日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

日経新聞Webサイトの「Think!」マークに注目したい

2021-06-30 17:37:28 | ビジネス

しばらく前から、日経新聞のWebサイトに気になる「マーク」が付けられるようになった。
そのマークとは「Thin!k」というマークだ。
例えば、今日テーマとして取り上げようと考えていた「カーボンプライシング」の見出しに「Think!」と、小さくマークがついている。
日経新聞:カーボンプライシング、世界に導入の機運 EU先行追う中国

記事そのものは、会員記事なので全文を読むことはできない。
ただある程度の内容を把握することはできる。
「会員記事」については、また機会を考えてエントリをしたいと考えいるのだが、なんとなく日経に限ってはこの「Think!」マークの会員記事は、これまでのような「報道」としての記事ではなく、書き手となる人による①情報収集、②情報の分析、③それらから考えられる事柄、という内容をまとめた記事なのでは?という気がしている。
だからこそ、「Think!」の右わき「多様な観点からニュースを考える」というコメントが、必要なのだろう。

さて、カーボンプライシングについてだが、10年ほど前から「排出量取引」によって、先進諸国が「温室効果ガス削減目標」を果たそうという動きがいわれてきていた。
最近では、東京オリンピックがこの「排出量取引」によって、「東京オリンピック、CO2排出量実質ゼロ」という組織委員会が発表したことで、再び注目をされるようになった。
東京新聞:東京五輪、CO2排出実質ゼロに 取引制度で273万トン相殺

記事の中で使われている言葉は「カーボンオフセット=CO2排出取引」だが、カーボンオフセットそのものが、「カーボンプライシング」の方法の一つなので、このような方法で「東京オリンピックは、地球環境に優しいオリンピック」というアピールとなっている。
この「カーボンオフセット」そのものは、CO2 削減を努力目標とはするが、果たせない場合はCO2削減対象に投資をする、という意味なので、「東京オリンピックで排出されるCO2が”0”になる」という意味ではない。
だからこそ、このニュースを見た人達がYahoo!等に手厳しいコメントを出したのだ。

東京オリンピックの「排出量取引」に対して、手厳しい意見が出ても先進諸国の「地球温暖化対策」の切り札として、この「排出量取引」を主な対策として掲げるのには、理由がある。
大きな理由として挙げられるのが、「化石燃料依存」からの脱却に時間を要する、ということだろう。
ヨーロッパ諸国が「循環型エネルギー」の利用を増やすと言っても、その為の設備や安定供給という点では、まだまだ課題が多いからだ。
中国が積極的なのは、自国そのものの「公害対策」という面も、大きいはずだ。
事実、「電気自動車」に積極的なのは、中国でありそれに追従するかのように、日本や欧州の自動車メーカーが「電気自動車の市販化」に動いている、というのが現状だからだ。
米国に対しては、トランプ政権によって「温暖化対策」が大幅に後退してしまったことから、これから先、バイデン政権でどれだけ巻き返すのか?という点が、注目となるはずだ。

日経新聞のWebサイトの「Think!」というマークは、このような複数のニュースから、様々な視点を持って「考えた記事」ということなのだと思う。
そしてこのような「Think!」というマークが付けられるようになった背景には、「情報を集め・分析し・編集し・考えを構築する」ということが、「新聞」に求められるようになっている、ということだと思う。
しかしそれは、新聞だけに限らずビジネスパーソンとして求められる「基礎」なのではないだろうか?


 


芸能事務所・アミューズの広告

2021-06-28 12:57:17 | マーケティング

今朝、新聞を読んでいたら、丁度真ん中の紙面を両面を使ったアミューズの広告に驚いた。
アミューズ:本日(2021年6月28日)の朝日新聞・読売新聞に全面広告を掲載しました

驚いた理由は
①芸能事務所・アミューズが新聞広告を出した。
②真ん中の紙面を両面を使った広告だった。
③その広告が、本社事務所移転だった。
④コピー文に、50年前の日本を感じさせた。
という点があったからだ。

そもそも芸能事務所が、新聞に広告を出す、ということ自体これまでになかったことでは?という、気がしている。
お正月広告の様に、特別な時期には広告を出すことはあっても、本社事務所移転を知らせる広告を出した、芸能事務所はこれまでになかったのでは?という、気がしている。
それほど、異例な広告と言っても過言ではないと思う。
しかも、新聞の真ん中の両面を使っての大掛かりな広告であったコトから「随分力の入った広告だな~」という印象を持ったのだ。

