この時期になると様々なメディアが組むのが、「今年亡くなられた方への追悼特集」。
振り返ってみると、今年ほど大物と呼ばれた方が亡くなられた年もなかったのでは?という気がしている。
洋楽では、1月のお正月気分がやっと抜けたかな?という頃に入った訃報が、デビット・ボウイの死去だった。
そのデビット・ボウイの死去から程なく入ってきたのが、グレン・フライの訃報だった。
グレン・フライと言っても、思い浮かぶ人はあまり多くはなかったかもしれないが、イーグルスのリーダーと言えば、分かってくださる方も多いのではないだろうか?
イーグルスというバンドのスタートは、カントリー音楽とウエストコースト・サウンドを合わせ、リンダロンシタットのバックバンド兼オープニングアクトバンドだったが、「ならず者」や「呪われた夜」で、「暗い」部分を引き出すことで、ウエストコーストサウンドに深みを与えたように思う。
その集大成となったのが「ホテルカルフォルニア」だったという気がしている。
その後は、ブラックミュージックにブラスサウンドを取り入れた、Earth・Wind・and・Fireのリーダー・モーリス・ホワイト。夏には、様々な様々なジャンルの音楽を取り入れ、独特の世界観を創り出したプリンスが亡くなっている。
他にも、ELPのメンバー二人が亡くなり、デビット・ボウイと同じ時代を生き、「プログレッシブ・ロック」と呼ばれた、クラシック音楽とロックという異質の音楽性を融合させ、芸術性の高いステージでも「ロック」という音楽の
進化を感じさせるグループだった。
日本国内でも、三笠宮様がご崩御され、ラジオからテレビ時代へと移り変わった昭和という時代のメディアの中心にいた永六輔さんや大橋巨泉さんなどが亡くなられた。
そう考えると、メディアがラジオからテレビへと移り変わっていった「昭和」や「20世紀」という時代をけん引した人達が、多く亡くなられた1年だったような気がする。
これも、時代が大きく変わりつつあることを示すことなのかもしれない。
でも、今年(だけではないが)亡くなられた方々が残された様々なモノの価値は、変わることなく訴えかける力がある。
今年の終わりに、ぜひ見ていただきたいCMがある。
サントリーのBOSSのCMだ。
今年亡くなられた、永六輔さん、蜷川幸雄さん、大橋巨泉さんが起用されている。
起用されているだけではなく、彼らが残したメッセージは若者だけではなく、「昭和」という時代を知っている世代へのエールのようでもある。
サントリー BOSS:昭和編
今年1年ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。
Yahoo!のトピックスに、叶姉妹がコミケに100円札30万円分を用意し、会場に行った・・・という話題が取り上げられていた。
このコミケ、実は意外な美術館も出店をしているのを、ご存じだろうか?
出店をしているのは、名古屋にある「徳川美術館」。
名前の通り、徳川家にまつわる様々な物を展示している美術館だ。
有名な収蔵品は「源氏物語絵巻」だと思うのだが、最近は「刀剣ブーム」で、刀剣目当てで来館する若い女性も多いという。
刀剣と若い女性というのは、アンマッチングのように思えるが、名刀を擬人化した「刀剣乱舞」というゲームのヒットにより、いきなり?注目されるようになったのが、徳川美術館だったのだ。
それを切っ掛けに?というわけでもないのだろうが、徳川美術館のTwitterには美術館らしからぬツイートが目立つ。
徳川美術館:徳川美術館Twitter
TBS系の大ヒットドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が人気となれば、「聞くのは恥だが役に立つ」という企画をTwitterで呼びかける。
同じく「逃げるは恥だが役に立つ」で、「ラスコー展」が取り上げられると「うらやましい」と、つぶやく。
その直後には、主人公・津崎平匡さんがリストラされると、演じている星野源さんが「真田丸」の徳川秀忠として出演していることにひっかけ、「津崎平匡様、当館で徳川秀忠公のコスプレで、恋ダンスを踊ってください」と急募する。
当然のことながら、「真田丸」絡みのツイートも数多くある。
そして今回は、コミケへの出店だ。
コミケの出店も実は、今回が初めてではない。
前回、コミケに「刀剣乱舞」人気で出店した時は、用意をしたグッズが瞬く間になくなったため、来場者から残念がる声が多く、準備万端整えての出店が今回の出店ということのようだ。
徳川美術館側がなぜこれほどまでに、積極的にSNSを使い、積極的に美術館以外の場所に出かけるのだろう?
