浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ブラック企業・ワタミ

2013-06-19 18:17:59 | 日記
 ブラック企業のものすごさ。仕事中は、メシなんか食べるな!という意志をもつことが訴えられている。

 水一滴もカネ、という経営哲学。 

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=0uxJej4QXFo

ワタミ系列で過労自死した娘を持つ方の訴え。

http://www.youtube.com/watch?v=nU2zqqyT8P4


 
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理性のフィルター

2013-06-19 08:21:57 | 日記
 「誤解」ということばが、その意味通りではなく、自らの明確な意思表示を隠蔽する意味でつかわれることが多くなっている。

 自由民主党の高市早苗という松下政経塾出身の議員による「原発事故では死者が出ていない」という発言だ。ここでも批判されるとそれは「誤解」であり、発言の「真意」ではないと逃げる。橋下大阪市長も同じようなことをした。

 ことばというものは、当然それぞれが意味を持つ。自らの考えや感情を表現したいが為にことばとして発出されるのだ。高市も、橋下も、その発言の内容は明確であった。

 しかし両者とも、発言した後で批判されたために、「誤解」などとごまかそうとした。

 ボクは、こういう人たちが政治家として存在しているということそのものに問題を感じる。政治家のことばは、ある意味公的なものだ。権力を保持しているが故に、権力をどういうように行使するか、その行使の仕方によって人々に影響を与えていく。

 ことばの重さを理解しない政治家がほんとうに増えている。いや、ことばの重さを理解しない者たちが政治家を目ざし、政治家になる、といってもよいだろう。

 その背景には、日本人のことばに対する感覚が鈍化していることが考えられる。新大久保や大阪・鶴橋で行われているヘイトスピーチは、それを書き写すことすら嫌悪感を抱くような内容であるが、それが街頭で公然と叫ばれているのだ。心の奥底に渦巻く憎悪や怨念などの否定的などす黒い感情が、理性のフィルターを通過されずに表へ表出される。

 「理性のフィルター」を通らないことばの蔓延。

 ボクは、唯一許される「理性のフィルター」を通過しないことばは、愛情表現のみであると考えている。それは人と人とをつなぐものだ。ひとりの人間が他者を大切な存在として認知した上で発出されるものであるからだ。

 しかし、ヘイトスピーチといい、高市や橋本の発することばは、そういうものではない。彼らの発出することばには、愛情のかけらもなく、他者を他者として尊重する精神もない。

 今、高市や橋下、ヘイトスピーチのような、汚いことば、悪罵が、インターネットの空間で飛び交っている。その言葉の遣い方に、日本人の精神の劣化を感じる。他者に対する攻撃的な口汚いことば、ことば。

 日本語は本来、美しいことばであると思う。彼らは、「理性のフィルター」を通過させないことばでもって、日本語に泥を投げつけている。そうした彼らが「ナショナリスト」だという。

 「ナショナリスト」の本質が、彼らの発することばによって暴かれる。随分汚い国になってしまった。
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おや?

2013-06-18 13:02:45 | 日記
 『図説藤枝市史』が送られてきた。知り合いが多く参加しているので、その関係で送られてきた。

 ぱらぱらと読んでみたのだが、一部に、町田の住人が激怒するような記述を発見した。

 「ええじゃないかと藤枝の人々」という項目である。その最初の書き出しを引用しよう。

 幕末の日本列島を民衆の熱気が包みました。ええじゃないかの乱舞です。大井神社(藤枝市本町)の神職の日記によると、藤枝宿では慶応3年(1867)9月10日から御札降りが始まり、11月初旬まで約2か月の間、宿場内の各所で御札降りに端を発した祭りが連日行われました。記録が残っているものだけで、藤枝地域では87件、1日2件以上の降札がありました。伊勢神宮(三重県)の御札をはじめ、遠くは金比羅社(香川県)から、近くでは大井神社や満願寺(藤枝市郡)の御札まで降りましたが、秋葉神社(浜松市天竜区)の御札がたくさん降ったのが特徴です。

 まず「日本列島を」という書き出しがよいかどうか。これではええじゃないかが「日本列島」全体を覆ったかのように受け取れるのではないか。。『広辞苑』では、「北海道・本州・四国・九州および付属島嶼から成る列島」とある。実際は東海、近畿、四国などの地方に起きているもので、北海道では起きてはいない。誤解を招きやすい書き方である。

