今日、フランスのTGVの複数の線路で火災が発生し、TGVの運行だけではなく関連する駅でも混乱が起きている、というニュースがあった。
朝日新聞:フランスTGV、複数の路線で火災の情報 五輪開会式は予定通り実施
毎日新聞:仏TGV路線で放火・破壊 鉄道網狙う大規模攻撃か パリ五輪開幕直前
これら報道だけを見ると、時期的にパリオリンピック開催に反対する人達の、過激な抗議行動のような印象を受ける。
しかし、現時点で抗議団体などからの声明などが無く、犯行そのものの動機などはまだ不明なままだ。
ただ、これまでオリンピックとは関係が無いのだが、フランスをはじめとする著名な美術館や観光施設に対して、ペンキやジュースなどを作品に投げ付けるという行為が、環境保護団体などが行ってきている。
彼らと関係があるのかは、上述した通り犯行声明のようなものが出ていないので、わからないのだが、過激さから考えるとなんだかの意図があり、フランスの鉄道網を攻撃し、混乱に陥れたい、という意志のようなものは感じる。
ブラジルのリオ五輪の後、東京・パリと先進国での五輪開催が続いている。
しかも、初開催ではなく、過去にも五輪を開催した都市での開催だ。
このような過去に開催をしたことがある都市開催に対して、何等かの不満を持つ人達がいてもおかしくはないだろう。
「なぜ、同じ都市で何度も開催するのか?」という、疑念だ。
ただ、五輪の開催は先の東京五輪でもわかる通り、当初予算の何倍ものお金がかかる。
ある程度の都市規模と、経済力がある都市でなくては、開催そのものができない、というのが現状だろう。
もちろん、開催することで観光誘致ができたりすることはできるのだが、今現在はその観光誘致などは都市にとって魅力なのだろうか?
それよりも、魅力があるとすれば、様々な企業から支払われるスポンサー料などでは?という、気がしている。
財政難というのではなく、都市開催が基本となる五輪では開催運営に携わった団体=開催都市に、膨大なお金が落ちる、とも言われている。
このビジネスモデルの始まりは、1984年のロサンゼルス五輪で、それまでの五輪は開催すれば、必ず赤字、という状況だったと言われている。
それを聖火ランナーをスポンサー企業を絡め、募集し一般ランナーが参加できるようになった。
現在では、このスタイルが定着し、スポンサー企業の名前の入ったTシャツを着て、一般ランナーが高々と聖火トーチを掲げ走る光景が定着した。
しかもスポンサーランクのようなものがあり、飲料水メーカーはコカ・コーラ社、クレジット会社はVisa、自動車はトヨタの「ミライ」というように1業種1社と決められている。
スポンサー契約を獲れること自体、企業にとっては広告宣伝だと考えれば、それなりのメリットがあるがその額は開催毎に高騰している、と言われている。
今や、クーベルタン男爵が言われたような「参加することに意義がある」という五輪の姿ではない、と言っても過言ではないだろう。
TEAM JAPAN:クーベルタンとオリンピズム
そう考えると、今回のTGV路線を狙った放火や破壊行為は、行き過ぎた商業主義五輪に対する、抗議のようにも思えてくる。
選手やスポーツ関係者、観客や住民の方々には、関係が無いが、美術館を襲撃する過激な団体の姿を見ると、そんな気がしてくるのだ。
春・夏の甲子園で活躍した高校球児たちの、将来と言えば「プロ野球から大学進学もしくは社会人野球」という選択肢しかなかった。
それが、新たな選択をしようとしている高校球児がいる。
夏の甲子園でベスト8に進出しながらも、準々決勝で敗退した花巻東高の佐々木麟太郎選手だ。
朝日新聞:注目の強打者、花巻東佐々木麟太郎は米国の大学へ プロ志願届出さず
今年の夏の甲子園で優勝を果たしたのは、神奈川代表の慶応高校だった。
そして、慶応高校の選手たちはプロへは行かず、大学へ進学するだろうと、言われている(ようだ)。
理由は、説明するまでもない。
彼らは、偏差値も高い慶応大学の付属高校の生徒たちだからだ。
そう考えれば、ほとんどの生徒たちは当然のように慶応大学へ進学するであろう、と想像できる。
一方、甲子園という晴れ舞台で活躍した高校球児たちの多くは、「いずれはプロ野球選手」という夢を抱いている生徒たちも、数多くいるはずだ。
だからこそ、プロ野球球団のスカウトの目に留まるような、活躍をしたい!と願い、日々努力をしている生徒たちがいるはずだ。
