浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

未だ衰えず

2016-08-21 08:30:27 | その他
 鹿野政直先生は、1931年生まれ。もう今年85才である。『現代思想』9月臨時増刊号の「民衆思想史の誕生」を読むと、まったく先生の知力は衰えていないことがよくわかる。

 今年の私が関係している研究会の講師として招聘しようと試みたが、東京周辺で開催される講演に限定されているとのことであった。

 「民衆思想史の誕生」は、その主旨を描きながら、見事に安丸氏の研究をそのなかに位置づけ、また自らの研究についても言及し、長年にわたる民衆史を俯瞰している。鹿野先生の、いつもながらのきわめてスマートに、対象をうまい具合に切り分けて位置づけていくという手法は健在である。

 しかし私は、鹿野先生のそのスマートな手さばきに、逡巡、懊悩や葛藤が見られないというのが、不満であった。この文でも、それがみられない。

 学生時代、学部が異なる私は先生の講義に潜り込んでいたが、講義もパーフェクトで、すぐに出版できるような精緻さとまとまりをもったものであった。

 『資本主義形成期の秩序意識』はじめ、多くの先生の著書を読んできたが、先生の知力がまったく衰えていないことに感嘆するのみである。

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孤独

2016-08-20 23:30:22 | その他
 畑では、いろいろな会話をする。話していて思うことは、高齢者の孤独である。

 畑仲間には家族がいる。しかし、家庭ではほとんど話さないという。Sさんは夫と二人暮らし。夫はほとんど話さないという。テレビばかり見ていて、家事も何もしないそうだ。Gさんは、息子と二人暮らし。息子は会社員で独身、もう40才を超えている。息子とはほとんど話さないという。

 家庭でほとんど会話のない人が、畑で四方山話に興じる。畑に来るのが楽しいという。私は農作業をしながら、いろいろな話を聞く。

 こうした老人がたくさんいるのだろう。

 健康を維持しながら生きていくためには、高齢者たちの集う場が必要だとつくづく思う。家族といても孤独を感じる高齢者が増えているのだ。

 しかし女性はこうして外に出てくるからいいが、男性は出てこない。テレビとずっと対面しているだけだ。これではいけないと思う。何とかしなければ・・・・・・ 
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【本】子安宣邦『「大正」を読み直す』(藤原書店)

2016-08-20 23:05:50 | その他
 子安氏の日本の思想史に関わる著書に、私はたいへん刺激を受けている。読みの深さと、現代に対する問題意識がうまく折り重なって、学ぶところが多い。

 あの全体主義的な「昭和」をつくりだしたのは、「大正」という時代ではなかったかという問題意識の下に、明治末から「大正」の事件や思想を検討する。

 とりわけ大逆事件、そして大杉栄等の虐殺事件を検討したところに、考えさせられた。

 1910年の大逆事件で、幸徳秋水らが殺された。幸徳は、「直接行動論」を訴えていた。そして1923年9月16日、大杉栄を国家権力が葬った。大杉は、アナーキストと呼ばれる。これらの事件により、「直接行動論」と「アナーキズム」が殺された。まず国家権力が殺し、それが契機となって、国民も「直接行動論」とは何か、「アナーキズム」とは何かを問うことなく、捨て去り殺してしまった、と子安氏は指摘する。

 確かに、「直接行動論」や「アナーキズム」は、マイナスイメージとして捉えられるようになり、それが現在でも引き継がれている。何か、怖いものででもあるかのように、それらは扱われる。

 私たちは、これらの考え方が、もっとも国家権力を恐怖させるものであったのではないか、ともう一度思いをはせる必要があるのではないか。

 なぜ彼らは殺されたのか?

