日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

思考の「コンビニ化」に陥っていないか!?

2021-05-31 13:36:16 | ビジネス

仕事上、色々なサイトをめぐり歩く事がある。
その範囲は、新聞社のサイトからファッション専門サイトなどまで幅広い、ということになる。
何故幅広く様々な分野のサイトをめぐり歩くのか?というと、多角的な視点を持つことで、思考の幅が広がるからだ。
そして「なるほどな~」と思う記事を読んだ。
やまとこごろjp:【対談】コンビニ化する観光、コロナ禍で岐路に立つツーリズム産業が目指すべき方向性と本質 富裕層特集

タイトルが長いのだが、これまでの日本の観光産業が目指してきたのは「コンビニ化した観光」だったのではないか?という指摘だ。
そして、今後のインバウンドは「コンビニ化した観光」ではなく、「カスタマイズされた観光」あるいは「旅をする人がつくる観光」に変わっていくのではないか?という指摘だ。

確かに日本で「観光旅行」というと、いわゆる「パッケージツアー」が定番中の定番で、むしろ「パッケージツアー」を利用しないという方は、「旅行上級者」というイメージがある。
「パッケージツアー」に行きつくし、パッケージツアーで経験できないような旅行を、自分で創る事ができる人…そんなイメージだろうか?
もしくは、若い人たちが「バックパック」と呼ばれるような、荷物一つで自由気ままに行く旅行だろうか?

ただ日本の「パッケージツアー」の歴史は、「ええじゃないか」と言いながら「お伊勢参り」をしたころから、始まっているのでは?という気がしている。
そもそも旅行をするためには、アクセスとなる陸路や海路、空路が整っている、という条件が最低限必要だろう。
と同時に、道中や現地での「安全」が確保されていなくては、「旅行」そのものが「安心」してできない。
そのような整備が日本で整い、「町内コミュニティー」ができたことで「お伊勢参り」ができるようになった、という背景がある。

問題なのは、日本人の旅行が「お伊勢参り」の頃から考えが進んでいない、という点だろう。
そのために「旅行に行く=観光」ということになってしまうのだ。
上述したように、「お伊勢参り」はその行程、宿泊などすべて「御師」と呼ばれる旅行代理店のようなプランナーがいて、「お伊勢参り」をする人達は「御師」が案内してくれるところを見て回り、宿泊すればよかったのだ。
「お伊勢参り」をする人は、その旅行の行程を同行者と一緒に誘われるままに動けばよかった、という「他人任せ」の旅行を楽しめばよかった、ということでもある。

それから100年以上の月日が流れたはずなのに、いまだに「パッケージツアー」が旅行の標準である、という思いこみがある。
旅行だけであれば良いのだが、「なんでも誰かがやってくれる」という生活が当たり前になりつつあるのが、今の日本の生活者思考に陥っているのでは?という、危機感を持っている。

「なんでも誰かがやってくれる」というと、「そんなことはない」と思われると思うのだが、「自分にとって常に快適な生活環境が用意されている、便利な生活」と言い換えれば、心当たりがあるのではないだろうか?
そのような生活環境であれば、人は「考える」ということを深める事なく、過ごすことができるようになる。
それが「思考のコンビニ化」と言いたいのだ。
その「思考のコンビニ化」によって、「考える」ことが面倒くさく感じられるようになり、「考える」ことそのものを止めてしまうのでは?という、事なのだ。

「誰かにやってもらうこと」は、考えることも少なくラクなことだろう。
代わりに、思考にぜい肉をつけ「誰かが声高に言ったこと」を、自分の思考だと思い込んでしまう。
でもそれは、「自分が考えた」ことだろうか?
「自分で考える」こととは、「思考のぜい肉をそぎ落とし、悩み、時には心の痛み」という、経験の上にできる部分も大きいのでは?
それは、仕事についてもいえることだと考えている。


YOASOBIの「夜を駆ける」がYouTube で見られなくなった。嫌な社会空気感

2021-05-30 20:38:45 | 徒然

小説を音楽にするユニット・YOASOBIのヒット曲「夜に駆ける」のMVが、youtubeで閲覧禁止になっているようだ。
日刊スポーツ:YOASOBI「夜に駆ける」MVがYouTubeで視聴できず、公式が謝罪

このニュースを知った時、「1年以上も前のヒット曲が、何故に今更?」という、疑問があった。
YOASOBIがこの曲をリリースしたのは、2019年で昨年のNHK紅白歌合戦にもこの楽曲で出場している。
ストリーミングの再生回数も3億回を超えるほどの、人気楽曲でもある。
そのような楽曲がなぜ、今になって?という点で、疑問なのだ。

