今日でいよいよ今年も終わり。
昼間、熱田神宮で行われた「大祓」に行ってきた。
「大祓」は、知らない間についてしまった穢れを祓う、という意味の神事なのだが、1年を通して個人的にはいろいろなコトがありすぎた年だった。
そのようなコトもあり、熱田神宮での大祓に行ってきたのだった。
気分一新ということではないのだが、来年は良い年になって欲しいな~と思いながら、Huffpostを見ていたら、世界から日本が期待される年になるのかも?という、印象の記事があった。
Huffpost:ガザを「引き続き注視」の態度で良いのか ジェノサイド予防の研究者が考える「砦」の日本が目指す立ち位置
実は、中東の国々にとって日本という国は、親しみのある国として挙げられる事が多い。
いくつかの理由が考えられるのだが、一つは「宗教的理由」が挙げられるだろう。
日本の場合一神教ではない為、宗教そのものに対して寛容と言われている。
確かに、お正月に神社に行き、お盆にはお寺、クリスマスには教会…と、宗教に縛られない生活をしている。
今日出かけた熱田神宮にも、イスラム教徒と思しき女性グループを見かけたが、行きかう人達は気にすることなく歩いていた。
そして驚くべきことに、熱田神宮に参拝するのではなく、境内にある大楠に向かってお祈りをしていたのだ。
だからと言って、誰一人咎める人はいないし、不思議な視線を浴びせる人もいなかった。
この大楠には、来年の干支である蛇がいる、と言われている。
流石に冬の寒さで姿を見せることはないが、春先になると蛇を見ることがある。
イスラム教徒である彼女たちが、大楠の蛇にお祈りをする理由は不明だが、「祈り」という視点で考えれば、寛容な文化を持っている国が日本であり、世界でもこのような文化を持っているのは、おそらく日本だけだろう。
もちろん、石油産出国にとって日本は大事な輸出国ということもあるだろうし、他の先進技術等に対しても興味があると思われる。
そこには、長いあいだ日本の商社マンをはじめとする日本企業のビジネスマンが、信頼関係を築いてきた。
欧米とは違うビジネス慣習によって、日本は中東諸国と良好な関係を築きあげた結果、今問題となっているパレスチナとイスラエル、および周辺諸国との関係修復に対する期待がされる、ということは随分前から言われてきたことだ。
そして再び、その期待が日本に向けられている、ということなのだと思う。
他に考えられることは、来年米国ではトランプ政権が復活する、という点もあるだろう。
以前からトランプ氏の考えの中心は「自国主義=アメリカ中心主義」と言われてきた。
既に「世界の警察ではない」ということであれば、武力以外の方法でガザの問題を解決していかなくてはならない。
現在欧州は、ウクライナ・ロシアという問題を抱えている。
日本も対中国や台湾という問題を抱えているが、対中国となると経済的な面で対米国ということも関係してくる。
これらのことから「ジェノサイド=集団的殺害」を止めることができるのが、日本なのでは?ということなのだろう。
「ジェノサイド」は、人的殺害だけではなく、人が守らなくてはならない固有の文化も含まれるようになってきた。
集団的殺害によって、殺害された側の人たちの文化が失われる、というだけではなく自国文化を捨てさせるような教育や制裁を行うことも、今では含まれるようになってきている。
だからこそ、日本文化が持つ「寛容さ」が注目されるようになるのでは?
そして、来年はそのような「国際社会の中での日本文化の寛容さ」が、世界に貢献できるようになって欲しいと願っている。
拙ブログにお越しくださる皆さま、良いお年をお迎えください。
昨日だったか?石破首相が何やらぼやいているそうだ。
産経新聞: 「新聞は褒めてくれない」「ネットを見たら悲しくなる・・・」石破首相ガボヤキ節
この記事を読んだとき、「あ~~、石破さんが首相で良かったかもしれない」という気がした。
確かに、故安倍首相に比べ、強いリーダーシップが感じられない、というのは多くの有権者が感じていることだろう。
そして「強いリーダーを求める」という社会の現状もわかる。
というのも、生活者が社会に対して「不安定感」を感じる時に、「強いリーダー像」を求めやすい傾向があるからだ。
今の日本は、経済は衰退の一途をたどり、社会保障費も実質的には下がり続けている。
多くの生活者は、日々の生活の中に「不安」を持ち、その「不安」が「不満」へと変わりつつある、と感じている。
「失われた30年」と言われ続け、その闇のようなトンネルから、いつまでたっても抜け出せそうな雰囲気すらない。
にもかかわらず、様々なモノが値上がりし、その上増税の話まで出てきている。
生活者の暮らしは、日々お金のやりくりの戦いなのだ。
この状態の時に、生活者にとって「起死回生の一打」となるような政策が打ち出せれば、良いのだろうが、今の政治も官僚にもそのような政策を打ち出すことができていない。
だからこそ、「褒めてくれない」し「SNS等で批判的内容」を、数多く見ることとなり「悲しくなる」のだろう。
おそらくご本人は、「こんなに一生懸命にやっているのに!」という思いがあるからこそ、このようなボヤキが出てくるのだと思う。
だからこそ、多くの国民の声に耳を傾ける、ということが必要なのでは?
