。民主党はダメ政党であるという認識は、おそらく国民の共通認識となっているだろう。

 そして前回の総選挙の前後にでてきた政党も、離合集散の醜態を見せた。十分にそれぞれの政党の名を国民に覚えてもらうだけの活躍をしないままに、同時に離合集散の故にあまり頼りにならないという認識をつくったまま、国会のなかだけに埋もれてしまった。社会民主党もそのような小政党の離合集散の波に呑まれ、もはや浮かぶ瀬もないほどだ。しかし社会民主党、旧社会党は、小選挙区導入の選挙制度に賛成した時点で、このように過激に凋落することはわかっていたはずだ。ボクですら想像できた。社会民主党を支えてきた総評が解体されてしまっていたからなおさらである。

 そして共産党。都議選では唯一前進したようだ。共産党は、これでまた「方針の正しさとぶれないことが評価された」として、旧来の路線を墨守するだろう。つまり、どことも手を結ばずに孤立して闘うという方針。だが、確かに共産党は頑張っているとは思うが、共産党が頑張っても、その勢力は小さい。小さいところが頑張ってもなかなか成果はあがらない。ボクは共産党は、自分自身の勢力を拡大することだけが目的となって、憲法改悪の動きなどで勝利するということを考えていないと思う。というのは、そういう国政レベルので闘いでは、あまりにも共産党の力は小さいからだ。

 維新が凋落したのは当たり前。そこに集ってくる者どもの浅はかな動機をみよ。橋下の人気を利用して、議員という職について食い扶持に預かろうという魂胆が見え見えである。橋下の言動を見れば、彼がいかにいい加減であるかは明らかである。マスメディアという無責任な権力翼賛機関が面白おかしくまつりあげ、彼のアホな放言がだされて各所から批判がだされると、もうお前を面白おかしく報道するのはやめた、というように放り出す。もう橋下の、政治の世界で生きていく基盤は崩壊するだろう。政治的な識見も、思想も哲学もない橋下は、テレビメディアが好意的に報道してくれなくては困るのである。しかし、テレビメディアを中心とするメディアの、「橋下よいしょ」に乗せられて維新に投票していく「主権者」たちのレベルも相当に低いと言わざるを得ない。

 さて、前々回の総選挙で、政治の改革を求めて民主党議員に投票した人々は、政治というものに大きな失望を抱いたことであろう。それが投票率の低下というところに現れている。

 もう悪政はやめさせよう、という主権者国民の正当な意欲を復活させること、これを考えるべきだ。しかし、その対象となるような政党が存在しないのである。

 政治家諸君は、自分自身の、あるいは自分自身の属する政党のことばかり考え、天下国家をどうするのかということについての順位は、後になっているようだ。前回の総選挙の際に繰り広げられた離合集散は、その現れである。

 今ボクは各所で、人の前で話しをしているが、どこでも「現状はおかしい、何とかしなければ」という機運が強くなっているように思う。そうした人々の期待を受けとめることができる、「世のため、人のため」という高邁な思想を持った人や政党がでてこないだろうか。

 そうした期待は、いつか炎となって燃え上がるはずだ。その期待に、火をつけることができれば、「壊憲」などのウルトラナショナリストたちの野望を食い止めることができるだろう。

 今年は田中正造没後100年、関東大震災90年、大杉栄ら虐殺90年、大正政変100年・・・である。ボクたちは、歴史からいろいろなことを学ぶことができるはずだ。歴史を学ばずに同じ過ちを繰り返すのは「愚」というしかない。1933年、そう今から80年前、日本は国際連盟から脱退して孤立を選んだ。

 ウルトラナショナリストたちの政権である安倍政権は、「壊憲」案を見ると、国際的な理念や常識から大きく離れようとしているようだ。彼らの知的レベルがあまりに低いがゆえに、自民党の「日本国憲法改正草案」は野蛮で暴力的で、ヒューマニズムのひとかけらもないものとなっている。そうした人々を議員として当選させている選挙民のレベルの問題でもあるが、そうした輩の自由にさせるわけにはいかない。

 いつもボクたちに問われている。「どうするの?やるのなら、今でしょ!」ということなのだ。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なるほどね

2013-06-23 20:31:37 | 日記
 東京都議選、自公が躍進という速報が流されてきた。東京都民は自民党がお好きであることは、今まで東京都知事に石原慎太郎を据えていたことからわかっている。

 何も考えない人々が多いということでもある。マスメディアは、『読売』、『産経』、『朝日』など、基本的に自民党の「味方」だから。もちろんテレビメディアもだ。そうした機関の情報にのせられ、その企図通りに動くのだ。そして若者は、2チャンネル。

