日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

日本経済はどうなってしまうのだろう?

2022-04-28 22:10:59 | アラカルト

今日のお昼、円安が進み1ドル=130円台になった、というニュースがあった。
日経新聞:日銀「粘り強く緩和継続」円安加速131円台

実に20年ぶりの円安、ということになるようだ。
とはいえ、20年前と今現在とでは社会状況が大きく違う。
社会状況だけではなく、日本を取り巻く経済環境も大きく変わってきている。

20年前というと、今ほど社会が閉塞感に包まれてはいなかった、ような気がする。
もちろん、バブル経済崩壊から、復活の兆しが見えてはいない、という状況ではあったが、少なくとも生活者の「気分」はもう少し明るかったような気がするのだ。
その大きな違いは、やはり「コロナ禍」という部分が大きいだろうし、他にも「ロシアによるウクライナ侵攻」という、世界的な不安定要素が以前よりも身近になっている、ということもあるだろう。

背景にあるのは、情報そのもののグローバル化という点と、やはり「コロナ禍」に対して「将来的ビジョンが見えない」という点が大きいような気がしている。
何より、この20年以上日本の生活者の「所得」そのものが、目減りし続けているという点も大きいのでは?
その間、企業の内部留保が過去最高を更新(今回の「コロナ禍」で打撃を受けた企業は多いはずだが)しているにもかかわらず、生活者に還元されることのない20年間だった。

このような20年間の中で、日銀が続けてきた「金融緩和策」だが、本当にこのまま続けてよいのだろうか?という、疑問がある。
この円安状況になっても、日銀の黒田総裁は「粘り強く緩和継続」を表明している。
この「緩和政策」に対して、野村総研等は疑問を呈している。
野村総研:1ドル130円は通過点。市場機能を損ねる日銀金融政策の弊害が急激な円安を招く

野村総研の記事は、金融を中心とした日本経済を見るレポートになっているが、この20年間で実質賃金が低下している中で、円安により様々な物が値上がり、生活者への経済的ダメージはじわじわと大きくなってきている。
それはガソリンの値上げであったり、輸入に頼っている食料品、国内で生産される物であっても飼料等の値上げにより、乳製品等の値上げは避けられないだろう。
他にも、原材料を輸入に頼っている工業製品は、下請け・孫請け・曾孫請けと企業規模が小さくなるにつれ、受ける影響も大きくなる。

このような状況がすでに想定できる状況になっていながら、補助金以外の経済政策を打ち出すことができないのは、何故なのか?
「コロナ禍」でダメージを受けた業種だけではなく、日本の基幹産業(といまだに位置付けている)にまで、ダメージを受けてしまうのでは?と、不安を覚える人達も多いのではないだろうか?

明日からGWだが、楽しいGWとは程遠いGWになってしまうのでは?という気がしている。


「吉野家」マーケティング担当役員の舌禍の問題は、日本の問題の縮図かもしれない

2022-04-27 19:34:40 | アラカルト

早稲田大学の社会人向け講座のマーケティングを担当していた、吉野家の取締役員の舌禍はまだまだ尾を引いているようだ。
といっても、問題視されている内容は多岐にわたる。
例えば、この問題をSNSで投稿したのが、女性受講者であったという点。
投稿をした女性は、男性受講者の中にはこの話を聞いて笑いが起きていた、という指摘もしている。
逆に言えば、不快に感じたのは女性受講者であり、男性受講者は問題だと感じていなかった、ということになる。
実際の受講者がどのくらいの年齢が中心であったのかは不明だが、このような講座に積極的に参加したい!と考えるのは20代後半~40代くらいなのでは?と、想像している。
とすれば、問題にならなければ、笑った男性受講者も「問題点に気付かなかった」ということも十分に考えられる。

そんな中、以前拙ブログでもエントリをしたが「日本のマーケティング業界の問題」という指摘があった。
確かに、マーケティングという仕事をしていると、ドラッカーやコトラー、T・レビット等「マーケティングの神様」とか「マーケティングの父」と呼ばれるような方々の著書とは、随分違うと感じるコトは多々ある。
何より顕著な例は、「know-howやhow-to」ばかりを求めて、自社については?とか自分ならどうするのか?といった「成功例から考える」ということを半ば放棄し、「成功事例のknow-howやhow-toを提供して、売り上げがアップする」コトをマーケティング担当者の仕事だと思い込んでいる担当者が多いというのも事実だろう。
ただ、そのような傾向は、日本の様々な企業(特に古い体質の企業)に多くみられる。
「日本の減点主義」とか「リスクを負わない思考」等が根強いからだ、とも言われる理由でもある。
と同時に「マーケティング」そのものを「ビジネスの鵺」のように、見ているからではないだろうか?

