日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「Made in Japan」を当たり前に買うことができる、そんな経済が必要だ

2021-08-31 19:11:18 | ビジネス

1週間ほど前に、現在ニューヨークでジャズピアニストとして活躍されている、大江千里さんのエッセイが、話題になった。
Diamond On-line:大江千里氏が「ラーメン1杯2,200円」の米国から語る、安い日本の深刻問題

この記事を読んで「ラーメン1杯2200円とは流石に高価過ぎないか?」とは思ったのだが、今の日本人の商品やサービスに対する「価格」と「対価」が、極端に安くなっているのでは?という点では、頷く内容だった。

昨年から世界を襲い続けている「新型コロナウイルス」。
日本での感染拡大の状況の中で、様々な企業が倒産や廃業に追い込まれてきた。
その多くは、飲食店のように「感染拡大」に直結するような業種も数多くあったが、その一方で今までクローズアップされてこなかった、中小零細の製造業の倒産等も明らかになってきた。

その理由は、海外からの安いアパレル等の調達が減ってきたコトで、国内生産に対して注目を浴びるようになったが、国内でアパレル製造に関わる中小零細企業の取引先の多くは、日本国内ではなく海外の高級ファッションブランド等で、今回の「新型コロナ」で打撃を受けていた、ということのが理由の一つだった。

このようなニュースを聞く度に感じていた事が「Made in Japan」のアパレル商品が、当たり前に買えなくなってどれほど経つのだろう?という疑問だった。
今や「Made in Japan」の商品そのものが、手に届く商品ではなくなりつつある。
家電のような大量生産品であっても、半導体等の部品は海外から調達している、というのが現実だ。
何故なら、日本で調達すると金額が跳ね上がってしまうためだ。
頻繁に買い替えるようなものではないにしても、「少しでも安く」という気持ちが働いているのが、今の日本の生活者、ということなのだと思う。
そのコトを否定する気はないし、実際私も欲しかった商品がバーゲンや型落ちで、安くなっていると「買ってみようかな?」という気持ちになる。
「安い」ということが、悪いとは言えないと思っている。

ただ上述したように、高度成長期の日本の経済を支えることができたのは「Made in Japan」の商品を、当たり前に購入することができるだけの収入があったからだ。
「今のようなグローバル経済の中で、何を夢のような話をするのか?」というご指摘はあると思う。
だが、地方経済の落ち込み等を知ると「グローバル時代だから」という言葉が、むなしく感じられるのだ。
生活基盤となる「収入」が増えない限り、「国内消費」は増えないのでは?ということなのだ。
とはいうものの、経営環境が厳しい中で働く人の収入を上げる、ということもまた、難しいというのが現状だと思う。

一方で、「アウトレット(リサイクル)市場」のようなものを創っていくことで、「Made in Japan」の商品を手に取りやすくなのではないだろうか?
このような市場は、企業側にとって「ブランドイメージが下がる」という理由で、消極的だったが今では「SDGs」等の取り組みの一環として、委託形式で販売する業者も増えてきている。

何が何でも「新品」でなくては!という方もいれば、「型落ちや在庫一掃品でも、品質が良く手ごろな価格であれば、問題ない」という方もいる。
生活者の「購入の選択肢」を増やしつつ、「Made in Japan」の商品があたりまえに購入できる経済にならなくては、日本経済の復活はないかもしれない。

 


イベンター一社によって、すべての興行が白い目で見られる

2021-08-30 19:09:54 | アラカルト

昨日、愛知県の常滑にある「アイチ・スカイ・エキスポ」で開催された、ヒップホップイベントについて批難が巻き起こっている。
地元の常滑市長をはじめ、会場となった「アイチ・スカイ・エキスポ」の管理者である愛知県知事が相次いで、声明を出している。
もちろん、イベントに関する批判だ。
毎日新聞:愛知の野外フェスで密状態 主演のZeebraさん「危険な状態だった」

確かに、一部メディア等で報じられているイベントの写真を見ると、「一体どこにソーシャルディスタンス?」という位「密」状態だ。しかもマスクはしていない。唯一、野外であるため換気の心配だけは無さそうだ。
ただ、お盆明けの週末に開催された「フジロック」に対する批判が上がる中、主催者側はよくこのようなイベントを開催できたものだ、と驚いている。