「褒められない」という現状を無視して、生活(者)を犠牲にするような強引な政策を推し進めるような国のトップを、誰も望んではいないのだ。
まずそのことを、石破首相には考えてもらいたいのだ。
政治が強引に推し進められようとするとき、社会ではどのようなコトが起きるのか?と言えば「全体主義」的な思考が、自由でイノベーティブな考えを押しつぶしてしまう。
そのような事例は、歴史を見ればいくつもある。
そしてその結果「独裁者」を生み、一つの国だけではなく周辺諸国を巻き込むような、悲劇を引き起こすことになるのだ。
日本の「失われた30年」から脱却するためには、まず風通しの良い政治が必要だと思う。
その第一歩として、石破首相は「褒めてもらう」ことを考えるのではなく、「褒められる為には何が必要なのか?」ということを考えてもらいたいのだ。
それはとりもなおさず、「国民の声を聞く」ということであり、それこそが「民主主義」の始まりなのでは?
自由闊達な社会から、社会を変革するようなイノベーションが起きてくる、ということは過去の事例を見ればわかることだ。
その為には、「平和な民主主義」社会でなくてはならない。
その基本というか、原点に戻るつもりで「褒めてくれない」ことに、耳を傾けることをされてみてはいかがだろう。
日本時間の昨日、ノーベル賞授賞式が行われた。
各部門の受賞者たちが、受賞スピーチをすることが慣例になっている。
世界でただ一つの核兵器による被害国であり、長い間「核兵器廃絶」を訴えてきた、日本被団協の受賞スピーチは万雷の拍手が送られたようだ。
Reuters: 「次の世代が運動の継承を」日本被団協、ノーベル平和賞受賞演説 「核のタブー」弱体化に危機感
日本の報道機関のニュースサイトでは、Reutersほどの動画が無かった(あるいは、有料サイトとなっている)為、全スピーチを見ることができないのが、残念だ。
このスピーチには、広島・長崎で起きた被ばく体験の話だけではなく、現在も世界で進行している様々な紛争や戦争に対しても、言及している点がとても今日的である、という点でも大きな意味を持っていたのでは?と、感じている。
ただ被爆国・日本にとって、このノーベル平和賞の受賞は手放しで喜べるモノなのだろうか?
それを考えさせられるのが、授賞式でスピーチをした田中さんの「日本政府は、原爆犠牲者に対して補償をしてこなかった」と、2度繰り返した点だ。
焦土と化した戦後の日本において、犠牲者に対する政府としての補償など、手が回らなかった」ということもあるだろう。
被爆者に対して「被爆者手帳」の交付により、医療費などの優遇措置も、一つの「政府補償」と言えるのかもしれない。
戦後の日本において、被爆者や被爆者家族が社会的差別を受けた、という事実もあったはずだ。
何より、この時多くの親を失った子供たちの人生に何等かの補償をしてこなかった、というのもまた事実なのでは?
それを言ったら「戦争孤児全てが対象となるべきだ」という、考えも起きてくるだろう。
その事実が、今現在も世界で進行している市民を犠牲にした紛争や戦争の将来のツケともいえるのでは、ないだろうか?
一部の大人たちの都合によって多くの市民の生活が失われ、多くの犠牲者は生活力を持たない子供たちでもある。
その子供たちの未来の補償をどうするのか?
そのような想像力が、世界の権力者たちに求められているのではないだろうか?
世界が武力による不安が高まる時だからこそ、ノーベル賞委員会は、被団協を平和賞に選出したのではないだろうか?