 戦後の日本においても、冤罪であるにもかかわらず、大逆事件によって殺された人々の無実は認められていない。戦後に行われた再審請求は、却下された。現在の日本は、大逆事件を大逆事件としてそのまま認めている社会なのである。

 だから、幸徳や大杉の思想を復権させることが求められているのではないか。

 とてもよい本である。
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安丸良夫氏のこと

2016-08-20 08:07:51 | その他
 歴史家の安丸良夫氏が亡くなられていた。このことについては、広田先生から伝えられ、『現代思想』に「追悼文」を書くという連絡があった。先日そのコピーが送られてきた。目次と共に送られてきたので、これは読まなければならないと思い、Amazonに注文。昨日到着した。『現代思想』9月号臨時増刊号である。

 安丸氏の著作は、何冊か持っている。読んでいないものもあるが、私がもっとも熱心に読んだのは『神々の明治維新』(岩波新書)である。私は、神社本庁などが画策している「国家神道」復活運動が、日本を再び「大日本帝国」の時代に戻そうという動きの一環であると認識し、「国家神道」は決して日本の伝統ではなく、近世後期の国学にルーツ持った特異な思想で、それが明治維新で作為的に創造されたものであるということを各所で話している。9月にもこれを話すが、その際、様々な文献を読みこなすのだが、なかでも安丸氏の『神々の明治維新』はとても役に立つ。

 さて『現代思想』9月臨時増刊号に掲載されている文、あるいは対談など、少しだけ読み始めているが、何とまあ、学者というのはすごい!と思った。

 安丸氏は長期間にわたって、刺激的な著作を何冊も出している。『日本の近代化と民衆思想』はじめ、私の書棚にも並んでいる。しかし漠然とそれらの内容は私の記憶にあるのだが、細かくそれらについて話す、あるいは書くと言うとき、もう一度読まなければとても話したり書いたりできるものではない。

 だが例えば座談会に参加されている方々は、それらの内容がきちんと頭の中に入っていて、それも安丸氏の研究を時系列に論じることができるのである。私は、多くの学者と交流があり、そのなかで「すごい人!」だと思う人が何人もいるが、座談会に参加している方々の発言を読むと、ただただ関心してしまう。
 
 同時に、安丸氏の研究をあまり熱心に読んできていない私にとって、安丸良夫氏はそれこそ「すごい人!」であると再認識させられるのである。

 私は今までにいろいろな研究をしてきた。自治体史編纂の事業に関わってきているので、その編纂の過程で発見された史料を読む中で、一定の普遍性をもつとおもわれる史料をもとに、いろいろな関連する文献を読み込んで歴史過程(事件)としてまとめ、当該自治体の歴史に織り込むということをやってきた。そこではどんな史料がでてくるのかわからない。でてくる史料に関連した研究を進めるわけで、したがって研究分野は多方面に広がる。今は一九八〇年代以降の自治体の施策について勉強しなければならない状況にある。

 本書の対談の中で、喜安朗氏はこう語っている。

 「史料を読むなかで、それをどのように形づくるかを考えて、方法や概念が生まれてくる。厚い記述という表現がありますが、歴史家はいろいろな言説を考えながら、そのすべてを書くわけではありません。言説のうちで、時間的にも空間的にも収斂が可能だろうと想定できるものを探し出す。それが記述におけるプロットになるわけです。概念や方法とは、そのプロットを展開させていくうえで登場するものでしょう。」

 私も、そのまねごとをしているのだなあと思った次第である。
 
 この本を時間を見つけては読み、安丸氏の「すごさ」を知っていきたいと思う。

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この見事なほどの浪費

2016-08-19 17:08:18 | その他
 オリンピックなどのスポーツ(大会)には、有象無象のたかりやが集まり、スポーツという名を隠れ蓑にして、カネを浪費させ、そのカネをあわよくばもらい受ける、という輩がたくさんいる。

 何と東京五輪組織委員会の一ヶ月の事務所家賃が、4300万円だって!!