驚くのは、これだけではない。
今日、主催者側が「お詫びと経緯のご説明」という文を発表しており、その文面を見る限りでは「この会社がこのようなイベントをしてはいけなかったのでは?」という、気がしている。

主催者側は、
①8月20日までに8,000枚のチケットを完売していた為、入場制限ができなかった。
②飲酒はダメだと分かっていたが、一部キャンセルできないものがあったため、愛知県の担当者と協議の上、1人2杯を上限として了解を得ていた
③販売杯数管理の為、飲酒チケットを販売していた(本当のところは、売上管理の為だったのでは?と、考えている)
④ソーシャルディスタンスを保つために、ステッカー等を貼り、エリア外での飲食を禁止、飲食時以外でのマスク着用のお願いをしていた
等がお詫びと共に書いてあるのだが、これらのこと自体、どこかおかしい。

おそらく「フジロック」でのチケット販売は、通常の販売枚数の1/2~1/3程度だったのではないだろうか?
中止となった野外音楽イベントも、元々チケットの販売数を通常よりも大幅に減らしていたはずだ。
野外音楽イベントとなると、席が決まっているわけではないので、ブロックごとの割り当て人数も事前に相当減らすことで、何とか「ソーシャルディスタンス」が保て要るような策をとっていたはずなのだ。
にもかかわらず、8月20日までチケット販売を続けていた、ということがおかしいのでは?
8月18日時点で、既に5,000枚のチケットを販売しているのだから、その時点でチケット販売を中止すべきだったし、同時に払い戻しの告知をすべきだったのだ。

酒類の販売についても、キャンセルができないのであれば、買い取りをすればよいだけなのでは?
どれほどのキャンセルができない酒類があり、販売することになったのかは不明だが、飲酒用のチケットを販売するために来場者数×2の飲酒用チケットを用意していた、と考えるのが自然だと思う。
当然のことながら、過去に起きたクラスターの中でも、若い人たちの場合は「飲酒を伴う会合」が多かった。
今年の春には、そのようなことは判明していたにもかかわらず、最初から飲酒販売を想定していた、と考えるべきだろう。

何よりもこれらの「お詫びと経緯についての説明」文には、自分たちの認識の甘さによってこのような事態を招いた、という意思が全く伝わってこない。
会場を貸した愛知県の担当者と相談しながら、対策をとっていった。
開催前までに販売したチケット枚数が多かったので、対応しきれなかった。
等々、言い訳じみた内容ばかりなのだ。

このような言い訳じみた内容の「お詫びと経緯説明」等されると、9月以降予定されている様々な音楽イベントの関係者に対して、世間の目は厳しくなる。
多くの主催者側は、販売席数を大幅に減らし、ソーシャルディスタンスが保てるような席順等、ミュージシャン側も観客側も「音楽を楽しむために万全の策」を互いにとる努力をしているはずだ。
にもかかわらず、このようなイベンターの存在によって、今後予定されている音楽イベントが中止になる可能性があるとすれば、音楽イベント全体に多大な損失を与えたという認識はほぼ無く、イベンター失格会社が金儲けで開催した、ということになると思う。


理解が得られる支出だろうか?-フジロックへの補助金最大1億5千万円-

2021-08-27 19:20:57 | ビジネス

先週、メディアから様々な取り上げられ方をした、「フジロックフェスティバル」。
フェス終了の翌日か翌々日には、参加者及び観客の「新型コロナ感染者がいなかった」と、発表された。
東スポWeb:フジロック事務局が終了の報告「現時点での陽性者ゼロ」にネット上厳しい意見も

この東スポの記事が掲載された翌日、フジロックフェスティバルに行っていた人が、本当に感染していたのか判断をするには早すぎる、という指摘もされた。
Livedoor News:「感染者なし」を発表したフジロック 医学部教授は「今の段階では・・・」

確かに、無症状の「潜伏期間」を経て、発熱や味覚障害等の症状が現れる、という指摘は「新型コロナ」の感染が確認された1年以上前から指摘されているコトだ。
フジロック事務局が「陽性者ゼロ」というのは、参加したミュージシャンやスタッフ、観客の中に「PCR抗体検査」を事前に受けた人の中にはいなかった、という意味であって、フェスに参加していたミュージシャンやスタッフ、観客の中に「潜伏期間内の陽性者がいなかった」という説明にはなってはいない、ということになるだろう。

