日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「ファッションは時代を映す」というけれど・・・

2011-08-31 21:13:53 | ビジネス
Yahooのトピックスに「LOVE BOAT」が民事再生法申請という、帝国データバンクの記事を取り上げている。

拙ブログに来られる男性諸氏の中で、「LOVE BOAT」と聞いて分る方がどれだけいらっしゃるのか分らない。
いわゆる「ティーンズ向けのファッションブランド」の一つで、数年前まではとても人気が高いブランドだった。
別名「109ファッションのブランド」と、呼ばれていたように記憶している。

残念ながら、私には「LOVE BOAT」を買うような子どもがいないので、実際どれだけの人気ブランドだったのかは知らない。
だが、百貨店などに入っているショップなどを見ると、本当に10代の女の子たちが集まる人気ショップだった。
年明けの「福袋」などでも、人気が高かったように思う。

倒産に至った経緯については、Yahooの記事(=帝国データバンクの記事)を読んでいただくとして、最近「むぅぅぅ~、それってどうよ?!」という、ファッションが目立つような気がしている。
その一例が「ペチパン」と呼ばれるモノ。
「ペチパン」というのは、下着の「ペチコート(=スカートの下に着ける)」と、ショートパンツを組み合わせたモノ。
イメージ的には、「フリフリのブルマー」という感じだろうか?
この「ペチパン」+素足というコーディネートになると、すれ違いざまに見るこちらの方が、チョッと恥ずかしく、目のやり場に困ってしまう。
大抵は、「ペチパン+レギンス」というコーディネートが多いようだが、それでも「ムゥゥゥ~、それって?」と首を傾げたくなるような場合が少なからずある。

特に、「ハレとケ」というか「TPO」がボーダレス化してきたコトもあり、先日定期健診で行った婦人科の待合室は、リゾートファッションの女性たちが何人もいた。
中には、私と同世代?と思われる女性もいて、考えさせられてしまった。
それが「×」だとは言えないが、やはり中年期を過ぎつつある私としては、「病院なんだから・・・」という気持ちがあるのも事実なのだ。
何より、安っぽさを感じてしまったのだ。

「ファッションは時代を映す鏡」といわれるが、とすれば今は「単なるボーダーレス化社会」というよりも、「メリハリの無い社会」と言えるかも知れないし、「自分(の気持ち)優先の社会」とも言えるのかも知れないし、「チープな感覚社会」とも言えるかも知れない。
「人の目よりも、自分の気持ち優先」というべきか?はたまた「次々と新しいモノへ乗り換える社会」と言うべきなのか?

ただ、今年の秋・冬の傾向は全体的に落ち着いた雰囲気のある「コンサバティブ」な印象がある。
もしかしたら、カジュアル一辺倒に対する揺り戻しが起きはじめているのかもしれない。
とすれば、10代のカジュアルブランドであった「LOVE BOAT」の倒産は、経営的な部分だけではなく、社会の雰囲気の変化の影響もあったのかもしれない。

コンプレックスと「らしさ」

2011-08-30 21:06:23 | ビジネス
お盆休み中、みうらじゅんさんの「マイ仏教」を読んだ。

ビジネスの場で宗教の話をする、というのはご法度なのだが、そのエッセンスを頂き、発想に結びつけるというコトは問題ないのかな?と思いエントリさせていただく。

本の内容については、実際興味のある方は読んでいただければと思っているので、ここでは詳しく述べるつもりは無い。
ただ、その中でとても興味深い内容があった。
それは「自分なくし」と「コンプレックス」というコトだ。

数年前、サッカー日本代表だった中田英寿さんが「自分探しの旅」に出られた。
今でも「自分探しの旅」が続いているのかは知らないが、この「自分探し」というコトは、何も中田さんだけではなく、多くの若者(だけとは限らないようだが)が口にし、放浪の旅(というほどでは無いが)に出かけている。
若者といっても中には30代の方も珍しくは無い、という話を聞いたことがある。
そんな中、みうらさんは「自分探しではなく、自分なくしをすべきだ」と、書いている。
「自分とは何か?」といくら問いてみても、見つかるものでは無い。
なぜなら、自分自身もまた常に変化していくモノだから、というのがみうらさんの考えのようだ。

常に社会は変化しつづけているし、その社会を創っているのが、人なのだから人もまた常に変化している、というコトになるのだろう。
むしろ、自分を無くすことで、その変化を敏感に感じ取れるようになるかもしれない。
そのための方法として、みうらさんは「自分が憧れるモノになる。ただ、憧れるモノになりきれない=コンプレックスがあり、それが「らしさ」になるのでは?という内容のコトを書いている。