これほど「力の入った広告」なのだが、朝日新聞の場合写真などは一切なく、文字だけの広告だったということも、珍しさを感じた。
いくら文字が大きいとはいえ、本ではないし記事でもない。
このような文字のみの広告というのは、読み手となる生活者は「パッと目は引くが、読むに至らない」という気がしている。
まして今のようなSNSの時代であれば、長い文字列となる文章を読む、ということ自体読み手の「読んでみたい」という気持ちを遠ざける可能性のほうが高い。
にもかかわらず、文字のみ広告を出した、ということはヴィジュアルに頼らない、あるいはヴィジュアルでは伝えきれない「何か」を訴えたかったということだろう。

その訴えたい「何か?」というのが、一番大きな字で書いてある「人間に戻ろう。」ということだろう。
この「人間に戻ろう。」というキャッチコピーを見て、私と同世代以上の方々にとっては「あれ?!どこかで見たり・聞いたりした気がする」という、印象を持ったのではないだろうか?
今らか50年くらい前、高度成長の陰りが見え始め、社会問題となりつつあった「公害」が話題になった頃、盛んに言われたことばの一つだったからだ。

戦後から20年位経ち、GDPは世界第3位くらいになるまでに成長したが、経済成長するために「公害」という問題を引き起こし、生活者自身は「経済成長」の犠牲になってきたのでは?という、社会的気運が高まっていた。
丁度その頃、盛んに使われたのが「人としてのゆとりを持とう」という趣旨のことばだったのだ。

これよりも前の1961年には、サントリーのウィスキー「トリス」が
「人間」らしくやりたいナ
トリスを飲んで「人間」らしくやりたいナ
「人間」なんだからナ

 (サントリー「ポスター展」より)
というコピー(作者は、後に作家となった開高健)の広告を出し、話題になった。
今でも、高度成長期に向かい「経済優先」の空気に飲み込まれることが無かったこのコピーは、名コピーと言われている。

それから60年経ち、再びこのようなコピーを見ると「高度成長期」から「失わをれた30年」と言われるマイナス成長の今も変わらず、「人らしさ」を犠牲にしているのだな、と感じる。
と同時に、何故エンターティメント企業であるアミューズがこのようなコピーを打ったのか?と考える必要があると思う。

単純に地方への事務所移転ではなく、これから先アミューズというエンターティメント企業が、エンターティメントの意味を問い直し、何らかの新しい事業を展開するための事務所移転であり、その表明の広告、ということのような気がしている。


科学の進歩についていけていない私たち

2021-06-27 21:23:54 | アラカルト

朝日新聞の朝刊に、これから先若い人たちは「大変だな~」と、感じる記事があった。
朝日新聞:着床前診断、対象拡大へ 成人後に発症する遺伝病も(有料会員記事)

掲載されている記事を、全文読めないのはとても残念だし、個人的には有料会員だけを対象とせず、広く多くの人たちに読んでもらいたい、と考えている。
それほど、様々な問題をはらんでいることがらだからだ。

「着床前診断」ではないが、テレビドラマ「コウノドリ2」で「出生前診断」を受けた2組の夫婦の話があった。
大ヒットしたドラマなので、ご覧になられた方も多かったのでは?と思う。
この時2組の夫婦が受けた「出生前診断」で判明するのは、「染色体異常の有無」だ。
そして「染色体異常」が見つかり、一組の夫婦は子供をあきらめ、もう一組の夫婦も子供を諦めようとするのだが、最後の最後で「やはり生みたい」と、決心をされ出産をする、という話だった。
この時の「染色体異常」により生まれてくる赤ちゃんというのが、「ダウン症」の子どもだ。

この「出生前診断」を受け、「染色体異常」が見つかった場合、お子さんを諦める夫婦はとても多い、という統計がある。
日経新聞:新出生前診断、3万人超す 染色体異常の9割中絶

現実問題として「ダウン症」を含む「染色体異常」で生まれたお子さんを育てる事が難しいと判断し、中絶を選ばれる方が多いということだ。

そして今回の「着床前診断」というのは、それよりも前の段階で「ゲノム(=遺伝子情報)」によって、将来的な病気の有無まで判断できる、という内容のものだ。
確かに、成人後の病気リスクなどが分かる、ということは、メリットが高いような気がする。
問題なのは、私たち生活者が「ゲノムとは何か?」という理解が、十分にされているのか?という点だ。

「ヒトゲノム」がすべて解読できたのは、2003年4月だ。
それ以前の高校の生物などの授業では「ゲノム」について、全く教えられていないと思う。
今でも、医科学系の大学に進学した学生であれば、「ゲノム」について学ぶ機会はあるとは思うが、それ以外の学生が学ぶ機会があるとは思えない。
まして、そのようなコトを学ぶ機会を得られていない生活者のほうが、遥かに多い。