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/188098
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吉永小百合さんの発言

2016-08-19 12:18:31 | その他
 『女性自身』での、吉永さんとカンサンジュンさんとの対談記事。

https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-336362.html
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米軍には優しい日本

2016-08-19 12:11:28 | その他
 福祉予算を削る安倍政権。

 辺野古に新基地を建設してあげたり、高江にへりパッドを増設したりしているのに、さらに普天間の基地を本格的に補修するだって。

 至れり尽くせりの属国日本。

 共同配信記事。


普天間飛行場、補修工事実施へ19事業、年内 にも着手
2016/8/19 11:24

 政府は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の老朽化に伴い、格納庫や隊舎の補修工事など19事業を実施する方針を固めた。近く詳しい調査を実施し、早ければ年内にも工事に着手する。政府関係者が19日明らかにした。

 補修工事の費用は日本側が負担し、数十億円規模になるとみられる。施設の老朽化が激しく、米側が安全な運用や米軍の能力維持に支障を来しかねないとして日本側に補修を求めていた。

 日米両政府による1996年の同飛行場返還合意以降、補修工事は必要最小限にとどめており、これまでは2013~17年度の予定で実施している5事業(約56億円)のみ。
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国家は国民を守らない

2016-08-19 07:42:30 | その他
 国家が国民を守らない。これは歴史を振り返ってみれば明らかだ。

 軍隊は国土と国民を守ると、国家は宣伝するが、それはあり得ない。軍隊は国家権力を守るのだ。国民ではない。もし軍隊が国土と国民を守ろうとするものならば、アジア太平洋戦争において、本土への空襲が一度でもあれば戦争はやめなければならない。事実は、主要都市が焼け野原になっても、戦争をやめなかった。国土は破壊され焼け尽くされるまで続けられ、そのなかで多くの国民が亡くなった。

 そういう軍隊を稼働させたのが、国家権力である。残念ながら日本の国家権力は、陸軍と海軍対立しながらそれぞれの利益を追求し独自の動きをしたり、国家意思をひとつにまとめあげることが難しかった。それを行う役割は天皇にあったのだが、天皇は天皇制の維持に汲々としていたために、国土や国民を守るということを考えなかった。

 それは現代の原発政策でもみることができる。国土や国民を守ろうとしない、責任の所在が明確でないままに、原発政策が推進される。

 『東京新聞』8月13日の「社説」。


伊方原発再稼働 住民は誰が守るのか  8月13日

 四国電力伊方原発の再稼働に、住民は特に不安を募らせる。そのわけは周辺を歩いてみれば、すぐ分かる。それはあってはならない場所にある。
 日本で一番再稼働させてはいけない原発の一つ-。伊方原発をそう呼ぶ人は少なくない。
 その根拠は特殊な立地にある。
 伊方原発は、日本一細長い愛媛県の佐田岬半島の付け根のあたり、瀬戸内海に面したミカン畑のふもとに立つ。
 原発の西には四十の集落が、急な斜面に張り付くように点在し、約五千人が住んでいる。小さな急坂と石段の町である。
 四国最西端の岬の向こうは、豊予海峡を挟んで九州、大分県だ。
 八キロ北を半島とほぼ平行に、中央構造線が走っている。最大級の断層帯だ。発生が心配される南海トラフ巨大地震の想定震源域にも近い。
 「日本三大地滑り地質」とも呼ばれ、「急傾斜地崩壊危険箇所」などの標識が目立つ。二〇〇五年には、半島唯一の国道197号の旧名取トンネルで地滑りの兆候が見つかり、崩落の危険があるとして廃止されたこともある。
 このような土地柄で、巨大地震と原発の複合災害が起きたらどうなるか。専門家であろうがなかろうが、想像には難くない。
 大小の道路は寸断され、トンネルは崩落し、斜面の家は土砂崩れにのみ込まれ…。
 それに近い光景が四月の熊本地震で展開された。その震源とは中央構造線でつながっているらしい。住民の不安は増した。
 四国電力が五月から六月にかけて実施した半島の“お客さま”への調査でも、「地震・津波への不安」を訴える人が増えている。
 たとえ国道が無事だとしても、西側の住民は、原発の前を通って東へ向かうことになる。