今の「新型コロナ感染拡大・第5波」という状況の中で、半ば強行された感のあった「フジロックフェスティバル」であった、ということもあり一部のメディアは、見当違いな「県外ナンバーの車が多かった」という報道をしていたが、それよりもこの「フジロック」が、経産省の「コンテンツグローバル需要創出促進事業費補助金」の対象となっていた、ということのほうが、一般生活者にとって興味があることなのでないだろうか?
朝日新聞:フジロック、経産省が補助金最大1.5億円支出へ

生活者の中には「子どもの運動会等のイベントが自粛になっているのに、フジロックは補助金が1億5千万も出るのが、納得がいかない」という方や「感染拡大を促進するようなイベントに税金が使われることに、疑問を感じる」という方もいらっしゃるだろう。
中には、政府の「新型コロナ対策」や「東京オリンピック・パラリンピック開催」に対して批判的だったミュージシャンが出演していたのに、政府が補助金を出すのは変ではないか?と、思う方も少なからずいらっしゃると思う。

それぞれの立場での言い分は、あるとは思うのだが、気になったのは「フジロックフェスティバルが、『コンテンツグローバル需要創出促進事業』であったのか?」という点だ。
これまで通り開催されていれば、海外からのミュージシャンが数多く出演し、そのミュージシャン目当てに来日する音楽ファンも数多くいただろう。
しかし今回は、観客を相当減らしただけではなく、海外から参加するミュージシャンもいなければ、そっらのミュージシャン目当てに来日するような海外のファンもいなかったはずだ。
とすると「コンテンツグローバル」な音楽イベントだったのか?という、疑問が出てくる。

中止となった野外音楽フェスに対する補助金などは、これからの音楽産業の中でも音楽ライブの中心である「野外音楽フェス」に対する補助金として使われるのは、納得もできる。
それが、半ば強行に開催された「野外音楽フェス」となると、公平性という点でどうなのだろう?
政府が打ち出す政策の基本は、「公平性」ではなかったか?
クラシックやジャズのような音楽ジャンルのコンサートを含め、その「公平性」という点で違和感というか疑念を感じてしまうのだ。


ブランドイメージを守るーDHCとのコラボを中止したムーミンー

2021-08-25 13:00:35 | マーケティング

昨日、通販化粧品の大手の一つDHCとのコラボ中止を発表したムーミンの管理会社。
Huffpost:ムーミン、DHCとのコラボ中止へ 本国の著作権管理会社がコメント「いかなる差別も容認しません」

このニュースを知った時「やはりな~」という気がしたのは、私だけではないと思う。
というのも問題になったDHCの社長の発言により、取扱をしていたコンビニ等に対して「取扱中止」を求める「#差別企業DHCの商品は買いません」と言った、生活者側からの不買運動が起きたりしていたからだ。
このような動きを受け、ムーミンの本国の著作権管理会社がコラボの中止を申し入れた、という印象を受けるのだが、おそらく申し入れ等は、随分前にあったのではないか?と想像している。

ご存じのように、ムーミンの作者・トーベ・ヤンソンは、今でいうLGBTQだった。
ヤンソンが生きていた時代に、LGBTQであるということを告白すること自体、難しかったのでは?と想像することはできる。
そしてヤンソンの出身が、このようなLGBTQを含め人権に対して意識の高い国である、ということも今回のコラボの中止申し入れに大きく影響していると、考えることができる。

それだけではなく、「ムーミン」はカワイイだけのキャラクターではない、という点も大きいのでは?と考えている。
事実日本で初めて「ムーミン」が紹介されたのは、日曜日の夜に放映されていた「カルピスまんが劇場」という、児童文学のアニメ番組だった。
この「まんが劇場」のシリーズには、「フランダースの犬」や「母をたずねて三千里」、「アルプスの少女ハイジ」と言った名作アニメを数多く放映していた。
あくまでも「ムーミン(シリーズ)」は、児童文学の一つであり、登場するムーミン一家やミイは独立したキャラクターではないのだ。

そのようなコトを考えても、化粧品のキャラクター扱いというのは、不満な部分があったのでは?という、気がしているのだが、ビジネスとしての現実的な判断の中ではOKとなったのでは、ないだろうか?
とはいうものの、上述したようにヤンソン自身がLGBTQであったコト。ヤンソンの出身地がフィンランドという「人権問題」に対する取り組みが厳しい(このような傾向は、全世界的な流れとなっているのは、ご存じの通りだ)国である、ということ等から考えれば、DHCの社長の「差別的発言」は、受け入れることができなかった、ということだろう。

作者・トーベ・ヤンソンは、このような発言をする企業トップの企業とのコラボをどう考えるのか?、と考えた時中止という判断をしたのは、ヤンソン自身の考えを守っただけではなく、「ムーミン」という児童文学の価値(=ブランド価値)を守ったということになる。

日本では、ムーミンに限らず、海外の児童文学の主人公をキャラクター化し、物語とは別のような扱い方をする傾向があるが、ブランド管理という点ではキャラクターイメージを守るだけではなく、その物語そのものの世界観を守るという考えが必要である、ということをこの問題は教えてくれている。






現実を直視する-新型コロナによる医療崩壊-

2021-08-24 20:43:03 | 徒然

Huffpostにひときわ目を引く記事があった。
Huffpost:京大病院は真っ赤な声明で訴えた。”災害レベル”のコロナに「危機感を感じて」

「真っ赤な声明」というのは、真っ赤な文字で訴えているのではなく、真っ赤な背景に白抜きの文字で、京都市内を中心とした「新型コロナウイルス感染症重症患者受入れ医療機関」の院長連名による、病院の窮状を訴える内容だ。
「赤地に白抜きの文字」というのは、確かに目を引くし、そもそも「赤」という色は、危機的状況を視覚的に訴える効果が高い。
それほどの危機感を持っての声明、ということになるのだと思う。

何故このような声明を京都市内の「新型コロナ感染症重症患者受入れ医療機関」が出したのか?と言えば、ご存じの通り感染者数が、増加の一途をたどり続けているからだ。
そして、「自宅療養中」であった軽症~中等症程度の感染者の方が、いきなり容体が悪化しまともな治療を受けることができずに亡くなる、というケースがここ2週間位の間で増えている、という現実があるからだろう。

「Triage」という言葉がある。
「Triage=命の選別」ということだ。
昨年、爆発的に感染者が増えていた米国・ニューヨーク市では、野戦病院のようなところで横たわる「新型コロナ感染者」の姿をとらえて写真が、ニュース等で取り上げられていた。
この写真を見た時、思い浮かんだ言葉が「命の選別」だった。
「命の選別」という表現は適切ではないと思う。
ただ今の日本の「新型コロナ感染者」に対する、対応策は「命の選別」をせざる得ないのでは?という、気がしている。

1年半以上続く、終わりのない「感染症との闘い」で、医療者自身も限界に達しているはずだ。
そのような状況であるにもかかわらず、「安心・安全」というお題目を繰り返し、なし崩し的にオリンピックを開催し、今日からはパラリンピックが開催される。
「(海外から人を受け入れる)オリンピックがOKなら、自分たちのある程度の自由行動はOKだろ」と、生活者が思っても仕方ない。
そのような生活者の気持ちの中で、感染者が増え続けまともな医療を受けることができず、亡くなる人達がいる。
中には妊婦さんが亡くなる、という状況に陥っている。
いうなれば「既に医療崩壊になっている」と言っても過言ではないはずなのだ。
にもかかわらず「医療崩壊」ということを言わないのは、それを認めることは政府の「新型コロナ対策の失敗」を認めることになるからなのでは?

政治家のプライドではなく、現実を直視した医療体制をつくる時期に来ていると考えている。


 

 

「音楽フェス」という、ビジネスモデル

2021-08-23 18:24:44 | ビジネス

昨日まで新潟県で開催されていた、「フジロックフェスティバル」。
一昨年までであれば、海外からの参加ミュージシャンもいて、日本最大級の「夏の野外フェスティバル」として、音楽関係者がこぞって出かけていたはずだ。