そう考えると、ITMediaに掲載された記事も納得できるが、それはマーケティングに限ったことではないのでは?と、疑問を呈したいと思うのだ。
ITMedia:吉野家元常務の舌禍事件から考える マーケティング業界の病巣とシニア権力を持ち続けるリスク

確かに、今回の舌禍となったマーケティング担当者は、外資でマーケティングの担当者として、辣腕を振るってきた人物なのかもしれない。
当然、それなりのプライドを持って仕事をしてきたはずだ。
だが、消費財と食品とでは全く同じ思考で、マーケティングができるわけではない。
まして、もともと所属していた外資と違い、吉野家は築地で働く人たちに「安い・速い・美味い」を提供し、大きくなってきた企業だ。
同じ食品を扱う企業であっても、銀座に店を構えるレストラン等とは違う。
マーケティングの基本である、生活者を見ていないということでもあるのだ。

それだけではなく、企業におけるマーケティング担当者は、黒子のような存在でもある。
会社員時代、上司から「自分の企画で数字が出たら、営業の手柄だと思え。逆に数字が出なかったら、自分の失敗だと思え」といわれてきた。
マーケティングに携わる為に必要なコトは、おそらく「謙虚さ」なのだと思う。
ましてシニアと呼ばれる年齢になれば、メンターとして人財を育てる立場になる。
メンターがシャシャリ出てあれこれ、自慢話をしていては育てるべき人財も育たない。
マーケティングに限らず、どのような職種・業種であっても同じことではないだろうか?

そのような問題が一気に噴き出すこととなったのが、今回の「吉野家常務の舌禍」であり、日本の企業が抱えている問題ではないだろうか?


「短歌」と「Twitter」・・・日本人にとって親和性のある関係?

2022-04-26 21:23:54 | アラカルト

テスラのE・マスク氏が、Twitterを買収した、というニュースが報じられている。
Huffpost:世界一の富豪イーロン・マスクがTwitterを5.6兆円で買収。青い鳥を手に入れる

E・マスク氏が、Twitterを買収するまでの経過については、すでにご存じのビジネスパーソンも多いと思う。
買収成立のニュースはある意味、意外な決着だったような印象があるほど、Twitter側はE・マスク氏の買収には乗る気ではなかったはずだ。
乗る気ではない、どころか反対の姿勢を示していたはずだ。
それが、急転直下のように買収が決まったのには、それなりの事情があるのだろう。
何より、この買収によりTwitter社が非上場になる、ということも、どうなのだろう?という疑念がある。

さて、そのようなTwitterではあるが、以前から指摘されている「若者と言葉」という視点で見ると、面白い関係性があるようだ。
最近、若者の間で「短歌」がブームになっている、ということをご存じだろうか?
今朝のFM番組を聞いていたら、特定の書店で142冊売れている歌集がある、と話題になっていた。
その「歌集」というのが、岡田真帆さんの「水上バス浅草行き」という歌集なのだという。

私の世代で、大ヒットした歌集といえば俵万智さんの「サラダ記念日」だと思うのだが、この時と今の短歌ブームとの違いは、自分で短歌を作る若い世代が多いという点だという。
もちろん、年齢の高い方の中には、趣味として長い間新聞などの短歌欄に投稿をしてきている、という方も少なくないだろう。
今の若い世代の「短歌」は、日常の風景を切り取り、自分のことばで書いている、ということらしい。
ありきたりな日常風景といっても、自分の生活の中にある言葉を短歌として書くことで、より共感性を呼ぶということのようなのだ。