今一度、核兵器に頼らない人間の英知による平和的解決が、未来への補償となる、ということを真剣に考える必要があると、ノーベル平和賞を訴えかけているように思うのだ。
SNS界隈で話題になっているらしい「万引き自慢」。
ことの発端は、ある音楽評論家の方のプロフィールからだった。
Modelpress:音楽評論家、突如レコード万引きの過去を語り出して炎上「犯罪自慢ダサすぎる」と怒りの声も…
この音楽評論家のプロフィールを拝見すると、私と同世代ということが分かった。
とすれば、おそらく聴いてきた音楽なども似たようなモノだったのだろうな?と、想像がつく。
中学・高校と洋楽ファンであった私だが、欲しいレコードがあるからと言って万引きをする、という発想は一ミリも無かった。
というよりも、音楽そのものが好きでその音源であるレコードはとても大切に扱うべきモノだったし、大切なモノだからこそ自分のお小遣いで買いたかった。
もちろん、限られたお小遣いから自由に買える訳ではないので、1枚のレコードを買うことそのものもアレコレと考え、買っていた。
だからこそ、欲しかった1枚のレコードを手にしたときの嬉しさは、とても大きく大切に聴き込んだものだ。
今のようなサブスク時代の聴き方とは、全く別の聴き方をしていた時代でもあったのだ。
だからと言って、サブスクで音楽を楽しむコトを否定する気はないし、とても便利な時代になり好きな音楽を好きなだけ楽しむことができることが、うらやましいと感じることも多々ある。
そして気が付いたのだが、時折このような「若いころ、こんな悪いことをしていたんだぜ!」というような、「昔の不良自慢」をするオジサン(時にはオバサンもか?)が世間をにぎわす。
「にぎわす」というよりも、「炎上する」といった方が良いのかもしれない。
「炎上」理由は、「不良自慢の内容」が、「窃盗」であったり「恐喝」や「脅迫」といった、犯罪行為だからだ。
簡単に「万引き」や「いじめ」と言っているが、「万引き=窃盗」であり、「いじめ=恐喝や脅迫」といった、れっきとした犯罪であり、被害者の立場に立てば、許されるべきことではない。
にもかかわらず、何故「昔の不良自慢」をするのだろう?
その心理は、どういったことなのだろうか?
アゴラ:男はなぜ「オレって昔はワルでさ」みたいな自慢をするの?
アゴラで紹介されている記事は、半分書籍のPRを兼ねているとしても、どうやら「昔の不良自慢」の背景には、「不良をしていた頃の自分は、カッコよかった」という思い込み心理のようなモノがありそうだ。
それを単純に「男性脳」と言ってしまうことに、疑問もない訳ではないのだが、ある種の「征服欲」のようなモノなのだろう。
「何としても手に入れたい!」→「自分が手に入れなくてはいけない」→「手段を選んでいる場合ではない」という感じなのだろうか?
女性の場合は「マントを取りたい(=相手に対する支配欲)」ということなのかもしれない。
そう考えると、この「万引き自慢」をした音楽評論家の方は、還暦を過ぎるようなオジサンになっても、思考がお子様以下なのだろう。
むしろ、理性ではなく本能に近い感覚しか持っていないのかもしれないし、「相手を思う想像力(創造力)も欠如している」のだろう。
それで音楽評論(音楽を創り出した人や音楽を評論する)と名乗るのは、辞めていただきたい(というのが本音だ)。
昨夜、寝る頃にスマホの通知音が鳴り、何ごと?と思い画面を見ると、韓国大統領が「非常戒厳令」を出した、という内容だった。
その時は、「非常戒厳令」が出されたという事実だけで、その詳細が分かっていなかった様だったので、そのまま寝てしまった。
そして今朝、「あれからどうなったのだろう?」と思って、スマホのニュースを見ると、「非常戒厳令」が解除されていた。
思わずスマホの画面を見ながら「どういうこと???」と、つぶやいてしまったのだが、海外で「非常戒厳令」が出される時というのは、国内事情が大混乱に陥っている時に限られていた(ように思う)。
例えば、未曾有の大災害が起こり、都市機能が失われ、市民生活が大混乱に陥り政府も統制することが難しいと判断した時や、クーデターが起きた時だ。
とすれば、今回の「非常戒厳令」が出されたということは、韓国内でクーデーターでも起きたのか?ということしか、思い浮かばなかった。
その割には、翌朝には解除されるということも、異常な状況のように感じていた。
時間が経つにつれ、この「非常戒厳令」が出された背景が見えてきたのだが、それにしてもこの宣布の判断は早急過ぎたのでは?という気がしている。