 自民党の政策は新自由主義。富裕者や大企業をより豊かにし、庶民の生活をないがしろにしていくというもの。庶民も、それがよいようだ。

 人々の行動。こういう政策が続くとこういう困難が生まれる、とボクらは予測して警告する。だが人々は、そんなことには関心を示さずに生きていく、そしてその困難にぶちあたると必死にその困難を乗り越えようと努力する、これは当然のことであるが、その困難がなぜ生じてきたのかには思いをはせない、そしてその困難がなくなると、それを忘れてしまう。

 今までも、これからも、庶民はそうして生きていく。現在のマスメディアは、そうした庶民の生き方に親和的である。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己責任論者・辛坊氏に関するブログ

2013-06-23 18:51:40 | 日記
 紹介だけします。興味があったら読んでください。

http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1468.html

 
 政府は、何があっても、国民を救出する義務があります。あの時の「自己責任論」はふつではなかった。高遠さん等に対するバッシングが、辛坊氏にも行われるのだろうか。行われなかったら、「差別」だし、行われたらそれも問題だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6/23は「慰霊の日」

2013-06-23 18:32:15 | 日記
 今日は、沖縄戦終結の日とされている。沖縄では戦争に関する行事が行われているはずだ。ボクらも、沖縄の歴史や、沖縄戦の諸相、戦後沖縄がおかれた状況、そして今の沖縄を想起しなければならないだろう。

 某社の新人記者によって「極左」といわれた『中日新聞』の今日の「社説」を貼り付けておこう。ボクは、こういう社説を掲げる新聞社が、「極左」といわれるなら、「極左」って正しい!と思ってしまう。

 事実を、豊かな感情で包むという文章も、あってよい。

 
「島守」と慕われた知事   2013年6月23日

 きょうは沖縄県の慰霊の日です。激烈な地上戦で強いられた県民の犠牲を思うとき、「島守(しまもり)」と今も慕われる一人の知事を思い出さずにはいられません。

 島田叡(あきら)さん。太平洋戦争末期、国内で唯一、住民を巻き込んだ大規模地上戦となった沖縄戦で散った、沖縄県最後の官選知事です。

 神戸市出身で東京帝国大学から内務省に入省した島田さんは主に警察畑を歩みます。愛知県警察部長(現在の県警本部長に相当)、大阪府内政部長を経て、沖縄県知事就任の打診を受けます。当時の知事は住民による選挙ではなく任命制でした。

◆死を覚悟した赴任

 一九四五年一月のことです。すでに敗色は濃く、県庁のある那覇市も前年十月の大空襲で、市街地の大半が焼失していました。

 本土への進攻の途上、いずれ米軍が上陸し、地上戦の舞台となることが予想される、緊迫した戦況下での打診です。死をも覚悟しなければなりません。

 いくら戦時中とはいえ断ることもできたでしょう。しかし、大学野球のスター選手でスポーツマンだった島田さんには、逃げるに等しい選択肢はありませんでした。

 島田さんは赴任を即決し、その月の終わりには単身、沖縄県入りして、執務を開始します。

 戦時の知事として最も力を注いだのは県民の犠牲を最小限に食い止めることでした。米軍の激しい攻撃にさらされながらも、県民の疎開と食糧の確保に尽力します。

 その仕事ぶりと人がらで、沖縄の人たちの信頼を得るまでに時間はかからなかったようです。

 四月に入ると米軍は沖縄本島への上陸を始め、日本の沖縄守備軍との間で激しい地上戦が展開されました。しかし、物量に勝る米軍です。守備軍は徐々に追い詰められ、南部へ撤退します。

◆「特別ノ御高配ヲ」

 島田さんも少数の県職員らとともに地下壕(ごう)を転々としながら南部に移動しますが、もはや県政の執行は困難です。六月九日、県組織の解散を命じました。命を無駄に投げ出さないように、と訓示して。

 沖縄戦では、海軍陸戦部隊を率いる大田実少将による海軍次官あて「沖縄県民斯(カ)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の打電が知られています。

 これは、本来報告すべき県組織がすでに通信手段を失っていたため、代わりに打電したものでした。大田少将と島田さんとは「肝胆相照らす仲」だったといいます。沖縄県民に対して後世特別の配慮を、というのは島田さんの願いでもあったのでしょう。