このような社会状況の中で「着床前診断」が、一般化すると様々な社会的問題が起きてくる、という指摘がある。
その一つが「社会的差別」だ。
生命保険の契約時に、ゲノムデータの提出を要求された場合、引き受け拒否あるいは高額な保険料となる可能性がある。
生命保険の加入はあくまでも個人の判断によるものなので、「差別」とまでは言えないかもしれないが、就職などで希望する職に就けなかったり、学校での差別が起きるのでは?という指摘が、随分前からされている。

もちろん、将来的に罹患する病気リスクが分かれば、リスク回避のために健康に気を付けるなどのメリットもある。
何故なら「正しい情報」を得られ・学ぶ機会と、「早期治療」の機会の差があるからだ。
しかしそれができるのは、経済的に恵まれた人達に限って言える、と指摘する医療者も少なくない。
これらの「社会的差別」は、「社会的倫理観」によるところが大きいため、「教育・理解・倫理」という点を一緒に知り・考えることが重要になってくる。
果たして今、そのような状況にあるのだろうか?

科学が進歩することで、長寿社会となることは良い事だと思う。
そのためには、「教育・理解・倫理」等の点で、共通の知識と認識何よりも「人としての倫理観」が求められる。
経済的豊かさの違いによって「命の選別」がされるようなリスクが、あってはならないと思う。

 


科学の進歩についていけていない私たち

2021-06-27 21:23:54 | アラカルト

朝日新聞の朝刊に、これから先若い人たちは「大変だな~」と、感じる記事があった。
朝日新聞:着床前診断、対象拡大へ 成人後に発症する遺伝病も(有料会員記事)

掲載されている記事を、全文読めないのはとても残念だし、個人的には有料会員だけを対象とせず、広く多くの人たちに読んでもらいたい、と考えている。
それほど、様々な問題をはらんでいることがらだからだ。

「着床前診断」ではないが、テレビドラマ「コウノドリ2」で「出生前診断」を受けた2組の夫婦の話があった。
大ヒットしたドラマなので、ご覧になられた方も多かったのでは?と思う。
この時2組の夫婦が受けた「出生前診断」で判明するのは、「染色体異常の有無」だ。
そして「染色体異常」が見つかり、一組の夫婦は子供をあきらめ、もう一組の夫婦も子供を諦めようとするのだが、最後の最後で「やはり生みたい」と、決心をされ出産をする、という話だった。
この時の「染色体異常」により生まれてくる赤ちゃんというのが、「ダウン症」の子どもだ。

この「出生前診断」を受け、「染色体異常」が見つかった場合、お子さんを諦める夫婦はとても多い、という統計がある。
日経新聞:新出生前診断、3万人超す 染色体異常の9割中絶

現実問題として「ダウン症」を含む「染色体異常」で生まれたお子さんを育てる事が難しいと判断し、中絶を選ばれる方が多いということだ。

そして今回の「着床前診断」というのは、それよりも前の段階で「ゲノム(=遺伝子情報)」によって、将来的な病気の有無まで判断できる、という内容のものだ。
確かに、成人後の病気リスクなどが分かる、ということは、メリットが高いような気がする。
問題なのは、私たち生活者が「ゲノムとは何か?」という理解が、十分にされているのか?という点だ。

「ヒトゲノム」がすべて解読できたのは、2003年4月だ。
それ以前の高校の生物などの授業では「ゲノム」について、全く教えられていないと思う。
今でも、医科学系の大学に進学した学生であれば、「ゲノム」について学ぶ機会はあるとは思うが、それ以外の学生が学ぶ機会があるとは思えない。
まして、そのようなコトを学ぶ機会を得られていない生活者のほうが、遥かに多い。

このような社会状況の中で「着床前診断」が、一般化すると様々な社会的問題が起きてくる、という指摘がある。
その一つが「社会的差別」だ。
生命保険の契約時に、ゲノムデータの提出を要求された場合、引き受け拒否あるいは高額な保険料となる可能性がある。
生命保険の加入はあくまでも個人の判断によるものなので、「差別」とまでは言えないかもしれないが、就職などで希望する職に就けなかったり、学校での差別が起きるのでは?という指摘が、随分前からされている。

もちろん、将来的に罹患する病気リスクが分かれば、リスク回避のために健康に気を付けるなどのメリットもある。
何故なら「正しい情報」を得られ・学ぶ機会と、「早期治療」の機会の差があるからだ。
しかしそれができるのは、経済的に恵まれた人達に限って言える、と指摘する医療者も少なくない。
これらの「社会的差別」は、「社会的倫理観」によるところが大きいため、「教育・理解・倫理」という点を一緒に知り・考えることが重要になってくる。
果たして今、そのような状況にあるのだろうか?