実際の徳川美術館は、決して「陽気で明るい美術館」ではない。
20年ほど前に行ったときは、コアな刀剣ファンか「源氏物語絵巻」の展示を楽しみにしている人が、来館するような美術館だった。
今でも、その雰囲気は変わってはいない(ように感じている)。
公営の美術館と違い、収蔵品以外の企画展を頻繁に開催するわけにもいかない。
だからこそ、積極的にSNSなどを使い、常に情報を発信しながらこれまでとは違う来館者層に、訴えていく必要があるのだろう。
随分前、メトロポリタン美術館やスミソニアン博物館などのミュージアムショップカタログで、商品を購入したコトがある。
その時、商品と一緒に「寄付のお願い文」が入っていた。
「寄付のお願い」と言っても、寄付をすると美術館の閉館後に、ちょっとしたパーティーができるような特典があったりした(寄付の金額によって、美術館を貸し切ってのパーティができる時間などは違う)。
さすがに、米国まで行ってパーティーをするようなことはないので、寄付そのものもしなかったが、海外の美術館ではこのような「寄付」のスタイルが一般的なようだ。
「美術館」という場所が特別な場所ではなく、身近な場所になる努力ということをしているのだ。
そのように考えると、美術館こそ積極的にSNSなどを使い、生活者にとって身近な場所になる必要があるような気がする。
その点で、徳川美術館の軽快な活動は面白いと感じるのだ。
今日が仕事納め、という企業も多かったのではないだろうか。
その仕事納めの日に、電通が「労基法違反」で書類送検された。
朝日新聞:自殺社員の直属上司を書類送検 電通、労基法違反容疑
書類送検をされたのは、長時間労働により自殺をされた女性の直属の上司なのだが、直属の上司だけが「労基違反」をしていたわけでは無いはずだ。
むしろ、恒常的に「長時間労働」が行われ、残業の過少申告が電通全体で行われていた、と考えるのが当然だろうし、事実としてそのような報道もある。
もちろん、この事件の背景には「長時間労働」だけではなく、「セクハラ」や「パワハラ」等があり、「長時間労働」による心身の疲弊に拍車をかけた、という指摘があることを忘れてはいけないと思う。
そして、もう一つ忘れられないのが、SMAPの「騒動」だった。
今週の月曜日に放送された、最後の「SMAP✖SMAP」については、様々な感想があるようだが、この騒動の発端は、SMAPのマネージャーと事務所幹部との「権力抗争」のような部分があった、という報道だった。
そのとばっちりをSMAPのメンバーが受けてしまった、という印象もあると思う。
だからこそ、ファンの多くが「解散」を、受け入れられずにいるのだろう。
「解散」という部分だけに注目してしまいがちだが、問題の本質は「芸能事務所の古い体質」ということのような気がしている。
もう一つ話題になったのが、NHKの朝の連続ドラマで人気を博した「あまちゃん」の主役を演じていた、能年玲奈さんが所属事務所と揉めて、自分の本名である「能年玲奈」という名前を使うことができなくなった、ということがあった。
今では「のん」という、名前で活動をされているのだが、受け手となる生活者は「何故?本名なのに使えないのか?」という、疑問がぬぐえない。
疑問がぬぐえないだけではなく、「個人を尊重していない。横暴な事務所」という、印象すら与えている感がある。
その昔は、「芸名」で活躍をする俳優さんや歌手が当たり前だったが、今は本名を使って活動をする俳優さんや歌手は、少なくない。
むしろ、それが当たり前になりつつある中での、出来事だったため余計に違和感を感じた人が、多かったのではないだろうか?