 そして六月二十三日。本島南部の摩文仁(現糸満市)に追い詰められた守備軍司令官の牛島満中将が自決し、日本軍の組織的戦闘は終わります。島田さんもこの時期に摩文仁で最期を迎えたとみられますが、遺骨は見つかっていません。四十三歳という若さでした。

 沖縄は、焦土と化した日本の中でも、原爆投下の広島、長崎とともに、特に大きな犠牲を強いられました。約六十万県民の四分の一が亡くなったといわれています。

 日本の独立回復後も沖縄は七二年まで米軍統治下です。「銃剣とブルドーザー」で土地が強制収用され、基地が造られていきます。

 本土復帰から四十年余りがたつ今も在日米軍基地の74%が沖縄に残り、県民は騒音や事故、米兵による事件など重い基地負担に苦しんでいます。基本的人権の尊重をうたう日本国憲法よりも米兵らの法的特権を認めた日米地位協定が優先され、県民の人権が軽んじられるのが現状です。

 こうした状況の抜本的改善なくして、沖縄に本当の意味での「戦後」「復帰」は来ないのです。

 きょう、摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が開かれ、安倍晋三首相が出席します。今年は外相、防衛相も初の参列です。

 沖縄に寄り添う姿勢を示し、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への「県内移設」に県民の理解を得たいのでしょう。でも、県内で基地をたらい回ししても、基地負担は減りません。

◆犠牲を強いる構図

 米軍基地の重い負担を沖縄に押し付け、平和という果実を本土が享受する構図は、本土防衛の時間稼ぎのために沖縄を「捨て石」にした先の大戦と同じです。

 摩文仁には戦後、島田さんや県職員を慰霊する「島守の塔」が建立されました。島田さんは沖縄のために尽力した「島守」と、今も県民に慕われています。 

 その島田さんが、沖縄の現状を見たら、何と思うでしょう。

 すべての国民が、沖縄の痛みを自分のこととしてとらえ、その改善に少しでも前進しなければなりません。それが、死を覚悟して沖縄に赴任した島田さんの思いに応えることになると思うのです。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体制的であることが「正しい」?

2013-06-23 08:57:36 | 日記
 ジャーナリストは、現状に対する批判意識を持たなければならない。しかし昨今の新聞記者らには、ジャーナリストとしてのそうした気概はないようだ。もちろん、『東京新聞』の「特報欄」担当者のように、鋭く現実に斬り込む記事は時には見える。そうした新聞記者等には頑張っていただきたい。

 だが新聞は総体として、支配層の翼賛機関に堕している。そして新聞経営者たちもそうした機関と化している状態を積極的に是認している。

 最近、新聞を読まない人が増えている、という。ボクは新聞は必要だと思ってはいる。というのも、確かにインターネットや雑誌などでも情報は手に入るが、その場合の情報は自らが欲したから手に入るのであって、自らが気がついていない情報には接することができない。しかし新聞は、様々なことが掲載されているから、自らが気がつかなかった情報、あるいは異なった視点からの情報を手に入れることができる。

 だが、しかし新聞に掲載されている情報が「官許」のものがほとんどであったなら、新聞は国家の情報操作の手段ということになる。現在の新聞、あるいはとくにNHKのニュースなどは、まさにそうした性格をもつ。だから、積極的に新聞を読めとはいえないこともある。

 そして記者たちも、そうした機関と化している新聞に疑いを持たない。

 若者たちと話していて、インターネットから情報を得ているな、と思うことが多くなってきた。2チャンネルで流されている何の根拠もない、学問的裏付けに欠ける情報で満足しているようだ。まあ、学校で行われている情報教育というもののなかに、インターネットで情報を得るというものがあるという。子どもたちはそうした訓練を受ける。インターネットの情報には、歪曲されたもの、真実ではないもの、あきらかに虚偽のもの、あるいは十分に学問的検討が加えられていないものなど、いい加減なものが多い。ボクは、基本的にはインターネットの情報で論を組み立てることはしない。やはり文献や資料を用いる。そうしないと、その論は「砂上の楼閣」になりかねないからだ。

 インターネットからの情報に依存している者に批判的な精神は育たない、と思う。それらの情報は、第三者の審級をまったく受けていない。情報を発したい者は、ストレートに、いかにひどい表現であっても、それをある意味「公共的」なインターネット空間に載せることができる。そしてその情報を信ずる者が現れる。

 残念ながら、日本の教育は暗記中心であって、教科書に書かれてることは「正しい」ものとして取り扱われる。そうした教育を受けてきた日本人は、「疑う」という点において訓練されていない。あるいは、自らが様々な資料や文献を批判的に検討する中で一定の見解をつくりあげるという訓練も、大学以外では受けることはない。