プロ野球は無理でも、社会人野球で活躍することを考えている生徒もいるかもしれない。
高校球児たちにとって、高校3年の秋は「自分の進路(どころか人生)を決める季節」でもある。
30年ほど前には、ドラフト会議で自分が希望するプロ野球球団から声がかからず、辞退をする球児もいたし、希望通りではない球団に入団し野球の才をより大きく開かせた選手もいる。
その後「逆指名」と呼ばれる、選手側が「自分はこの球団に入りたい」とメディアを通して話をするようになり、球団側もその意向を汲むということも起きてきた。
「職業選択の自由」という点を考えれば、それはそれで良い傾向だと思うのだが、メディアが最注目する高校球児たちの進路選択肢というのは、ほぼこの3つくらいしかなかったように思う。
その選択肢に新たな選択をしたのが、花巻東の佐々木麟太郎選手かもしれない、と思ったのだ。
それが海外の大学へ進学するという、「留学」という選択だ。
「野球の本場・アメリカに渡る」というのは、既に日本のプロ野球で実績を積んだ選手に「許される選択」だった。
少なくとも世間では、そのように思い込んでいたのではないだろうか?
それに対して、確かに佐々木麟太郎選手は高校野球の実績はあるが、プロ野球を経験している訳ではない。
だからといって、すぐにメジャーリーグから声をかけてもらえるとも思えない。
勿論、昨今のメジャーリーグでの日本人選手の活躍から、メジャー球団も注目をしているかもしれないが、やはり日本のプロ野球の方が優先されるような感じがある。
そのような、これまでの「メジャーリーグで活躍したい」という思いのルートを、新しく開拓した(大袈裟な表現だが)という、気がしたのだ。
米国のカレッジリーグで活躍するだけではなく、勉学にも励む必要があるだろう。
「日本の野球」を外から見ることで、「良いところ・改善すべきところ」等も見えてくるかもしれない。
それらの経験を通して、野球選手としてよりも人間的な成長をしてほしいと、ご両親も願われたのではないだろうか?
米国の大学に進学する為の、ハードルは高いかもしれないが、是非成功して欲しいと願っている。
我が家にテレビが無いことと、野球そのものに興味がない為、「高校野球」そのものにも興味がなかった。
おそらく、今でもないと思っている。
興味が持てない理由の一つが「野球を通して優等生の姿を見せている」ような印象があり、高校時代優等生とは言い難かった自分とを比較してしまい、未だに好きになれずにいる。
その「優等生ぶり」に関連して、大人の期待以上に応えようとしているようにも見え、スポーツを楽しんでいるような印象が持てないのだ。
もちろん、甲子園で活躍するコトでプロ野球選手への道が開け、実際プロの道へと進む選手たちも少なくない。
その意味では「甲子園」という場所は、「野球選手のショーケース」のようでもある。
だからこそ、「よりよく品行方正に見せる必要がある」のかもしれない、と勝手に思い込んでいた。
ところが、今年の夏の甲子園は少しだけ違うようだ。
その1校が、神奈川県代表の「慶応高校」だ。
これまで、高校球児と言えば「丸坊主」が当たり前だった。
ところが、慶応高校の監督・森林貴彦さんは「野球は、髪型でやるモノではない」と、言い切っている。
Number Web:「髪を切ってから、出直してこい」というヤジも・・・今夏甲子園の”非坊主”校、慶応高監督が明かす”高校野球の嫌なところ”「皆、甲子園中毒になっている」
まさに私が「嫌だな~」と感じていたのが、この「甲子園中毒」だったのだ。
そして、軍事教練でもないのに「丸坊主」を強要する不思議さを感じていた。
そこにあるのは、これまでメディアが作り上げてきた「高校球児のさわやかさ、真面目さ、穢れの無さ」のような、崇高なイメージにがんじがらめに縛られた、大人の価値観ということなのだろう。
それらの価値観の押し付けが、野球をする生徒たちを野球というスポーツから遠ざけてしまっているのかもしれない。
もう一校が、静岡県代表の浜松開誠館高の話題だ。
Number Web:なびく髪、週休2日制、異色のユニフォーム・・・甲子園初出場・浜松開誠館の「高校野球離れ」した柔軟さ 元プロ監督は”筋肉>技術”改革に着手
この高校も、これまでとは違う発想の監督さんを招聘し、甲子園に出場している。
注目すべきは「元プロ監督」という肩書だろう。
これまで、高校野球はいわゆる「プロ」と呼ばれる人たちからの指導を受けない、とされてきたように思う。