昨年は「新型コロナ」の感染拡大により、中止。
海外からのミュージシャン参加は叶わなかったが、2年ぶりの開催となった。
今回の開催については「新型コロナが収束をしていないのに、開催は無謀だ」という意見もある中での開催で、ライブ配信等もされたようだ。
そのような状況下での開催だったこともあり(?)、普段は「野外音楽フェス」等に興味が無さそうな、一般紙などでも盛んに取り上げられていた。
取り上げられた内容は、「県外ナンバーのクルマが大挙している」とか、「密状態で盛り上がる観客」等の内容が多かったように感じている。
朝日新聞:フジロックッフェスの人出、6割は東京から 地元は5%
ディリー新潮:「フジロック」で記者は見た 東京ナンバーの車が大挙、”酒ナシ”でも”密”に踊る若者たち

その実態を報じることは大事なことなのだが、そもそも「野外音楽フェス」の会場となるのは、首都圏近郊では難しいという点がある。
何故なら、観客動員数に似合うだけの野外会場が、東京周辺にはほとんどないからだ。
例えば、中止になった「ロッキンオン」は、国営ひたち海浜公園(茨城県)で開催される予定だった。
そして「夏の野外音楽フェス」の中でも一番開催回数が多い「フジロックフェスティバル」は、第1回目こそ山梨県の「富士天神スキー場」で開催されたが、2回目以降は会場を現在の新潟県湯沢町に移して開催している。
理由は、開催自治体からの「中止」の申し入れがあったからだと言われている。

その一方で、音楽を聴く若者たちは圧倒的に東京を中心に都市部に集中している。
何も若者だけではない。日本の都市別の人口構成を見れば、日本の音楽市場の中心は東京を中心とした都市部である、ということがわかるはずだ。
そのことを考えれば、東京ナンバーの車が「フジロック」の会場となった湯沢町に、大挙して押し寄せることぐらいわかるはずだ。
むしろ、このようなコトが記事となるのは、上述した通り「コロナ禍」で数々の「野外音楽フェス」が中止される中、「フジロック」が半ば強行されたからだろう。

ただ、このような取り上げられ方を見ると、日本のメディア関係者やビジネス関係者は「日本の音楽ビジネス」の成功モデルとなっている「野外音楽フェス」というビジネスモデルを知らない、あるいは興味を持ってこなかったのでは?という気がする。
今や「野外音楽フェス」は、一つの「ショーケース」となっている。
ロックミュージシャンの後に、アイドルグループが登場する等、「野外音楽フェス」に行くことで様々な音楽と出会うことができる、というメリットが観客側にはある。
通し券を買っても1万数千~2万円程度で、いくつものミュージシャンのライブがみられるという「お得感」があるのだ。

観客側にとっての「お得感」は、出演するミュージシャン側にとっては「自分を売り込む絶好の機会」ということになる。
もちろん、会場で販売される「グッズ」等は、レーベルや所属事務所に大きな利益となる。
と同時に、会場となる自治体にとっても大きなお金が落ちる、絶好の機会でもあるのだ。
「野外音楽フェス」は、通常週末2日間行われることが多く、会場も2~3会場に分かれている場合がある。
当然、やってくる観客は会場となる地域で宿泊することになる。
宿泊すれば、飲食も発生するし、会場までの交通機関も利用されることになる。
何より、「野外音楽フェス」はリピーターが多い、という特徴もある。
自治体にとっても、それなりのメリットがあるのが「野外音楽フェス」でもあるのだ。

このような自治体を巻き込んで、ミュージシャン主体となって行われる「野外音楽フェス」の一つが、西川貴教さんが、故郷・滋賀県で行う「イナズマロック」や、秋田出身の高橋優さんの「秋田キャラバン・ミュージックフェス」だろう。
いずれも「コロナ禍」での中止・延期となってしまったようだが、最近ではこのようにミュージシャンが自分の出身地でフェスを行う、という傾向もみられるようになってきている。
出身地でフェスを開催するミュージシャン側としては「故郷への恩返し」のような気持ちもあるだろうし、受け入れる自治体側にとっても経済的メリットだけではなく、地域のネームバリューがアップする、という期待もあるからだ。
場合によっては「聖地巡礼」と称して、フェスとは関係なく旅行に来るファンもいるかもしれない、という期待があるはずだ。