 また幕末期には、「秋葉神社」はない。「秋葉三尺坊大権現」はあったが。

 せっかく、別項「秋葉山と火坊」があって、そこでは「秋葉権現のお札」と書かれているのに。なおこの項でも、文末に「秋葉寺と権現社も神仏分離政策により秋葉神社に変わっていきました」とある。秋葉寺や権現社が「秋葉神社」に「変わった」わけではない。秋葉神社は、神仏分離政策の展開のなかで、創建されたのである。

 これについては、町田の住人が鉄槌を下すだろうから、この後は町田の住人にお任せしたい。
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福島・東電原発事故は終わっていない!!

2013-06-18 11:47:11 | 日記
 報道されないことは、知りえない。しかし報道されるべきであることは、何としても手に入れなくてはならない。

 権力を持っているものは、都合の悪い情報は流さないし、時には嘘の情報を流すこともある。マスメディアも、基本的にはそれに協力している。

 だがボクたちは、知るべきことを広めていかなければならない。ボクは、下記の文を読むことを薦める。

 http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3056.html

 http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3058.html

 http://www.youtube.com/watch?v=ZfwJb5fYzEY&feature=youtu.be&t=1h13m14s


たいへんな事態が続いている。
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安倍首相は、嘘をついているのか

2013-06-17 22:50:33 | 日記
 五十嵐仁氏のブログに面白い記事があった。安倍首相が「国民の平均年収を150万円増やす」の「平均年収」の箇所を、「国民総所得」と言ったりしていることをもとに、自民党を「嘘」つきだ、というのだ。


http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2013-06-17

 もちろん自民党は「嘘つき」である。五十嵐氏が指摘する如く、地域によって政策を変えたり、あるいは平気で公約を破ったりするのは、自民党が過去すっと行ってきたことだ。

 しかし、安倍首相は、「嘘」を言っているのか。ボクはそうではないと思う。彼は解らないのだと思う。

 安倍首相の言動を見ていると、総理大臣としての資格をこの人は持っているのだろうかと、思うことがある。祖父と父親が政治家であったこと、その発言する内容が感情的なレベルでナショナリスティックであったこと、それが保守層の空気と合致していたことから、なぜか台頭してきて、いつの間にか自民党総裁となり、そして総理大臣となった。

 国会討論などで、彼の無知ぶりが時々さらされる。しかし彼はそれを恥じらいもしない。恥を感じるためには、無知を無知として認識でなければならない。残念ながら、彼は認識できないのだ。

 そういう人を総理大臣としている日本。これはいったい誰の責任なのだろうか。

 
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歩く

2013-06-17 21:50:53 | 日記
 暑い日が続く。夕方、少し涼しくなる頃、我が家の近くを散歩する人びとの姿がみられる。二匹の犬と共に散歩する女性は、ボクが庭仕事をしていると、時に話しかけてくる。ボクはその女性がどこの人かは知らない。

 その女性は、花壇の花を見て、「この花の名はなんていうの?」などと聞いてくる。ボクは丁寧に答える。話しかけられた後から、ボクは挨拶をするようにした。だが、女性は犬に注意を向けているのか、こちらを見てくれない。だから挨拶は返ってこない。

 女性が引いている二匹の犬は仲が悪いのか、その女性を異なる方向に引っ張ったりしている。また、犬が歩く速度と女性の歩く速度とは、まったく調和が取れていない。女性は、犬の扱いもうまくはない。懸命に犬を引くが、犬も抵抗し、短い距離を長い時間かけて通り過ぎてゆく。相当に手こずっている姿がいつも見られる。二匹の犬とその女性とは、おそらく波長があわずに生活しているのではないかと思った。

 
 そういう視点でみていると、犬を連れている人とその犬との関係は、歩きかたでわかる。あうんの呼吸で歩みを進める飼い主もいる。あるいは飼い主の歩調に、犬があわせたりしている場合もある。

 それは人間同士でも同様だ。

 同じ速度で歩いている人々は、仲が良さそうだ。もちろん、話しながら歩くために歩調をあわせているのだろう。歩調をあわせることは、生きていく上で大切なことだ。だがそれ以上に大切なことがある。

 歩調を合わせようとしなくても歩くことができること、長い間歩いていて、ふと「あっ、歩調があっている!」と気がつくような他者との関係。

 実は、ボクは、そういう経験をしたことがある。遠い昔の話しだ。

 東京の公園を歩いているとき、ふとそれに気がついたのだ。別に歩調を合わせているのではないけれども、同じ歩調で歩いていることに。別に会話をしているのでもないのに・・・。

 人間は皆、時間のなかを歩んで生きて行くのである。にもかかわらず、それぞれの人間の、時間の刻み方、生きるリズムというのは異なっている。

 生まれてから死ぬまでの有限の時間を、ボクたちは生きていかなければならないのである。だからこそ、あわせなくとも、いつのまにか人生の時を刻むリズムが同じという他者、そういう他者との関係こそ、ほんとうは自然でありまた必然なのである。

 だが、そういう他者は、めったにはいない。さがしだすのが、とても難しい。四つ葉のクローバーを見つけだすことが難しいように。


 

 

 
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東京駅で・・・

2013-06-17 13:12:03 | 日記
 一昨日、昨日、上京していた。

 帰途、東京駅を7時26分に出発する「こだま」に乗るつもりだった。新幹線改札口に着いたとき、すでに26分であった。つぎの8時3分の「ひかり」に乗ろうと改札口から入ろうとしたのだが、多くの人が降りてくるので、改札口で待った。

 そのとき、ふと男女二人のペアが眼に入った。男性は明るく話しているのだが、女性(妊娠している?)はとても悲しそうであった。そのうち、女性が男性の胸に顔を埋めた。単身赴任の男性が、どこか地方へ行こうとしていて、奥様が見送りに来たのだろう。ある種のドラマが演じられている、と思った。

 見れば男女のアベックが幾組かいて、それぞれが別れを演出していた。人混みの中でそっと唇をあわせる者たち、明るく手を振りさっと改札口に入っていく男性・・・新幹線に乗っていくのはなぜか男性ばかりだった。

 駅は別れの場であった。

 駅では、人々が次々と通り過ぎていく。集団で通り過ぎる人々、一人で通り過ぎる人・・・・・・・しかし切符は、それぞれが持つ。

 ふとボクは人生を考えた。

 人は、この生の世界へ、どこからかやってきて、そしてこの生の世界から去っていく。生の世界で、人々はそれぞれに様々なドラマを生きる。だがその世界からは、必ず去っていかなければならない。そして去っていった人々は、二度と戻っては来ない。

 6月12日、ボクの友人も去っていった。ドラマを演じた彼は、そのドラマを共に生きたボクたちにたくさんの思い出を残していった。

 その思い出も、しかし、ボクたちが去っていく中で消え去っていくだろう。

 
 ボクは、まだまだ人生の終着駅には行かない。ボクには、まだまだ演じなければならないドラマが残されているからだ。共演者たちが、まだボクを必要としているようなのだ。

 

 
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ひまわりの種

2013-06-15 06:19:25 | 日記
 昨日、湿り気を帯びた花壇にひまわりの苗を植えつけた。ひまわりを、ボクは毎夏咲かせる。夏の暑さとひまわりは相性がよいとボクは思っている。

 強烈な熱を浴びせかける太陽に向かって、ひまわりは一歩も引かず、その花弁を太陽に向け続ける。もちろんひまわりは、太陽と闘っているわけではない。ひまわりには、夏の太陽が必要だ。それなしにひまわりは、花弁を開くことはできない。

 

 春、ボクはいつものようにひまわりの種を蒔いた。しかし、今年、種は種のままであり続けた。あまりに芽が出ないので、ボクは土をかきわけてみたのだ。種はそのままであった。

 ボクは、芽を出さない種をあきらめて、さらに一袋の種を購入し、芽を出さない種を蒔いたポットに、さらに種を蒔いた。

 しばらくして小さな苗が、次々と出てきた。最初に蒔いた種からも、いつしか芽が出てきて、小さなポットにはいくつもの芽がでてきた。

 そういえば、今年の春は気温が低かった。ひまわりの一生には、やはり太陽の熱が必要なのだ。

 今、ひまわりの苗はさらに伸び続けている。

 今年の夏、花壇はひまわりだらけになりそうだ。黄色い花弁が、太陽に向かって開き、太陽は熱を浴びせかける。ひまわりは、太陽に抗しているように見えて、実は太陽の熱に焦がれている。

 その直截の関係がよい。

 昨夜、ひまわりを植えつけた花壇に静かに雨が降り注いだ。その雨で、ひまわりは花壇の土になじむことができたであろう。あとはただ、自らを太陽に向けて自らを大きくしていくだけだ。太陽は、それをみつめながら、暖かい熱を送り続けることだろう。

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「チクショウ!」

2013-06-14 17:33:49 | 日記
 静かに彼は息を引き取った、という。12日の朝、体に残されていたすべてのエネルギーを使い果たして、彼は逝った。

 毎日往診に来る医者は、いつ亡くなられても不思議ではありません、といっていたという。それでも彼は、一日一日、生き続けた。ほぼ一ヶ月、彼はエネルギーの補給なしに、水分だけで生き通したのだ。

 当たり前だ。彼には使命があったからだ。その一つ。人間は、最期の最期まで生ききることができなければならないということを示そうとしたのだ。

 とにかく断固として、彼は生き続けた。顔のこめかみ部分が落ちこんでいき、首には骨と筋だけが浮かび上がった。今まで蓄えてきたエネルギーをとにかくすべて使い切るのだ、という決意が彼の全身に漲っていた。腕をおさえると骨の感触だけがあった。

 ボクは彼に神々しささえ感じた。

 仏の道を究めようとする者が、自ら即身成仏を果たそうと、地中にみずからを閉じ込め、水と空気だけで生き、そして死を迎え仏になる、それと同じような道筋を、彼は通過しようとしたのだと思ったのだ。

 もう一つ。彼は、自らの死を、ボクらに、静かに受容させようとしたのだと思う。

 呼びかけても何の反応もしてくれない状態、その先には死しか残されていないという彼の生に、「頑張れ」とも言えず、ただ見つめるだけ。それしかできないボクの無力を感じながら、ボクはつらさをこらえて彼のもとに通った。

 彼は生きている、しかしその真逆の死に向かっている、そういう状態が続くなか、ボクらは、彼の死をこころのなかで静かに準備するようになった。彼の鼓動と呼吸が、近いうちに必ずとまる、それを心騒ぐことなく、静かに受けとめることができるように、彼はほぼ一ヶ月、ボクらを鍛えたのだ。

 彼は、12日の朝、静かに去っていった。ろうそくが燃え尽きるときのように、呼吸がとまり、鼓動が途絶えた。彼に静謐が訪れた。

 ボクは、彼に会いに行った。昨日のまだ生の中にあった彼と、今朝の彼とは、大きく変わっていた。彼のからだは、すでに時を刻むことのない永遠の時空の中にあった。彼の周辺だけ、時が流れていなかった。ボクが生きる世界と、彼の世界とは、もうまったく別なのだということがひしひしと感じられた。

 涙はそんなに流れなかった。ボクは彼の肩をたたき、よく頑張ったなと心の中で語りかけた。



 今日は14日。彼のところに行った。12日と同じ彼がいた。柩の中に、ボクとは異なった時空にある彼を見た。

 彼の写真があった。

 「チクショウ!」と、ボクはつぶやいた。
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キャリア官僚という怪物

2013-06-13 22:11:33 | 日記
 こまかいことは書かない。これにアクセスして欲しい。

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3046.html
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駿河療養所

2013-06-13 21:49:56 | 日記
 昨日、今日は御殿場市にある駿河療養所、そして神山復生病院を訪問し、静岡県出身のものもとハンセン病患者の方々から話しを聞いてきた。

 聞き取りは、もうすでに何回かしているが、駿河療養所でのそれはそれぞれ二回目となる方々だ。初対面の前回と比べ、いろいろ詳しい話しを聞くことができた。

 いつ頃発症されたか、故郷はどこか、今でも家族との交流はあるかなど、かなりぶしつけな質問をなげかけた。それに対して濃淡はあるが、かなり重い話しを聞かせてくれた方がいた。発症以来、故郷には一度だけ帰ったことがある、家族に迷惑がかかるから・・・とかのお答えに、ハンセン病という病のもつ非情さを教えられた。病気そのものが非情である上に、さらに国家が患者たちを強制隔離するなど、「療養所」であるにもかかわらず「療養」とは名ばかりの処遇についても考えさせられた。