 そういう訓練を受けていないと、批判的な精神は育たないだろう。

 批判的な精神を持つ若者はいなくなっている。由々しき問題だ。

 信じられないけれども、『東京新聞』を“極左”だと断じる新人記者もいるという。体制的であることが「正しい」と思い込んでいる人々が、今、記事を書いている。

 このリンクを読んで欲しい。


http://jcj-daily.seesaa.net/article/367164604.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の講演

2013-06-22 22:14:29 | 日記
 今日静岡で「地域史研究からみた植民地責任」というテーマで話した。

 日本は、あるいは日本人は、戦争中は「一億玉砕」(当時は、朝鮮人や「台湾人」をいれないと一億人にはならない)、「一億火の玉」、「一視同仁」などといって、朝鮮半島に住む「大日本帝国臣民」である朝鮮人を戦争に駆り立てた。ところが、戦争が終わると、朝鮮人や「台湾人」のことをさっと忘れ去った。日本民族は、忘れ方がひどい。

 補償はしない、「在日」を差別はする、今では新大久保などで、ここに記すことはできないような罵詈雑言をコリアンに浴びせかけている。

 そういう日本人の意識に、社会意識としての「帝国意識」がある、ということを話した。もちろん「帝国意識」といっても、日本の場合は、「アジア蔑視」と「西洋崇拝」あるいは「対米隷従」とセットになった「帝国意識」である。だからボクはこれを「日本的帝国意識」と呼ぶ。

 そうした意識と闘わなければならないと話したつもりである。

 最初に総会が行われていたが、何とも元気のない会合であった。その後に行われたボクの講演で、どうにか元気になって帰って行かれたようだ。ボクは他人にエネルギーを与えられるようなのだ。どんな状態でも、元気であるということを、他人に見られるように生きている結果だろうか。

 しかし時に、ボクも誰かからエネルギーをいただきたいと思うことがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都合と自己責任

2013-06-22 22:04:12 | 日記
 みずからの言動には、当然責任が伴います。実を言うと、ボクはシンボウジロウというタレントはあまりしらない。昨日のニュースで、遭難しかかったヨットから救助されたことは知っているが。

 そのシンボウという人、聞くところによると「自己責任論」をテレビで叫んでいたそうな。

 シンボウという人を、このブログは厳しく批判する。


http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4475.html

 まあ、今まで他人に対していろいろ厳しく言う奴ほど、自分のことは責めない。自分自身のことを振り返ることができ、みずからを客観的にみることができる人、あるいは創造力の豊かな人は、他人のことをぐちぐち言わない。

 テレビにしても、政界にしても、前者の人が多すぎる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カネの魅力

2013-06-21 07:00:17 | 日記
 そんなにカネが欲しいのか、と思う。アベノミクスというあまり実態のない政策のなかで、外国資本はかなりのカネを稼いだようだ。

 人間のカネに対する執着は、本当に凄まじいと思う。あればあるほど、たとえそれが一生使い切れないほどでも、人はそれを求めるようなのだ。

 以前『タックス・ヘイブン』(岩波新書)を紹介したが、この本と昨日の『中日新聞』の社説の内容と重なるので、下記に貼り付けておいた。

 大企業や富裕者は、税逃れを積極的にやっていて、いくら儲けていても、税金を払わない。その際に使用されるのが、「タックス・ヘイブン」なのだ。この社説には、イギリスがみずから租税回避地(タックス・ヘイブン)をもっていることが書かれているが、規制をかけようとするアメリカ合州国も、同様にそれを利用していることが『タックス・ヘイブン』には書かれていた。

 アングロ・サクソン国家は、他国には規制をかけて、自国はそれを利用するという、それほど卑怯な国家なのである。世界的な盗聴システムのエシュロンなどをみれば明らかだ。

 そうしたアメリカに、日本は全く無防備で、こんどのTPPで丸裸にされる。それによって利益を得る者がいるからであるが、庶民は苦労する。

 支配層は、庶民のことなんかこれっぽちも考えない。今度厚労省の事務次官となる村上厚子、冤罪事件で最後まで闘った女性でもあるが、憲法違反の疑いの濃い「障害者自立支援法」を制定した張本人だ。「自立」の名の下に、障害者の自立と生活を困難にさせた法だ。安倍自民党政権の、憲法二五条の骨抜きの政策に合致する人事でもある。

 庶民よ、もうそろそろ怒る時期ではないか?