そのような背景を見ていると、フッと気づくのが、今日買収の話題があったTwitterだ。
Twitterそのものは全角で140字という、文字制限がある。
その文字制限の中で、自分の思っているコトを書くことは、短歌を作るのと似ているのかもしれない。
Twitterが社会的認知を得られ始めた時のように「〇〇なう」などの、実況型のつぶやきではなく、「自分の見ている風景を心情に置き換え、140文字で表現する」ということと「短歌を作る」ということが、似ているのかもしれない。

短歌といえば、与謝野晶子や正岡子規、北原白秋のような人たちを思い浮かべ、ハードルを勝手に高くしているのは中高齢者で、岡田真帆さんに代表されるような、20代の若い歌人たちが増えてきたのは、Twitterにつぶやくような感覚でその時々の風景から感じられる内省性を短歌を通して表現しているのが、今の若い世代なのかもしれない。
その点で、Twitterと短歌は親和性が高いのかもしれないし、何より漢字という文字文化によって表現がしやすいという背景も見逃せない、日本の文化なのだと思う。


GWは、マーケティングの基礎を勉強しよう

2022-04-25 19:46:57 | アラカルト

今週末からGWに入る、という方も少なくないのでは?
「コロナ禍」だからと言って、GWはカレンダー通りにやってくる。
そして、今年のGWが「最後のGWになるのでは?」と、懸念されている方もいらっしゃるようだ。
「最後のGW」というのは、年度明けから続く円安基調と物価高、政府からの積極的な経済政策もはっきりと見えない状況にあるため、「行楽などを楽しむ余裕のあるGWは、今年が最後なのでは?」ということのようだ。
確かに、家族そろっての行楽に出かけることは、とても楽しい。
なんといっても今年のGWは、有給休暇などを上手に利用すれば10連休という、ちょっとしたバカンスが楽しめる日程だからだ。

とはいっても「コロナ禍」以前のような、海外旅行に出かけるという人達は案外少ないかもしれない。
円安や「コロナ禍」ということもあるが、欧州などはロシアのウクライナ侵攻などの影響もあり、気分的に出かけたい先ではないのでは?
であれば、GWこそ勉強の時間にあててみるのはどうだろう?
特に、先日来から問題となっている「吉野家生娘を薬物中毒に戦略」などというマーケティングを、社会人向けビジネス講座で話してしまうような専門家がいた、という事実は衝撃的であり、その潜在的問題の一つには「成功事例の実務重視」という、日本全体のビジネス文化のような問題が潜んでいるのでは?という指摘がされている。

この問題については、拙ブログでも指摘してきていることなので、「わが意を得たり」という部分でもあるのだが、とすれば、「マーケティングの基礎」を学び直す必要がある、と思うのだ。
幸い、マーケティングの基礎となる書籍は、書店に行くと簡単に見つけるコトができる。
例えば、ドラッカーやコトラーなどの書籍だ。
ドラッカーの本を読んでいるとわかるコトだが、「こうすれば、成功する」的な内容ではない。
それはコトラーについても同じだ。
だからこそ、普遍的に読むことができるし、読みながら「自分の仕事との関連」を想定しながら、読み進めるコトができる。

そしてもう一人、日本のマーケティングの第一人者といわれてきた、故村田昭治慶応大学商学部名誉教授の著書を、勧めたい。
ドラッカーやコトラーと違い、日本の情緒性を感じさせる部分も数多くあり、企業のトップとのエピソードなどが数多く書かれている、という点でもわかりやすいのでは?と、思っている。
ただ残念なのコトに、村田先生の著書を大型書店で見つけるコトもなかなか難しい状況になっている。
その意味では、日本は「話題の書籍」は買い求めやすいが、新刊が出ない(あるいは亡くなられた)方の著書は、隅に追いやられてしまうのだな~ということを実感している。

ということで、私のGWに読みたいマーケティングの本をあげておきたい。
ハーバードビジネスレビュー「マーケティングの教科書」
ドラッカー「マネジメント」(NHK出版の「100分で名著」版が読みやすい)
コトラー「マーケティング講義」
村田昭治「マーケティングゼミナール」