 しかし、もと患者さんたちは、過去のことばかりにこだわるのではなく、過去と比べれば現在の環境はよくなっているので、未来志向で考えていきたいと語っていた。

 もと患者さんたちの善意の言葉と、国側の国立の療養所に対する冷たい方策。

 現在の社会の在り方と通底するこの問題について、もっと積極的に取り組まなければならないと思った。

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【本】志賀櫻『タックス・ヘイブンー逃げていく税金』(岩波新書)

2013-06-09 20:03:45 | 日記
 「世界経済は1990年代以来、今日に至るまで、連続的な金融・通貨危機に襲われ続けている。これら危機の多くは、タックス・ヘイブンを舞台に、非生産的なマネー・ゲームに狂奔するヘッジ・ファンドその他の投機マネーが引き起こしたものである。その淵源をさかのぼれば、新自由主義の下で規制から解き放たれた人間の強欲(グリード)がある」と、著者は正当なことを指摘する(225)。

 おそらく現在の日本の株価を押し上げたり、押し下げたりしているのも、そうした強欲に端を発する者・機関が蠢いているのだろう。

 世界の富裕者は、世界の巨大企業は、課税から逃れるために、タックス・ヘイブンを利用する。そうして本来払わなければならない税金を払わない。所得税や法人税が、平等という観点からもっともあるべき税であるが、しかしそうした税の支払いを嫌う面々が、タックス・ヘイブンを利用して、納税逃れをする。

 その実態が、詳細に記されている。

 志賀氏は、官僚としては珍しい正義感の持ち主であって(といっても現在は官僚ではない)、世界の富裕者や大企業のマネーゲームや税逃れを厳しく追及してきた人だ。

 タックス・ヘイブンの背後には、ウォールストリートやシティがいて、彼らもそれを利用しているという。またタックス・ヘイブンは椰子の実がなるところだけではなく、ヨーロッパや大西洋上の島や、アジアにも点在して、そうしたカネをかくまっている。

 著者は、官僚時代に見聞きしたことを、きちんとわかりやすく書き上げている。

 富裕者の税逃れの対策として、消費税があたかも特効薬であるかのような、といってもやむなくという点を指摘しながら記述をしているが、これとて富裕者の強欲を一般庶民が肩代わりするという側面を持つのではないか。

 本書は、タックス・ヘイブンとは何か、どこにそれがあるか、どうしたらマネーゲームとその演出者たちを規制できるか、を記している。

 私たちは、こういう現実を知らなければならない。

 この本もお薦めである。

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雑感

2013-06-08 22:01:27 | 日記
 今日は午前中、ひろたまさきさんの『日本帝国と帝国意識』(有志舎、2012)を読んだ。著者からいただいた本なので大事にしようと、線も引かず、書き込みもせずに一度読んではいたのだが、7月の研究会報告の材料としてもう一度読み込まないといけないと思い、今度は線を引いたり、付箋をつけたりしてじっくりと読んでいる。最後まで読み終えていないが、あと少し。とてもよい本だ。近代日本の国民国家建設は同時に国際的には帝国主義国家として登場するという認識については、以前ひろたさんと話したときから、ボクも共通の認識として持っている。

 広田さんの問題意識を継承しながら、7月の研究会報告の内容をつくりつつある。

 午前中、友人のお見舞いに行く。もう「生還」は望み得ない段階に来ているが、彼は最期の最期まで、生き抜こうとしているのだが、その壮絶な生に教えられると同時に、つらさをこらえながらのお見舞いである。

 午後は畑。じゃがいもをすべて収穫し、雑草を抜いた。午後4時頃から7時頃まで畑にいた。ボクは顔に日焼け止めクリームを塗り、首にタオルを巻き、顔だけを出す帽子を被って畑仕事をする。じゃがいもは豊作で、畑仲間からほめられてボクはいい気になっている。土の中からたくさんのじゃがいもが出てくる、大いなる喜びだ。
 今日はほかに大根、蕪も収穫。
 種を蒔いていたごぼうの芽がでていた。さといもやしょうがの芽もだんだん大きくなる。枝豆は実をつけ始めた。

 小さな種を畑に蒔いて、時々水遣りをし、堆肥を畝と畝の間に置くと、いつのまにか大根となる、当たり前かもしれないが、ほんとにほんとに小さな種が大根になるのを見ると、自然ってすごいなあと思う。