海外へ逃げる税 問題は企業だけでない

2013年6月20日

 主要八カ国(G8)首脳会議が多国籍企業による課税逃れを防ぐルール作りで合意したことは歓迎したい。背景の租税回避地や法人税引き下げ競争、富裕層の納税回避にもメスを入れる必要がある。

 G8で議論された「税逃れ」は、身近に存在する話である。高額所得者や大企業はうまく納税義務を免れ、ツケは中・低所得者が負っている実態。経済界の「税金が高いから海外に脱出する」との要求で法人税を優遇する国家戦略特区をつくる、といったことと同じだ。

 問題の本質は、税逃れの術(すべ)を持つ金持ちはますます富み、術のない弱者はますます重税に苦しむという不公平な社会である。

 G8での議論のきっかけは、スターバックスやアップル、グーグルといった多国籍企業が法人税の低い租税回避地(タックスヘイブン)に設立した子会社を利用し、税負担を低く抑えていたことだ。

 低成長で税収が伸び悩む中、各国の政府や議会、さらに世論が、こうした実態に不満を抱き始めたのだ。ロシアの富裕層が資産を移したキプロスの経済危機も、租税回避地に焦点を当てさせた。

 G8は、企業や個人の資金の流れを把握するため、金融機関が保有する口座情報を他国が自動的に共有する枠組みや、多国籍企業が世界のどこで利益を挙げ、どこで税を支払っているかを税務当局に報告させることを決めた。

 今後は経済協力開発機構(OECD)が行動計画をつくり、来月の二十カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議に提出する。

 一歩前進ではあるが、問題はそう簡単でない。税も規制も緩い租税回避地がどこかに存在するかぎり、カネはそこを目指すからだ。テロ資金や不透明なカネの温床であるため、米国は対策に力を入れている。だが、金融立国の英国はケイマン諸島など世界有数の租税回避地を多く抱え、それが金融業の生命線ゆえ国際協調には面従腹背を通すと見られている。

 各国の法人税引き下げ競争も、税負担の圧縮を狙う企業や富裕層の課税逃れに手を貸している。企業には社会的使命があるはずだ。株主の利益ばかりを優先し、納税をコストのように考えて減らすのは、社会や消費者への背信行為である。

 言うまでもなく所得税は所得に対して応分の負担が原則である。1%の富裕層は税を逃れ、99%の国民がその割を食う。それでいいはずはない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨でも・・・

2013-06-20 21:40:14 | 日記
 やっと梅雨らしくなった。雨が降り続く。雨が降ると、あまり外出はしたくない。でも、約束があれば行かざるを得ない。ボクは毎週金曜日夜、そして第三木曜日の午前中、歴史について話している。

 18日は「田中正造と静岡」というテーマで話した。ボクは、内容的には一切妥協せずに、現代との関わりから過去の事実をとりあげる。今を生きている人間に、過ぎ去った過去の事実は、様々な教訓を示しているからだ。

 足尾銅山の鉱毒被害における企業と政府の動きと、3・11の東電福島第一原発事故に関わる企業と政府の対応は、おそろしく似ている。企業は利益をかっさらっていき、事故が起きれば企業は無責任を貫き通し、政府がカネを出すと復旧のための公共工事に企業が利権を求めて群がってくる、という構図。

 日本は、変わっていない。いつも同じだ。

 ボクはなぜ同じなのかを考えてもらいたいと思う。そういう目的を持って、いろいろなことを話す。

 今までもボクは何度か歴史についての講座を頼まれているが、現在ほど聴講されている方の食いつきというか反応の鋭さ、といったものに感動することはない。

 いろいろな質問がだされて、なかなか終わらないのである。ボクが「この辺で今日は終わりにします」と言わない限り、終わらないような状況なのだ。

 ボクの話し方が変わったのだろうか。変わったかもしれない。ボクは今までのように最後まで一方的に話すのではなく、ボクが話している途中でも質問を受け付ける。だから、話しが対話型になっているのだろう。こういう話し方になると、難しい言い回しはしなくなる。

 ボクの話をいつも熱心に聞いてくれる卒業生がひとりいる。おそらくボクは、その卒業生の聞き方とそれに対応するボクの話し方を、講座で再現しているのではないかと思っている。

 18日講座修了後、ボクの話を聞いていた方が、価値観がどんどん変わってきた、と話された。その卒業生からも、同じことを聞いたことがある。

 ひょっとして、ボクは罪つくりのことをしているのかもしれないと思った。しかし、今、ボクの脳はたいへんクリアになっている。明後日土曜日も静岡で講演がある。卒業生に教えられた話し方で、ボクは講演に望もうと思う。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする