今日で7月も終わりだが、本格的な夏休みはこれからだろう。
今年の夏のヒット商品(というよりも、サービスといったほうが正しいと思うのだが)の一つに、「ナイトプール」がある。
「暑い昼間を避け、夜にプールを楽しむ」という、若い人たちが増えているのだ。
もちろん、利用するのは「市営プール」などではない。
ホテルに併設されている、プールだ。
ホテル側も、ナイトプール向けに照明などを凝らし、来場者を楽しませる工夫をしている。
毎日新聞:幻想的な水遊び 東京プリンスホテル
この「ナイトプール」が人気になっている理由の一つが、「インスタ映えする」ということがあるようだ。
「インスタ映え」というのは、ご存じの通りSNSの一つである「インスタグラム」に投稿した時に、いかに素敵に見えるのか?言い換えれば「いいね!」を押してもらえる写真なのか?ということである。
実際、Twitterやインスタグラムは直接自分が知っている相手ではなく、不特定多数の人にアピールする必要がある。
そこから、フォロワーを獲得し、ネット上の知り合いを増やしていくことが、投稿者にとっての一つのステイタスのようにもなっているような気がするのだ。
それが「良い・悪い」ではなく、今ではそのような「つながり」もまた、重要な「つながり」となり、投稿者にとっての満足になっている、ということなのだと考えている。
昭和の感覚からすると、「それって、本当の繋がりのある関係?」と思うのだが、SNSというネット上のつながりが、現実の繋がりへと発展していくこともある。
だからこそ、一概に「良い・悪い」とは言えないのだ。
その一方で、しばらく前にエントリした通りSNSなどでの「リア充」アピールは、自己満足と承認欲求のあらわれではなか?という気がしている。
「承認欲求」というのは「(周囲から)自分の存在を認めてもらいたい」ということだが、繋がりを求めているのではなく「自己愛の肥大化」なのでは?ということではないだろうか?
「インスタの素敵な私」と「現実の私」のギャップが、ドンドン広がっているのでは?という懸念さえ感じることがある。
「現実の自分を好きになれず、理想の自分を創り上げ、自己陶酔している」ようにも見えるからだ。
それは「理想の自分を愛している」だけなのでは?
「そこまで大袈裟なことではない」と思う反面、最近の「リア充」アピールをする人達を見ていると、そのように感じてしまうのだ。
朝日新聞に「名古屋らしいな~」という、記事があった。
朝日新聞:婦人服売り場「母娘フロア」に改装 名古屋三越栄店
「婦人服売り場をリニューアルして、母親と娘が一緒に買い物を楽しめるフロアーへ改装する」という、内容の記事なのだが、名古屋以外の地域に住んでいらっしゃる方の中には「母親と娘が一緒に買い物?小学生じゃあるまいし・・・」と、思われたかもしれない。
名古屋では随分前から「母親と娘の関係」を、「一卵性母娘」と言われることが多い。
この場合、母親は40代~60代、娘は20代~40代という年齢だ。
決して30代~40代の母親と10代の娘、という関係ではない。
「母と娘」の関係は、大人になってからも「子どもの頃」のような関係が、続いているケースが多い。
はたから見ると、しばらく前に言われた「母親が娘を支配する・毒親と娘」のような関係にも思えるかもしれないが、当人たちにとっては、とても居心地の良い関係なのだ。
何故なら、母親が娘にファッションアドバイスをするように、娘もまた母親にファッションアドバイスをする、というある種の「友達親子」のような関係もあるからだ。
もう一つ、非名古屋出身者から見る「母・娘関係」の特徴的なことは、結婚後も娘と実家の関係がとても強い、という点がある。
「嫁姑の関係で悩む」のが一般的だとすれば、「婿VS姑・舅関係で悩む」男性が名古屋に限って言えば多いのでは?と、感じている。
結婚後もお嫁さんが自分の実家へ頻繁に行く、ということが当たり前で、ほぼ毎日昼間は実家で過ごす、というお嫁さんもいらっしゃる。