科学が進歩することで、長寿社会となることは良い事だと思う。
そのためには、「教育・理解・倫理」等の点で、共通の知識と認識何よりも「人としての倫理観」が求められる。
経済的豊かさの違いによって「命の選別」がされるようなリスクが、あってはならないと思う。

 


ファッション専門誌が、「脱炭素」や「エネルギー問題」を語る時代

2021-06-25 19:46:13 | ビジネス

拙ブログに来てくださる方なら、ご存じかもしれない「WWDJapan」というファッション専門誌。
一般向けの雑誌ではないので、余り目にすることが無い雑誌の一つかもしれない。
そのWWDJapanのweekly版の見出しが、チョッと変わっていた。
WWDJapan:経営者の皆さん、”脱炭素”を語れますか?電力と水とファッションビジネス

ファッションビジネスそのものは、とても華やかな印象を持っている方は多いと思う。
その華やかで電力とか水などとは縁の無さそうな、ファッションビジネスがなぜ?という、引っ掛かりを持たれる方もいらっしゃるのでは?と、考えている。

WWDJapanが、このような特集を組む背景には、「サスティナビリティ」という問題がある。
「サスティナビリティ=持続可能な取り組み」という点において、ファッションの世界は「アパレルロス(洋服・衣料ロス)」という問題を抱えている。
2018年にはバーバリーなどの有名ブランドが、販売価格とすればトータルで億を超える服を廃棄処分にしている、と問題になった。
バーバリー側の考えには「ブランドタグが付いている商品が、2次、3次流通に乗るとブランドイメージが低下し、ブランド価値が下がる、という懸念があった」と言われている。
Fashion Network:「バーバリー」売れ残り焼却処分問題、ファッション業界全体にも派生か

この問題が取り上げられるようになってから、ファッション業界は「サスティナビリティ」という言葉を、盛んに使うようになった。

ファッション製品をつくるためには、生地の調達に始まり、縫製、流通などを経て私たちの手元に届く、ということになる。
今では、工業製品のような流れの中で、ファッションがつくられている、という考え方もできる。
工業製品の製造過程で問題になっている、環境問題とのかかわりは、ファッション業界であっても同様のことになりつつあるのだ。
化学繊維製品を大量の水を使って洗う、そのために必要な電力消費など、これまで「問題ではない」とされてきた、もしくは「見て見ぬふりをしてきた」問題が、SDGsなどの取り組みの必要性によって、見逃す事ができなくなりつつある、ということなのだ。

ファッション製品は、工業製品と違い「再生品」として、市場に出回る事がほとんどない。
強いて上げると「古着市場」や「メルカリ」などのC2Cビジネスが中心であり、その市場はまだまだ小さい。
それだけではなく、生地の調達については「新疆ウイグル自治区」での、中国政府の圧政。
子供たちを就学させずに、綿花の収穫に携わらせている、縫製についても女性を低賃金で重労働をさせている、などの問題もクローズアップされてきた。
特に、ここ20年ほどで人気になったファストファッションなどは、扱う商品サイクルが短いのに大量生産され、その価格を抑えるために、途上国の女性たちの労働力を頼っていた、という背景がある。
「安いのには訳がある」ということなのだ。

SDGsという視点で考えた時、ファッション業界が抱える問題は、多岐にわたっている。
エネルギーの問題、水質汚染、学校で学ぶ機会を奪われる子供たち、低賃金で過重労働を強いられる女性…など人権や貧困という問題の要因ともなっている、と言っても過言ではないかもしれない。

「アパレルロス」という点でも、焼却処分される量の衣料品を、貧困国や日本の様に「隠れ貧困層(ひとり親家庭で、十分な食事や教育が受けられないとされる子供たち。日本では7人に1人の子どもがこの貧困層に当たると言われている)」に「フードバンク」のようなシステムを使うことで、問題が解消される可能性もある。
何より、衣料品には基本「消費期限」があるわけではない。
「消費期限が無い」衣料品の活用は、エネルギー問題を僅かでも解消する可能性を含んでいるようにも、考えられるのではないだろうか?