どうやらYouTubeで見られなくなった理由として、YouTubeコミュニティーから「内容に問題がある(どうやら自殺などを思い浮かべる内容ということのようだ)」という指摘があり、視聴することができなくなったようなのだが、以前MVを見てもそのような印象が無かった私としては「???」でしかない。

というのもこの「夜に駆ける」という作品だけではなく、YOASOBIの楽曲が上述したように「小説を音楽化する」というユニットだからだ。
元々この「夜に駆ける」という楽曲にも、原作となる小説があり星野舞夜さんの「タナトリスの誘惑」という作品をベースに作られているからだ。
「タナトリスの誘惑」という短編小説を読んだことが無いので、その内容が自殺を扱っているものであるのか?という点は、分からないのだが、少なくとも歌詞を読む限りは、そのような印象を受けない。

MVそのものは、楽曲のイメージに合わせてつくられるものであり、YOASOBIの場合音楽ユニットということからアニメーションのMVになっている。
何となくだが、今年の始めに話題になったAdoの「うっせいわ」と、同じような感覚で「見せたくないMV」という大人の判断があったのでは?という、気がしている。

そしてこのような「規制」がされる事に、とても嫌な社会的空気感を感じるのだ。
「うっせいわ」という楽曲は、親が子どもに聞かせたくない、という理由があった。
しかし、子どもたちからすれば「うっせいわ」と連呼される事で、その意味よりもリズム感などで人気となった。
もちろん、思春期の若者たちにとって「大人の言うこと」に「うっせいわ!」と、言いたくなることも多々あると思う。
まして今の様に、国の権力者と言われるような人たちの様に「自分の都合」ばかりを主張して、「責任の取り方も知らない」ような態度や、フラフラと言い逃ればかりするような姿を見ていれば、「大人なんか信用できない。うっせいわ」と言いたくもなるだろう。
その意味で、ヒット曲というものは社会の空気感を表す存在である、ともいえる。

もしYOASOBIの「夜に駆ける」が、何らかの問題があると考えるのであれば、YouTubeコミュニティーという限られた中ではなく、多角的な考えを基にこのMVを考えれば良いだけだ。
そのような「考える」ことを止めさせ、誰か一部の人達が「(過剰に)危険だから」と判断することのほうが、問題なのだと思う。

確かに「不快に感じること」を見せつけることは、社会全体にとって「負の要素」かもしれない。
だが「負の要素」を排除し続けることは、「負の要素とは何か?」ということを考えないようにしてしまう、というより深い問題をはらんでいる。
それが時には、生活者を思考停止をさせ、「全体主義的」な社会を創ることにもつながる、ということを歴史が教えてくれている。
YOASOBIの「夜を駆ける」MV視聴停止が、全体主義へ突き進むその一つのような気がして、ならないのだ。


「緊急事態宣言」発令中のチグハグな政策が、周回遅れの日本経済に打撃を与える

2021-05-28 20:13:56 | アラカルト

6都道府県に出されている「緊急事態宣言」の延長が、ほぼ確定となったようだ。
多くの人が指摘をしているが、今回の「緊急事態宣言」は延長を繰り返すばかりで、「いつになったら緊急事態宣言が修了するのか?」という、疑問が起きている。
むしろ「緊急事態宣言慣れ」のような事も起きつつあるのでは?という、気がしている。

昨年の春の「緊急事態宣言」では、小中高学校から大学まで「休校」になり、代わりに「オンライン授業」が行われていた。
今でも大学などでは、「オンライン授業」が継続中のようだが、小中高校は「休校」ではなく、通常通りの授業が行われている。
そのこと自体、問題だとは思ってはいない。
何故なら、学校で発生したクラスターの多くは、通常の授業の中ではなく部活の合宿や寮などで発生しているからだ。
「生活を共にする」ことで、クラスターが発生したと考えれば、通常の授業中は窓を開け・換気をするなどの対策で、ある程度は防げる、ということが分かってきたからだ。

同様に、百貨店なども「デパ地下」等での営業は継続しているし、企業も昨年のような「リモートワーク」から通常の出勤スタイルに戻っている企業も多いはずだ。
少なくとも、朝の通勤電車などを見る限り「コロナ禍前」の出勤風景が戻り始めている、という印象を持っている。

にもかかわらず、国からの要請で「閉館」している施設がある。
「映画館・美術館・図書館」等だ。
全ての映画館が閉館している訳ではないが、今回の「緊急事態宣言」により公開が見送られた映画はいくつもある。
特に子ども向けのアニメ映画などは、この春公開予定だったはずが、今だに公開予定が立っていない、という映画もあるようだ。
それよりも不思議なのは「美術館と図書館」の閉館だ。
そもそも、美術館と図書館は収蔵している作品や蔵書の保管の為に、空調設備などは百貨店などよりも厳しく管理されている。
そして来館する人達も、騒ぐような行為はまず行わない。
静かに美術作品を鑑賞したり、本を読んだり勉強をしたりしている。
騒ぐ要素など、一つもないのだ。
にもかかわらず、閉館要請をするのは何故だろう?