今は働く女性も多いので、昼間実家で過ごす娘さんも少なくなってきているとは思うのだが、仕事の帰りに実家に寄り母親が作ってくれたお惣菜を、手土産に持たせてもらうことも、特別なことではない。
「過保護」と言われればそれまでだが、それが名古屋の「母・娘関係のスタンダード」でもあるのだ。
ただ最近このような「一卵性母娘」という関係は、名古屋に限ったコトではないのでは?という、気もしている。
それは、上述した通り「一卵性母娘」の対象となっている年齢層だ。
母親世代のファッションや美容の志向が、「年齢を感じさせない」という意識が強いからだ。
「いつまでも若々しく」という願望は、いつの時代でもあるもので、女性に限ったことでもない。
その中でも「一卵性母娘」の母親世代は、特に強く「娘と共通の服が着られる」などが、一つの自慢でもあるからだ。
しかも「変に若作りをしたオバサン」には見られたくない為、娘からのアドバイスも積極的に聞き入れる、という柔軟な思考(というのか?)も持っている。
そして、そのような女性は潜在的に増えつつあるような気がするのだ。
名古屋の場合、もともと地元志向が強いため、娘が成人をしてからも「子供の頃のような母・娘関係」が継続しやすい、ということもあると思うが、その傾向は、他の都市部でも起きているのでは?という、気がしている。
ここ、数週間「ガソリン車」についての記事を、目にすることが多かった。
フランス、イギリスなどは将来的にはガソリン車を廃止し、EV車へと移行させたいというニュースが、相次いで報じられた。
東洋経済オンライン:イギリス、2040年「ガソリン車禁止」の衝撃 ロイター
「2040年までにガソリン車禁止」ということなので、まだまだ時間的余裕があるような印象を受けるが、実際にはそれほど余裕があるという状況ではない。
ガソリン車が禁止となった場合、おそらく移行するクルマはEV車ということになると思う。
EV車=電気自動車となると、ガソリンスタンドならぬ「充電スタンド」の設備が必要になる。
その「充電スタンド」で供給される「電力」は、どのように「つくるのか?」という問題がまずある。
「ガソリン車禁止」の大きな理由は、CO²の削減(=地球温暖化対策)だ。
とすれば、供給される電力もCO²削減の対象とならなくては、意味がない。
これまでのような「火力発電」による「電力供給」はもちろん、欧州で進められている「脱原発」の動きを考えれば「原発」による「電力供給」についても、基本外されるべき「電力供給減」となるだろう。
残るのは、「循環型自然エネルギー」ということになると思うのだが、太陽光発電や風力発電などは「安定供給」という点で問題がある。
もちろん、蓄電技術が進み自然エネルギーによる安定的な電力供給ができるようになれば、問題はない。
その技術が2030年ごろまでにできるのか?
全面禁止の10年前に想定しているのは、2040年にはガソリン車がすべて無くなる為の時間が、必要だと考えているからだ。
日本の自動車メーカーがこれまで力を入れて開発をしてきた、「ハイブリッド車」や「プラグイン・ハイブリッド車」などは、欧州の市場では撤退を余儀なくされるのでは?という、懸念もある。
当然、そのような変化を見据え、各メーカー側は何らかの技術開発をしているとは思うのだが、世界的(トランプさんのアメリカは別かもしれないが)に、ガソリン車からEV車へと政治的に舵を切っているとすれば、「自動車におけるエネルギー技術とシステム」の奪い合いが、始まるような気がしている。
トヨタの「ミライ」やホンダが開発中だと言われている「水素自動車」などは、これから先有望な「エネルギー技術」と言えるかもしれない。
それは、これまでのような「火力発電・原発」VS「自然エネルギー」というような考え方ではない、「新しいエネルギー技術開発」のような気がしている。
果たして日本の企業は、その「技術とシステム」を構築し、世界の標準となることができるのだろうか?