発刊されたのは随分前ではあるが、このような「基礎」となるべき知が無くては、「実践重視」といっても、その実践の軸がぶれてしまう。
だからこそ、軸をぶれさせない為にも「基礎となる知」が必要なのだと、長いマーケター経験から提案したい。


「吉野家取締役暴言」は、マーケティングだけの問題ではない(と思う)

2022-04-23 22:42:04 | ビジネス

先日の「吉野家」取締役の早稲田大学社会人向け講座での「若い女性を薬物中毒にさせる」発言については、収まりつつあるように思っていたのだが、決してそうではなかったようだ。
文春オンラインでは、マーケティングに携わる者として、相当耳が痛いような内容の記事が掲載されている。
文春オンライン:吉野家「生娘シャブ漬け戦略」で露呈した、”マーケティング業界”のお寒い事情

記事を読んで反論ができるのか?と言われれば、反論することができない。
確かに、書店のビジネス本のコーナーで大きな売り場となっているのは「ビジネス成功事例」について書かれた本だからだ。
その中でも「こうやれば売れる」的な本は、とても人気が高い。
ややこしくしているのは、そこに「マーケティング」という言葉が付いているからだ。

拙ブログでは、過去何度も「こうすれば売れるマーケティング」などは無い、という趣旨のことを書いてきたつもりだ。
成功のknow-howやhow-toを否定する気はない。
ただ、それらの本に書かれた「成功例は読者の成功例にはならない」ということなのだ。
同様に「こうすれば成功するマーケティング」という、know-howやhow-toを書かれても、成功することは無い。
何故なら、本に書かれた成功例と自分の仕事内容が、まず一致しないからだ。
業種や内容が違うのに、同じことをして成功するはずがないのだ。

ただ、このような「成功事例に学ぶ」ことは、マーケティングに限ったことではない。
営業のknow-howなども「成功事例に学ぶ」コトで、効率よく成果を出すことを、多くのビジネスパーソンはしているのではないだろうか?
とすれば、記事にあるような「実務称賛」のような傾向は、マーケティングに限ったことではない、ということに気付くと思う。
「マーケティング」について、このような書き方をされる理由は、おそらく「マーケティングってよくわからない」という「わからなさ」からきているのでは?と、考えている。

know-howやhow-toを知ることが、悪いわけではない。
それらの「方法」を自分なりに理解をし、自分のビジネスに合わせて行うことで、know-howやhow0toは有益なモノになると思う。
それではすでに通用しない時代になっている、という認識がされないまま、ここ30年という時間が過ぎてしまったような気がしている。
高度成長期~バブル経済の崩壊までの時間は、「需要>供給」という時代だった。
だからこそ、マーケティングのように「生活者の思考・志向・嗜好」を知る必要もなかったし、「良いものを作れば自然に売れる」という時代でもあった。
その後、広告の世界で盛んに言われるようになったのは「十人十色から一人十色」という、一人の生活者の価値観が多様化しているということだった。
それでも「一人十色」という考えから、「少量多品種」というビジネスモデルが登場し、成功した(ように思えた)。

日本のビジネスでは、「生活者の思考・志向・嗜好」というものを重視せず、既存の企業の成功例に習って繰り返して来た、という部分が大きいのだ。
「マーケティングって何?」という本質的な部分よりも、わかりやすく真似をしやすいknow-howやhow-toを「マーケティング」と考えてきた、ということなのだ。
そしてそれは、日本のビジネス全体についても同じことが言えるのではないだろうか?




 


「言葉」と「イメージ」

2022-04-21 22:02:53 | ビジネス

そろそろ「吉野家取締役」の話が、話題にならなくなってきたような気がする。
時間としては3,4日間であった、ということになるのだろうか?
今回の問題で忘れてはいけないことは、「言葉とイメージ」ということかもしれない。
吉野家の取締役で早稲田大学の社会人講座を受け持った人は、あまりにも言葉に対して無神経であった、ようにも感じている。
それは例えとして使った言葉そのものが、差別的な印象を与えるだけではなく、不快感をもたらす言葉だったからだ。

そんな問題がメディアに登場しなくなった今日、個人的には「ギョッとする言葉」を再び見るコトになった。
Huffpost:「日の丸半導体」の現在地と未来が分かる。世界を「中毒化」させる戦略に活路を見よ