◆造ってはならないもの

 県と愛媛県バス協会が交わした覚書では、運転手の被ばく線量が一ミリシーベルトを上回ると予測されれば、バスは動かせない。
 海路はどうか。港湾施設が津波の被害を受けたらどうなるか。放射能を運ぶ海陸風から、船舶は逃げ切れるだろうか。
 県は先月、広域避難計画を修正し、陸路も海路も使えないケースを明示した。要は屋内退避である。避難所には、学校や集会所などの既存施設が充てられる。
 コンクリートの建物で、耐震は施されているものの、傾斜地に暮らすお年寄りたちが、そこまでたどり着けない恐れは強い。
 「半島の多くの住民が、逃げ場がないという不安を感じ、生命の危険を押し殺しているはずだ」
 「伊方原発をとめる会」事務局次長の和田宰さんは言う。
 そもそも伊方原発は、住民の安全が第一ならば、建ててはいけないところに建っているとはいえないか。
 原子力規制委員会は、避難については審査しないし、かかわらない。誰が住民を守るのか。
 やはり伊方原発は、動かすべきではないというよりも、動かしてはいけない原発なのである。
 大規模な避難訓練が必要になるような原発は、初めから造ってはならないものなのだ。
 伊方原発だけではない。3・11の教訓を無駄にしないため、文字通り原発を規制するために生まれた規制委が、その機能を果たしていない。
 規制委は今月初め、始動から四十年の法定寿命が近づいた関西電力美浜原発3号機の運転延長を了承した。同じ関電高浜原発の1、2号機に続いてすでに三基目。延命はもはや例外ではないらしい。
 政府の原発活用路線に沿うように延命の審査を急ぐ規制委は、独立した審査機関とも言い難い。
 「コストさえかければ、四十年を超えて運転できる」と明言する姿勢には驚かされた。

◆危機感が薄れる中で

 熊本地震を経験し、この国の誰もが地震の揺れに敏感になっている。それなのに、地震の専門家である前委員長代理の「地震の揺れは過小評価されている」という重い指摘も規制委は顧みない。
 住民の暮らしは、命は、誰が守るのか-。
 日本一危険とされる再稼働に際し、特に自治体や規制委にあらためて問いかけたい。
 最低限、避難の有効性がしかるべき機関に保証されない限り、原発は動かすべきではない。
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安倍政権の本質

2016-08-19 07:31:00 | その他
 今日の『中日』に、「新型迎撃ミサイル配備へ 防衛省概算要求過去最大5兆1685億円」という記事があった。みずから東アジアの緊張をつくりだし、軍拡を推し進めようとする安倍政権の本質がみえる。

 他方、今日の『東京新聞』には、「福祉用具レンタルの原則自己負担方針 本紙報道に反響続々」という記事があった。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016081990070134.html

 福祉予算を削り、軍事費を増額させるという安倍政権の方針が如実に示されている。

 しかし選挙民は、これが7月に行われた参議院議員選挙に自民党を勝たせた結果であることを邇確すべきなのだ。いい加減な投票行動や棄権がこういう結果を招くのである。

 政治や選挙に誠実に対応することが必要なのだが、それができない。それが日本人?

 
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「公設民営」に問題あり

2016-08-18 16:30:31 | その他
 保育園が足りないことが問題となっている。品川区では、「公設民営」で、「夢工房」という関西の社会福祉法人にその運営を任せているが、そこで不正が発覚した。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201608/CK2016081802000129.html

 世の中には悪い奴らがいて、福祉でカネもうけをしようとする輩が後を絶たない。私の知り合いにも、福祉に全く興味関心がなかった者が、広い土地を遊ばせておくわけにはいかないと老人対象の福祉施設をはじめたが、今やあちこちに施設を拡大して、たいへん潤っているようだ。

 カネもうけできるなら、何にでも手を出す。そういう奴らはウソも平気だ。

 「夢工房」のホームページ。

http://www.yumekoubou.or.jp/top/index.html
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「スコール」