ファッション雑誌の中でも、プロと呼ばれる人たちを対象とした雑誌・WWDに、「デビアス」が一時的に日本を撤退する、という記事があった。
Yahoo!のトピックスでも取り上げられていたので、ご覧になられた方は多いと思う。
WWD:「デビアス」が日本における店舗戦略見直しで、一時撤退
「デビアス」の名前を聞くのは、随分久しぶりのような気がする。
と言っても「デビアスって何?」と思われる方も多いかもしれない。
南アフリカに本社を置く、世界中のダイアモンドの価格を決めている、と言っても過言ではないほどの世界中のダイアモンドの取引を一手に行っている企業だ。
今では一般的になった(?)「婚約指輪は、お給料の3か月分」というコピーも、デビアスが仕掛けたものだった。
バブル華やかかりしころ、女性雑誌にはデビアス絡みの広告が毎月掲載されていた。
今回の記事の内容は、「デビアスの直営店舗の日本撤退」ということなので、日本のジュエリー市場からダイアモンドが姿を消す、というわけではない。
デビアスにとって日本の市場が魅力的でなくなった、ということなのか?という、気がしている。
実際、ここ数年高価なアンティークダイアモンドや珍しいダイアモンドをオークションで次々と落札しているのは、中国の実業家だ。
それだけ中国の一部の人たちの中には「金余り状態」と、なっているのだろう。
実質的な中国経済の実態とは、もちろん別の話だ。
中国の一部の富裕層の人たちは、日本人富裕層とは桁違いの資産を持つようになってきている、ということなのだと思う。
デビアスの「店舗の日本一時撤退」も、そのような背景があるからだろう。
しかし、だからと言って日本の経済に影響があるのか?と言えば、余り影響はないと思っている。
何故なら、ダイアモンドという商品そのものが、日常生活と関係がある物ではないからだ。
まして、日本には世界中の高級宝飾店が集まっている。
何も「デビアスの店舗でなくては、ならない」という、こだわりを持っている生活者は、ほとんどいないと思うからだ。
宝飾品を購入する人の多くは、購入するブランドやデザインの良さで購入しているだろうし、デビアスは数多くあるブランドの一つでしかない。
まして、店舗展開としては欧州の高級宝飾店よりも随分遅れて、日本に進出している。
「資産価値」ではない、ジュエリーを身に付けて楽しむ文化が、バブル経済⇒バブル経済の崩壊⇒低成長の経済という経験の中で少しずつ生まれてきたように感じており、世界中の高級宝飾店が揃い、宝飾品の質だけではなくデザインなどに対しても、厳しい判断をするようになってきたのでは?と、感じているからだ。
「世界中のダイアモンドの取引を一手に行ってる企業の店舗の撤退」という点では、残念な気がするし、日本があまり魅力的な市場で無い、と判断されたことが残念だと感じている。
Huffpostを見ていたら、とても素敵なコピーのポスターを見つけた。
Huffpost:「男のために化粧しているうちは、お子ちゃま」化粧品店のポスターにドキッとする
ポスターに登場しているおばあちゃんたちは、80代~90代。
人生様々な経験をされてきた方たちばかりだ。
そのおばあちゃんたちが、ニッコリ笑顔で写っている。
その笑顔に合わせたコピーが、秀逸!と感じさせるものばかりだ。
記事を読んでいたら、これらのポスターは2013年に作られたもののようだ。
しかも関西の商店街の活性化の為に作られた物。
商店街のお店それぞれが、様々な表現でお店のPRの為のポスターを製作し、「総選挙」を実施していた、という。
そのポスターが、↓のようだ。
Huffpost:「アホに着ける薬はあらへん」大阪の商店街の「ポスター総選挙」がおもしろい
スライドで各商店のポスターを見てみると、今では「炎上するのでは?」とか「掲示禁止」されそうな物も、いくつかある。
例えば、鶏肉店の「胸肉・もも肉」のポスターやふんどし専門店?のポスターなどだ。
だからと言って、「炎上」させることが野暮なこと、という力を持っている、というのもこれらのポスターだ。
もちろん、紳士用品店の店主?が登場するポスターのコピーはとても哲学的で、「カッコイイ大人」のお手本のような印象がある。
まさにタイトルの言葉「アホ」という関西弁の持つ、やわらかでクスッと笑いがこぼれるような大らかさを感じるポスターたちだ。
上述した通り、このポスターは2013年に商店街の振興策として、作られている。
その頃は、社会的にまだまだ大らかさがあったのだろうか?