何となくだが、これらの施設が「不要不急」と勝手に決めつけられてしまっているのでは?という気がしている。
映画館はダメだが、「新型コロナ対策」をすれば、スポーツ観戦はできる、という基準はどこにあるのだろう?
元々施設の性格上「新型コロナ対策」に近い設備となっているのに、閉館を要請するのは何故なのか?
その理由が、ハッキリしない。

そもそも「不要不急」と言いながら、「オリンピック開催中止」と海外の著名で影響力のある医学雑誌に掲載されるような状況になっているにもかかわらず、「オリンピックを開催することで経済が動く」等と嘯くような事を言ってしまうのは、どんな科学的根拠があるのだろう?

あくまでも個人的な考えだが、オリンピック開催によってこれまでと違う複数の変異株が一斉に発生し、主な感染者が日本人であった場合、経済を動かす人そのものが減ってしまう。
何故なら、実体経済を動かしている人達は、「3密」のリスクを知りながら通勤をしている人たちなのだ。
その人達に「高い感染リスク」をこれ以上負わせる事は、決して日本の経済にプラスとなるとは思えないのだ。
とすれば、国が考えている「不要不急」とは、科学的根拠があり一貫性を持ったものではない、ということになる。
そこに、ダラダラと続く「緊急事態宣言の延長」。

「気合と根性」で乗り越えられなくなってきている今、科学的根拠に基づく一貫性ある政策が一番必要だと思うのだ。


「オリンピック」の終わりの始まり

2021-05-27 20:31:33 | アラカルト

時事通信社が、米国の権威ある医学雑誌に「IOCの安全対策」に欠陥がある、というレポートが掲載されている、と報じている。
時事通信:IOCの安全対策に欠陥「五輪中止も選択肢」ー米医学誌

これまでIOCのバッハ会長のコメントなどが、日本国内で「炎上」状態になることはあった。
特にこれまで通りの強気の「開催」発言は、「(日本に)多少の犠牲を冒してでも、五輪は開催する」という趣旨に対して、日本国内では「炎上」状態になっていた。

しかし肝心のバッハ氏にとって、日本での「炎上騒ぎ」等は「対岸の火事」のようなレベルで、全く意に介さない傲慢ともいえるような態度ばかりが、目立っていたような気がしている。
そしてバッハ氏と同様の発言が、調整委員会のコーツ氏からもあり、日本国内でのIOCに対する反感は「炎上」というレベルではなく、「市民ボイコット」レベルにまで達しているように感じている。

にもかかわらず、IOCの主要役員と呼べる人達が「開催」と言い続けることができるのは、おそらく危機感が無く、自分たちが常に「安全な場所」にいるからだろう。
「安全な場所」というのは、少なくとも「3密」になるような環境で生活をする必要もなく、経済的不安もない、今日の一部新聞報道にあるような「オリンピック貴族」だからだ。

過去、IOCの会長として手腕を振るり、現在の「オリンピックの理念」とも呼べる「スポーツと文化の融合」等の名言を言った、クーベルタン男爵のような「高潔な貴族」ではなくなり、「金儲けの特権意識」しか持たず、その特権を最大限自分の為に利用する、という「貴族」に成り下がってしまった、ということだろう。
もはやIOCの主要役員にとって、「オリンピックは、自分のステータスの向上、オリンピック・ビジネスによる金儲け」の道具でしかないのだ。

おそらく1970年代のオリンピックは、クーベルタン男爵の唱えた
「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」
というオリンピックの理念は、生きていたと思う。

それが1980年代、特に1984年のロサンゼルス大会で「オリンピック=お金が儲かる」という、ビジネスモデルが出来上がったことで、IOCの主要役員たちはその利益を享受し続けるという「甘い汁」の味を覚えてしまったのだろう。
だからと言って1984年の商業化したオリンピックが、悪い訳ではなかったはずだ。
何故なら、「開催都市に利益を生む」という、「オリンピック・ビジネス・モデル」ができたことで、開催に手を挙げる都市が増えたからだ。
日本では「オリンピック開催=国威発揚」のようなイメージで、とらえられ続けてきたが、現実には「儲かるオリンピック」を期待することで、都市整備などを積極的に進める事ができた、という事実がある。

しかし、今回のIOCの主要役員の現実を無視したような発言の数々は、IOCという組織の本質を見せつけただけではなく、欧州の似非貴族で構成される事で、IOCそのものの「潜在的差別意識」もまた、露呈させたような気がしている。
それは「オリンピックの終わりの始まり」なのではないだろうか?


