仕事上、色々なサイトをめぐり歩く事がある。
その範囲は、新聞社のサイトからファッション専門サイトなどまで幅広い、ということになる。
何故幅広く様々な分野のサイトをめぐり歩くのか?というと、多角的な視点を持つことで、思考の幅が広がるからだ。
そして「なるほどな~」と思う記事を読んだ。
やまとこごろjp:【対談】コンビニ化する観光、コロナ禍で岐路に立つツーリズム産業が目指すべき方向性と本質 富裕層特集
タイトルが長いのだが、これまでの日本の観光産業が目指してきたのは「コンビニ化した観光」だったのではないか?という指摘だ。
そして、今後のインバウンドは「コンビニ化した観光」ではなく、「カスタマイズされた観光」あるいは「旅をする人がつくる観光」に変わっていくのではないか?という指摘だ。
確かに日本で「観光旅行」というと、いわゆる「パッケージツアー」が定番中の定番で、むしろ「パッケージツアー」を利用しないという方は、「旅行上級者」というイメージがある。
「パッケージツアー」に行きつくし、パッケージツアーで経験できないような旅行を、自分で創る事ができる人…そんなイメージだろうか?
もしくは、若い人たちが「バックパック」と呼ばれるような、荷物一つで自由気ままに行く旅行だろうか?
ただ日本の「パッケージツアー」の歴史は、「ええじゃないか」と言いながら「お伊勢参り」をしたころから、始まっているのでは?という気がしている。
そもそも旅行をするためには、アクセスとなる陸路や海路、空路が整っている、という条件が最低限必要だろう。
と同時に、道中や現地での「安全」が確保されていなくては、「旅行」そのものが「安心」してできない。
そのような整備が日本で整い、「町内コミュニティー」ができたことで「お伊勢参り」ができるようになった、という背景がある。
問題なのは、日本人の旅行が「お伊勢参り」の頃から考えが進んでいない、という点だろう。
そのために「旅行に行く=観光」ということになってしまうのだ。
上述したように、「お伊勢参り」はその行程、宿泊などすべて「御師」と呼ばれる旅行代理店のようなプランナーがいて、「お伊勢参り」をする人達は「御師」が案内してくれるところを見て回り、宿泊すればよかったのだ。
「お伊勢参り」をする人は、その旅行の行程を同行者と一緒に誘われるままに動けばよかった、という「他人任せ」の旅行を楽しめばよかった、ということでもある。
それから100年以上の月日が流れたはずなのに、いまだに「パッケージツアー」が旅行の標準である、という思いこみがある。
旅行だけであれば良いのだが、「なんでも誰かがやってくれる」という生活が当たり前になりつつあるのが、今の日本の生活者思考に陥っているのでは?という、危機感を持っている。
「なんでも誰かがやってくれる」というと、「そんなことはない」と思われると思うのだが、「自分にとって常に快適な生活環境が用意されている、便利な生活」と言い換えれば、心当たりがあるのではないだろうか?
そのような生活環境であれば、人は「考える」ということを深める事なく、過ごすことができるようになる。
それが「思考のコンビニ化」と言いたいのだ。
その「思考のコンビニ化」によって、「考える」ことが面倒くさく感じられるようになり、「考える」ことそのものを止めてしまうのでは?という、事なのだ。
「誰かにやってもらうこと」は、考えることも少なくラクなことだろう。
代わりに、思考にぜい肉をつけ「誰かが声高に言ったこと」を、自分の思考だと思い込んでしまう。
でもそれは、「自分が考えた」ことだろうか?
「自分で考える」こととは、「思考のぜい肉をそぎ落とし、悩み、時には心の痛み」という、経験の上にできる部分も大きいのでは?
それは、仕事についてもいえることだと考えている。