それとも、ここ1,2年で急速に些細なことで「炎上」するようになったのだろうか?
これらのポスターを見ていると、広告表現に必要なことは何か?ということを、改めて教えてくれているような気がする。
それは「ユーモア」だ。
綺麗でアーティスティックなポスターも素晴らしいし、「胸肉・もも肉」のようなポスターも見ていて楽しいのはやはりユーモアがあるからだろう。
このポスター制作にかかわったのが、電通関西支社だと知り納得もできる。
元々電通関西支社の制作するCMなどは、ユーモアとペーソスに溢れ、時代の空気感を敏感にキャッチしながら笑い飛ばすような力のある内容が多かった。
有名なところでは、「亭主元気で留守がいい」のコピーの衣料用防虫剤のCMだろう。
差別用語などの問題はあるが、テレビCMやポスターにはユーモアと、人を元気づける要素があっても良いのでは?という気がする。
今朝のFM番組を聞いていたら、3年後の今日「2020年東京オリンピックの開会日」だと話していた。
3年後の今日、本当に東京オリンピックが開かれるのだろうか?と、フと思った。
まず、候補地を決める最後のプレゼンテーションで、安倍さんは「東日本大震災で被害を受けた原発(=東京電力・福島第一原子力発電所)は、我々のコントロール下にある」と言った(と、記憶している)。
あの時「コントロール下にある」という、状況ではなかったはずだ。
そして今でも「コントロールできている」とは、言い難い状況が続いているように思う。
3年後、本当に「コントロールできている」という状況になっているのだろうか?
もちろん「コントロール」の意味が、「管理下にある」というのであれば、候補地選定での最終プレゼンテーションで言った言葉は、嘘ではなかったということになるのかもしれない。
問題なのは「管理下」の状態であって、多くの人は「事故収束に向け、様々な方策の成果が出てきている管理下」という意味だと、認識をしていたのではないだろうか?という点だ。
そして、2020年東京オリンピックの競技開催地では、様々なイベントが行われていたようだ。
日経新聞:東京五輪へ走る、つなぐ 開幕まで3年 イベント続々
名古屋では開催競技種目が無いため、このニュースを聞いたときには「よそ事」のような気持ちで、聞いていたのだった。
多くの人とは言わないが、私と同じように「よそ事」のような気がしている方もいらっしゃるのでは?という、気がしている。
というのも、1964年の東京オリンピックの時のような、国全体での「高揚感」が無いように感じるからだ。
1964年当時は幼稚園児だったので、その頃のことをどれだけ覚えているのか?と聞かれると、あくまでも幼稚園児の感覚になってしまうのだと思うのだが、当時は東京に住んでいなくても「オリンピックがあるんだ!」という、一種のワクワク感があったように思う。
子どもだったから「ワクワク感」を感じたのか?はたまた新聞やテレビなどのメディアが伝える「情報」の多さに、そのように感じたのかは覚えがないのだが、3年後の東京オリンピックよりも社会全体が、オリンピック開催がおめでたいような雰囲気があったように思う。
何より、今の日本は2011年に起きた「東日本大震災」から、立ち直ってはいないし、その後に起きた「熊本(大分)大地震」など、ここ数年の間で甚大な災害に見舞われており、候補地決定をした時よりも全国的には厳しい状況にあると思う。
2020年の東京オリンピックを「東日本災害復興」という位置づけをし、一部競技を東北で開催する予定をしているようだが、復興事業の妨げになってはいないのか?という心配もある。
果たして3年後、「東京電力・福島第一原子力発電所事故」は、事故収束の目途が付き「政府のコントロール下」となりっているのだろうか?
被災地復興ではなく、「被災地」という言葉から地域に住んでいる人たち全てが自立し、災害前のような生活ができているのだろうか?
オリンピック開催だけに焦点を合わせ、にぎやかなイベントが続くことに違和感を感じるのだ。
Huffpostに、センセーショナルな見出しがあった。
それが、今日のタイトルだ。
このタイトルを見て、「40代の一人暮らし=未婚者の増加=少子化と孤独な高齢者予備軍」という、構図?が思い浮かんだ方も多いのでは?