「コロナ禍」の最中にオープンするリゾートホテル

2021-06-23 13:26:10 | ビジネス

今チョッと気になっている、ホテルがある。
隠岐の島に新しくできる「Entô(エントウ)」という名前のホテルだ。
元々、隠岐の島にはホテルが1つしかなく、その1つしなかったホテルがリニューアルしてオープンする、ということのようだ。
この「Entô」というホテルには、枕詞の様な「ジオ×ホテル」という言葉が付いている。
隠岐の島は、ユネスコの「世界ジオパーク」に選ばれたことで、その豊かな自然を観光資源として、観光客誘致のためにそれまであったホテルをリニューアルした、ということなのだ。

一般的なホテルのHPは、ホテルの外観やホテル内の庭園などが登場するが、公式HPにアクセスすると、荒々しくも極彩色のような岩肌の写真だ。
この極彩色のような岩肌の写真がスライドしていきながら、隠岐の島の自然を紹介している。
事実隠岐の島の自然は、山陰という地域の中にありながら独特のものを持っている。
それは、離島ということも関係しているのかもしれない。
この「Entô」にとって一番大切でアピールしたいのは、隠岐の島の豊かな自然ということだと分かる。
そのため、「1泊客」ではなく、「数日の宿泊」をおそらく前提としているのでは?、という気がしている。

ここ10年くらい「リゾートホテル」の代名詞のように言われていたのが「星野リゾート」だと思う。
しかし、この「Entô」に関しては、株式会社海士と海士町が共同でプランをつくっている。
設計などに関しても「海士町の魅力であるジオパークが楽しめる」ことなどを優先して、隠岐の島の持っている「地域資産」をフル活用できるようになっている。
それを象徴するために打ち出したキャッチコピーが、「ないものはない」だ。
海士町プレスリリース:「ないものはない」という新しい贅沢を提案するジオパーク×ホテル「Entô」

このキャッチコピーだが、受け止め方によっては「すべてのものが揃っている」とも取れるし、「本当に何もない」と開き直ったようにも受け止められる。
おそらく両方の意味を持っているのでは?と、考えている。
それは「豊かな自然と、その自然に育まれた山海の幸すべてが、揃っている」という意味と「自然以外には何もない」という意味だ。

このキャッチコピーからもわかるように、この「Entô」が提供するのは「自然を楽しむ」という、今では贅沢だが「自然と遊ぶ」という能動的なリゾートホテルを目指している、ということでもある。
何でも用意がしてあり、様々なホテルライフが楽しめる提案がされている、というリゾートホテルとは一線を画すことをコンセプトにしているのだ。

切っ掛けは「ユネスコジオパーク」の登録だったとは思うのだが、このような考えでホテルがつくれたのは、島根県立隠岐島前高校の特色である「地域・教育魅力化プラットフォーム」という発想と「島留学」と呼ばれる県外からの生徒を積極的に受け入れる、という経験があったからだろう。
一見高校の運営ビジョンとホテルとは結びつかないように思えるのだが、隠岐の島という離島で地域コミュニティーがしっかりしている地域だからこそ、高校での「地域・教育魅力化プラットフォーム」の具現化として「Entô」があるのでは?という気がしている。

島のことは島に住んでいる人たちが、よく知っている。
だからホテルの中だけで過ごすのではなく、隠岐の島全体を一つの「リゾート施設」だと考えれば、このような取り組みがあっても良いのでは?という気がしている。




「オリンピック経済効果」は、あるのか?

2021-06-22 19:00:12 | ビジネス

朝日新聞のWebサイトを見ていたら「今頃になってこんなことを言われてもな~」という、印象の記事があった。
ただ、記事の内容は「確かに、そうだろう!」と言えるものだった。
朝日新聞:五輪に経済効果「目に見えない」アトキンソン氏(有料会員記事)

記事が有料会員向けの記事の為、全文を読むことはできないのだが、読める範囲であってもアトキンソン氏の言いたい事は、分かるはずだ。
これまでさんざん言われてきた「オリンピック開催による、経済効果など、大したものではない」ということだ。

おそら1964年に開催された「東京オリンピック」では、それなりの「経済効果」はあったと思う。
何故なら、「日本が初めて大量の外国人を受け入れる」という状況だったからだ。
当時の為替は「固定為替相場制」であり、1ドル=360円だった。
1ドルで360円分の買い物ができた、ということは決して日本としては大きな儲けとはならなかったはずだが、日本が戦後国際舞台で華々しい表舞台に立つことができた、ということは、それ以降の輸出政策などにおいて、力強い後押しとなる印象を与えるには十分だったのではないだろうか?
それから50数年経ち、日本は「経済大国」として、アジアだけではなく世界でも、ある程度の地位を得るまで来た。
事実1ドル=110円というのは、前回の東京オリンピックの約3倍以上に円の価値が上昇した、ということでもある。

