秋篠宮殿下が誕生日を前に、来年行われる「大嘗祭」について、国費支出が適当かどうか?という発言をされた。
「政教分離」という観点から問題がある、というお考えからの発言だったようだ。
東京新聞:公費に異議 秋篠宮さま「宗教色強い」
今上天皇が即位されたときにも、同様の理由でキリスト教や仏教関係者から提訴される、ということがあったように思う。
今回も12月に提訴する予定だという。
中日新聞:大嘗祭「違憲」12月提訴へ 政教分離原則に違反と
あくまでも個人的な意見だが、「大嘗祭」は神道の形を取ってはいるが、本当に宗教的な儀式だろうか?という、疑問がある。
先日の「勤労感謝の日」は、戦前「新嘗祭」と呼ばれていた。
その「新嘗祭」は「五穀豊穣を祝い、安寧を願い祈る」というのが原型(というのだろうか?)だと、大正生まれの母が話していた。
現在でも「新嘗祭」は、毎年宮中で行われているだけではなく、形を変え地方でも行われているようだ。
その「新嘗祭」を天子(=天皇)が代わった時に行われるのが、「大嘗祭」だ。
とすれば、宗教的とはいっても仏教やキリスト教のような教義や経典があるわけではなく、もっと土着的で「八百万の神」への奉納というニュアンスだったのでは?という、気がしている。
民俗学者の折口信夫さんも「大嘗祭の本義」という題名の文の中で、「神道(宗教としての神事)」としてよりも、民俗的な意味合いのほうが強いのではないか?と書いている。
折口信人:大嘗祭の本義
そして来年の「大嘗祭」に対して仏教関係者が提訴する、ということにもやや違和感を感じている。
古典がお好きな方でなくても、一度くらいは「源氏物語」を読まれたことがあると思う。
「源氏物語」の舞台は、帝の息子である光源氏を中心に宮中になっている。
そして、様々な場面で「出家」とか「坊主」と言う言葉が登場する。
これは平安時代より前から、仏教が信仰の中心であった、ということに他ならない。
今でも各地に「国分寺」という地名が残っているのは、各地に国の意向でつくられたお寺を中心とした街づくりがされていた名残だ。
京都の幾つかのお寺には「門跡」という名がついているが、それは天皇やその親族の為のお寺ということを表しているし、今でも「泉涌寺」の一部は宮内庁の管理となっている。
仏教そのものは、長い間天皇やその親族を中心に守られてきた、という過去があるのだ。
そう考えると、皇室が長い間信仰の対象としてきた仏教の関係者が、皇室の祭事を提訴する、というのは歴史的関係からするといかがなもの?と、感じてしまうのだ。
何より、秋篠宮殿下は父である今上天皇がされている「新嘗祭」の意味や歴史といったことを、十分理解した上での発言なのだろうか?という気がしてくるのだ。
確かに、「神道」としての儀式ではあるが、その起源となるのは古事記などから始まる祭事なのだ。
むしろ「伝統行事」とか「日本文化の一つ」として考える必要があるのでは?
そのうえで、使われる費用が適当かどうか?を考えるべきなのでは?という、気がしている。