米国の「日本への渡航規制」は、オリンピック・パラリンピックの開催に影響を与えるのか?

2021-05-25 19:12:26 | アラカルト

米国国務省が、「新型コロナ感染拡大状況」について日本への渡航を「安全ではないため、渡航すべきではない」というレベル4に引き上げた。
朝日新聞:日本の感染状況 最高レベル CD分析もとに渡航中止

オリンピック開催までにあと2ヵ月となった状況で、米国の「日本への渡航をすべきではない」という判断は、オリンピック開催そのものへの影響が大きいのでは?という印象を持つのは、私だけではないと思う。
確かにオリンピックの開会式までに2ヵ月という状況ではあるが、選手団などの来日は2ヵ月前ではないからだ。
開会式に1ヵ月位前には日本に来日をし、時差ボケを解消しつつ、出場する種目の当日に合わせた体調管理が必要だからだ。
と考えると、後1ヵ月で今の日本の感染状況が劇的に好転し、米国側が「渡航することが安全である」というお墨付きを出すことができるのか?ということになる。

IOCも日本のJOCも丸川五輪相も「多少の犠牲を払っても、開催する」という方向で動いているようだが、米国の選手団が来日しないとなった場合、果たして米国での放送権を持っているNBCなどが「米国の選手の活躍は見られないが、中継はする」というのだろうか?と、疑問に思ったのだ。

IOCと日本のJOCや東京都(拙ブログではしつこいほどに書いているが、オリンピックはあくまでも「都市開催」なので主催者となるのは東京都である)が恐れている?開催中止によって発生する「違約金?」どうなってしまうのだろう?
米国のメディアに限らず、オリンピックの中継は自国選手たちの活躍を報道するためだ。
その自国選手たちが、「渡航できない=オリンピックに出場できない」という状況になった時、参加国のテレビ局はどのような対応をするのか?ということなのだ。

もちろん、米国の選手団だけが来日しなくても、オリンピック、パラリンピックを開催することはできる。
1980年のモスクワオリンピックが正に、米国をはじめとする西側諸国が一斉にボイコットをし、「オリンピックというよりも東側スポーツ大会」と揶揄されるほどの規模を縮小して開催されたこともあった。
この時は、今回のような「感染症の世界的拡大」ではなく、当時のソ連がアフガニスタンに侵攻したことへの政治的理由によるものだったし、それも急遽ボイコットが決まった、というような状況だった。

IOC側は「モスクワオリンピック」やその次の「ロサンゼルスオリンピック」の様に、規模を縮小させてでも開催はできる、という目論見なのかもしれないが、当時のボイコット理由と今回とでは全く違う。
そしてオリンピック参加国の中で一番大きい選手団を派遣する米国が、参加しないということになれば、上述した通りNBCの対応だけではなく、他の諸外国も同じ対応(=渡航中止)をする可能性もある。

まだまだ流動的とはいえ、米国のバイデン大統領は就任当時から「科学的根拠を基に、判断したい」と言ってきた。
その「科学的根拠」による判断が、今回の「レベル4=渡航中止」なのだ。
日本の政治家の皆さんの様に「気合と根性、人の絆で感染拡大を阻止」と言っている訳ではないのだ。

そして今回の件で、IOCと開催国との契約内容が明らかになった。
一部では「開催国不利な不平等契約」という指摘がされた内容だった。
中止の判断をするのはIOC側にあるが、金銭的痛みを伴わず、金銭的負担はすべて開催都市側が負担する、という内容だったからだ。
現時点で開催が決まっているオリンピック・パラリンピックは、現在の契約内容で履行されるはずだが、今後開催都市として手を挙げる都市が無くなってしまうかもしれない、ということをIOCやNPCは考えなくてはならないはずだ。