私が「ギョッとした」したのは、「中毒化させる戦略」という言葉だ。
「中毒(化)」という言葉そのものに、あまり良い印象を持っていない、ということが大きいのだが、このような言葉を日本の大学の中でもトップクラスの教授が使ったとすれば、やはりどうなのだろうか?と、考えてしまうのだ。

マーケティングの仕事の中には、広告・広報がある。
ドラッカーの言う「マーケティングの4P」の中の一つ、プロモーションのことだ。
そのため、マーケティング担当者は、「言葉」に対しても敏感でなくてはならない、と思っている。
特に昨今は、「差別語」ととらえられる言葉が、以前よりずいぶん増えた。
10年ほど前なら、社会が問題にしなかったような言葉であっても、今使うと大きな問題となり、時には企業のイメージを大きく損ねるだけではなく、場合によっては「不買運動」のようなことにまで発展する、ということがあるほどだ。
だからこそ「人に伝える言葉」には、受け手となる生活者の気持ちや感性に、敏感でなくてはならない。

さて、本題となる「日の丸半導体」だが、1990年代までは日本の半導体は世界を席巻するほどだった。
それが、市場どころか性能などでも台湾などの国々から遅れを取り、今や風前の灯状態となっている。
この間、政府は何度も資金融資などの投資を行ってきたのだが、まったくと言ってよいほど成果が出ていない、というのが現状だ。
記事中の内容に関しては、その理由や今後の展望などについて図を交えながら丁寧に書かれていると思う。

問題だと感じたのは、日の丸半導体復活の為に「世界を中毒化させるような…」という部分だ。
「中毒」の意味の説明をされているので、問題はなさそうに思えるのだが、「世界中の企業が唯一無二の半導体製品と認め、引く手あまたとなるような状況にならなくてはいけない」という表現でも、十分に伝わるのでは?ということなのだ。

最近ネット広告などを見ていても、コピーなどで使われる言葉が直接的で、ギョッとすることが多くなった。
確かに直接的な表現は伝わりやすいかもしれないのだが、このような言葉ばかりを使っていると、社会が荒んでいくような気がするのだ。
コピーにしても記事の見出しにしても、受け手となる生活者に不快感を与えない、わかりやすい表現をするということに、もっと注意を払う必要があるのでは、という気がしている。

「判りやすさ」と「伝わりやすさ」のほかに、「不快感を与えない」ということも必要なのではないだろうか?


いつまで「マッチョな発想」で、いるのだろう?‐吉野家元取締役の発言から考える日本のマーケティング‐

2022-04-20 11:50:19 | マーケティング

一昨日炎上した、早稲田大学の社会人向けのマーケティング講座で、吉野家の元取締役の「生娘を薬物中毒にする」発言。
炎上した内容から、今の社会がとても受け入れられるような発言ではなかった、ということになると思うのだが、意外にもこの発言に対して「大意は間違ってはいない」という方もいらっしゃるようだ。
東洋経済:吉野家常務「生娘シャブ漬け」発言がマズすぎた訳

記事の内容については、読んで判断をしていただきたいのだが、「大意は間違ってはいない」という部分だ。
「例として挙げた内容がセンセーショナルなだけ、問題はない」というようにも、読み取れる。
その後に続く、筆者の体験内容を読んでみると、確かに表現は違うものの言っていることは、ほぼ同じだと考えてよいと思う。
このような内容を読んで、個人的に「日本のビジネスが、グローバル市場で負ける理由」が、何となくわかった気がしたのだ。

私事になるのだが、私がマーケティングという仕事に携わるようになった30年以上前、マーケティングの研修会などに参加すると、私以外は全員男性ということが少なくなかった。
雰囲気も「おい!女がいるぞ」という、奇異な目で見られるということも、多々あった。
それほど、マーケティングという分野では女性が担当することは、珍しいことだったし「女にマーケティングができるわけないだろう」という雰囲気も強かった。

とはいっても、それは30年以上も前の話で、その間に「男女雇用機会均等法」が社会に定着し、女性が様々な分野で活躍できる環境にもなってきた(はずだ)。
にもかかわらず、東洋経済の記事のような感覚を持った方が、今でもしたり顔でマーケティングという仕事に携わっているのだとしたら、日本の企業がグローバル市場で、一人負けのような状況に陥っている現状の理由の一つが、何となくわかった気がしたのだ。
「ダイバーシティ」とか「多様性が認められる社会」などといっていても、その実「マッチョな思考」が幅を利かせ、「自分にとって異質」と感じる人達を排除したい、という潜在意識があるのでは?ということなのだ。
そのため、排除したい相手に対して無神経な言葉を使うことに抵抗がないのでは?