朝日新聞:韓国大統領が「非常戒厳」を宣布 官僚の弾劾訴追で「行政府がまひ」
良く知らなかったのだが、現在の韓国は少数与党対野党、という状況になっているようだ。
与党が圧倒的多数であれば、強硬的な政治運営ができるし、それだけ大統領の政治的力も強くなる。
しかし少数与党という状況は、何事においても「野党との話し合い」が不可欠となる。
何故なら、それが「民主主義」の基本だからだ。
そこに、与党にとっての重要な後ろ支えとなる官僚が弾劾訴追を行う、ということになれば、一時期的でも政治は混乱するだろう、ということは暗に想像することができる。
問題なのは、だからと言って簡単に「非常戒厳令」を出す必要があるのか?という点だ。
実際、今回の「非常戒厳令」は国会で「解除要求決議」を突き付けられ、宣布後わずか6時間で解除されている。
深夜の宣布だったこともあり、おそらく韓国国内の生活者は、大きな混乱もなく今も過ごしているのでは?と、思っているのだが、「非常戒厳令」そのものは、軽々しく宣布するものではない。
上述したように、諸外国の例のように「国民(あるいは市民)の生活基盤が、自然災害で失われるような状況」か「クーデーターが起きた時」のような、国としての機能が失われ、国民(あるいは市民)の生活が危機的状況に陥った時、に宣布されるものだからだ。
尹大統領からすると、自分自身の政治家生命に対する危機的不安があったのかもしれないし、その官僚による弾劾訴追を支持していたのが韓国軍だったのかもしれない。
尹大統領からすれば「軍によるクーデーターが、企てられた」という、気がしていたのかもしれないのだが、それにしてもヒステリックな判断だったのではないだろうか?
ご存じの通り日本の政治も「少数与党vs野党」という状況になっている。
政治評論家の中には、「国会運営がスムーズにいかず、心配される」と言われる方もいらっしゃるようだが、「少数与党vs野党」という構図だからこそ、国会という場で現在日本が抱える様々な問題を真剣に議論できるのでは?
以前のような「自民一強」という政治は、民主主義という視点から考えれば、決して健全なモノではなかったのでは?
今回の韓国の尹錫悦大統領の「非常戒厳令」の宣布は、勇み足だったというだけではなく「民主主義とは何か?」ということを、改めて考えさせられる出来事だったように思う。
10月に兵庫県議会で、不信任を突き付けられた斎藤元彦さん。
斎藤さんが選んだのは、辞職をし再び選挙で兵庫県民から信託を得る、ということだった。
結果については、ご存じの通り。
斎藤元彦さんが再選され、何ごとも無ければ今後4年間、県知事としての職務を全うする、ということになる。
ここまでが、斎藤知事再選の大まかな流れ、ということになるのだが、再選されたとたん再び問題が起きている。
NHK ニュース:兵庫 斎藤知事 陣営のSNS運用 違法性否定認識示す
今回の出直し選挙に関して、斎藤知事がSNSを活用して、若い有権者層を取り込み、選挙に勝った!と言われてきた。
選挙期間中、そのSNSを使い斎藤さんは選挙に勝った!と、言われている。
このことから、今回の出直し兵庫県知事選は、これまでの選挙活動では、若い有権者を取り込むことが難しい、ということが分かる選挙結果だと言われている(拙ブログでも紹介済み)。
今や選挙であってもSNSを上手に活用することは、これまでのような辻立演説や選挙カーでの活動では、難しいということが分かった選挙でもあった。
かつて、米国でケネディー大統領候補とニクソン大統領候補の間で行われた「テレビ公開討論会」に好印象を与えた、ケネディーが勝ったということがあった。
そのようなコトがあってから、米国の選挙では「テレビ討論会」に力を入れるようになった。
テレビ写りから、討論会で着る衣装やネクタイなどの小物に至るまで、立候補者のパブリックイメージを良くし、対立候補者との違いを鮮明に打ち出すことで、選挙を優位に運ぶことが、選挙を左右する重要ポイントだという、認識が生まれたからだ。
とすれば、今回の斎藤さんのSNSの活用そのものは、次世代の選挙活動のやり方として、注目されるはずだ。
そして今回も疑惑は、そのSNSの運営を任せていたPR会社に報酬を支払ったのでは?というモノであり、それが選挙法違反になるのでは?ということのようだ。
確かに、選挙の支援はボランティア頼み、というようなところがある。
与党である公明党などは、支持母体である創価学会から人が動員され、動員されなくても自主的に有権者への声掛けなどを積極的に行っている。
果たして、そのような「ボランティア型の選挙支援」が、今後も続いていくのだろうか?