とすれば、今は「野外音楽フェス」は、開催地域にとっても様々なメリットのある「ビジネスモデル」となっている、ということなのだ。




「コロナ禍」の中、日常を取り戻しつつあるのか

2021-08-22 21:51:48 | アラカルト

今日のお昼、所用があり繁華街へ出かけた。
「以前、栄に来たのはいつだろう?」と、思い出せないほど随分前に行ったこともあり、「浦島太郎状態」だった。
地下街には、新しいお店が幾つもでき、どのお店も賑わっている。
昨年の春頃のような「自粛」によるシャッターが閉まった地下街ではなく、「コロナ禍」になる前のような印象すら持った。
それは、地上でも同じで栄から矢場町までの「名古屋で一番人通りが多い通り(だった)」は、以前と変わらない人出だった。

もちろん、この暑い最中でもマスクをし歩いている、光景は以前とは大きく違うが、久々に出かけた私にとって、「こんなに人が出かけているの?」と、驚くほどだった。
既に、東京・銀座等では以前と変わらないほどの人の行き来がある、と新聞各社のWebサイト等で知ってはいたのだが、名古屋でも同じような状況であった、ということに驚きのようなものを感じたのだった。

多くの人がこのように出かけるようになったのは、ワクチン接種が進んだということもあるだろう。
だが、「東京オリンピック」が開催されたコトのほうが、出かける動機となっているのでは?という、気がしたのだ。
「東京オリンピック」では、様々な感染防止対策がとられ、競技が行われたということになっているが、その実関係者から「新型コロナ」の感染者が、毎日のように出続けた。
その情報は、新聞よりもネットで取り上げられ、瞬く間に全国に知れ渡っていった。

「東京オリンピック」だけではなく、Jリーグやプロ野球等も有観客での開催が始まり、「フジロックフェスティバル」等も「感染対策を十分に行った上で」開催されたはずだが、報道された写真等を見る限り、「コロナ以前」ほどの観客数ではないが、映画館等でとられているような「ソーシャルディスタンス」が保たれているとは思えず、客席が無くスタンディングでブロックごとに仕切られているだけ、という状況の為に、「感染拡大の懸念」がされるような指摘がされている。
しかも、来場者の多くが東京都内のナンバーのクルマで出かけている。
「今一番感染者が多い、東京から感染者数が少ない地方にクルマで、大挙して集まっている」ように、見えるのだ。
ただ救いがあるとすれば、野外であるため「常時換気されている」という状態が保たれている、という点だけだろう。

爆発的な感染者数が出ているにもかかわらず、生活行動そのものは「マスクをしながら、以前のような生活」に戻りつつあるのかもしれない。
そして、ワクチン接種が進めば、「マスクをしない、以前のような生活」になっていくのだろう。
その日が今年中なのか、来年なのかは分からない。
ただ、このようにして「コロナ禍以前の生活」に戻っていくのかもしれない、と感じたのだった。


中づり広告が無くなる

2021-08-20 19:52:08 | ビジネス

先日、「週刊文春」等が、電車の中づり広告を取りやめる、というニュースがあった。
朝日新聞:週刊文春、中づり広告を終了へ「一つの文化だった」

確かに、スマホの普及と共に電車に乗っている人たちは、中づり広告を見ることなく、スマホの画面を凝視するようになった。
それは、朝の通勤電車で見られた「日経新聞」を折りたたんで読んでいる、サラリーマンの姿を見なくなったのと、同じ頃からかもしれない。
今や通勤電車で新聞を読む人も、中づり広告を見上げながら電車に揺られている人も「絶滅危惧種」のような存在、となっているのかもしれない。

そのように考えると「時代の変化」によって、広告の在り方も変わる必要があるのだから、中づり広告が消えていくのも時代の変化、ということになるのだと思う。
思うのだが、どことなく残念な気がしている。
その「残念な気がする」のは、リンク先の見出しにある「一つの文化」という意識が、私の中にあるからだろう。

雑誌の中づり広告だけとは限らないのだが、決められた大きさの中でどのような言葉を使い、人の気持ちをつかむのか?ということは、広告制作では「基本中の基本」だ。
いわゆる「キャッチコピー」と言われるモノだからだ。
ズルズルと長い文章ではなく、記事の趣旨を伝えながら人の気を引く、という言葉を探すことは、その語彙力の多さだけではなく、言葉を選択するという力も必要になる。