この一文を読んだ時私の頭に浮かんだことは、先日退任の発表をしたS・ジョブス氏のコトだった。
ジョブス氏といえば、アップルのCEOというよりも「アップルそのもの」という印象がある。
そのアップルの大ヒット商品というか、アップル起死回生の商品となったのが「i-Pod」だった。

今では「i-Pod」が、携帯音楽プレーヤーのスタンダードとなっているが、20年前までは、ソニーの「ウォークマン」だった。
そしてジョブス氏は「ソニー」に、一種の憧れというか目標としていたのではないだろうか?と、思ったのだった。
残念ながら、アップルはソニーのような大きな企業ではなかった。
それがジョブス氏=アップルにとっては、ある種の「コンプレックス」となり「アップルができるウォークマン」という発想へと発展したのでは?と、思ったのだった。
もっともジョブス氏自身は、「ウォークマン」に対して批判的な発言をしているようだが。

それだけではなく、戦後日本の多くの企業が欧米のライフスタイルや製品に対して「憧れ」と同時に「コンプレックス」のようなモノを抱き、それが「らしさ」となったのではないだろうか?
その様に考えると、自分を探すのではなく自分をなくすコトで見える「らしさ」があるのかもしれない・・・と、思ったのだった。

どんな「変化」が起きるのだろう

2011-08-29 20:14:06 | ビジネス
今日、民主党の代表選挙が行われた。
結果はご存知の通り、野田さんが代表となった。
残念ながら、私は野田さんという政治家についてよく知らない。
野田さんの選挙区では無い、というコトもあるのかもしれないが、私の知っている「野田さん」は、テレビ番組に登場してなにやらお話しをされている程度なのだ。
おそらく、私と同じような印象の人は多いのではないだろうか?

自民党時代は、「次期総裁」というのは総裁選が始まる前からほぼ決まっていて、その人のプロフィールなどが朝からテレビのニュースなどでバンバン流れていた。
何となくだが、次期総裁となるべき人が順番に決まっていたようなトコロがあった。
それを変えたのは、ご存知の小泉さんだったわけだが、小泉さんはご自分以降の総裁となるべき人材を養成するコトも無く、その後は「選挙に勝てそうな人総裁」ばかりが、選ばれてきたような気がする。

その「選挙に勝てそうな代表人事」というのは、民主党になってからも変わらず、それが逆に「自民党と民主党って、やっぱり根っことなる発想は同じなんだ・・・」という印象を与えてしまったのではないだろうか?
その「自民党らしさを持った民主党の顔」といえば、やはり小沢さんというコトになるだろう。

その小沢さんが、今日の代表選後「態度をみて判断する」という内容のコトを話しているようだ。
このコトバから察するに、小沢さんは今でも民主党の中心人物で、小沢さんにお伺いを立てなければ、民主党として何も出来ない。
「脱小沢」と言っても、やはり小沢さんの顔色伺い次第というコトなのか?という気がしてしまう。

「変化が起きる」という時は、少なからずワクワク感というものがある。
もちろん不安感が大きいコトの方が多いのだが、今回の民主党の代表選挙は不安感も無ければ、変化に対する期待のワクワク感も無かった。
だからといって、今の自民党や他の政党に「変化」に対するワクワク感があるか?といえば、それも無い(のは、私だけか?)。
これでは、生活者の政治に対する関心が高まらないのも当然のような気がする。
そのことにどれだけの政治家が、気づいているのだろう?

そんなコトを感じた「民主党代表選挙」だった。

地デジ化後のテレビ

2011-08-28 21:01:12 | ビジネス
地デジ化完全実施(東北地方は除く)から、1ヶ月が経った。
相変わらず、我が家にはテレビが無い生活が続いている。
テレビ無し生活も慣れてしまえば、余り生活に問題が無い。
唯一問題だと感じているのは、趣味の一つであり仕事にも関係する「CMウォッチ」が出来ないこと。
それも今では、企業のサイトに行くことで大抵のモノが見られる。

そんな生活であっても、週末に入る大手家電量販店の折り込みチラシには目がいってしまう(笑)。
特にテレビについては、「一体どんな動きになっているのだろう?」と興味が湧いてしまうのだ。
やはりどこかで「テレビが見たい!」欲求があるのだろう。