そのタブーを破って、「プロ」と呼ばれる人財を監督に置き、「野球」というスポーツを、「学校教育の一環」ではないモノとしてとらえているように感じるのだ。
この背景にあるのは、おそらく学校教員に対する様々な仕事を負わせているという問題の指摘だろう。
そもそも「部活」の意義は?「全員参加」を目標とする学校もある(私は中高と「帰宅部」だった)。
スポーツに興味がない生徒、スポーツが苦手な生徒に「(スポーツの)部活に入れ」というのは酷だと思うし、「部活を通して人間性が豊になる」わけでもない。
確かに、一生の付き合いとなる友人などとの出会いの機会となることもあるとは思うが、そのような生徒ばかりではない。
学校の先生の「教える時間の(為の準備の)無さ」等から、「部活指導は、教員ではない人に任せてもよいのでは?」ということが、ここ2,3年言われるようになってきた。
それを実勢したことで、これまでのような「気合と根性」的指導から脱却した指導を行った結果、甲子園初出場となり2回戦進出となったのだろう。
慶応高校も浜松開誠館高校も私立高校である、という点である程度の自由さをもって監督選びや指導ができたのだろう。
公立高校では、実現することは難しいことかもしれない。
ただ、「高校球児を見る視点」を替えるだけで、日本のスポーツ文化は変わっていくような気がする。
昨日のTwitterでのトレンドワードに、「#病院の待合室」がランクインしたという話題があった。
他にも「#中日ドラゴンズ(または#中日)」というワードも上がっていたようだ。
理由は、ご存じの通り昨日の朝、米国のマイアミで行われたWBCの優勝決定戦だ。
「病院の待合室」というのは、来院した患者さんや付き添い家族の方々が、待合室に置かれているテレビがWBCの試合中継を流していたため、診察が終わった患者さんたちが帰ることなく、試合中継を見守りその状況は、テレビ放送の黎明期の「街角テレビ」でのプロレス中継以上の盛り上がりだったことからtweetされたものだった。
もう一つの「中日ドラゴンズ(または中日)」というのは、WBCの開幕前に行われた練習試合で日本代表チームが唯一負けた対戦相手が、中日ドラゴンズであったため、「もしかしたら、日本代表を負かした中日ドラゴンズは世界一?」ということで、tweetされたということのようだ。
試合結果については、ご存じの通りで3‐2で日本が優勝。
優勝だけでも、凄いことなのに、WBCが始まってからどんどん「にわか野球ファン」が増えていった。
その状況は、昨年のサッカーW杯以上の盛り上がりを見せたのでは?という、印象を持っている。
というのも、WBC開催期間中、Twitterの話題の多くがWBCになっていたからだ。
tweetされている方を見ると、大活躍をした大谷翔平選手の親世代の女性たちが、とても多かった。
彼女たちは「にわかだけど…」と前振りをし、WBCのtweetをしていたのが印象的だった。
「例えミーハーと呼ばれても、一生懸命にプレーをする選手たちに声援を送りたくなる」というのが、彼女たちの弁だ。
おそらくこれほど日頃野球に興味がない(であろう)50代以上の女性たちを、惹きつけたというのはある意味エポックメイキング的な社会現象だったのでは?という印象を持っている。
彼女たちを夢中にさせたのは、試合展開だけではなく真摯に野球に取り組む選手たちの姿だった(ようだ)。
それは日本だけではなく、対戦相手の選手たちの姿も同じように感じ、日本を応援していても対戦相手国の選手たちにも、同様の声援を送るということでもあったようだ。
「#病院の待合室」のtweetの中には、「病院にきているけど、選手たちの活躍する姿を見て免疫力が上がった気がする」という内容もあったようだ。
勝敗の結果、優勝という結果だったからというよりも、選手たちの野球に対する紳士な姿を見て「恋をした」ような心境だったのかもしれない。
この「恋をしたような気分」ということは、とても大事でこのような気持ちが泣ければ「ファン」にはならない。
例えにわかファンであっても、WBCの試合中継を見ている間は、ある種の「幸福感」を得ているからだ。
もし、予選の試合で大敗するようなコトがあれば、これほどの盛り上がりはなかっただろうし、にわかファンとなる50代以上のの女性たちを獲得することはできなかっただろう。