アトキンソン氏の指摘しているのは「オリンピック」というスポーツイベントに限っての「経済効果」という点に注目しているので、これまで政府などが喧伝してきた「オリンピックによる経済効果=競技場の設備投資などを含む経済効果」とは違うモノだが、競技場の設備投資などは、元々国立競技場の老朽化という問題があったことを考えれば、取り壊し建設をしないのか?新しい国立競技場を建設するのか?のどちらかしかなく、世界的スポーツイベントを各競技団体が誘致しようとすれば、おのずと答えは出ていたはずだ。
それを「オリンピック経済効果」に含めるのか・含めないのか?という違いによって、政府が喧伝してきたような「経済効果」の意味は違ってくる、ということになる。

アトキンソン氏の言う「オリンピック経済効果」というのは、オリンピック開催期間中の経済効果という視点での話なので、その意味は大きく違うし、おそらく現実的オリンピックによる経済効果は、指摘されている通り調整の範囲内だろう。
何故なら、競技施設などによる経済効果は、前年までの経済効果だからだ。
そして今後予定されている「大阪万博」についても、同じだろう。

この記事と並んで、朝日新聞には興味深い見出しの記事があった。
朝日新聞:五輪会場の酒販売、五輪相「ステークホルダーの存在が」

まさか、こんな場面で「ステークホルダー(=利害関係者)」という言葉に、出会うとは思わなかった。
「ステークホルダー」と言った場合、株主やスポンサーなどを指す事になる。
おそらく丸川五輪相は「スポンサーとの関係があり、酒類の販売を容認せざる得ない」ということを、煙に巻く為に「ステークホルダー」と言ったのだろう。
とすれば丸川五輪相は「ステークホルダー」の意味を狭義でしかとらえていない、ということになる。

現在のビジネスの世界で「ステークホルダー」と言った場合、「企業を取り巻くすべての人・団体・企業・行政」を指す。
「ステークホルダーの存在」というのであれば、現在酒類の提供を止められている飲食店もまたその一人なのだ。
何故なら「飲食店」は、酒類を提供するメーカーにとっての重要な「ステークホルダー」だからだ。
しかもメーカー側にとって、一過性の高いオリンピックよりも長期的かつ常時の利害関係となるのは「飲食店」である。

一連のことを考えると、酒類の販売要請はスポンサーとなっているメーカー側ではなくIOCなどからの要請であろう、ということを感じ取ることができる。

現在の日本の経済規模と状況を考えた時、このような一過性の高いイベントによる「経済効果」は、政府が喧伝するほどではなく、足場を固めたビジネス戦略をたて、地味ではあるが「企業が本来果たすべき社会的役割」を全うする、事が一番大切なのだ、と改めて考える必要があると思う。



「ことば」の力が、失われていく

2021-06-20 20:27:58 | マーケティング

かつて「広告批評」という雑誌があった。
ご存じの方も数多くいらっしゃると思うのだが、「広告批評」そのものを作っていらした編集長の島森路子さんが亡くなり、「広告」という切り口で社会を観、語り、時には批判をされていた、天野祐吉さんが亡くなられた事で、「広告批評」を出版していた「マドラ出版」そのものも、活動を停止してしまった。
今でも、「島森さんや天野さんがご存命なら、この広告をどう見たのだろう?」と、思うことが多々ある。

その天野さんのエッセイを先日読んでいたら、「最近はことばに元気がない」という一文があった。
「ことばに元気がない」というのは、使う人達が「イキイキしたことばを使っていない」、ということでもある。
「ことば」は自分を伝えるだけではなく、相手を思う道具でもある。
そのような「相手を思うことば」が、SNSなどの普及によって省略化され、一種の仲間内でしか通じない「隠語化」してきているのでは?という、気が確かにしている。

それは、広告であっても同じだ。
広告そのものは「虚構の世界」だ。
「虚構の世界=嘘の世界」ということになる。
にもかかわらず、最近の「嘘の世界=広告表現」が、中途半端になっているような気がするのだ。
私事で申し訳ないのだが、マーケティングの仕事をはじめてすぐ、パンフレットなどの制作も担当するようになった。
その時、撮影を担当してくださったベテランカメラマンさんから、「虚構の世界を表現するためには、ディテールこそ本物でなくてはならない」と、教えていただいた。

表現をし、受け手となる生活者には「虚構の世界=嘘である」と分かってもらいながらも、「虚構の世界の中に夢があり、時には希望となる表現をするためには、ディテールは本物でなくてはならない」ということだったのだ。
そのことを、天野さんもエッセイで指摘をされていたのだった。