そんな大手家電量販店の折り込みチラシを見て、感じることがある。
それは「これから先のテレビはどうなっていくのだろう?」というコトだ。
地デジの完全実施前は、とにかく「地デジテレビに買い換えましょう」という動きだった。
エコポイントが実施されていた頃は、リビングなど「家族が集まる場所」向きの大型(32型)などが中心だった。
エコポイント終了後は、「2台目のテレビ」というコトで、20型前後の「パーソナルサイズ」の売り込みが折り込みチラシなどから見ることが出来た。

しかしそんな「テレビ需要」も地デジ完全実施で、一休みというトコロだ。
だからと言って、テレビを売らないわけにはいかない。
そろそろ「秋・冬モデル」と呼ばれる、新しいテレビも店頭にお目見えする頃だ。
そんなコトを考えなが折り込みチラシを見ていると、「テレビの在り方」というよりも「映像機器の在り方」の変化のようなモノを感じることがある。
その一例が、話題倒れ感のある「3Dテレビ」は無く、「外付けHDD対応テレビ」だ。

チラシ上では「3Dテレビ」は健在だが、店頭に行くと「3Dテレビ」の前には余りお客さんがいない。
むしろ「外付けHDD対応テレビ」の方が、集客している場合が多いようだ。
外付けとはいえ「録画できるテレビ」。
となると、多くの家電メーカーはブルーレイやDVDレコーダーを作りつつ、「録画テレビ」を作っているというコトになる。
ある種の矛盾を抱えながら、テレビという家電を作っているといえるのでは?

その様に考えると、テレビという家電ではなく「映像機器」として、テレビやブルーレイやDVDレコーダーをどう位置付けるのか?というコトになるような気がするのだ。
個人的には、テレビという家電だけの問題ではなく映像を提供するテレビ局にも関わってくる問題のような気がしている。
言い換えれば「繰り返し見たいテレビ番組製作」が増えてこなくては、「録画テレビ」の意味は薄れてしまうのでは?
一方、ブルーレイやDVDレコーダーは、「レコーダー」機能を持たずに、テレビ局が売り出す人気ドラマなどのDVDを見るための「プレーヤー」となるかもしれない。
では、この夏民放が発表した「オンデマンド放送」は、どうなってしまうのか?

そんなコトを、大手家電量販店の折り込みチラシを見ながら、考えてしまった。
ちなみに私が欲しいテレビは「番組さえ見られれば良い(正しくは、CMが見られれば良い)」だけの、シンプルテレビだ。

この際だから、自民党総裁選も実施したら?

2011-08-27 22:02:46 | 徒然
菅さんが、総理辞任の記者会見を昨日行った。
そして、今日から始まったのが「民主党代表選」だ。
様々なメディアが、党首立候補者について書いているので、拙ブログで言う必要もないし、そもそもマーケティングだけではなくビジネスには政治の話というのは、ご法度と言われている。
この場合「政治信条」を指す場合が多いのだが、財界と政治というのはある程度の距離感があったほうが、良いのでは?と、思っている。
そのほうが、財界側としては「自由さ」が生まれるだろうし、「自由」があるということは、政治に縛られないイノベーティブな発想が生まれるチャンスが増えると思うからだ。
もちろん倫理的なコトはとても重要だが、財界が政治に擦り寄って、何かプラスがあるか?といえば、今の時代、殆ど無いような気がする。

さて、そんな「民主党代表選」だが、個人的には同時に「自民党党首選」も行って欲しいと思っている。
別に谷垣さんに問題があるというのでは無い。
ただ、「二大政党」の党首となる人が、どのような考えを持ち、日本という国を考えているのか?というコトを聞いてみたい!!と、思ったのだ。
少なくとも、国会が始まれば民主党代表となった人が総理となり、そのライバルとなるのは自民党党首となる人だ。
そのお二人の考えを、今からシッカリ聞いて今後の日本という国をどうカタチ創るのかを知りたいのだ。

野党になった途端に「反対!反対!」の声だけでは、国の様々なコトを決める国会での審議は進まない。
そんな場面を、嫌というほど見てきた。
であれば、どのような考えを持っている人が政党代表となりたいのか?そのビジョンを聞いて、次の選挙の判断材料の一つとしたいのだ。
そうすれば、少なくとも「この人が党首の政党なら、こんなビジョンを持っているのだな」と分るし、日本の将来像というモノも掴みやすいと思ったからだ。
何より、「選挙に勝つため用のコトバ」など聞きたくない。
知りたいのは「与党・野党関係ない、政党代表としてもビジョンや考えをもっているのか?」というコトなのだ。
そうすれば「選挙に勝つための総裁選・代表選挙」などというコトは、無くなるような気がする。