2016-08-18 08:47:04 | その他
 夏の雨の降り方が変わった。とにかく、スコール並み。ベトナムやシンガポールに行ったときに体験したスコールの降り方と同じ、それがこの地方でも普通になっている。

 地球温暖化。

 最近は暑いと感じるときは、摂氏35度超え。30度くらいなら涼しいと感じるくらいだ。

 今もスコールのような大雨が降っている。風向きが変わった。

 日本はもう亜熱帯気候。

 今日の天気予報は、曇り時々雨。雨のレーダーを見ると、静岡県ではこの付近だけが降っている。早く雨雲が去っていって欲しい。

 世の中、あらゆる面で住みにくくなってきた。人類は、滅亡に向かっているのではないか。戦争、原発、、格差、モンサント・・・未来のことを考えずに、今だけとにかくカネもうけを!という人々が増えているようだ。
 
 思うことは、現在のような「資本主義」という社会システムは、終わりに近づいているような気がする。




 
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SEALDs解散

2016-08-17 21:00:05 | その他
 ここ数年の政治運動に大きな役割を果たしたSEALdsが解散する。出来た当初から、組織という組織ではなかったから、こういうように解散するというのも新鮮な感じがする。

 しかし、ここ数年の政治運動の盛り上がりは、SEALDsに大きく鼓舞されてきたということもあり、それがなくなるというのは少し残念な気もする。

 彼らの運動をみたとき、もっとも新鮮であったのが、ある種の「演説」であった。旧来のデモ行進や集会では、集会の主催者などがありきたりの挨拶をして、デモ行進ではありきたりのシュプレヒコールを叫び・・・というのが通常であったが、彼らは、いや彼らと集合的にいうのはまずいと思えるほど、ひとり一人が自分のことばで語っていたことだ。それも理路整然と、一定の知識を背景とした主張を、わかりやすく、丁寧に話していた。これは今までの運動にはなかったことだ。
 その意味で、旧来の運動関係者が学ぶところ多かった。

 SEALDsのメンバーがきちんとした主張ができたのは、言うまでもなく、彼らはきちんと学んでいたからだ。読むべき本を読み、おそらく討論し、そのなかから自分自身の思想をつくりだしてきていた。その思想にもとづいた「演説」はひとり一人個性をもったものだった。

 旧来の運動は、労働組合などの組織が「動員」というかたちで、その傘下の人々に参加させていた、ともいえよう。しかしそうではなく、SEALDsはひとり一人がみずからの意思で参加していくということを尊重する運動であった。

 これからの運動はそういうものが主流となっていくことだろう。そのリーダーといっていいかどうかわからないが、そのインタビュー記事。

http://lite-ra.com/2016/08/post-2498.html
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『おかあちゃん、ちっともいい世の中にならなかったねえ』

2016-08-17 08:59:55 | その他
 『朝日新聞』の筆力が衰えてきたことを何度も書いてきたが、この文はすばらしい。こういう書き手が、朝日にもいるってこと。

 ※このように書いたら、この文は『毎日新聞』というコメントをいただいた。ネットで『朝日』の記事を読み、すぐに『毎日』にとびいろいろ読んだ後に、この文を書いたので、『毎日』の記事なのに、『朝日』の記事と勘違いした。『毎日』にお詫びしなければならない。やはり『朝日』で、こうした文を読むことはなくなっている。「社説」はもちろん、「天声人語」すらも。
 『朝日』の記事は、その背後にどうしても主張したいという気概、あるいはその記事を書いた人の人間性がみられなくなっている。そういうものがあってはじめて、文は他者に働きかけることができる。「中立」、あるいは「両論併記」は、骨抜きと同義になってしまうのである。

http://mainichi.jp/articles/20160816/dde/012/040/007000c

 理論社、倒産していたのか。

 本を読まない若者たち。本を読まずに、知ったかぶりや浅薄な思いつきで会話を続ける姿に、溜息をつく。認識や知識は様々なつながりを持ちながら頭の中に畳まれているのに、そのつながりを持とうともせず、その瞬間瞬間の意味のない会話で時間を費消する。