ただ、予選で敗退していれば、その「がっかり感」は「失望」となり、今後の野球人気にも影響を与える事になったかもしれない。
例えそのような状況であっても、様々なスポーツがテレビ中継され、その中継を見る人がいれば社会にとってプラスとなる何かを与えているのでは?と、考えている。
プラスとなる何か、というのは社会に「応援をする」という、能動的な行動を起こすことで起きるものだ。
それがスポーツという限定であっても、能動的行動は社会を動かす力となる。
時には「連帯感」のようなものを生むこともあるだろう。
その「連帯感」が、他者を排除するようになってしまえば問題だが、スポーツの場合排除よりも他者の受け入れという行動に繋がっているように感じる。
スポーツが社会に与えるものは何か?と考えた時、ある種の社会的幸福感や能動的連帯感のような気がする。
それを実感させてくれたのが、昨日のWBCの試合だったのではないだろうか。
今日の午後行われた、北京オリンピックの男子フィギュアスケートのフリー。
SPでは、氷に足をとられ?思いがけず、7位という成績になってしまった、羽生結弦選手。
フィギュアスケートのファンならずとも、羽生選手の活躍を期待していた人たちが、国内外を問わずいたことだろう。
羽生選手自身が、どのような気持ちで今日の演技に向かわれたのかは、わからない。
ただ、果敢に4回転アクセルに挑戦をし、着氷に失敗し転倒したとは言え、世界で初めて「四回転アクセル」を認定されることとなった。
その挑戦し続ける、というアスリートとしての姿勢は、多くの人たちに感動を与えただろうし、キッチリと順位を上げ4位入賞というのは、とても立派な成績だったのではないだろうか?
もちろん、本来の羽生選手の実力をもってすれば、金メダルを獲っただろうが、「オリンピックには魔物がいる」といわれるように、予想していないことが毎回起きている。
ソチ大会の時は、浅田真央さんが「どうしたの?」と心配するほどSPでは不調のように思えた。
しかし、フリーの演技では多くの人に感動を与えるほど、素晴らしいもので今でのYouTube上には、当時の浅田真央さんの動画を見ることができるほどだ。
その男子フィギュアの結果が出た後、なぜかテレビなどでは羽生選手の失敗映像が度々流れる、とTwitterの友人がつぶやいていた。
その方は、「失敗した映像よりも、四回転アクセルを成功させた映像がたくさん見たいのに…」という気持ちだったようだ。
そのtweetを見て、全てではないが日本のスポーツ映像では、なぜか失敗とか厳しい状況に置かれた映像を、繰り返し流す傾向があるように感じることがある。
その理由を考えると、「失敗から成功」というストーリーを見せているのかな?という気がしたのだ。
しかし、メディアが考える「失敗から成功」という、まるで「お涙頂戴サクセスストーリー」のような構成の映像を、生活者は見たいのだろうか?
今回の羽生選手の場合、4回転アクセルの着氷→転倒というのは、失敗シーンなのかもしれない。
同じシーンを流すにしても、視聴者が「果敢のチャレンジする羽生選手は、やはり凄いな~」と感じさせるようなコメントや映像編集を、生活者は期待しているのではないだろうか?
ここ数年感じることなのだが、メディア側が考え・出す内容と生活者の感覚が、大きくずれ始めているのでは?
今回の羽生選手の場合、北京に入るのが遅かったのか?まるで不参加のような表現を一時期していた。
おそらく事前にフィギュアスケートの協会などには、事前に連絡をしていただろうし、開催をする側は把握していたのでは?と、想像をしている。
取材をすれば判るのでは?と思うのだが、「不参加なのか?」と、随分騒がれたような気がしている。
そして、ジャンプ団体で失格となった高梨選手についても、彼女が泣き崩れる場面が数多く流れているように思う。
ドーピング違反ではなく、ウェアの問題であり、高梨選手以外にも4人の選手が同じ理由で失格となっているにも拘わらず、メディアに登場するのは高梨選手ばかりだ。
その結果?高梨選手がSNSで謝罪することにまで、なってしまっている。
高梨選手を責めても意味がなく、一番傷つき悔やんでいるのは高梨選手自身なのに、これでもか!というくらいの報道をしている感があるのだ。
メディア側は「決してそんなことを考えているわけではない」といわれるかもしれないが、そのような報道が、より高梨選手を傷つけているのではないだろうか?