そう考えると、今回の東京オリンピック・パラリンピックは「パンドラの箱」を開けてしまったのかもしれない。
1984年のロサンゼルスオリンピックが、今回のような「商業主義オリンピック」の始まりだと言われている。
そしてその「オリンピックビジネスモデル」が崩れたオリンピックが、この東京オリンピックと言われるようになるかもしれない。


「高齢者社会」のメディアを考える

2021-05-24 12:58:04 | ビジネス

先週、実家(米子市)に帰省していた。
この「コロナ禍」での帰省は、ためらう要素が多かったのだが、高齢の独居老人である父の様子を定期的に見る事で、数カ月前にできていた動作がしにくくなった、あるいはできなくなったという状況を把握する必要もあったため、半年ぶりの帰省をした。

幸いな事に、90歳を超えても認知の面では変わる事が無かったのだが、以前から患っていた右目の緑内障が進行し、大好きな時代小説を読まなくなっていた。
時代小説だけではなく、毎日読んでいる新聞でさえ流し読みどころか、見出しを見る程度だった。
テレビのニュースにしても、自分の生活に関係するローカルニュースは興味があるのに、全国ニュースになると興味が薄らぐような処も見られた。
もちろん、ニュースの中心が「オリンピックとコロナ」ばかりで、大きな変化が感じられないという点も、興味が薄らいでいる要因かもしれない。

そのような父の生活状況を見ながら、今から父の生活に必要なサポートは何か?ということを考え、行政にお願いすること、家族がサポートすることなどを準備することになる。
その中で感じた事が「高齢者社会におけるメディア」ということだった。

実家の父の場合、上述したように「緑内障」の為「見難い」という状況になっている。
聴覚の問題が無いということもあるのだが、高齢者向けの音声メディア=ラジオなどの充実が、これから重要になってくるのでは?という気がしたのだ。
もちろん、ここ数年で「ラジオ」というメディアそのものが、大きく変ってきている。
それは「Radiko」の登場によって「いつでも・どこでも・お気に入りの番組を聞くことができる」ことが、できるようになった事が大きいだろう。

特に、FMの様に聞くことができる地域が限定されていると、出かけた先でいつもの番組を聞くことができない、ということがあったり、ラジカセ全盛期の様に「聞き逃しても録音をする」ということができたが、今は簡単にラジオ番組を録音するということが逆にしにくい状況になっている。
そのような問題を解決できるサービスとして登場したのが、インターネットを使う「Radiko」ということになる。
実際には、日本全国どこの放送局でも聞けるサービス「エアーフリー」等を利用するためには、事前登録をする必要があるため、高齢者にとって使いやすいのか?という疑問はあるが、逆に行動範囲が狭い高齢者には「エアーフリー」という機能は必要ないだろう。
むしろ、インターネットに接続するということ自体が、高齢者にとって利用しにくい理由となる可能性は高い。
そのような「高齢者にとって、使いやすい音声メディア」というものが、これから必要となっていくのでは?という気がしたのだ。

これは実家の父のような「視覚の衰え」に対する問題の解決、ということになる。
これが「聴力の衰え」ということになれば、また違う「映像メディア」の在り方が必要となるだろう。
「人生100年時代」と言われるようになったが、多くの企業がこの言葉を謳い文句として使う時、「加齢によって、かつてできたことができなくなった自分の姿」ということを、忘れてしまっている。
「今当たり前にできる事が、数十年後できるのか?」と問われれば、それはおそらく「ノー」だろう。
企業は「バラ色の老後」を謳うだけではなく、「バラ色にはならない老後を如何に変えるのか?」ということを描く必要があるのだ。

「高齢者にとって暮らしやすい社会」は、様々な障害を持つ人達にとっても「暮らしやすい社会」なのだと思う。
そして、既に「高齢者社会」に突入している日本は、これまでの「メディア」の在り方も変えていく必要があるだろう。
事実、今の10~20代の半分は、テレビを視聴しないという調査もあった。
AVWatch:10~20代の約半分「ほぼテレビ見ない」。NHK調査

「メディア」における社会変化が起きている今、全世代の中で一番のボリュームゾーンとなる世代=高齢者の利便性に注目したメディア企業が、これからのメディアをリードしていくのかもしれない。


「楽市楽座」のような賑わいとメリット

2021-05-17 17:55:28 | ビジネス

WWD JapanのWEBサイトを見ていたら、「小売り本来の姿とは?」を考えさせられる記事があった。
WWD Japan:”もったいない”をなくす「パスザバトン マーケット」大盛況 デットストック約1万5000点を販売

