日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

岸田首相Jr.の破壊力

2023-05-27 20:25:29 | 徒然

数日前から、話題になっている岸田首相の秘書をされているご子息。
昨年暮れ、官邸で友人を呼び酒盛りをし、調子に乗って新閣僚の記念写真をする場所で、そっくりそのままのシチュエーションで記念写真を撮ったと、叩かれている。

ネット上だけなのか、どうなのかはわからないが「若気の至り」というには、言い訳にもならないような気がする。
このご子息、この問題が発覚する前にも話題を提供している。
欧州に行った際、仕事そっちのけでタクシーで観光地巡りをし、ロンドンの高級百貨店・ハロッズで買い物三昧をしていた、ということが昨年の暮れに発覚していた。
この時も、今回も岸田首相はご子息を秘書から外すことなく、続投させている。
おそらく、ご自身の後継者として政治の道を歩ませる為に、と考えているのだろう。

日本では、選挙に勝つためには「3つの要素が必要」と言われている。
それが「地盤・看板・カバン」だ。
地盤というのは、選挙区内にしっかりとした支持団体がある、ということ。
看板は、いわゆるブランド力だ。
世襲議員の場合、代々引き継がれた「ネームバリュー」がある。
その「ネームバリュー」があれば、厳しい選挙戦も勝ち抜くことができる、という訳だ。
そして最後の「カバン」は言わずと知れた「選挙資金」のことだ。
有権者にお金をばらまくようなコトは、公職選挙法で禁じられているのでこの時の「資金力」というのは、選挙の告示前から選挙区に頻繁に顔を出し、冠婚葬祭では礼を欠くようなコト祖しないように、挨拶に伺うということだ。
例え本人でなくても、家族がそのような場に赴き、一言挨拶をすることが後々の選挙に影響を与える、ということだ。

そう考えると、岸田首相のご子息は既にこの選挙で勝つための「3要素」を持っている、ということになるだろう。
世襲が選挙に強い、という理由はこのような「選挙戦に勝つための3要素」を最初から持っているからだ。
その為、多くの議員は自分の息子に跡を継がせるため、秘書として起用し身近なところで「勝つための選挙」を教えこませるのだ。

そのような「3要素」に恵まれた世襲議員が議員として、選ばれ続ける事に対して「どうなの?」と、疑問を呈したいのだが、そのような選択基準で候補者を選ぶ人達が多い、ということも事実だろう。
これまでの「世襲議員となるため、秘書として仕事をしてきた子息」は、あまり目立つ存在ではなかった。
父親の後ろに、控えかばん持ちのようなところから、「議員になるための準備をしている」からだろう。

しかし、岸田首相のご子息はそのような「枠に収まる」ような人材ではなかったようだ。
それが、欧州訪問が観光地巡や買い物三昧という行動であったり、今回のような新閣僚の記念撮影を酔った勢い(とは思えないのだが)でやってしまうからだ。

批判が起きるのは当然だが、逆の考えると岸田首相Jr.の破壊力はこれまで明らかにされてこなかった「世襲議員の秘書時代の姿」の一部を知らしめてくれた、ともいえそうだ。
いくら「選挙に勝つための3要素」を親から引き継いだとしても、これほど世間から批判を集めるような行動が目立てば、岸田首相Jr.本人に政治家としての資質に疑問を感じるだろう。
それだけではなく、秘書としてご子息をかばい続ける岸田首相自身に対しても、秘書として使い続ける事に「親ばかにもほどがある」と選挙区での支持基盤を失いかねない問題となるはずだ。
そのように考えると、岸田首相Jr.の破壊力は凄まじいモノを感じるし、選挙区内の有権者にとっても良かったのではないか?と思うのだ。


「ステークホルダー民主主義」という企業と株主の関係

2023-05-25 20:58:46 | ビジネス

「ステークホルダー民主主義」という言葉をご存じだろうか?
今朝FM番組を聞いていた時に、耳に残った言葉だ。

そもそも「ステークホルダーと企業の関係性」という点を、十分理解する必要がある。
ステークホルダーとは、企業に対して何等かの利益関係がある。
企業内で働く従業員だけではなく、従業員家族や取引先、顧客はもちろん株主も含まれる。
「ステークホルダー」とは、企業を取り巻く全ての人々、と考えるとわかりやすいと思う。

その中で、企業経営に対して発言権があるのが「株主」ということになる。
バブル経済が崩壊し、その後外資系投資家が日本の企業の株を買い占め、株主総会で紛糾した、ということが起きたことがあった。
その後「モノ言う株主」と言われる、投資家が登場する。
旧村上ファンドなどは、その一例だろう。

この時の「モノ言う株主」は、「企業は、株主に対して最大限の利益を考えるべきである」という主張がされていた。
すなわち「企業活動は、如何に企業利益だけではなく株価を上げる努力をし、株主に還元するべきである」という、考え方だ。
このような考え方は、平成と呼ばれる時代には当たり前のように言われ、一部では「企業は株主の為に企業活動をすべきである」というような、コトまで言われたことがあった。