そんな疑問も感じている。
それにしてもこれほど、問題を起こす知事というのも珍しい気がする。
辞任理由となった「パワハラ問題」に関しては、きちんと調査をし、県民に報告する必要があると思う。
ただ、選挙活動に関してはこれまでとは全く違う流れをつくった、という点で各政党は考える必要があると思う。
明日から、マイナンバーカードに健康保険証の紐づけ(=マイナ保険証)が、本格的に動き出す。
と言っても、拙ブログに来てくださる方でマイナ保険証を持ち、そのマイナ保険証を持ち、使われている方はどのくらいいらっしゃるのだろう?
私自身は、マイナンバーカードそのものを持っていないので、当然マイナ保険証は持っていない。
理由は、これまでマイナンバーカードにまつわる様々な問題が、解決されたという報道がされていないからだ。
逆に、マイナ保険証に関しては、使いにくいとか暗証番号などを忘れたために、使えない高齢者が多い、等の話が数多く見受けられる。
このような報道を見る度に「マイナンバーカードにおける、政府の責任所在の無さ」を実感している。
そのため、「健康情報」という、極めて個人的情報の塊のような内容が流出してしまうのでは?と、不安になる、というのもマイナンバーカードをつくらない理由ともなっているからだ。
そのような不安を解消するどころか、今度は運転免許証もマイナンバーカードと紐づけさせる、ということが進んでいるようだ。
政府の考えとしては、将来的には国民生活にかかわる様々な情報をマイナンバーカードで一元管理する、ということなのでは?と、思っている。
なぜ生活にかかわる様々な情報を政府が一元管理しなくてはならないのだろうか?
流石に、スーパーでの買い物などに関しては関係ないと思うが、銀行や証券会社を通した個人資産を把握などの目的もあるのか?等、これまでマイナンバーを知らせてきた先を考えると、なんとも息苦しさを感じてしまうのだ。
個人が尊重されないというか、自由さが奪われそうな気持になってしまうのだ。
大袈裟な感じ方なのだとは思うのだが、矢継ぎ早に様々な個人情報の一元化を進めようとする政府に対して、その先にある政府の考えはどこにあるのだろう?と、気持ち悪さと怖さのようなモノを感じてしまうのだ。
この利用者が拡大していないと思われる「マイナ保険証」だが、何故「健康保険証にマイナンバーを付加する」という発想が無かったのだろうか?
例えば、企業に勤めている方なら「マイナンバー」の番号を確認されているのでは?
当然、マイナンバーを確認されるということは、年金や保険証などとも連動するようになっているのでは?
本人確認としてマイナンバーが登録されているだけではないと思うのだ。
とすれば、いちいちマイナンバーカードをつくり、保険証と紐づけさせる労力と時間は全くの無駄な作業、ということになる。
と同時に、既に構築されているオンラインシステムに付加するだけなので、治療歴や投薬記録などもスムーズになると思うのだ。
足首骨折という、ありがたくない経験をした中で感じたことは、日本の「皆保険制度」はとてもよく出来た制度で、世界に誇れる社会保障制度だと実感した。
既にすぐれた制度があるのだから、その制度を充実拡大する、ということを考えるのであれば、上述したように「健康保険証にマイナンバーを登録する」という方法の方が、確実で利便性も高いのではないだろうか?
それは今後「運転免許証を紐づけさせる」ということも同じで、「免許更新時に運転免許証のICチップにマイナンバーを登録させる」ことで、様々な負担が減るのでは?
マイナンバーカードありきではなく、もっと「使い易さと安全性」を考えた、逆転の発想は無かったのだろうか?
今朝、ネットでニュースのチェックをしていたら、詩人の谷川俊太郎さんの訃報を知った。
産経新聞:評伝・谷川俊太郎さん 透明な詩情、音楽のように 日常語で深く広い世界へ読者誘う
谷川さんの詩というよりも、谷川さんが使われる言葉にどことなく安心された方も多かったのではないだろうか?