この「パスザバトン マーケット」を企画したのは、飲食店「スープストックトーキョー」を運営しているスマイルズだ。
若い女性を中心に人気の「スープ専門店」として、日本各地で展開をしている「スープストックトーキョー」だが、企業や産地でデットストックを「蚤の市」のような形態で販売する、という試みだったようだ。

開催地が東京ということもあり、緊急事態宣言が発令されたため延期になったり規模を縮小しての開催ということになった背景はあるにせよ、記事を読む限りでは「盛況だった」ということになると思う。
そして、この記事を読みながら思い浮かんだ言葉が、「楽市楽座」だった。

日本史にも登場する(であろう)「楽市楽座」は、安土桃山時代、織田信長をはじめとする諸国大名たちが領地の経済政策の一つとして行った「市場」だ。
今でも「楽市楽座」の名のついた、市場や商店名は全国各地にあると思う。
大手スーパーなどが行う市場のようなイベントではなく、「蚤の市」のような自由さが、本来の「楽市楽座」なのでは?という気がしている。
というのも「楽市」は、市場=ものを売ることを指し、「楽座」は、エンターティメントを指しているからだ。
京都の神社仏閣の参道などで見かける、骨董市のような雰囲気のほうが近いかもしれない。

何故「楽市楽座」なのか?と言えば、上述した通り「市場とエンターティメント」を提供する場所だからだ。
今の市場には、エンターティメントが無い(場合がほとんどだ)。
そして「エンターティメント」の場には、蚤の市のような雑多感のあるモノ売りはない。
何より「楽市楽座」の大きなメリットは、街の賑わいを創り出すだけではなく、様々な人達が集まる事で「情報交換」が行われた、という点だ。

ネット社会となった現在、パソコンやスマートフォンをつければ、様々な情報にアクセスすることができる。
むしろ、情報過多と言っても良い状況だ。
そのような社会環境の中で、あえて「情報交換」なのか?と言えば、ネットでいられる情報の多くは「自分にとって知りたい情報」に限られてしまうからだ。
それが「楽市楽座」のような環境になると、「自分に興味がない情報も入ってくる」ということになる。
特にエンターティメントが加わる事で、自分の知らないエンターティメントから知らない文化に、触れることもできるのではないだろうか?
偏った情報を集めるのではなく、多様な情報を見聞きすることで「情報の選択力」を身につけることができる機会が得られる、ということなのだ。

今回の「パスザバトン マーケット」の場合、デッドストック化してしまった商品の販売をメーカー側がしている、という点で生活者側に対して「商品に対する安心感」というものを提供している。
「コロナ禍」の中で、人が集まるイベントを企画・実施すること自体難しい状況にあるが、地域の活性化だけではなく、地域自らが発信する情報提供という点でも「楽市楽座」のようなイベントは、メリットが高いのではないだろうか?
一時期「軽トラ市」というイベントが、地方の商店街活性化策として、話題になった。
商店街が日常の場だとすると、「楽市楽座」は非日常の場とする必要がある。
「楽市=市場」だけではなく「楽座=エンターティメント」が加わる事で起きる、非日常性を街中に取り戻すことで得られるメリットは大きいのではないだろうか?


「再生可能エネルギー」の駆け引きが始まった

2021-05-16 22:52:11 | ビジネス

毎日新聞のWEBサイトに、英国が石炭火力全廃をG7で提案をする、という記事があった(有料会員向け記事なので、全文を読むことはできない)。
毎日新聞:英国がG7で石炭火力全廃提案 気候変動で「日米リード」に黄信号

G7だけではなく、様々な国際会議などの話題の中心となりつつあるのが、おそらく「再生可能エネルギー」についての話なのでは?と、考えている。
何故なら、「再生可能エネルギー」の問題は、SDGsという面だけではなく「エネルギー産業の主導権」という面があるからだ。
これまでの様に、石油産出国依存からの脱却という点もあると思うが、むしろ「再生可能エネルギー」の技術獲得によってもたらされる「国益」という側面のほうが大きいのでは?という気がしているからだ。

実は、毎日新聞のこのスクープ記事の前日、日経新聞が興味深い記事を掲載していた。
日経新聞:ゲイツ氏ら注目の核融合発電、京大初スタートアップ挑む

電氣新聞:京大初の核融合発電スタートアップ。実用化にらみ開発加速

見出しにある「核融合」という文字を見て、原発を思い浮かべた方も多かったと思う。
私も「原子力発電」のようなものなのでは?と、思ったのだが、どうやら全く異質のもののようだ。
パーソナルテクノロジースタッフ:【地上に太陽を作る】核融合発電でエネルギー実用化に挑む企業たち