確かに「40代の一人暮らし」という状況は、未婚者というコトが真っ先に思い浮かぶ。
ただ、もう少し「ひとり暮らし」という点だけにフォーカスすると、離婚をし現在一人暮らしをしている、という「元既婚者」も含まれているはずだ。
シングルマザーやシングルファザーではない、元既婚者ということであれば、単純に「少子化の要因」とは言い切れない。
また「孤独な高齢者予備軍」ということも、本当に当てはまるのか?というと、決してそうだとも言い切れないはずだ。
「一人暮らし=孤独」だとは言い切れないからだ。
趣味などを通じて様々な人間関係を持っている、一人暮らしをしている人かもしれない。
イメージだけで考えると、マイナス面ばかりが見えてくるように思えるが、本当にそうなのか?と、疑ってみる必要があると思う。
何故なら、このデータはAIが導きだしたものだからだ。
先日、「超ソロ社会」という本を紹介した。
実は40代の独身男性で働いている場合、自由に使えるお金は驚くほど多い。
同世代の既婚者で、子どもがいる男性の多くが子育て期間中の父親である、ということを考えれば当然といえば当然の事なのだが、今マーケティングではこの「40代一人暮らし男性」をターゲットした、様々な商品やサービスを展開したい、という動きもある。
理由の一つは、上述した通り「趣味や食事、ファッション」などに使えるお金が、同世代の女性よりも多いからだ。
「同世代の女性より使えるお金が多い」という理由は、今更述べる必要もないと思う。
問題なのは「ひとり暮らし=未婚者」と結びつけ、少子化=人口の減少=社会保障費の支出増・収入減と、考えるからなのでは?
もちろん極端な少子化は、社会保障という点で「現役世代の負担増と不安増」を引き起こすだろう。
そのための枠組みを変える必要が、早急に必要である、ということも様々なところから指摘されている通りだと思う。
だからと言って「ひとり暮らし」が日本を滅ぼすというのは、極端な気がする。
「少子化」の問題にしても、経済的不安が減ったり子育て環境の充実で、変わっていく可能性がある。
それだけではなく、不幸にも親といっしょに暮らすことができない子供たちへの様々なサポートをし、「社会全体での子育て」という、発想の転換も必要かもしれない。
親と子の精神的密着が、もしかしたら「少子化」を促す要素となっている可能性もあるのでは?という、気がする時がある(名古屋の「一卵性母娘」の印象が強いからかもしれないのだが・・・)。
何よりこのデータは、AIが導きだしたものだ。
人の気持ちや考えが反映されたデータではない。
要は、このデータからどのような発想をするのか?ということだと思う。
来週から、夏休みという小・中・高校も多いのでは?
高校生は、大学受験や高校野球の応援などで、忙しい夏休みなのかもしれない。
逆に、小学生のお子さんの親御さん(特に母親)にとっては、「地獄の夏休み」なのかもしれない。
理由は夏休み(に限ったコトではないが)に入ると、お昼ご飯の用意をしなくてはならないからだ。
ご飯のメニューを考えるのが1回増えるだけでも、案外負担に思っているお母さんたちは、多いのでは?と想像している。
働くお母さんたちにとっても、それはもっと切実なる問題なのかもしれない。
そのような問題?を解決する「サマーキャンプ」が、人気だという。
キャンプ中は、お昼ご飯の支度を考える必要もなく、お子さんたちにとっても「キャンプ」は、学校生活では体験できなかったコトができる、貴重な機会となっている、と聞く。
確かに昨年の夏休みの頃、近所の幹線道路(=東名高速のインターチェンジへ通じる道路)には、早朝にもかかわらず、大型バスが何台も停まり、キャンプに参加すると思われる大きなリュックを背負った子供たちの姿を、数回見かけた。
その時「サマーキャンプって、人気なのだな~」くらいにしか思わなかったのだが、お子さんだけではなく親御さんの事情もあっての人気だったようだ。
このような「夏休みのイベント」を立てなくてもいいじゃない?!という、記事がHuffpostに掲載されていた。
Huffpost:夏休みに子供と「何もしない計画」を立てたママに共感の声