このような「株主利益」ばかりを求めると、企業の本来の目的である「社会における企業活動」を見失い、従業員や取引先、社会に対しての関心が無くなってしまう。
このような「株主優先主義」の考えは、企業活動の足枷になってしまっていたし、本来与えられるべき「ステークホルダー」に対しての利益を与える事が出来なくなっていったと、考えても良いと思う。

このような「株主優先」の考えから、一歩進んだ違う「モノ言う株主」の考え方が、「ステークホルダー民主主義」だと言われている。
毎年6月に開催されることが多い企業の株主総会で、「企業活動に合わせた社会貢献を提案する」という、株主たちだ。
例えば、教育関連の企業であれば、「一人親世帯に対する教育サポートプログラムができないか」という提案をしたり、食品会社であれば「フードロス問題と貧困世帯に対する両面の問題解決をどう考えているのか?」といった、問いかけを株主総会で行う、ということだ。
「株主の利益」ではなく、「株主として発言権があるからこそできる、社会貢献策を問う」という考え方だ。

これからの株主は、株主の利益だけを求めるのではなく、企業の社会貢献を問うことで、如何に企業価値を高め、その結果として社会を豊かにしつつ株主利益も得る、ということが求められるようになってくるかもしれない。
もちろん「株主の利益優先」を求めることが悪いわけではない。
しかし元々株主となるきっかけの一つが「投資する企業を応援したい。安定的経営によりより発展した企業活動をしてほしい」という、思いがありその企業に投資したのではないだろうか?

それが「デイトレーダー」と呼ばれる、短期に株を売買するコトで利益を得るのが「株式投資である」と、思い込まれてしまったことで、「株=金儲け」という部分だけになってしまったような気がする。
そのような考え方を否定することなく、新しい株主のスタイルとしての「ステークホルダー民主主義」は、本来の株主の姿のような気がする。


SNSという名の魔物

2023-05-24 22:13:08 | 徒然

朝日新聞のWebサイトに「SNSに対するリスク」という記事があった。
朝日新聞:SNSは「若者に深刻なリスク」米勧告書 12歳以下も4割使用 

SNSというネット情報ツールは確かに便利なモノだと思う。
企業においては、PRを含む広告の場となっているし、個人においても自分の考えや主張、情報を発信できる場となっている。
多くのネットユーザーは、それらの見聞きしても取捨選択ができるだろう。
ただ問題となるのは、SNSに感化されやすい環境にいる子供と、デジタル環境とは縁遠い世代の人たちだろう。
もちろん、SNSに溢れかえる様々な情報に感化されやすい人たちも、数多くいる。
いわゆる「情報リテラシー」と呼ばれる、「読解力」に難の有る人たちのことだ。
最近の言葉でいうなら「ネットウヨ」とか「Qアノン」と呼ばれる、様々なモノ・コトにたいして「陰謀論」を繰り広げ、注目と共感を得ようとする人達も含まれるかもしれない。
ここでの問題は、そのような社会的雰囲気を作ろうとしている人達ではなく、そのような社会的雰囲気にのみ込まれてしまう人達のことだ。

SNSの強みである「共感性を得やすい環境」は、「感化されやすい環境」であり、それが自分と全く関わりのない人たちを攻撃しやすくするツールとなる、ということでもある。
しかも、一度「攻撃の炎上」したSNSを鎮静化させるのは、至難の業だ。
それが悪い影響として現れるのが、タレントさんを自死に追い込むような「誹謗中傷」ということになる。

そのような過程を十分理解できない子供の頃から、身近な情報ツールとしてあることで、「批判と誹謗中傷の違い」が分からなくなり、ただ単に「思いつきの言葉の垂れ流し」という場にSNSがなってしまう、という警告を米国の調査はしているのだと思う。
自分とは直接的に関係のない人達を、激しい言葉で傷つける事に慣れてしまうと、それが当たりまえの感覚になってしまう。
そのような感性を感情の土台に持ってしまえば、その子供たちの将来の「倫理感」はどうなってしまうのか?
「倫理観」の成長だけではなく、そのような言葉を投げかけられた子供たち自身もまた、大きな心の傷を持ってしまうのでは?という、懸念をこのアメリカのレポートは警告しているのでは?
ただし、上述した通りこのような「SNSの危険にさらされる人たち」というのは、決して子ども達だけではない、ということの理解と対策が必要なのだと思う。



世界のルールを獲れ」という、発想

2023-05-23 21:04:03 | ビジネス

拙ブログに来てくださる方ならご存じだと思うのだが、朝の支度をするときにはFM番組を聞いている。
時計代わりということもあるのだが、支度をしながらニュースなどの情報を得やすい、というのが一番の理由だ。
今日も聞いていたら、「あ!その発想が日本のビジネス界には必要かも?!」という話題があった。
話題と言っても、話の流れでそのような話になった、という方が正しいのかもしれない。