 その行く末が、文化不毛の日本。その兆候がはっきりと現れている。文化は、過去からの蓄積の中に花開く。過去の蓄積を顧みない文化は、たとえ花が咲いても、美しくはない。
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忘れない

2016-08-16 16:39:13 | その他
 被害者は、忘れない。別にこれは、歴史認識問題に限らない。自分自身の過去を振り返ればそうした例は思い浮かぶはずだ。

 私は中学校の時、職員室に座らされ、教師に頭を蹴られ転がされたことがある。そのときの情景は、今も思い出すことができる。もちろんその教師の名前、顔も覚えている。昔であるから、他の教師にびんたをもらったことがある。しかしこの場合は、掃除をさぼって外出したから、これは仕方がないと思っている、恨みはない。

 きっちり記憶に恨みを伴って残っているのは、「理不尽にふるわれた暴力」である。これは忘れない。「理不尽にふるわれた暴力」について謝罪を受けたとしても、それは記憶に残り続ける。ふるった者とふるわれた者との間、とりわけふるわれた者は、苦い記憶として両者の関係を通常ならざるものとして意識する。つまりその記憶が、両者の間に立ちはだかり、普通の関係を結べない。

 日本の過去の植民地支配や侵略戦争を調べると、そこには「理不尽にふるわれた暴力」が無数にある。勿論日本は、暴力をふるった側である。

 ふるわれた側は、決して忘れないし、子々孫々伝えていく。では両者の関係を通常なるものとして構築するためには、どうしたらよいか。

 それは、謝り続けることしかないのだ。両者の関係が通常ならざるものとするためには、その入り口で謝罪という行為が必要なのだ。

 人間の過去についての認識は、常に感情というものがまとわりついている。植民地支配や侵略戦争に関しては、個人的な記憶だけではなく、集合的な記憶としても存在し、それは悲しみや怒りといった感情と密接に結びつく。だからこそ、そうした被害を与えた国/地域の人々と交流するときには、別に謝罪を繰り返すこともないが、過去の事実をきちんと認識しておく必要がある。それは最低限必要なことだ。

さて、時が進む中で、そうした記憶を、まったくもたない人が、加害側はもちろん被害側の人々の中にも現れてくる。一面仕方がないことだが、しかし歴史認識はなおざりにしてはいけない。「理不尽にふるわれた暴力」の記憶は、決して消えないからだ。

  http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2846819.html?from_newsr 
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主語を明確に

2016-08-15 09:06:47 | その他
 戦争は、人災である。戦争の「被害者」、空襲の「被害者」・・・戦争では、「被害者」ということばが使われるが、「被害者」がいるのなら「加害者」が必ずいるはずである。その「加害者」は誰なのか、それを追及しなければならない。

 今日は、「終戦記念日」。ごまかしのことばが、ここでもつかわれている。本当は、「敗戦記念日」なのだ。「終戦」というと、春から夏に季節が移ろうように、人為的ではないかたちで、いつのまにか戦争が終わるような語感を与える。いつのまにか始まって、いつのまにか終わっている戦争?

 そんなことはありえない。戦争は、あくまで人為的である。戦争を始めた奴が必ずいる。そして戦争には勝ち負けがある。

 日本は戦争に負けた。「敗戦記念日」と、本当はすべきだ。「敗戦」という事態を見つめるところから、ではどこの国に負けたのか、という問いがでる。ではなぜ負ける戦争を起こしたのか・・・・・さまざまな問いが浮かび上がる。

 「終戦」からは、問いは生まれない。

 8月15日は、「問い」をみつけ、その問いの答えを考える日にしたい。「被害者」?では誰が「加害者」なのか。「敗戦」?どこの国に負けたのか。 

 問い続けることが大切だ。その問いを問わなくなるとき、「戦後」は「戦前」へと転化する。

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