元々の記事が9月に新学年が始まるイギリスなので、日本の「夏休み」とは事情が違う。
それでも、「何も計画しない夏休み」があっても良いのでは?という、気がしたのだ。
働くお母さんたちにとっては、「何もしない夏休み」という計画は立てにくいかもしれない。
1日中、子どもたちを家に置いておくことへの、不安があるだろう。
ただ、私の子どもの頃の夏休みは、まさに「何も計画しない夏休み」だった。
今から40年以上前のことなので、社会状況や生活環境が大きく違う、というコトは重々承知だが、親が計画を立てるのではなく、「子どもたちが夏休みの計画を立てる」ことのほうが大切のなのでは?という、気がしたからだ。
夏休みの宿題や、自由研究のことを言っているのではない。
汗びっしょりかきながら、虫取りに夢中になったり(そのような生活環境は望むべきもない!と、言われるかもしれないが)、学校のプールへ通ったり、町内の盆踊りの練習に参加してみたり・・・と、案外忙しく「遊んでいた」ような気がするからだ。
何より「休み=どこかへ出かけなくてはならない」という、思考に陥りがちな日本の生活者にとっては、「何もしない」という発想は、これまでの「休みイベントの意味」を考えなおす切っ掛けになるのでは?という、気がしている。
Huffpostの記事のように、日々の生活の延長として親子で何かをしたり、時には親子でダラダラしながらブランチを作ったりする、ということのほうが、案外子どもたちは楽しいのかもしれない。
聖路加病院の名誉院長を務められていた、日野原重明さんが亡くなられた。
最期は、ご自宅で延命治療を拒否されての、穏やかな亡くなられ方だったという。
ご存じのように日野原さんは、自宅で治療に専念されるまで医師として現役を貫いてこられた方だ。
まさに「生涯現役」を貫かれた、と言っても良いと思う。
しかし、多くの人が日野原さんのような最期の時を迎えられるわけではない。
むしろ、稀なケースなのではないだろうか?
今、自宅で家族に見守られながら亡くなる方よりも、病院や老人介護施設で亡くなられる方のほうが多いと言われている。
2025年以降は「亡くなる場所難民」が出てくるのでは?という懸念がある、という話を以前聞いたことがある。
理由は、厚労省が進めている「病院の役割の見直し」だ。
今現在、「高度急性期病院」と呼ばれる高度な治療ができる病院と、「一般急性期病院」、「亜急性期」、「長期療養型」などに、病院の機能と規模に合わせた見直しを進めている。
yomiDr.:病床の役割見直し
大学病院や旧国立病院(現在の国立医療センター)などは「高度急性期病院」に含まれるため、高度な治療を必要とする患者さんや急患が治療の対象となる。
それだけではなく、「入院期間の短縮」ということも進められている。
ここ10年くらいの間で、入院をされた方なら実感されていると思うのだが、手術後比較的早い時期から「自分で動くように」という指示が、担当医からされる。
もちろん、目的は「機能回復」だが、「機能回復」を早めることで入院期間を短縮させる、というメリットもある。
厚労省が目的としているのは、どちらかと言えば「機能回復」というよりも、「入院期間の短縮」ではないか?という、指摘がされているという話もある。
それだけではなく、病院の規模や役割を見直すことで、集中しがちな「大きな病院」への診察を減らす目的もある。
それが「かかりつけ医からの紹介状が無ければ、初診とは別に料金を支払ってもらう」という制度だ。
このような病院の役割を見直すことで問題になってくる、と言われているのが「介護を必要としている人たち受け入れ」だ。
今でも「特養」と呼ばれる「老人介護施設」は、順番待ちの状態が続いている。
「介護が必要となった高齢者のケアが、自宅では十分に行えない為に、施設にお願いしたい」という、人たちが増えているのだ。
それだけではない、昨日エントリした通り「高齢の独身世帯(いわゆる「独居老人」)」も増えつつある。
「独居老人」の場合、自宅でケアをしてくれる家族そのものがいない為、どうしても施設でのケアが必要となってくる。
その施設そのものが足りない、ということでもあるのだ。