電通の事件とSMAPや能年玲奈さんのこととは、まったく違う問題のように思えるのだが、本質は同じなのではないだろうか?
それは「社員」と「企業」の関係が、「古い体質」のままである、ということだ。
企業側の「従業員は企業のいうことを聞け」という感覚が、企業の規模にかかわらずあり、そのような問題が表面化した1年だったような気がする。
様々な価値観が共有され、新しいモノ・コトを創り出すために「ダイバーシティ」ということが、盛んに言われ始めてから数年が経つ。
にも拘わらず、このような企業側が自らの「古い体質」に気づかないのであれば、それは社会から淘汰される体質を持っている、ということだと実感した1年でもあった。
企業は
先週末からの3連休、いかがお過ごしでしたか?
クリスマスと重なったこともあり、ご家族や友人たちと一緒に過ごされた方も多かったことだろう。
しかし、先日拙ブログでもエントリさせていただいたように「クリぼっち」と呼ばれる、「クリスマスを一人で過ごした」という20代~30代も、多かったのではないだろうか?
そんな「クリぼっち」さんたちの一部が、「クリスマス粉砕」というデモを行った、という話題をHUFFING POSTが取り上げていた。
HUFFING POST:「クリスマスを粉砕せよ!」渋谷でデモ 主催者が語る、そのオソロシイ野望
記事にある通り、欧州では「Merry Christmas!」ではなく「Happy Holiday!」と、言う表現を使うことが一般化している。
その背景にあるのは、民族や宗教の多様性がある。
それだけではなく、「クリスマス休暇」がクリスマス~新年までというケースも多く、クリスマスをお祝いするだけの言葉では足りない(?)ため、「Happy Holiday!」というようになった、ということも言われている。
グリーティングカードのメッセージも「Season Of Greetings」という文が一般的だ。
と言っても、これは欧米での事情であって、日本の場合ではない。
そもそも日本での「クリスマス」は、宗教色があるものではなく、一つの「年中行事」としてとらえられているのでは?
その点では、「バレンタイン」と似たものがあるのではないだろうか?
「クリスマス粉砕」を訴えた彼らの主張は、欧米のような事情を踏まえてというよりもむしろ「恋愛資本主義」ということを、粉砕したかったようだ。
その「恋愛資本主義」というものが、どのようなものなのかイマイチ理解できていないのだが、今時「恋愛が苦手」という若者たちは、決して少なくはないという指摘があることを考えれば、そのような行動を起こす若者がいてもおかしくはないのかな?という気もする。
しかし、上述した通り今の20代~30代の半数以上が「一人でクリスマスを過ごす」というデータがある通り、「一人でクリスマスを過ごす」ことは、特別なことではない。
「恋人と過ごすクリスマス」ともてはやされたのは、バブルの頃で今から20年以上も昔の話だ。
そのころは、男女関係なく「クリスマスを一人で過ごす」というと、同世代からは同情とも哀れみともとれるような言葉をかけられたり、視線を浴びせられたものだ(実感としてあった)。
しかし、今はそのような社会的な風潮は見られない。
にも拘わらず、「クリスマスを粉砕し、恋愛資本主義を壊そう!」という、発想はどこから来るのだろうか?