何より絶望的なほど残念だったのは、この吉野家の元取締役がP&Gの企画の担当者であった、という点だ。
マーケティングの世界で、「参考とすべき、マーケティングが強い企業」として、必ずと言ってよいほど名前の挙がる企業の一つが、P&Gだったからだ。
P&Gそのものは、米国に本社を置く世界一の一般消費材のメーカーだ。
そしてそれらの商品の購入者(=顧客)は、女性だ。
だからこそ、P&Gのマーケティングは「女性を中心に考えてきた」といわれている。
「購入者の視点・気持ち」を優先して考え、マーケティングを展開してきたからこそ、マーケティングのお手本企業とまで言われるようになっていたはずなのだ。
その企業に在籍をしていただけではなく、マーケティングを担当していたとなれば、日本における「マーケティング思考」が、このような思考で行われている、といっても過言ではないということになると思う。

ドラッカーは「マーケティングはビジネスの基礎知識」といっていた。
そのビジネスの基礎知識が、30年以上も前のマッチョ思考から変わっていないとすれば、日本企業の時代遅れ思考を取り戻すためには、どれほどの時間を要することになるのだろう?



マーケティングをバカにするな!と言いたい。

2022-04-18 19:34:05 | マーケティング

今日の夕方から、Twitterのトレンドワードで「#吉野家、#生娘…」などが、話題として登場をしていた。
一体何のことなのかわからなかったが、Yahoo!のトピックスなどを見て、やっとわかった。
毎日新聞:吉野家、役員の不適切発言謝罪「生娘を薬漬けのように牛丼中毒に」

この記事を読んで、この発言が早稲田大学が開いている社会人向けのマーケティング講座の中でされていた、ということを知り、驚きというよりもマーケティングに対する冒涜のような気がした。
これでは、マーケティングに対するネガティブな認識を与えてしまうだけではなく、社会経験のある=それなりのビジネスパーソンに対して、間違ったことを教えている、ということになる。
一体早稲田大学は、何故このような人物を講師として招聘したのだろうか?と、疑問にさえ思てるのだ。

この役員は「Intimacy rock in」ということについての説明をしたかったのかもしれない。
「Intimacy=親しさ、親密、懇意」に「rock in=鍵を掛ける」という意味で、拙ブログでも何度か説明をさせていただいている、マーケティング用語の一つだ。
拙ブログでは、子どもの頃から慣れ親しんだ商品やサービスに対して、人は他の商品やサービスよりも優先的にその商品やサービスを選ぶ」という説明をしてきたはずだ。
商品やサービスに対しての「親しみや懇意」は、子どもの頃の楽しい思い出などと結びつき、それらの商品やサービスを買う時、その楽しい思い出という高いブランドイメージと信頼があることが重要なのだ。
それをあろうことか!公序良俗に反するような事例を挙げ、説明をするということは断じて許されるモノではない。

それだけではなく「生娘」という言葉を使い、「若く社会経験のないような女性は騙しやすい」というようなニュアンスのコトまで話している。
「性的差別」という問題はもちろんだが、吉野家で牛丼を買うお客様に対しても、バカにしたような発言だ。
現場で直接お客様と対面する従業員やアルバイトさんたちには、まったく非はないが、このような発言を企業の役員がすると、現場で一生懸命に働く人たちに迷惑をかけるコトになる。
そのようなコトもわからず、このような発言をしてしまう役員というのは、企業にとって害でしかない。

吉野家側は謝罪に追われているようだが、このような状況になってしまうと一役員の責任だけの問題ではない。
吉野家という企業そのものが、そのような考えを持っているのでは?と、社会から受け止められても仕方ないような、信頼・信用にかかわる問題なのだ。