今欲しい政治家は、政党のための政治家ではなく国民のための政治家なのだから。

悲観的なコトよりも・・・

2011-08-25 21:01:32 | 徒然
最近の「円高」の影響か?はたまた「東日本大震災+フクシマ原発事故」の影響なのか、一般週刊誌だけではなく、ビジネス関係の新書でも「経済の行き詰まり」を指摘する内容が多い。
確かに、日本だけではなくアメリカ経済もヨーロッパ経済も順調とは言えない状況だ。
だが、それらの見出しやタイトルを見ると、「崩壊・破綻」と言った悲劇的なイメージの言葉が並んでいることが多い。
そのような見出しやタイトルを見ると「そんな悲劇的な言葉を使わなくても・・・」と、思ってしまうのだ。

今の経済状況を冷静に分析をし、将来の展望を書くというコトになると、決して「明るい展望」という訳にはいかないと思う。
だからと言って「崩壊」とか「破綻」という言葉を多く見かけると、人の気持ちまで暗く沈んでしまうのではないだろうか?

今の日本の社会を見ると「ダメ!ダメ!」と「ガンバレ!!」という言葉ばかりで、「がんばろうにも、その気力も起きない」という状況になってはいないだろうか?
人には「ガンバレ!」と言いながら、その実「ダメ!ダメ!」と、不安を煽っているような気がしてならない。
不安を書き立てることで、むしろ「今は、ダメなんだ・・・」と「ダメ」であることに安心感すら抱かせているのでは?という気さえする。

「景気は『気』」という言葉があるほどなのだから、『気持ちが下がる』ような言葉ばかりが並ぶと、本当に景気が下がってしまうのでは?
だからと言って何の根拠も無く、手放しで「明るい展望を書け」とは言わない。
事実を分析した上で、明るい展望となる提案や考えを述べて欲しいのだ。
政治や財界の批判も、大切なコトだと思う。
思うが、何かにつけ「ダメ!ダメ!」ばかりでは、日本が元気になる気すらなくなってしまうのでは?
メディアという一つの社会の「気」を創る役割というコトを、もう少し考える必要があるのではないだろうか?




島田紳助さん引退で一番困るのは・・・

2011-08-24 19:22:45 | アラカルト
昨夜、タレントの島田紳助さんが突然の引退を発表した。
詳細については、拙ブログで書く必要は無いと思う。
ただ、島田さんは元々「やんちゃキャラ」というか、不良っぽさが売りのタレントさんだったことを考えれば、この引退は残念というよりも「そうなんだ・・・」という程度に感じている。

むしろこのニュースを見て思ったことは、「テレビ局は大変だろうな」というコトだった。
島田さんがいくつもレギラー番組を持っているというコトではなく、番組制作という点で大変だろうな・・・と、思ったのだ。

お盆前、ある若手俳優さんがツイッターか何かで「日本のテレビは韓流ドラマばっかり」と、批判をしたことが話題になった。
その俳優さんが槍玉に挙げたテレビ局が、実際どれほどの韓流ドラマを放送しているのか、名古屋にいる私にはわからない。
ただ、名古屋であっても新聞のテレビ欄を見る限り朝から夕方まで、どこかのテレビ局が韓流ドラマを放送している。
「昼間、韓流ドラマを見るファンがいるんだ・・・」と、興味の無い私は思っていたのだが、ファンが多いだけでもなさそうな雰囲気があったのが、その若手俳優さんの「つぶやき」だったのだ。
それは「手っ取り早く、ある程度の視聴率を稼ぐ」という、テレビ局の番組制作に対する姿勢のような批判だったからだ。

その「手っ取り早く、ある程度の視聴率を稼ぐ」という意味では、島田さんの番組などは、それが出来る番組だったのだろう。
我が家のテレビが壊れる前から、島田さんのレギラー番組(=人気番組)を見たことが無いので、実際はどれほど人気があったのかは知らないが、今日のニュースなどを見ていると、平日の夜は、どこかのチャンネルで島田さんが出演する番組の放送があった、というくらいのレギラーを持っていらっしゃったようだ。
というコトは、それだけテレビ局としては「視聴率が稼げる番組の顔」だった、というコトだろう。