安心する理由は、産経新聞の見出しにある通り「日常語」=飾らない普段使いの言葉を、軽やかに表現されていたからだと感じている。
例えば、10年ほど前だっただろうか?ネスレの企業CMに「朝のリレー」という詩が、起用されたことがある。
谷川さんご自身が朗読をされている動画が、Youtubeにあった。
Youtube:谷川俊太郎作者ご本人が朗読する「朝のリレー」
世界各地の地名が登場するのだが、リレーをするのは子供たちだ。
そこに大人の姿は無い。
それは「朝」という時間を、どのように受け取とっているのか?ということにも繋がっているのだろう、とその時に感じていた。
そして使われる言葉は、私たちが毎日当たり前に使っている、飾り立てた言葉ではなく平易で普段使っている言葉だ。
だからこそ、心の中に何かしら響くものを感じるのではないだろうか?
批評家の若松英輔さんは、ご自身の随筆の中でリルケの言葉を引用し、「詩はそぎ落とされた言葉で表現される」という趣旨のことを書いていらした記憶がある。
難しい言葉ではなく、平易でわかりやすい言葉だからこそ、伝わるのだということなのだろう。
そしていくらAIが進化し、AIが自由に言葉を操るような時が来ても、「言葉をそぎ落とし、平易でわかりやすい一文」を創ることは、難しいのでは?と、感じている。
何故なら、そこには「言葉から伝わる風景が見える言葉」が、使われなくては受け手となる読者に伝わらないからだ。
仕事上、コピーライティングをすることがある。
難しい言葉ではなく、シンプルで平易な言葉で伝える、という作業は、思いのほか大変だ。
語彙力という問題もあるが、それよりも伝える為に受け手である生活者に「コピー文から風景を見てもらう」ということを考えるからだ。
その意味で、谷川さんの創られる詩はとても勉強になっていた。
谷川さんのような詩人と商売で使うコピーと同列に見て欲しくない、と思われる方もいらっしゃると思う。
それでも、あえて言いたいのは「詩」というそぎ落とした平易な言葉を使い、読者に風景を見させる、ということはとても難しく、大変なことであり、その先にあるのが「伝える・伝わる」ということなのだと思うからだ。
最後に朝日新聞に特集されている、谷川さんのメッセージを紹介したい。
朝日新聞:谷川俊太郎 未来を生きる人たちへ
昨日投開票が行われた、兵庫県知事選挙。
選挙結果については、既に報道されている通りだ。
兵庫県民ではないので、この結果について云々言える立場ではないのだが、この選挙結果と選挙に至る過程を考えると、どこか解せない感がある。
というのも、今回の選挙は「知事の失職」によって行われた選挙だからだ。
失職することになった原因は、既にメディアで報道されている通りで、知事からのパワハラが原因で自死された方がいたこと。
しかも知事をはじめとする副知事(だったと思う)の隠ぺい体質のようなものがあり、身を挺しての告発であったこと。
これらのこととは関係なく、再選された斎藤知事の「おねだり体質」が、知事としていかがなものか?という、問題に発展した、ということがあった。
パワハラ疑惑の件は別にして、「おねだり体質」に関しては、連日のようにテレビの情報番組で取り上げられていた(丁度、入院中だったので連日の報道をテレビで見ていた)。
この「おねだり体質」の方が、面白おかしく(と言っては失礼だが)取り上げられていたことも、今回の選挙結果に結びついたのでは?という気がしている。
ただ、このような問題の本質から離れたゴシップ要素の強い理由での失職・選挙は、新しい「選挙スタイル」を作り出す結果となったのでは?という気もしている。
何故なら、選挙結果から見ると斎藤知事は初当選をしたときよりも、得票数を大きく伸ばしての再選だったからだ。
時事通信: 「SNSが大きなポイント」兵庫県政立て直しに意欲‐斎藤氏
今回の兵庫県知事選よりも前、東京都知事選で立候補した安野貴博氏がまさに、デジタル選挙と言っても過言ではないのでは?という手法だったからだ。
選挙結果としては、残念なコトになったが、都知事選が行われる前に安野氏を知っていた有権者はどれくらいいたのだろう?