確かに「恋愛」をキーワードにした、ビジネスはある。
なんとなくだが、「非モテ」である自分たちの社会的存在を、アピールしたかったのでは?という気がするのだ。
自分たちのことを「非モテ」と言い切ってしまうことで、「非モテ=なんとなくみじめ(と言っては失礼だが)な自分たちを肯定したい」というように思えるのだ。
社会に対する不満もあるかもしれないが、「非モテ=社会的疎外感」のような自分自身への呪縛のようなモノがあるのでは?という、気がする。
「恋愛ビジネス」というものがあるのであれば、その「ビジネスの波」に乗らなければよいだけなのだ。
その「波」に乗ってしまうことが、「非モテ呪縛」の原因のようにも思えるのだが・・・。
今日から3連休。
そして、明日はクリスマス・イブ。日曜日はクリスマス。
家族で、楽しいクリスマスを過ごされる方も、多いと思う。
家族で楽しいクリスマス・・・という方もいらっしゃれば、一人で過ごすクリスマス、という方もいらっしゃるだろう。
かくいう私も、一人で過ごすクリスマス派だ。
ここ数年、一人で過ごすことを「ぼっち(「独りぼっち」の略か?)」と、言うらしい。
そこからクリスマスを一人で過ごすことを「クリぼっち」と、呼ぶらしい。
それはそれで構わないのだが、「一人で過ごす」ことを特別なことのように扱う必要があるのだろうか?
「クリぼっちの遠吠え」と捉えられても仕方ないと思うが、世間が特別なことのように言えばいうほど、一人で過ごすことに疎外感を持つ方も多いのでは?
実際、テレビのニュースでは20代~30代独身の半数以上は、一人でクリスマスを過ごすというデータもあるようだ。
データ的には、既に過半数が「クリぼっち」ということになる。
「クリぼっち」が特別な存在ではなく、極当たり前になってきている、とも考えられるのだ。
Yahoo!のトピックスニュースには、「クリぼっち商戦」というテーマが取り上げられていた。
Yahoo!トピックス:約52%が”クリぼっち”商戦に広がり
データ的には半数以上が「クリぼっち」なのだから、ビジネスチャンスととらえるのは当然かもしれない。
だからと言って、クリスマスに特化する必要があるのだろうか?
様々な事情で、クリスマスをお祝いするコトができない方は、沢山いらっしゃるのでは?
むしろ「クリぼっち」と言って、クリスマスを楽しめる人のほうが、幸せなのかもしれない。
同じ「クリぼっち」であっても、本当に手を差し伸べる必要があるのは、ディケンズの小説「クリスマスキャロル」に登場する守銭奴・スクルージのような人物なのでは?
以前、拙ブログで紹介したAppleのホリデーシーズンのCMを、拙ブログに来てくださる方に・・・。
Apple:Frankie's Holiday
Merry Christmas!!
この秋、一番話題となったTBS系のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が、昨日最終回が放映された。
最終回が迫るにつれ「逃げ恥ロス」という言葉が、いろいろなところで言われるようになり、メディア系列的には違うはずの朝日新聞系AERAなどでも、取り上げられていた。
この「逃げ恥」の魅力は、脚本の良さ・演出・配役など、上げればきりがないように思う。
その中で注目したいと思ったのが、主人公・津崎平匡というキャラクターだ。
ドラマ設定では、「京大卒・難関資格を有するシステムエンジニア」なのだが、人付き合い、特に女性との付き合いが苦手で、彼女いない歴=年齢、当然女性経験なしという人物だった。
そのため、ドラマの進行では「女性と付き合ったことがない」というトコロに、フォーカスされていた。
しかし、ドラマ全体を通してみると、実は「津崎平匡」という人物こそ、今の20代~30代の女性が求めている男性像なのでは?という、気がしてきた。
というのも、津崎が契約結婚相手となった森山みくりだけではなく、話の相手に対して決して否定的な発言をしない。それだけではなく、相手の話をシッカリ聞きつつ、話を上手にまとめる、というコミュニケーション力に優れた人物なのでは?という、場面が数多くあったからだ。
バブルの頃の理想の男性像は、「高学歴・高身長・高収入」の「3高」だった。