もちろん、週刊誌の中づり広告の記事紹介となる文には、読者の興味を引くだけではなく、反発を呼ぶようなものも数多くあった。
権力者を引きづりおろすような記事紹介の時は、センセーショナルな見出しの時もあったし、タレントさんのゴシップ記事は、事実かどうかという点は不明にしても、どこか面白おかしく書き立てていたような印象を持ったこともあった。
「有名税」という言葉で、犠牲になったタレントさんも数多くいたはずだ。
ただそれらすべてを含め「中づり広告」もまた、その時々の時代を表す言葉であったはずだ。

そのような「言葉」と出会うことが無くなると、今まで以上に「言葉に対して、敏感で無くなるのでは?」という、懸念を持っている。
ネット上で氾濫している様々な情報の言葉は、断定的な表現が多いだけではなく、言葉そものもが短い。
「断定的で短い言葉」は、「分かりやすい」ような気がするのだが、受け手となる人の語彙力と言葉に対する想像力によって、その受け止め方は随分変わってしまうことがある。
何より怖いと感じるのは、それらの言葉遣いが「全体主義的」な動きがある現政権にとって、生活者の思考停止を生みやすい環境となっているのでは?という、懸念すら持っている。
特に、現総理も前総理も「言葉」そのものに対して、軽んじている方々なので、ますます「少ない言葉で、紋切型の言葉遣いをする」ことで、問題の本質から逃げ回っている、と感じている方は多いかもしれない、という点が救いなのだが…。

問題となるのは、デジタルネイティブと呼ばれる世代だ。
スマホやPC等「短い・言い切り型や紋切型」の言葉に触れることばかりだと、「言葉」に含まれる様々なニュアンスや行間・文字間にある潜在的言葉をつかみ取ることができなくなるのでは?という気がしている。
「言葉」そのものは文化の中心であり、「言葉」があるからこそ後世に伝わる考えや意思がある。

「中づり広告」にそれほどの力があるのか?というのではなく、自分が選ぶ情報以外の言葉や文章を見なくなるコトで失われていくモノ・コトがあり、気づいた時には手遅れになっているのでは?と、心配している。


富裕層の消費が変り始めた?

2021-08-19 17:54:55 | ビジネス

拙ブログでも時折紹介をさせて頂く、WWDJapanというファッション専門誌に、「富裕層の消費」についての記事があった。
WWD Japan:コロナ禍の富裕層の消費動向”海外旅行から高額消費へ”

有料会員向けの記事なので、全文を読むことはできないのだが、どうやら「コロナ禍」で様々なモノが動かない生活が1年以上続いていることで、富裕層に「消費意欲が高まりつつある」ということのようだ。
中でも、ハイジュエリーと言われる高額な宝飾品に動きが出てきている、ということらしい。
その大きな理由が、豪華な海外旅行ができない、ということのようだ。

確かに「コロナ禍」では、生活者の行動制限がされている。
ワクチン接種が進んだ諸外国でも、新しい変異株による新たな感染拡大という状況となり、「ロックダウン」ほどではないかもしれないが、人の移動制限をするような動きも出ていた。
この「コロナ禍」では、いくらお金があっても「旅に出かける」ということ自体ができない、という状況にあるのだ。

だからと言って、富裕層の多くは先祖から引き継いだ資産によって、自分が働かずとも膨大なお金が自然に入ってくる。
いわゆる「不労収入」による額が、半端ないほど多いのだ。
「富が新たな富を生む」という仕組みの中で、行き場を良しなった購買意欲がハイジュエリーの購入へと向かわせている、ということなのだろう。

豪華な旅行ができないために、ハイジュエリー等の様な「生活には関係がない高額商品」を購入するのは、来るべき「コロナ禍」収束後の豪華な船旅等の為なのかもしれない。
とすれば「コト消費からモノ消費」へ移った、と考えるのは早いのかもしれない。
少なくとも、今の世界情勢を考えると「資産をハイジュエリーに交換して、来るべき社会的危機に備える」という、状況ではないと考えるからだ。

と同時に「富裕層」の消費を社会的意義のある消費へと、変えていく必要があるのでは?という、気がしている。
日本を含め、先進諸国の社会的問題の一つとして挙げられるのが、「経済格差」だ。
世界中の富みの内数%の富裕層が持っている、という指摘は随分前からされてきているが、その格差は広がるばかりだ。
「富の再配分」など無いに等しい。
とすれば、ハイジュエリーだけではなく、ハイブランドのファッションを扱う有名ブランド等が、積極的に「富の再配分」に向けたアクションを起こす、という発想が必要になってくるように思う。
それが時には「新疆ウイグル自治区」を取り巻く問題であったり、SDGsに関連する問題解決であったりするのであれば、そのようなコトに興味がない「富裕層」の消費が、再配分されるのでは?