 帰宅したら、『遺稿集』についての礼状が届いていた。パンフレットをつくるのだと思っていたが、今日その本をいただいて驚いた、という内容だった。

 何といっても400頁の本。この本の製作に、ボクは莫大な時間を投入している。製作を依頼されて引き受けた以上、全力で製作するし、また決していい加減なものはつくらない、というつもりで製作にあたった。ほぼ半年かかった。

 遺稿集の著者にあまり好感を抱いていない町田の住人からも、本としての評価をいただいた。感謝感謝である。また東京に住むもと新聞記者からも、すごい本をつくった、といわれた。

 こうしてボクが力をいれて製作したものについて評価していただくのは、とてもうれしい。特に町田の住人は、すでに何人もの遺稿集を製作しているので、その住人からどんな評価をいただけるか気になっていた。見る前に捨ててしまうのではないかなどと心配をしていたが杞憂だった。

 一日一日があっという間に過ぎていく。来週は、御殿場に調査に行く。それもとても楽しみだ。
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日本の外務官僚のレベル

2013-06-07 21:09:42 | 日記
 以下のような内容のブログを読んで、まず驚いた。

http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-9f3c.html

 上田人権人道大使とは何者か。調べたら上田秀明という名のようだ。それについて『東京新聞』が報道していた。さらにいろいろ調べてくれた。こういう人がいるとホントありがたい。

http://onaironaironair.wordpress.com/2013/06/06/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%98%8E%E3%83%BB%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E4%BA%BA%E9%81%93%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E3%80%80%E3%80%8C%E3%81%A6%E3%82%81%E3%81%88%E3%80%81%E9%BB%99%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%8C%E3%82%8C/


 でもこういう人が、大使だからね、それも人権人道大使。外務省の質が分かろうというもの。またそういう外務省が外交やるんだから、人権や人道なんて、まったく考えていないことがまるわかり。

 もう一つ、その現場にいた人のブログ。

http://koike-sinichiro.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-99bb.html

  
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【本】田中宏『在日外国人 第三版』(岩波新書)

2013-06-07 07:43:11 | 日記
 日本政府(もちろん官僚のもつ性向でもある)の拝外主義的な政策は、日本に住む在日外国人に対する諸政策で判明する。彼ら官僚等は、在日外国人に対して常に生殺与奪の権利を保持していたいと考えている。しかしそれは簡単ではない。まず一つには、権利侵害を受ける在日外国人がだまっていないこと、さらには国際的な圧力がかかり、あまり拝外主義的であると「先進国」というプライドが傷つけられる。
 
 だから、渋々と彼ら官僚等は少しずつ、少しずつ在日外国人に対する法制を変えていく。自民党議員や官僚は、外国人が好きではないのだ。いやそれは不正確だ。アメリカ人は好きなのだ。それ以外の外国人、とくにアジア、アフリカの非白人については、どうも信頼できない人々と思い込んでいる節がある。これも、ボクの言う「日本的帝国意識」なのであろう。

 さてそうであるから、在日外国人に対する法制度は変化していく。その変化を適切に追跡し、きちんとした視点で解説してくれる本がこれだ。

 ボクは初版から読んでいて、在日外国人、とくに在日韓国・朝鮮人について書くことが多いボクには、とても重宝だ。日本が在日外国人をどのように扱ってきたか、そして現在はどうなのか、その問題点は・・・というように、在日外国人の権利擁護のために奔走されてきた著者ならではの記述がそこかしこにある。

 田中さんとは、浜松市での講演に来ていただいたり、南京事件の問題、中国朝鮮人の強制連行・強制労働の問題などで、何度もご一緒したことがあるが、人間的にもとてもよい人である。

 本書の副題は「法の壁、心の溝」である。日本には、日本人と外国人との間には人権の問題などについて「法の壁」があり、また一般社会の中では、その「法の壁」に対応して「心の溝」がある。

 人権後進国である日本の在日外国人の処遇について理解することは、日本とはどういう国家であるかを理解する鍵となる。

 ボクは、この本を是非読んで欲しいと思う。在日外国人に対する理不尽な対応が、各所に記される。人間的怒りをキミは持っているのか、それも試されるはずだ。

 内容については紹介しないが、とにかくよい本である。
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