マーケティングという仕事は、このような「企業と社会・生活者」という3者にどのような利益を与えるコトができるのか?ということを考えるコトからスタートする。
少なくとも、マーケティングという仕事に携わるようになってから、その部分を忘れたようなコトはしていないという自負がある。
何故なら、その基本的な視点を失い企業のコトだけを考えるようであれば、企業はたちまち社会から淘汰されてしまうからだ。
企業は自ら成長し続けるわけではない。
市場という場所が与えられ、その市場を動かす生活者に育てられているのだ。
そのようなあたりまえのことを、忘れたような役員がしたり顔で、社会経験のあるビジネスパーソンにこのような発言をしてしまう、ということ自体、マーケティングに携わる者として悲しいを通り越して、絶望的なほど日本におけるマーケティングの本質の理解がされず、言葉遊びで終わっているのだ、という現実を突きつけられたような気がしている。


ロシアに対する経済制裁から考える

2022-04-18 12:42:51 | ビジネス

朝日新聞のWebサイトの見出しを見ながら、日本でも考える必要があるのでは?という気がした記事があった。
朝日新聞:あれもこれも輸入頼りだったロシア「初めて知った」国内生産を阻む壁は

有料会員記事なので、全文を読むことはできないのだが、記事の一部を読むだけで決して「対岸の火事」ではないのでは?という、気がする内容だ。
農業分野において、カロリーベースとはいえ日本は輸入に頼らざる得ない。
今回のロシアのような、政治的理由で輸入制限をされたり、経済制裁をされなければ大丈夫、と思っているとリスクがあるのでは?という気がしている。
それは「地球温暖化」によって、農作物そのものの生産が世界規模で変化してきている、という点だ。
生産国の状況が悪くなれば、輸出を減らし国内を優先させるのは、当然のコトだろう。
ということは、日本が輸入している農作物は、輸入先の国の状況によって制限を受ける、ということでもある。

それだけではなく、国内メーカーが積極的に海外へ生産拠点を移したことで、日本国内での生産力は低下している。
確かに、人件費の安い国で生産をすれば、それだけ生産コストは下がるということになる。
場合によっては、原材料から製品の製造に至るまでを一貫して海外の拠点工場で行うことができれば、原材料などの運搬コストなども下がるので、メーカー側にとってのメリットは大きい。
その結果として、日本の生産力の低下は免れないという状況になっている。
それが、自然環境の変化によって、あるいは相手国の政治的事情によって、これまで通りに行かなくなる、というリスクを含んでいるということになるのでは?という懸念だ。

まして今は、円安という状況になっている。
人によっては、ロシアのルーブルよりも日本の円のほうが、状況的には問題が大きい、という方もいらっしゃるようだ。
その理由はお分かりだと思う。
ロシアのルーブルの国際的価値が下がる理由は、今回のウクライナ侵攻に対する「経済制裁」によるものだ。
それに対して、日本はそのような目立った不安材料が見当たらないのに、円安傾向が続いている。
もちろん、ロシアのウクライナ侵攻により、ドルやユーロに対して動きがあるのは当然だが、(一応)政治的にも安定をし、それなりの経済力があると思われていた日本の円が、ずるずると円安に進むというのは、それだけグローバル経済の中での日本の生産力を含む経済力の低下と考えられるからだ。

今朝、FM番組を聞いていたら「100均ショップ」の話があった。
今や日本人の生活の中にすっかり溶け込んだ感のある「100均ショップ」だが、この円安傾向+様々な値上げにより、経営そのものが厳しくなりつつあるという。
経営を保つ為には、「値上げ=100均ではない商品ラインナップの充実を図る」ということになるのだが、今の生活者の給与などを考えると様々な値上げに耐えうるだけの所得を十分に得ているのだろうか?という疑問が出てくる。
何故なら、日本人の平均給与はここ30年近く下がるコトはあっても、上がることはほとんどなかったからだ。
しかし30年以上前よりも、様々な生活コストは上昇している。
このような状況は、決して良い経済状態とは言えない、という指摘だった。

ロシアの経済状況は、経済制裁による悪化が主な理由として挙げられるはずだが、では日本はどうなのだろう?
そろそろ「安い=善」という考えから脱却し、必要なコストは正当な価値を認め国内での生産力を上げるコトを、日銀をはじめ考え直す時期に来ているのではないだろうか?
少なくとも、「日本製品」を悩むことなく購入できるだけの所得が得られるようにする必要があると思うのだが・・・。


ジェンダーギャップ。社会的役割を求めすぎてはいないか?