大きな違いは「放射性物質を使わない」ということだろう。
とは言っても、太陽光発電や風力発電のような「自然エネルギー」を利用した発電ではないため、リスクが「0」ではない、という点を知っておく必要があるだろう。
何より、施設そのものが巨大で安全性の高さが求められる、という点ではまだまだ研究段階の「未来のエネルギー」ということになると思う。

ただ、太陽光発電や風力発電の様な「自然エネルギー」の場合、電力の安定供給という問題点の解決には、程遠い状況である、と言っても過言ではない。
それだけではなく、太陽光発電を闇雲に設置したため景観を大きく損ねる、台風や豪雨により太陽光パネルが壊れても、事業者が改修・修理、あるいはパネスそのものを取り外すなどの対応が十分ではない、という問題も起きている。

とはいうものの「東京電力福島第一原子力発電所事故」後、日本では「原子力発電」の問題点を重視するようになってきている。
一つは地震などの自然災害が頻繁に起きる日本向きではないのでは?という点と、不要となった核燃料の処理施設という問題だ。
特に「不要となった核燃料の処理施設」の問題は、「原子力発電所」が稼働した時から解決されていない問題でもある。

おそらく諸外国のエネルギー事情も、似たような状況なのでは?と推察すると、この「核融合発電」に対する期待が高まるのは当然なのかもしれない。
その中でも「プラズマ研究」については、日本の複数の大学で行われている(はずだ。身近なところでは名大でもプラズマ研究を進めている)。
産学協同で進めるにしても、膨大な研究・開発費用の調達ができるベンチャー企業の存在が、今後の「エネルギー産業」の主導権をとるのでは?ということは想像できる。

果たして、この「新しいエネルギー産業」の駆け引きの行方はどうなるのか?
その駆け引きの如何によって、日本経済の浮沈にもかかわってくるような気がしている。


問題解決へのロードマップの大切さ

2021-05-15 20:00:36 | ビジネス

昨日だったと思う、東京オリンピック・パラリンピックの事前合宿を予定していた45の自治体が相次いで中止となっている、というニュースがあった。
NHK NEWS WEB:丸川五輪相「45の自治体で事前合宿中止」

中止の理由は、参加国側の都合によるものということのようだ。
確かに、今の日本の「新型コロナ」の感染拡大状況を見れば、「緊急事態宣言」が発令されている都府県に限らず、日本そのものへの来日に二の足を踏む海外のスポーツ団体が出ても仕方ないと思う。
「仕方ない」というよりも「当然」と考えるべきかもしれない。
そしてこの後に及んで、フッと考えてしまうのだ。
「日本政府は、本気でオリンピック・パラリンピックを開催する気があるのか?」ということを。

ビジネスの世界では「最悪の状況を想定して、最善の方法を考える」ということを、よく言われる。
それは新規事業を立ち上げる時だけではなく、事業内容の見直しなど「リスクの回避」という点で、常に考えなくてはならない点のはずだ。
そのために、「様々な最悪の状況」を考え、その一つ一つに「最善の方法は何か?」ということを考えるが重要になる。
それは「どのようなリスクがあるのか?」、「そのリスクとなる要因は何か?」ということを探すことにもなる。
これらの「リスク」について検討することで、事業展開そのものを見直したり、場合によっては中止・時期を見極める、などの方法がとられる。
いずれにせよ「問題解決のためのロードマップ」を作成することで、「リスクと解決の見える化」に繋がっていく。

そう考えた時、昨年から「生活者に対して良心的で自覚ある行動」だよりにしてきた政府は、本気で「東京オリンピック・パラリンピックを開催する気に合ったのか?」という疑問を感じてしまうのだ。
拙ブログでは、昨年からの政府の対応を「気合と根性」という表現をしてきた。
もし、本気で東京オリンピック・パラリンピックを開催するつもりなら、今の時点で国民の7~8割がワクチンを接種が終わっている必要があったのでは?と、考えたからだ。
5月上旬で国民の7~8割のワクチン接種終了というゴールが分かっていれば、そこから逆算をした「問題解決のためのロードマップ」を作成する必要があった。

当然、未知のウイルスのワクチンではあるが、変異株が生まれやすいmRANということも「ヒトゲノム解析」と「これまでのコロナ型ウイルスの変異歴」が分かれば、ある程度の想定ができただろう。
何故なら、日本には「富岳」というスーパーコンピューターがあるからだ。
それらのデータを基に、それこそ「All Japan」でワクチンの研究・開発、治験という工程をある程度公表することで、多くの生活者の理解の基、ワクチン接種が進んでいたのでは?という、気がしたのだ。