オリンピックという晴れの舞台に立つ選手たちは、その日のために様々な努力をして来ている。
「悪いことには悪い」と、メディアが言う必要があると思うのだが、予期せぬことで実力が十分発揮できなくて、一番悲しく悔しい思いをしているのは、誰でもないアスリート本人である、という考えをもって報道をしてもらいたい、と思うのだ。
今回の東京オリンピックで、これまでとは違う光景が幾つも見られた。
その一つが、新種目となったスケートボードだ。
特に10代の選手の活躍が目立った、スケートボードでは優勝候補の筆頭に挙げられていた選手が、大技に挑戦し失敗したためメダルを取ることができなかった。
にもかかわらず、メダルを獲得した選手だけではなく、参加した選手たちが駆け寄り抱き上げる、という場面があった。
J-castJニュース:涙のスケボー岡本碧優を「ライバルたち」が、抱え上げる 五輪競技後の写真に反響
スケートボードのようなスポーツとしての歴史が浅く、指導者たちの年齢も他の競技と比べ若いスポーツでは、このような「結果」ではなく、競技そのものについて選手たちが互いに讃え合う、という場面が見られた。
スケートボードのような新しいスポーツだけではなく、今回が初めてとなった「空手の演武」等は、試合後相手コーチに対して挨拶に行くなど、「空手」というスポーツファミリーのような場面もあった
日本の様に「勝利至上主義」的なスポーツ思考が強い国では、ある意味新鮮な驚きとなる場面だったはずだ。
これはJOC理事をされていた山口香さんがスポーツ紙に「本来の五輪の精神を体現している」とコメントをされていることでもある。
スポニチ:山口香氏「本来の五輪の精神を体現した」と感じたシーンとは…「スポ根から脱却するのかな」
メディアが「本日もメダルラッシュになりました」と、メダルの獲得数を報告するよりも、ラグビーでいうところの「ノーサイド」の精神をいくつもの競技で見ることができたことは、オリンピックという「勝敗を決める場」ではなかなか見ることができなかった。
トランスジェンダーの選手が出場が認められた、という点も今回の東京オリンピックは画期的であった、と思う。
もちろん、男性から女性へ性を変えた選手が、ウェイトリフティングのような競技に女性として出場するのは、いかがなものか?という、問題提議はあっても良いと思う。
むしろ、そのような問題がクローズアップされることで、競技そのものの形態が変わっていくことになるかもしれない。
そして、高飛び込みでメダルを獲得したイギリスの選手は、競技ではない所でも注目を浴びることになった。
同じイギリス代表の選手たちの競技を見ながら、観客席で熱心に編み物をする姿がテレビ中継等でとらえられていた。
最初は「男性が編み物?」と、いぶかしがる方も多かったのではないだろうか?
出来上がった作品を見ると、手編みの上手な方が編んだカーディガン。
ユニオンジャックと日の丸のついた「メダルを入れるポーチ」まで、編んでいらっしゃった。
実は、男性で編み物をされる方は、以前からいらっしゃった。
作家の故・橋本治さんは、編み物の本を出していらっしゃったし、NHKの「すてきにハンドメイド」の編み物だけではなくビーズ刺繍等も男性講師が10年位前から登場されている。
イギリスの選手は、自分にとって「集中と癒しの時間」として、編み物をしていただけであった、ということが分かりこれから「編み物は女性のもの」という、世間の見方が変わっていく切っ掛けとなるかもしれない。
そもそも趣味の領域のものを、女性・男性と区別すること自体、ズレているのでは?という、ことを気づかせてくれたような気がする。
このような「勝利至上主義からの脱却」や「LGBTとジェンダーの問題」等、もしかしたら「東京オリンピック2020」は、エポックメイキング的な大会として後々言われるようになるかもしれない。
一昨日、昨日と、東京オリンピックの中継で多くの人が、印象に残ったのでは?と感じたのが、空手の形だった。
「空手」そいうスポーツが、沖縄発祥の地ということも初めて知ったし、組手で勝負をする「空手」とは違う、迫力と一つひとつの動きの力強さとしなやかさのようなものを感じた方は多かったのではないだろうか?