この一文で思い出したのが、1960年代後半~1970年代前半に資生堂のCMなどをディレクションされていた、杉山登志さんが遺した「遺書」にあったことばだ。

リッチでないのに
リッチな世界などわかりません。
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません。
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは……とても
 嘘をついてもばれるものです。— 杉山登志

「広告」の持つ「虚構性」というものを、よく表していると思う。
「嘘をつく=虚構の世界の演出」というものが、厳しくも甘美な世界であり、それを表現するための映像はもちろん「ことば」そのものが、イキイキとし時代を映し出すだけの力を持たなくては、「広告」は「単なる嘘つき」になってしまう、ということなのだ。

そう考えると、今の広告はどうなの?という気がしてくるのだ。
「昔はよかった」などという、ノスタルジックなコトではない。
私たちが「普段使うことば」に真実性がなくなり、ことばそのものに巧妙な嘘を含ませ、「真実の振り」をしているようなことばが氾濫しているのではないだろうか?
それは「広告」の問題だけではなく、社会の問題でもあるような気がしながら、天野さんのエッセイを読ませていただいた。

杉山登志さんがディレクションされたテレビCMを、youtubeで見る事ができる。
是非、ご覧頂きたい。
youtub:1967~1973年杉山登志CM集


「高度成長期の当たり前」を見直す時期が来ている

2021-06-18 15:35:45 | ビジネス

朝日新聞のWebサイトを見ていたら、「いまだに昭和の感覚なのか?」と、感じた記事があった。
朝日新聞:「新幹線はあって当たり前」 促進団体が高校生に講演

実家がある鳥取県に帰省した時にも、「山陰新幹線の要望」と言った趣旨の話題を聞く時がある。
「新幹線開通」によって、人の動きが活発になり「人・モノ・カネ」が動く、という発想だ。
確かに「新型コロナ」が感染拡大する前までは、「人・モノ・カネ」が動くことで、地域活性化ということに期待ができた。
しかし、「新型コロナ」の感染拡大によって、「人は動かず・モノ・カネは動く」という状況が生まれた。
それを可能にしたのは、ご存じのインターネットを介した「通販=売り場」と、「在宅ワーク・リモートワーク=働き方」という変化があったからだ。
おそらく、100年前の「スペイン風邪」の世界的大流行の時には、「人・モノ・カネ」が停滞をしたはずだ。
「『スペイン風邪』の世界的大流行によって、第一次世界大戦が終わった」と言われるのは、「人・モノ・カネ」が調達できなかったからだろう、と想像することはできる。
それが今回の「新型コロナウイルス」では、人の移動は制限されたが「モノ」も「カネ」も動く事ができた、という点は大きな違いでもある。

そして「人が動かない」ことによって、大打撃を受けた業種の一つが「観光業や鉄道や航空会社」だった。
特に、航空会社が受けた影響は、日本に限らず諸外国でも同様だった。
日本国内について言えば、JR東海が民営化になって、初めて赤字を出した。
理由については改めて説明するまでもなく、「東海道新幹線」の利用者が激減したためだ。
むしろ、JR東海は「東海道新幹線」頼みで収益を上げていた、ということが改めて分かった、というほどの赤字だった。
逆に、元々通勤利用などが主だった路線に関しては、落ち込みはあったものの昨年の「緊急事態宣言」解除後は、「在宅ワーク・リモートワーク」だった利用客そのものが戻り、同じように赤字であってもその落ち込み方は、違っていた。

そこで改めて考える必要があるのでは?というのが「新幹線」に対する価値が、「新型コロナ前・後」とでは違うのではないか?ということなのだ。
「新幹線」がある事で「人・モノ・カネ」が動いていたのは「昭和から平成」までであり、これからは「人が動かなくても」収益に大きな影響を与えないようなビジネス発想が、必要となってきている、ということでもあるのだ。
そのように考えると「建設費+維持費」と「人が動かない時代の建設後の利益」のバランスをどのように考える必要があるのか?ということになる。

あくまでも個人的な考えだが、四国の場合、岡山までは山陽新幹線が通っており、四国そのものへのアクセスが悪い訳ではない。
問題となるのは「四国内の移動」ということだろう。
とすれば、膨大な建設コストがかかる新幹線ではなく、在来線の活用に目を向ける方が、メリットが高いような気がするのだ。
一つは「貨物輸送+トラック輸送」による物流のスピードアップ化。
もう一つは「観光列車」の運行だ。
事実JR西日本は、豪華観光列車「瑞風」を走らせているが、その一方で「銀河」という観光列車も走らせている。
観光列車の運行という点では、「新型コロナ」の感染拡大前から積極的なJR九州などの様に「時間の短縮」ではなく「時間をかけて車窓を楽しむ」という提案がされ始めている。