社会問題に対して興味が無い(無さそうな)生活者層に対して、「知らず知らずのうちに、社会的問題解決に参加するモノ・コト消費」という発想が、富裕層向け消費には必要なのかもしれない。







再生エネルギーとマーケティング…コトラーの言いたいこととは

2021-08-17 18:43:49 | マーケティング

Huffpostをチェックしていたら、コトラーの名前が出てきた。
マーケティングに携わる方であれば、コトラーという名前を聞けば「新刊を購入せねば!」という、感覚になる方も多いのではないだろうか?
それほど、マーケターにとってコトラーの新刊は、常に新しい何かを感じさせてくれるものがある。
Huffpost:コトラーを愛読するマーケターこそ「再生エネ」に注目せよ。最新刊『マーケティング5.0』を読み解く。

記事のリード部分を読んで、コトラーは「マーケティングの父」から「マーケティングの神」になったのか?と、やや驚くような部分もあるが、コトラーの著書にはそれだけの「社会の変化をキャッチアップする」内容が多いのも事実だ。
だからこそ、コトラー信望者となる経営者はとても多い。
特に、日本の経営者は、コトラーの愛読者が多いのでは?という、気がしている。

記事にある通り、コトラーの『マーケティング5.0』は、日本ではまだ発刊されてはいない。
そのため、全体の内容は分からない部分が多いのだが、コトラーが示唆しているとされる「再生エネルギー」については、既に日本でも政府が「再生可能エネルギーへの転換」を打ち出し、その目標も設定された。
NRI:新たな電力源構成の目標数字は固まるも、実現可能性は見えてこない

日本政府がこの目標を打ち出した時、話題になったのは「CO2削減の為の原発依存から再生エネルギーへの転換」という点だったと思う。
これまで「原発は低コストでCO2削減の切り札」のような説明をしてきたはずの、政府の方針転換には驚いた。
ただ現実問題として、2030年を目標としたCO2削減の達成は、厳しいような気がしている。
このような目標を政府が打ち出したのには、EUや中国等が「HV車を含むガソリン車の販売停止」という発表があったからだろう。

確かにEV車の普及により、車からのCO2削減は可能だろう。拙ブログでも過去何度か指摘させていただいているが、EV車の普及は単にクルマによるCO2削減策という意味ではない。
むしろ、EV車を安定的に供給させるエネルギーそのものが「CO2の削減ができるモノではなくては、意味がない」ということをコトラーは指摘しているのでは?という気がするのだ。
だからこそ「再生エネルギー」に注目せよ!ということになるのだ。

今現在「再生エネルギー」の中心は「太陽光発電」と「風力発電」だろう。
「太陽光発電」に関しては、公共建築物への「太陽光パネル」の設置が義務付けられるようになる。
日経新聞:太陽光パネル、公共建築物は原則設置  住宅は義務化せず

個人的には、太陽光発電や風力発電の様に「自然エネルギー」を利用する、「再生エネルギーシステム」だけで、政府の目標を達成することは厳しいのでは?という、気がしている。
むしろ、下水からメタンガスを取り出したり、魚なのの加工場で処理しなくてはならない、アンモニアを活用したエネルギー供給のほうが、日本に向いているのでは?という気がしている。

いずれにしても、コトラーが指摘しているのは「目に見える=自分たちが使うエネルギー」そのものが、今のような化石燃料等によるものではなく、様々な生活から排出されるモノを利用し、エネルギーへと転換し使うというシステムが、社会だけではなく、国家間のエネルギー政策のイニシアティブをとることになり、それらの技術やシステムが世界のスタンダードになる(=スタンダードを獲得した国は、大きな利益をもたらす)ということなのでは?という、気がしている。