というのも「空手の形」そのもののを見たことが無い、という理由が大きいと思う。
そして「空手・形」を見ながら、思ったことがある。
それは平成20年から、教育指導要領で「体育の授業で武道が必須」になったため、多くの学校が柔道の授業を行うことになり、実施校が増えれば増えるほど、体育の柔道の授業中に起こる事故が急増していることを考えれば、空手・形の授業を行ったほうが良いのでは?と、感じたのだ。
柔道の授業で事故が多い理由として挙げられるのが、「柔道を教えることができる体育教師がほとんどいない」という点にあるという指摘がある。
確かに、背負い技や寝技等数々の技があることは知っている。
そしてそれらの「技」を受けるにしても、掛けるにしても、それなりの指導者の元で行わなくては、事故の元になるのでは?と、素人目から見てもわかる。
Livedoor News:柔道で亡くなる中高校生が出るのは日本だけか 海外との「決定的な違い」
とはいうものの、学校の授業で柔道を教えることができる柔道経験者は圧倒的に少ないだろうし、全国の柔道強豪校と呼ばれる学校の多くは、元々柔道の大会等で実績を残している経験者で、学生時代既にそれなりの試合経験がある教師が、指導しているはずだ。
インターハイ等の常連校等を見てみると、そんな気がしている。
しかし多くの学校、特に公立学校では、そのような柔道経験のある体育教師が、教鞭をとっているわけではない。
バレーボールやテニス経験者が、柔道の指導をするというケースもあるのでは?
そのために、授業中に事故が起きているのだとすれば、それでは「体育の授業に武道をする意味がない」ということになる。
そもそも「武道=柔道」と決まった訳ではないのに、何故か?柔道を武道の授業に選ぶ学校が多いのは、柔道が剣道等と違い道具を必要としないからなのでは?と、考えている。
であれば、「空手の形」も同じなのでは?
もちろん、そのためには外部から指導者を招聘する必要があると思う。
学校の体育の授業で行われている、柔道の事故を減らすためには、専門の指導者による授業が一番良いのでは?という指摘が、以前からあることを考えれば、「空手の形」も同じ条件なのでは?
まして「空手の形」は、仮想の相手と戦うために、組手による事故は無くなる。
何より、オリンピックで見られた「礼を大切に試合に臨む」という姿勢は、「武道」の授業に合っているのでは?
そもそも、体育教師だからと言って、すべてのスポーツが得意な訳ではない。
それぞれの得意な分野があり、それらの指導を「部活」という場で行ったほうが良いのでは?
もしくは、それぞれのスペシャリストを、授業に合わせてきてもらう方が、安全な体育の授業が行われるような気がするのだが…。
「体育の授業における武道の授業」については、柔道でなくてはならないと書いてはいないと思う。
であれば、個々の学校の事情に合わせて、学校側が「武道」を選ぶ必要があるはずだ。
23日、東京オリンピックの開会式があった。
この開会式をめぐっては、様々な問題がクローズアップされた。
そして分かったことは、「東京オリンピックが利権イベント」であった、ということだ。
特に、開幕直前に発覚した、開会式のイベント関係者の醜悪な過去については、当初は続投を表明していた組織委会だったが、海外のメディアが報道したことで、関係者の辞任や解任ということになった。
それは同時に、「何故この人が選ばれたのか?」という疑問を国民に知らせ、結果「様々な利権と思惑」で東京オリンピックが運営され、そのために巨額のお金が投入されている、ということが判明したのだった。
おそらく「東京オリンピック・パラリンピック」の後に予定されている、「大阪万博」もまた、同じ構図の「利権イベント」に終始するのでは?という、気がしている。
ただ、そんな事が無かったかのような、新聞やテレビ、ラジオの「オリンピック報道」を視聴していると、参加しているアスリートたちの活躍とは別に「何だか、感動の押し売りみたいだな~」と、天邪鬼な私等は感じてしまうのだ。
これらの問題は、参加しているアスリートたちの問題ではない。
その点だけは、ハッキリさせておきたい。
ただ、必要以上の感動話をつくろうとするメディアに、辟易としている、というだけなのだ。
と同時に、IOCやJOC関係者などが「オリンピックが始まってしまえば、人はスポーツの素晴らしさに感動し、コロナに関連するネガティブなコト等忘れてしまう」と言った趣旨の言葉を、思い出すのだ。
その言葉通り、上述した通りメディアは「メダル獲得選手の感動話」をつくるために、家族や関係者を引っ張りだして、お涙頂戴のような演出をする。
メダルを獲得した選手や家族、関係者が感涙するのは当然だと思うし、そのために汗や涙を流した日々を思い出す事もあるのは、当然のことだろう。
そこにクローズアップしすぎると、期待されながら結果を残せなかった選手たちはどんな気持ちになるのだろう?