そして「新幹線が通れば、地域経済の活性化につながる」という考えは、高度成長期には通用しても今は通用しない、という現実だ。
「東海道新幹線」の沿線地域は元々、日本の産業のベルト地帯だった。
そのため、沿線地域そのものに経済効果があったように見えたのだが、その後開通した新幹線の駅の内、在来線の駅から離れたところに新しい新幹線の駅ができたため、地域の活性化に結びつかないどころか、在来線駅も新幹線駅も人が立ち寄らなくなったという地域は、いくつもある。
「新幹線が通れば、地域活性化につながる」というのは、「高度成長期」の幻想でしかなく、それどころか地方自治体に対する負担が大きい、ということにもなりかねないのだ。

「新幹線」のような、広範囲で莫大な費用と維持費を必要とするインフラそのものの在り方を、考え直す時期が来ているのではないだろうか?






オリンピックは、カタチを変えた「感動ポルノ」かもしれない

2021-06-17 20:19:57 | 徒然

文春のWEBサイトに、バッハIOC会長の記事があった。
文春オンライン:東京五輪へ猪突猛進…日本国民猛反発でもバッハ会長が自信満々でいられるワケ

この記事を読んで、バッハ会長は今回のことだけではなく、サッカーの国際イベントまで関係していたのだな~ということを知った。
それは「本人の経歴に傷がつかない」という部分だ。
ここに書かれている内容を読んで、「あ~~あのことか!」と思い出された、サッカーファンはさほど多くはないかもしれない。
記事中にあるドイツのA社というのは、アディダス社のことであり、日本の大手企業というのは電通のことだ。
この2社がつくった、スポーツイベント会社(記事中ではスポーツマーケティング会社となっている)が、ISL社だった。
そしてこのISL社が絡んだスポーツイベントというのが「FIFAクラブ世界選手権」というサッカーの国際大会だった。
ただ開催する予定であった年に突然倒産をし、サッカー大会そのものが宙に浮き、カタチを変え「FIFAクラブワールドカップ」という名前になった、という経緯がある。
この第1回目を仕切り、第2回目を頓挫させた企業がISL社の倒産によるものだった。

しかし、この倒産劇も噂レベルでは「計画倒産」だったのでは?ということも、ささやかれていた。
というのも、設立に関わっていた電通が早々に手を引き、アディダス社についても、さほど大きな損害があったという話も聞かず、この倒産そのものがウヤムヤになってしまったからだ。

このような経過から、バッハ会長はスポーツをあくまでもビジネスとして捉えているのでは?という気がしたのが、この部分だったのだ。
であれば、バッハ会長にとっての「ビジネスとしてのスポーツ」は何を売っているのか?と、考えると、それはおそらく「感動」なのではないだろうか?
「感動というショーを見せる」というのが、IOCをはじめとする関係団体や企業にとって、今現在のオリンピックの位置づけなのではないだろうか?

日本人にとって、オリンピックそのものが、他のスポーツイベントよりも親しみがあり、様々な競技を見ながら「感動をする」。
「感動すること」が、悪い訳ではない。
このオリンピックを提供する側が「感動的でしょ。感動しないはずがないよね」という、感覚を持ってテレビ中継なり報道なりをするような仕組みの中で、多くの人たちが「感動をありがとう」と感じているのでは?という、気がしてきたからだ。

IOCをはじめ関係団体や企業にとって「ビジネス」という位置づけであり、ISL社の倒産劇などを見ると、受け手となる人達のことなど関係はない、と感じ・考えているのでは?という、気がしたのだ。
だからこそ、日本だけではなく海外からも「東京オリンピック中止論」が出ても、平気で推し進める事ができるのだ。
何故なら、ビジネスとして巨額の金銭が発生し、それによって儲けるチャンスだからだ。

「選手たちには関係ない」という意見が大半だと思うのだが、それでもオリンピックに出場することで、それまでマイナーだったスポーツにスポットライトが当てられ、スポンサー企業が出てくるという意味では、選手たちにとっても「自分の存在価値」を示す場であり、スポンサー探しの場でもある、と考えられる。
それが悪いのではない。
ただ、日本人が抱くオリンピックのクリーン過ぎるイメージが、バッハ会長をはじめとするIOC関係者やNBCのような放送権などの利権関係企業、などにとって都合が良かったのでは?ということなのだ。