IT関連の仕事をされている方やSF小説ファンの方などは、知っていたのかもしれないが、一票を投じた有権者全てがIT関連の仕事をされていたり、小説のファンであったとは思えない。
とすれば、確かに街頭演説などの旧来の選挙活動をしつつ、SNSをはじめとするITを使った選挙戦を繰り広げていたのでは?と、想像できるのだ。
何故なら、安野氏は「デジタル民主主義」という言葉をキーワードとして、選挙戦を戦っていたからだ。
問題の本丸ともいえる「パワハラ疑惑」については、再選された斎藤知事本人が関係者を含まない第三者機関を立ち上げ、きちんと解明し説明をする責任があると思う。
この点を、選挙の争点としなかったのか?という、疑問も部外者としては気になったところでもある。
そして、今回の選挙結果は、昔ながらの選挙カーで立候補者の名前を連呼する選挙活動が、既に有権者から受け入れられにくい、ということを示していると思う。
昨夜遅く、ある大物音楽プロデューサーの訃報が、報道された。
その大物音楽プロデューザーとは、クインシー・ジョーンズのことだ。
今の若い方が、どれほどクインシー・ジョーンズのことを知っているのかは、わからない。
ただ、私と同世代の洋楽ファンにとって、クインシー・ジョーンズは音楽プロデューサーやコンポーザーもちろんミュージシャンという、範疇を越えた存在であったことは、確かだった。
今朝になり、頻繁にFMからマイケル・ジャクソンの楽曲が流れているのは、クインシー・ジョーンズに対する敬意と追悼の意味があってのことだ。
そのことが分かるが故に、マイケル・ジャクソンが自分の兄弟グループ「ジャクソンズ」から、一人離れ活躍するようになった立役者としての凄さを感じることができるのだ。
まず、マイケル・ジャクソンについて改めて書く必要はないと思うのだが、幼少期からショービジネスン世界で活躍を始めたスーパースターであっても、一時期苦しんだ時代があった、ということをご存じの方はどれだけいらっしゃるのだろう?
幼少期、マイケル・ジャクソンは踊りと歌が上手い、クリっとした目が可愛い黒人のこども、として人気者になった。
当時は、人種差別がまだまだ厳しい時代。
ステージ上では、チヤホヤされてもステージを降りれば、強烈な人種差別がある、という幼少期でもあったのだ。
そして少年から変声期を経て青年になる過程において、「ジャクソン5」は「ジャクソンズ」と改名し、活動をするのだが、かつてのようなヒット曲には恵まれないという状況が続いていた。
世間はいつまで経っても、踊りがと歌が上手い、可愛い黒人の男の子、を求めていたということかもしれない。
時期的には、兄たちとの不仲説が言われた時期でもあったように思う。
そんな時、マイケルジャクソンがソロとして活動をする為にプロデュースを依頼したのが、クインシー・ジョーンズだったのだ。
既に、大物プロデューサーとして活躍をしていたクインシー・ジョーンズが、世に出したアルバムが「Off The Wall」だったと思う。
このアルバムで、ソロミュージシャンとしてのマイケルジャクソンの人気を決定づけた、と言っても過言ではないと(個人的には)考えている。
タキシードを着て、整形をする前のマイケル・ジャクソンの表情からは、「音楽の楽しさ」というモノを感じさせるだけではなく、ブラックミュージックに囚われることなく、幅広いジャンルの音楽を1枚のアルバムに収録することで、これまでの「踊りと歌が上手い黒人のこども」という、それまでのイメージを一新させることに成功したからだ。
クインシー・ジョーンズに関しては、「愛のコリーダ」という作品にも触れておく必要があるだろう。
作品タイトルを見て、邦画ファンの方なら分かったと思うのだが故大島渚監督の作品「愛のコリーダ」にインスパイヤ―されて作られた楽曲だ。
タイトルそのものに、日本語を使うという斬新さに驚いたが、クインシー・ジョーンズの魅力は幅広い文化的好奇心があり、それを音楽という場所でつくり上げる、ということに対して特別な才があった、ということだろう。
もし、クインシー・ジョーンズがいなければ、マイケル・ジャクソンは「スリラー」という作品をつくり上げることはできなかっただろうし、数多くの黒人ミュージシャンにスポットライトも当たらなかったかもしれない。
訃報を知り、1970年代~2000年代の洋楽シーンの中心にいたのだな、と改めて感じている。