2022-04-16 22:14:44 | アラカルト

President on-lineに、「常識って何だろう?」という記事があった。
President on-line: 「女性には女性のよさが…」NTT澤田社長の入社式あいさつは何が問題だったのか

この記事で最初に登場する「女性脳と男性脳」という話だが、おそらく「話を聞かない男、地図の読めない女」という本が大ベストセラーになったt on-lineに、「常識って何だろう?」という記事があった。

President on-line: 「女性には女性のよさが…」NTT澤田社長の入社式あいさつは何が問題だったのか

 

この記事で最初に登場する「女性脳と男性脳」という話だが、おそらく「話を聞かない男、地図の読めない女」という本が、大ベストセラーになった1998年ごろから言われるようになった気がする。
確かに、地図を読むことが苦手な女性は多い。
私の周囲の女性の多くは「私、地図を読むのが苦手だから、道に迷っちゃって」と、言われることは多い。
ところが、私自身は子どもの頃から「地図を読む」コトが大好きで、地図さえ頭に入っていれば、初めて行く観光地などでも迷うことはほとんどない。
しかし、すぐ上の兄は地図を読むのが苦手なうえ、男としてのプライドがあるのか?、私に道順などの間違いを指摘されると機嫌を悪くすることが多かった。
そのような環境の中で育ってきたので、本のタイトルとして興味があり本は読んだのだが、「個人差でしょう」という、一種の違和感を持ちながら読んだ記憶がある。

「個人差がある」とは言いながら「話を聞かない男」という点では、実体験として頷く部分も多かった。
確かに男性の場合、「女性の話を聞かない」という場面が多いような気がしていたからだ。
それはおそらく、社会的な役割や自分と他者(この場合は、女性)との関係性の中で生まれてくることなのでは?ということなのだ。
これまで、女性と男性とでは「社会的役割」というものが、明解にあった。
「男性は企業で働き、経済を支える」という役割。
「女性は男性が外で働く為に、家庭を支える」という役割。
といった具合だ。

それが「共働き」という家族形態が、一般化することで実態としては崩れ去っているはずなのだが、この「社会的役割」という観念は崩れ去ることなく、今でも存在し続けている。
それが日本のジェンダー。ギャップに、つながっているのではないだろうか?
そして、今回のNTTの澤田社長の入社式での言葉は、そのような「社会的役割」という意味だったのでは?という気がしている。

「社会的役割」というものは、今でも存在しているし、おそらくいつの時代でもあるのでは?と、考えている。
ただし、それは「身体的」な部分という意味だ。
いくら科学が発達しようとも、男性が妊娠をし・出産をすることは無いだろう。
「身体的社会的役割」というものは、そのようなコトなのだ。

そのほかの「脳による性差」があるわけではなく、「個人の思考性の違い」や「得手・不得手」があり、統計的な傾向がみられるという範疇のことなのだと思う。
そのように考えれば、数年前からもてはやされた「リケジョ」などという、理系が得意な女性が特異な存在のようになってしまう。
随分前から、医学部の学生の男女比率は5:5である、といわれ、逆に「受験の上位に女子学生が集まるので、女子だけ合格点を上げ足きりをしていた」などということが問題になったことは、記憶に新しいところだろう。

日本のジェンダーギャップで問題になる分野を考えてみて欲しい。
それなりに年齢の高い男性が中心の分野である、ということがわかるはずだ。
年齢が高いから既成概念に縛られている、とは言いたくはないのだが、そのような既成概念に縛られた思考のほうが、自分たちに都合が良いと考えているのでは?
そしてそれを支持する人達もまた、多いというのが日本の社会の現実なのだと思うのだ。