厚労省としては、在宅医療の充実でこの問題を解決しようとしているようだが、急激に増える(であろう)独居老人の在宅医療の充実は、とても厳しいのではないか?と、感じている。
「病院の機能見直し」だけではなく、もう一つ問題となってくるのは「延命治療」についてだ。
多くの人は、「自分は、延命治療を受けたくない」と思っている。
しかし、家族、特に親がそのような状況になった場合、「延命治療を受けさせたい」と考えている、と言われている。
日本人の死生観というよりも「十分な治療を受けさせた」という、一種の達成感というか満足感のようなものを得たいのでは?という指摘もあるし、「親戚の手前」という建前による判断ということも言われている。
そのような「しがらみ」が、病の床にいる当人の気持ちや考えよりも、優先される傾向にあるのも事実だろう。
日野原さんのような「自宅での看取り」の為には、看取られる本人だけではなく、親戚を含む家族の共通理解が必要になってくる。そして厚労省もそれを求め始めている、ということを知る必要があるのでは?と、日野原さんの訃報を聞き、考えてしまったのだった。
この3連休、少しまとまった時間があったので、なかなか読み進められなかった本を読んだ。
PHP新書:超ソロ社会
この本でいう「ソロ社会」とは、結婚をしない独身者だけを指した社会を言っているのではない。
離婚をした人や長年連れ添ってきた伴侶を亡くした「独身者」も含めて攻勢される、「単身者社会」のことを指している。
平均寿命が80歳を超えるようになると、人生の伴侶を亡くした「独身者」も増えてくるようになる。
そのための社会保障や、社会整備などが必要となってくる、ということになる。
そのような指摘そのものも興味深い内容だったのだが、「ひとりでいる」ということの意味を、改めて考えたのだった。
現在Huffpostに「だからひとりが好き」という、企画がされている。
なんとなくだが、日本の社会全体が「ひとりでいる」ことに対して、ネガティブというかあまり良いイメージを持っていないような気がしている。
「ひとりが好き」という人が、増えると「自己中で寛容性の無い社会になるのでは?」という、懸念もされている。
だが、本当にそうなのだろうか?という、疑問を投げかけている。
むしろ、この本で興味を覚えたのは「モノ消費」から「コト消費」への消費の目的変化による「承認」と「達成」という内容だった。
とは言え、作者と違う視点で「承認欲求」を満たし、「達成感」を得ているのでは?と感じたのだ。
例えば、SNSなどで見かけられる「自分の生活の充実度」をアピールする言葉、「リア充」の投稿。
このような「リア充」アピールをする人達というのは、SNSなどでの友人・知人の登録数が100人以上いる「(表面上は)友人が多い社交的な人」なのでは?という、気がしたのだ。
SNSという繋がりが、本当に友人・知人なのか?という点は別にして、今の友人・知人の多さが一つの「社交性やコミュニケーション能力の高さ」を表しているように見る傾向があるのではないだろうか?
そのため、常に「実生活が充実をしている」アピールを、SNSという世界の中でし続ける必要があるのでは?という、気がしたのだ。
しかし本当に自分の日々の生活が充実しているのであれば、SNSなどでアピールする必要はないのではないだろうか?
むしろ、社会から自分を認めてもらいたいという「承認欲求」の行動なのでは?という気がしたのだ。
例えそれがSNSという社会の枠の中であっても、「承認された」という達成感と共に、満足感を得ているのでは?という、気がしたのだ。
そこには、「(ひとり)ぼっち」となる自分への不安(や場合によっては恐怖かもしれない)が、見え隠れしているような気がする。
それに対して「ひとりが好き」という感覚の人は、最初から「ひとりでいる」ことが当たり前なので、そのような不安はない。
だからと言って、他者とのコミュニケーションを拒絶しているのではない。
安倍さんになってから、「集団化した社会」を目指しているような印象を受ける時がある。
それは「ひとりでいる」ことを、マイナスだと考える社会なのでは?
その中で自分の存在を実感するために「リア充」という行動があるのだとすれば、それこそが問題のような気がするのだ。