それは、その人自身の魅力云々ではなく、とてもわかりやすい「外的要素」の理想像だったように思う。
その後、バブルが崩壊すると「収入は低くても、家事を手伝ってくれる男性」へと、変化していく。
バブル崩壊の頃には、女性も働くことが当たり前になっていたことで、「夫の収入のみ(=専業主婦)」から「世帯収入(=夫と妻双方の収入の合算)で生活をする」が、「男性も家事分担」という、意識変化になっていく。
それでも、「その人自身」という内面的な部分に触れられることは無かった。
今のように、男女問わず仕事をするのが当たり前になってくると、「家事分担」という目に見える行動だけではなく、「一緒に暮らすためのコミュニケーション力」というものが、加わってくるはずだ。
みくりに対する、気遣いややさしさを含め「一緒に暮らすためのコミュニケーション力」が、津崎にはあったように思うのだ。
むしろ「家事」は「トレーニング」でできるようになるが、気遣いや優しさを含めた「一緒に暮らすためのコミュニケーション力」は、一朝一夕には身に付くものではない。
何より「相手に対して否定的な言葉を言わない」ということは、とても重要なポイントのような気がする。
確かに、ドラマが始まった頃の津崎はみくりに対して、どこかオドオドしたような部分があった。
それはやはり「彼女のいない歴=年齢」という、経験値のなさからくるものだったように思う。
そのようなオドオド感があるなかでも、みくりの話を聞こうとする態度があった。
その態度が、みくりに信頼感を持たせ「契約結婚」という、普通ではない結婚生活をさせることができたように感じたのだ。
ドラマの中で「社会って、人と人との繋がりだから・・・。感謝とリスペクトが大切」という内容の台詞がある。
その「感謝と敬意」が当たり前にできる人物が、津崎であり、今の20代~30代の女性が求めている男性像のような気がしたのだ。
先週、スポーツ新聞などで次々と発表された、「SMAP」がらみのラジオ番組名の変更。
結果は、木村さんだけがSMAPの名前の付いた番組を引き継ぎ、他のメンバーの番組は新しいタイトルで来年からスタートすることになったようだ。
ネット上では、木村さんだけがSMAPの名前を引く継ぐことで、所属事務所の意向が番組タイトルに影響をしている、という指摘がされている。
本当のところはわからないが、多くの人にとってその指摘は正しいだろう、と感じているのでは?という気がしている。
というのも、SMAPの解散騒動が出てから、一貫して木村さんは所属事務所側で他のメンバーは元マネージャー側だった、という話が出ていたからだ。
所属事務所側の意向として、そのような判断をしてもおかしくはないだろうし、ラジオ(やテレビの)パーソナリティー(やMC)として魅力のあるメンバーを起用し続けるには、制作者側としてはそのような判断をせざる得ないと思うからだ。
だが、視点を変えるとSMAPという名前で活躍する木村さんと、SMAPという名前が外れるメンバーとでは、これからの活躍の幅が変わってくるような気がするからだ。
既に、司会者としての地位を確立した感のある中居さんにしても、ドラマなどで幅広い役を演じている草なぎさん、稲垣さんなどは、SMAPというグループ名が無くても今でも十分活躍をしている。
香取さんにしても、同じだろう。
逆にSMAPという名前が外れることで、これまでオファーが来なかったような役柄や仕事が舞い込むかもしれない(それを所属事務所が認めるかは分からないし、契約終了後の事はわからないが)。
「SMAP」という、「国民的アイドルグループ」というイメージから解放され、個々の自立というか個性が発揮しやすくなる可能性が出てきたのでは?
とすると、SMAPという名前を一人背負うことになった木村さんのほうが、「国民的アイドルグループ・SMAP」というイメージを背負い続け、そのイメージに縛られ、制約を受け続けることになるように思うのだ。
それは40代になった木村さんにとって、本当にプラスなのだろうか?
SMAPとしての活躍の中心は、「歌」という場であった。
その「歌」という場に、木村さんのポジションはあるのだろうか?
役者であっても、木村さんには「SMAPのキムタク」という冠がついていたのでは?
「木村さんでなくてはできない役」という魅力が、これから発揮できるのだろうか?