私が「大変だ」と、感じるのはテレビ局がこれまで「手っ取り早く視聴率を稼ぐ」というコトばかりに気をとられ、「テレビ」という放送媒体の在り方をシッカリと考えてこなかったのでは?という気がするからだ。
特に、ここ数年はその傾向が強かったように感じている。
確かに「視聴率」は、一つの目安だと思うし、多くの人が視聴する番組=人気番組というコトになると思う。
でも「人気番組=良質な番組」ではないし、「親が見せたくない番組=低俗な番組」だと言い切れるモノでもないだろう。
問題なのは、「テレビ製作と放送」というコトや「マスメディアが果たす役割」というコトを余り考えず、目先の視聴率だけを追いかけ続けてきたコトなのではないだろうか?

島田さんは引退されても、おそらく持っている才を発揮される場があると思う。
なんと言っても、高学歴タレントが持て囃されている時、あえて「おバカキャラ」という分野を創り、人気を得たのだから(もちろん、番組制作スタッフの力もあってのコトだとは思う)。
人気者が去った後、テレビ局は一体どんな番組を創るのだろう。
それが問われる、島田さんの引退のような気がする。

基軸通貨としてのドル

2011-08-23 15:05:30 | ビジネス
「円高」が止まらない。
日に日に上がっている状態が続いている。
その理由などは、述べる必要もないだろう。
そして円高の勢いは、1ドル=50円説まで飛び出すほどだ。

その円高傾向を受け、朝日新聞の「WEBRONA」では、同志社大学大学院教授の浜矩子さんが「1ドル=50円になってもおかしくは無い。なぜなら、米ドルは既に基軸通貨ではなくなったのだから」という内容のコラムを掲載している。

浜先生の言いたいことは、判らないわけでは無い。
実際、様々なメディアが今回の円高に対しては「日本経済が好調で、円高となっているわけでは無い。アメリカやユーロ圏経済の行き詰まり感や経済不安が、円高を呼んでいるだけ」という内容を理由としている。

私が気になったのは、基軸通貨というコトなのだ。
何故「基軸通貨」というコトを気にするのか?といえば、商取引をする上で単純に対相手国通過で取引が出来ないからだ。
商取引をする上では、やはり「基準となるモノ」が必要だと感じているのだ。
例えば、経済が好調なインドやブラジルの通貨で直接商取引をする世界的企業が、どれだけあるだろう?
「金本位制」で取引を行うというのだろうか?

浜先生が上げていた「イギリス・ポンド」は、第一次世界大戦や第二次世界大戦など、欧州が戦火に巻き込まれたコトなどが要因で、その力を失ってしまったという経過があったと思う。
もちろん、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間にある「世界大恐慌」も忘れてはならないと思うが、「世界大恐慌」の発端は米国経済の破綻がキッカケだったと考えれば、当時の「金本制」の経済が含んでいる問題も明らかだと思うのだ。

とすれば、やはりグローバル経済といわれる中では、何らか「基軸通貨」となるモノが必要な気がする。
かの国の「元」というのは、考え難く、上述したインドやブラジルといった今現在好調な国々の通貨が「基軸通貨」となるとも考え難い。
とすれば、やはり米国ドルかユーロ、はたまた日本の円というコトになるのでは?

ただ、世界各国の中央銀行が集まり、独自の基軸通貨となる単位を決めることが出来れば、また違ったコトになるかもしれない。
そのために、一時的には経済の縮小が起きるとは思う。
というより、今までが「経済=拡大路線」という、思い込みがこのような事態を招いたのかもしれない。
それを見直す時期が来ている、と考える必要があるのかもしれない。

円高還元セールにみる、小売りの主役交代

2011-08-22 21:24:04 | ビジネス
Yahooのトピックスなどに、「円高還元セールが始まる」という内容のニュースが取り上げられている。
ご覧になられた方も多いと思う。
このニュースで気になったことがある。

一つは、20年ほど前の「円高」の時に比べ、「円高還元セール」の始まりが遅いということ。
この時の「円高還元セール」が始まったのは、1ドル=80円台だったような記憶がある。
ただこの時の社会状況は、今のような閉塞感と不況、雇用不安というモノが無く、不景気といいつつも何となく、のんびりと未来志向というモノが社会全体にあったような気がした。
だからだろう、「円高による輸出産業への懸念」が言われつつも、生活者の中には「海外旅行(でブランド品を買う)などの円高によるメリット」の方が、強調されるコトも多かったように思う。
実際、この頃から日本人の海外でのブランド品購入が急激に増え、ブランド品を持つコトがステータスではなく、当たり前のようになったように感じている。