先日、「日本はワクチンに対する研究・開発技術の蓄積が無いため、政府が1兆円規模の投資をしても難しかった」という趣旨のエントリをしたが、世界規模の共同研究を日本が呼びかけ対応する、という方法もあったのではないだろうか?
もちろん、そのための特許などの問題も出てくるだろうが、パンデミックという状況になる事は、どの先進国も望んではいなかったはずだ。

「たられば」の話をしたところで、過去の時間は戻ってはこないが、「気合と根性」しか言えない政府の態度を見ると、「本気で東京オリンピック・パラリンピックを開催したいのか?」という、根本的な部分に疑問を感じてしまうのだ。
違う見方をするなら「問題解決のためのロードマップ」の重要性を、改めて感じている、ということなのだ。


「フードロス」の次は「アパレルロス」か?

2021-05-13 12:51:31 | ビジネス

SDGsの話題で真っ先に取り上げられるのが、「フードロス(=廃棄される食品)」だろう。
ラジオなどのCMでは、日本人一人当たり1個のコンビニおにぎりを廃棄している、という計算になるらしい。
「ひとり1個のコンビニおにぎり」というと、決して大きな数字ではないように思えるのだが、日本全体という数字になると、相当量のコンビニおにぎりが廃棄されている、ということになる。

問題なのは、食べ物が廃棄されるのに食事がままならない人たちがいる、という点だ。
先進諸国でありながら、日本の子どもたちの7人に1人が、貧困家庭だという。
日経新聞:子どもの貧困率13.5% 7人に1人、改善せず

貧困家庭の多くが、母子家庭であるという調査があるため「好きで離婚をしたのだから、自己責任」と言い放つ方も少なからずいらっしゃるのは分かっているつもりだが、日本の場合、既婚・未婚を問わず「非正規雇用者」が圧倒的に多い、ということや、「正規雇用者」であっても男性の約7割の給与し変えていない、という現実がある。
そのため、「正規・非正規雇用」問わず、母子家庭になると一気に「貧困家庭」に陥ってしまうのだ。

とここまでは「母子家庭」という視点なのだが、実はもっと深刻な経済状態である、という指摘がされている。
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女性の「正規・非正規雇用」という問題以前に、日本では労働環境が悪化しているにもかかわらず、給与を含む生活環境そのものが悪化しているのだ。
そのために「母子家庭以外の貧困家庭」も増えているはずなのだ。

このような背景で生まれた市井の活動が、「子ども食堂」と呼ばれる場所だ。
毎日ではないが、週の内に1,2回様々な境遇の子どもたちが集まって、安価な価格で食事をする場所だ。
今では、子どもだけではなく様々な年齢の生活困窮者も一緒になって、食卓を囲むというところも増えている、と聞く。
この「子ども食堂」の活動を支えるのが、「フードロス」となった食品の活用でもある。

このような「〇〇ロス」と呼ばれるものは、何も食品に限ったことではない。
アパレル商品なども、大量に廃棄されている。
バブルの頃、女性に人気のあるシューズブランドは、「ブランドイメージ維持のため」という理由で毎シーズンごとに出荷できなかった靴を大量廃棄をしていて、話題になったことがあった。
それは靴だけに限った事ではない。
シーズンごとにファッショントレンドを追いかける、服飾のほうが廃棄される量は多いかもしれない。
そのような「アパレルロス(というのか?)」を解消するために、新しい動きが出ている。
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廃棄対象となっているジーンズが、ジーンズの基本中の基本ともいえる「リーバイス501」という点は驚くのだが、逆に考えれば、「リーバイス501」ですら20トンもの廃棄がされるのであれば、他のアパレル商品などはもっと大量に廃棄されているのでは?と、想像がつく。

ただ食品とは違い「消費期限」があるわけではないので、リメイクなどの方法で販売することができる。
販売価格を抑える事ができれば、社会的経済弱者と言われる人たちも手に取りやすいはずだ。
毎シーズンごとに、ファッショントレンドを追いかけるような時代ではなくなりつつある事を考えれば、アパレル産業も「ロス」から「再生→販売」という新しいビジネスモデルを考える時期にきているのではないだろうか?
それは、呉服などにも通じる事だろうし、呉服の場合は海外(特に欧米)市場を考えた、ラグジュアリー感のある提案ができるはずだ。

アパレルや呉服という市場もまた、「ロスを出さない」という発想をすることで、新しい市場や顧客が生まれるのでは?という気がする。