ファンの方々には申し訳ないのだが、人気グループというものはいつか「解散」という日が来る。
それは仕方のないことだ。
なぜなら、様々な成長をしていく中で、方向性や個々の目指す方向が違ってくるからだ。
確かに「SMAP」の解散の背景にあるのは、所属事務所と元マネージャーとの確執だったかもしれない。
それは、一つの切っ掛けだったかもしれない・・・という気がするのだ。
SMAPとしての魅力は、解散をしても変わらないはずだ。
それは解散して40年以上たった今でも、ビートルズの魅力が変わらないのと同じだろう(「ビートルズと同じにするな!」というお叱りがあるのは、十分理解している)。
むしろ「SMAP」という、名前に縛られ続けることのほうが、個々のメンバーにとっては不幸なことのような気がする。
先日、見かけたAppleのホリデーシーズンのCM。
とても、素敵なCMだった。
Apple:Frankie’s Holiday
既に、ご覧になった方も多いと思う。
CMそのものは、AppleのSiriのCMのようにも思える内容だが、Appleが本当に伝えたかったメッセージは、SiriではなくCMの最後に出てくる言葉「心を開こう、すべての人に」ということだろう。
そしてこのCMを見た時、思い浮かんだのが「Apple VS トランプ氏」だった。
大統領選真っただ中、トランプ氏はIT企業の多くが米国内での雇用に貢献していない、という趣旨の発言をしていた。
そのやり玉に挙がった企業の一つが、Appleだった。
Apple側が、FBIからの「ロック解除依頼を拒否」した点も、トランプ氏側は不満だったようだが、それ以上に不満だったのが「国内雇用」という点だったという気がしている。
当然、Apple側はすぐに声明を発表している。
その一つが「企業の多様性」という点だった。
「様々な人種、多様な価値観の中からAppleの価値が創造される」という、趣旨だったように記憶しているのだが、このような企業理念(?)を基にこのCMが作られたのでは?という気がしている。
確かに異形のフランケンシュタインは、人を驚かせ、恐怖感を与える存在だ。
山から下りてきたフランケンシュタインの胸には、柊の葉で作った可愛らしいブローチを付けている。
赤と緑の電球を首のソケットにつけ、クリスマス気分を盛り上げたい!という、配慮まで見せている。
しかし、群衆の目は冷たく「何か悪いことをするのではないか?」という、疑心暗鬼の眼差しで、フランケンシュタインを見ている。
それでも、フランケンシュタインはクリスマスツリーに集まる人達の前で、歌を歌い仲良くなろうとする。
緑色の電球が、接触不良で消えてしまった時、一人の少女がフランケンシュタインを手招きをし、電球を直すと少女はフランケンシュタインが歌うのを止めてしまったフレーズから、歌を歌いだす。
その歌声から、群衆のコーラスへと繋がっていく時のフランケンシュタインの表情は、穏やかで嬉しそうだ。
そこには異形のフランケンシュタインではなく、友人を得た一人の人の姿のように見える。
米国のホリデーシーズンのCMは、商品を売る目的よりもその企業の理念に基づいたCMが作成されるコトが多い。
そしてこのCMは、「アメリカファースト」を掲げ大統領になったトランプ氏へのAppleからの返事のようにも思えるのだ。
多様な価値観、人種、性差など潜在的に持っている「偏見」ではなく、「心を開き、寛容な価値観こそ、人を豊かにする」という、メッセージのように思える秀逸なCMだと思う。
12月に入り、「今年のヒット総括」のような話題が、出るようになってきた。
その中でも話題になっているのは、アニメ映画「君の名は。」だろう。
興行収益を見ただけでも、これまでの「アニメ映画ヒット作=ジブリ作品」という、ランキングの上位に入っている。
「ジブリ作品でなくては、アニメ映画はヒットしない」という、アニメ映画の慣例(?)を打ち破った作品でもある。
「君の名は。」は、作品の良さや主題歌の大ヒットしたが、最初からシネコンなどでの上映が決まっていたため、集客がしやすかった、ということも言われている。