かつてマラソンランナーの円谷幸吉さんは、そのプレッシャーから「もう走れません」と遺書を残し、自死をしている。
円谷さんほどではないにしても、日本はオリンピックになると、国を挙げて選手にプレッシャーをかけ続ける、という傾向が強い(ように感じている)。
そのため「オリンピックを楽しみたい」等と、選手が発言をすると「けしからん!」となるのだ。
選手と自分たちとは、全く別であるにもかかわらず、どこかで「同一化」したような感覚を持ってしまうのだろうか?
と同時に、このような「感動」は、一種の「同調圧力」のような社会的雰囲気を、つくりだしてしまう。
ヒットラーが、プロパガンダとしてオリンピックを利用したのは、有名な話だが、プロパガンダではないしても「オリンピックで感動しないのは、おかしい」という社会的雰囲気に包まれるように感じるのだ。
今回は「コロナ禍」という中でのオリンピックだ。
「コロナ禍」によって、仕事を失ったり経済的に厳しい状況に追いやられた人たちも、数多くいる。
そのような人たちにとって、オリンピックそのものを手放しで楽しめる環境ではない、ということも、心にとどめてメディアは報じて欲しい。
今月に入り「東京オリンピック・パラリンピック」開催是非についての動きが、加速している。
「中止のデモが行われた」というニュースがある反面、「東京オリンピック」の模擬的な陸上イベントが行われたり、IOCと組織委員会は開催に向けての歩みを止める気配はない。
まさに「混沌」とした状態が、開催日を100日切ってから続いている、という状況だ。
IOCと組織委員会は「(新型コロナ感染の)危険性を排除し、開催をする」と言っているが、それが本当に実現できるのか?という、疑問は日本国内にあるはずだ。
何故なら「新型コロナ」の感染拡大に歯止めがかからず、昨年の今頃よりも日々状況が悪くなっているからだ。
だからこそ、感染拡大が急速に増え続けている自治体に対して、「緊急事態宣言」が発令され、飲食店や映画館、図書館などは営業時間の短縮要請や閉館の要請がされているのだ。
そのような状況の中で、IOCや組織委員会、日本政府の発言をみて「現実が見えていない」と、感じる生活者は多々いると思っているのだが、反面IOCや組織委員会、日本政府が「オリンピック・パラリンピック」というスポーツイベントに対して、見えている「風景」が違うために、このような意見の相違が起きるのでは?という気がしている。
IOCと組織員会の考えの中心に、「開催しないことで起きるリスク」があるのでは?という気がしたのだ。
「開催しないことで起きるリスク」というのは、テレビの放送権に対する違約金のようなものが中心だろう。
他にも、スポンサーへの違約金も発生するかもしれない。
とは言っても、スポーンサーへの違約金は、リオオリンピック終了直後から東京オリンピック・パラリンピック絡みでテレビCMなどを制作し、相当量のテレビCMを流し、「聖火リレー」でもスポンサー企業のAD広告をプリントしたトラックが、聖火ランナーを取り囲むように並走し、それがニュースとして流れれば「対費用効果」はあったのでは?と、判断されるかもしれない。
そしてもう一つ気になるのは、「万全な対策をすれば開催ができる」と考えているのでは?という点だ。
毎日新聞:世界陸連会長「五輪開催、厳しい状況だから意味がある」
世界陸連のセバスチャン・コ―会長の言葉の揚げ足取りをするつもりはないのだが、コー会長が言う「世界各国から300人が参加したした世界リレーで、陽性者が出なかった」というのは、選手とその関係者という限られた人たちのことを指しているのだと思う。
しかし、オリンピック・パラリンピックとなるとその規模も人数も、桁違いに多い。
それだけではなく、競技種目も多くメイン会場となる国立競技場には、常に人が入れ代わり立ち代わりし続けている。
その中には、ボランティアや報道メディアのような競技とは関係のない人たちも含まれている。