そのようなコトを思い出すと、今回の「円高還元セール」は1ドル=70円後半になってからというタイミング。
やはり、小売り業全体の体力が落ちてきているのでは?という気がするのだ。

もう一つは、その「円高還元セール」の中心が、百貨店ではなく大手スーパーや楽天などの通販という点だ。
以前の「円高還元セール」の主役は、百貨店が中心だったのだ。
それも当時の百貨店が持っていた、海外支店からの輸入品などを取り揃えた「円高還元セール」だった。
それも、今回のような生活に密着したような商品ばかりではなく、絵画や宝飾品といった高価なモノが多かったように思う。
その海外支店も、バブル崩壊後次々と閉店に追い込まれ、百貨店そのものも小売りの雄ではなくなってしまった。
その代わりに小売りの主役となったのは、大手スーパーだったりコンビニ、通販だ。
大手スーパーといっても、持ち株会社などの関係からコンビニの方が経営の柱となってしまっている感が無いわけでないが、このようなセールとなるとコンビニよりも集客が見込めるスーパーというコトになるのだろう。

もう一つ注目されるのは、楽天などのネット通販だろう。
個々の出店規模は大きくなくても、日本全国をカバーできる販路を持っている。
並行輸入などをしているショップなどは、これを機に「円高還元セール」というコトも充分可能だろう。

「円高還元セール」と言っても、20年ほど前の時と随分違う印象がある。
小売業の主役交代というだけではなく、生活者自身も変わりつつあるという気がしている。

3.11以降目立つ「企業広告」

2011-08-21 21:25:28 | CMウォッチ
お盆中、カゴメが全面広告を全国紙に掲載をしていた。
私が見たのは、お盆休み中実家で見たものと土曜日に掲載された2回、4種類の広告だった。

「カゴメのものづくり」

うろ覚えで申し訳ないのだが、「フクシマ原発事故」直後、カゴメは福島県下の農家からの野菜の購入をしばらく見合わせていたように記憶している。
もちろん、東北にある関連工場などが被災したというのが、大きな理由だったのだと思うのだが、このニュースを聞いた時、企業イメージが悪くなるのでは?という気がしたのだった。
むしろ、契約農家から野菜を買い上げる方が、色々な意味で良いのでは?と、考えたからだ。
そして、その回答が今回の広告のような気がしている。

ご存知のようにカゴメは、トマトジュースやケチャップなど「トマト」を使った食品を中心に、野菜を原料とした加工食品を作っている。
それだけではなく、「こくみトマト」というブランドで生のトマトも販売をしている。
おそらくこの分野では、国内トップシェアを誇っているのではないだろうか?
だからこそ「おいしいだけではなく、安全・安心を生活者に届ける必要がある」というコトを、この広告で訴えたかったのではないだろうか?

今回の「カゴメ」のような企業姿勢を強く打ち出した広告が、最近目立つようになってきている。
はっきり言えば、「東日本大震災」以降増えている、といったほうが良いだろう。
新製品の発売がなかなか出来ない、というコトもあると思うのだが、それだけでは無いと感じている。
その背景にあるのは何か?と考えると、今の日本が様々な意味で「岐路に立っている」というコトのような気がする。

特に企業の場合、これまでのような「利益追求型」では、企業そのものが社会の一員として認められない、という意識変化が起きはじめているような気がする。
企業が社会に果たす役割、企業が社会の一員としてあるべき姿、そういったモノを考え直すことで、企業のファンを創ろうとしているのに感じるのだ。

だからと言って、耳障りの良い言葉を並べ、キレイな写真でアピールするだけでは、今の生活者はファンにはなってはくれない。
誠実に、企業の姿をキチンと見せるコト。
「生活者と共に成長したい」というアプローチが、必要となっているのだ。

その視点で今回の「カゴメ」の広告をみてみると、「モノづくりは決して工業製品だけに当てはまるモノでは無いんだな・・・」と、思わせる内容になっている。
逆に言えば、「モノづくりの原点とは」というコトを感じさせる、地に足がついた内容だといえる。

震災で消費意欲が減退する中、「新製品を買ってください」ではなく「製品を通して企業を買ってください」というアプローチへと変わりつつあるような気がする。
そのために、企業自身が自分を見直し始めているのでは?
そんな気がしている。