その一方で、11月に単館上映としてスタートしたアニメ映画が、注目され話題になっている。
「この世界の片隅に」だ。
公式HP:この世界の片隅に
原作は、漫画家こうの史代さんの「夕凪の街 桜の国」に続く、作品で前作同様「広島・戦争」という重いテーマ。
だからだろう、製作費などの資金調達が、うまくいかなかったという話もある。
資金調達のために選んだ方法が、「クラウドファンディング」だった。
そして、クラウドファンディングの参加募集が始まると、瞬く間に目標金額に達した、という作品でもある。
こうの史代さんの「夕凪の街 桜の国」も「この世界の片隅に」も、マンガ雑誌に掲載され好評を博していた作品だったと聞くが、マンガファンだけがクラウドファンディングに参加した訳ではないようだ。
製作のスタートが「クラウドファンディング」であったこともあり、シネコンのような大型施設での上映はかなわず、単館上映でのスタートとなったようだが、公開後は次々と上映館が増え「君の名は。」に迫る勢いとなっている。
作品そのものの評価も高く、海外上映の話も来ているようなのだが、やはり資金面では厳しいようで、「海外上映のためのクラウドファンディング」の募集を、以前Facebookで見たことがある。
その後の募集を見かけないので、早々に目標金額に到達したのだろう。
この「世界の片隅に」の成功を考えると、今年は「クラウドファンディング元年」と言えるのかもしれない。
しかし、成功させるためにはテーマや趣旨、目的などを明確に伝え「共感」を呼ぶ必要がある。
そして「見たい映画」を「作りたい映画参加」に変化した年になったのかもしれない。
讀賣新聞のWEBサイトに、ある人気キャラクターの引退の記事があった。
人気キャラクターとは、ベビースターラーメンの「ベイちゃんとピーちゃん」だ。
讀賣新聞:ベビースターラーメン、「ベイちゃん」ら引退へ
今現在の「ベイちゃん」は、二代目ということだが、1988年に登場して以来30年近く「ベビースターラーメン」という商品の「顔」として、活躍をしてきたということになる。
現在の「ベイちゃん」しか知らない、という方のほうが多いのではないだろうか?
それほど長い間、「商品の顔」として親しまれてきたキャラクターを引退させる、ということは、企業側にとって「大英断」だったはずだ。
例えば、今年「イソジンのかばくん」が、「イソジン」から消えた。
現在でも「かばくん」は、うがい薬のキャラクターとして活躍をしているが、その商品は「イソジン」ではない。
長い間起用してきた「明治のうがい薬」のキャラクターとして、現在活躍中なのだ。
多くの人にとって「イソジン=かばくん」という、イメージために「イソジン」側としては、継続して起用したかったはずだが、「かばくん」そのものの使用権は明治側にあったため、起用するコトができず、現在は新しキャラクターを使っている。
ただ残念なコトに、「イソジンのうがい薬」は知っていても、今のキャラクターを思い浮かべるコトは難しい(のではないだろうか)。
「イソジン」の例のように、「商品の顔」として長い間起用されてきたキャラクターは、想像以上に「ブランド力」を持っている。
そのキャラクターを見れば、商品を思い浮かべることができるからだ。
違う言い方をするなら、「キャラクターそのものが、ブランド」と考えることができる。
そう考えると、今回の「ベイちゃん」の引退は、一時期的かもしれないが「ベビースターラーメン」という商品に与える影響は、大きいかもしれない。
それだけではなく、「ベイちゃん」の後を引き継ぐ新しいキャラクターが、「商品の顔」として認知されるまでにかかる時間は、「ベイちゃん」以上かもしれないのだ。
企業が「商品の顔」として起用しているキャラクターもまた、企業にとっては「資産」の一つであり、その「資産」を成長させていくのは、生活者とのコミュニケーションだ。
「人気キャラクターを引退させ、新しいキャラクターを起用する」ということは、企業側からの「変化」を示すことかもしれないが、生活者とのコミュニケーションツールとしての「キャラクター」という「資産」の扱いは、慎重になる必要があると思う。