この報道メディアに対して、丸川五輪相は「海外の報道関係者は、決められて場所以外には行かない」と説明をしている。
朝日新聞:海外の五輪報道陣「うろうろ絶対ない」丸川氏が断言
現時点で「うろうろ絶対ないようにします」と、言い切ってしまうことに驚くのだが、選手を除くオリンピック・パラリンピック関係者の発言があまりにも楽観すぎて、逆に「本当にこの人達に任せて大丈夫なのだろうか?」と、不安を感じてしまうのだ。
イベントを主催する側にとって、何らかの事故が起きるということが、最大の懸念材料のはずだ。
だからこそ「最悪の状況を想定して、最善の対応策を練る」必要があるはずなのだ。
にもかかわらず「最善の対応策」となる具体性はなく、「最悪の状況」も想定していないように感じる「温度差」こそが、「東京オリンピック・パラリンピック中止」の声であり、「万全の体制で安心・安全なオリンピック・パラリンピック開催」の違いのような気がしているし、この違いの溝は埋まることが無いように感じている。
このGW中に「いまだに、気合と根性でオリ・パラが、開催できる」と、信じている人がいるのだな~と、驚いた。
産経新聞:安倍前首相、東京五輪「オールジャパンで対応すれば開催できる」
掲載しているのが産経新聞なので、おそらく安倍前首相の言葉は本当だろう。
そして「オールジャパンで対応すれば開催できる」という趣旨の記事を見た時、いまだに「気合と根性で乗り切れる」という発想なのか?!と、唖然とした。
おそらくこの発言は、その前にあった菅首相の「オリ・パラ開催時には、休んでいる看護師の方々に協力してもらえば、500人位は集まると考えている」という趣旨の発言をしたコトを受けての話だろう。
オリ・パラに関する医療者の協力というのは、このほかにもスポーツドクター200人のボランティア要請、という話もあった。
そのような経緯があったからこそ、安倍前首相の口から「オールジャパン」という言葉が出たのだと思う。
それにしても、いつの頃から日本の政治家は「第二次世界大戦末期のような思考」に、なってしまったのだろう?
今日本の政治を動かしている人たちの言葉は、「欲しがりません、勝つまでは」に近いような気がしている。
とにかく具体的な手立てを示すことなく、昨年から一貫して口にしている言葉は「自粛のお願い」だ。
やっとワクチンの話も出てきているが、何故か?国産ワクチン製造を推し進めるような事も無いまま、海外の製薬メーカーのワクチンを輸入する事になっている。
そして、ワクチン接種に関しては、各自治体に丸投げ状態だ。
元々基礎研究に強みを持つ日本であれば、製薬会社の垣根を超えた体制で「国産ワクチン」の製造を目指すと同時に「治療薬」の研究開発に資金提供をしたほうが、遥かに有益だったと思うのだ。
それを「Go To キャンペーン」に1兆を超える予算をつけ、「新型コロナ」の感染拡大を推進してしまった。
どう考えても、今政府が積極的に予算を投入すべきは、医療現場と医薬品産業のはずだ。
にもかかわらず、国民に向け発せられる言葉は「良心的社会行動」と「気合と根性」のような印象を受ける。
しかし、その「良心的社会行動」と「気合と根性」も、1年続けば我慢の限界を超えてしまうし、政府の失策が続けば、政府に対する信頼は無くなっていく。
そもそも、「仕事をしていない看護師が、数多くいる」ということと、「オリ・パラでボランティア活動ができる看護師が、数多くいる」は、同じ意味ではない。
深く考えなくても分かりそうなことを、首相たる人物が分からない、ということが不思議なのだ。
周囲にいるはずの官僚の方々も、そのことに気づかなかった、ということだろうか?
これらの発言から感じ取れるのは、「国民の事など考えてはいない」ということだろう。
そして開催にこだわる理由があるとすれば、「自分がオリ・パラを開催した時の首相である」という、自己満足のような気がしてくるのだ。