テーマとなっていたのは「半導体」だ。
1980年代~1990年代まで、半導体市場は日本がリードをしていた。
ご存じの通り「半導体」は、様々なところで使われていて、生活の中で気づくことが無いほどの必需品となっている。
パッと思い浮かぶのは、PCやスマホといったIT機器だけだと思われがちだが、一般的な家電製品や自動車などにも使われている。
「コロナ禍」で、様々な輸出入品が止まり、その中でも「自動車の製造に大きな影響が出た」というニュースを、記憶している方も多いと思う。
人気車種によっては、3年待ち覚悟ということも言われていたからだ。
今予約して3年も経てば待たされる人にとって、その自動車を購入する意思があるのだろうか?等と思っていたものだ。
その納車まで3年待ちとなった理由の一つが「半導体」不足という問題だった。
というのも、現在の「半導体製造」の中心は、台湾でありその台湾で作られている「半導体」の取り合いが、世界中で起きていたからだ。
その取り合いに日本企業が負けた、というよりも、日本の強みであったはずの「半導体製造」が、いつの間にか日本の産業に重くのしかかるような「負の産業」となっていた、ということを忘れてはいけないだろう。

このような話の流れの中で、これから先日本企業が世界で優位に戦っていく為には「世界のルールを自分たちでつくる」という、考えが必要なのでは?という内容に発展していったのだ。
そこで話題になったのは「電気自動車」だ。
ご存じのように、今日本の中心となっている「エコカー」は、いわゆるハイブリッド車だ。
ガソリンを使いながら、電気を起こし、その起こした電気で車を走らせる、という考えだ。
しかし、世界の潮流となっているのは「EV車」と呼ばれる、「電気自動車」だ。
もちろん、日産は「SAKURA」という完全EV軽自動車を、発売し人気となっている。
それに追従するよう日本の自動車産業が動いているだろう。

そのこと自体に、疑問を呈するつもりはない。
問題なのは、この「EV車」の世界的潮流を誰が(正しくはどの国が)つくっているのか?ということなのだ。
現在の状況を考えれば、その中心にあるのは日本ではない、ということが分かると思う。
とすると、中心となっている国がEV車の基準を変えたりすれば、日本は圧倒的に不利な立場に陥ってしまう。

確かにトヨタ自動車の世界的売り上げが3兆円を超えた、と先日話題になったが、いつまでもトヨタ自動車が、世界の自動車メーカーとしてリードしていく、という保証はない。
何故なら、上述した通りハイブリッド車が世界の自動車産業の中心となっていないからだ。
例え中心となっていても、世界標準となるルールを自ら作り出していかない限り、各国の政治のパワーバランスでその優位性を保つことができなくなってしまう、という認識を持たなくては難しいのではないだろうか?

果たして、今の日本の政治力にそのような優位性を持てるような「世界のルールを獲る」ことができるだろうか?
産業界は日本の政治家だけではなく、世界に対する発言力を高める必要があるのではないだろうか?




過激化する欧州の「環境団体」?‐アピールと共感を得る違い‐

2023-05-22 20:36:03 | マーケティング

日経新聞のWebサイトにある動画を見て「環境保護団体が、文化遺産を破壊するのは何故か?」という、疑問のようなモノを感じた。
日経新聞:トレビの泉が真っ黒に染められる 

昨年だったと思うのだが、欧州の美術館で展示してある美術品に缶入りスープなどを投げつける、という事件があった。
これらの行動を起こしたのは、環境保護を謳う若者たちだった、と記憶している。
彼らの言い分は「文化遺産よりも環境保護、特にCO2 等による地球温暖化に注目すべきだ」という意思をあのようなカタチで訴えたかった、ということのようだった。
しかし、現実はどうだったのだろう?

海外での出来事だったこともあり、「対岸の火事」というか日本では事件が起きた時は、話題になってもその後は遠い記憶の彼方へ追いやられてしまった、という印象を持っている。
おそらく、事件が起きた欧州でも同じような感覚で見ていた人たちが、多かったのでは?という、気がしている。
何故なら、多くの人にとって「共感を得られる行動ではなかった」からだ。

ここ最近、ビジネスの世界では「ファンをつくる」ことの重要性が、言われるようになってきた(ように思われる)。
何故「ファンをつくる」ことが重要なのか?と言えば、ファンという支援者を得る事で、企業はより安定した活動をすることができるからだ。
拙ブログでも何度も書いてきている「インテマシー・ロック(イン)」がその一つだろう。
「親しみに鍵を掛ける」という意味になるのだが、その「親しみ」は決して一つではない。
特に消耗日用品や食品などは、世代を超えて「親しみ」を持たれることが、当たり前だ。
子どもの頃の思い出が、成人になってもどこかでそれを覚えており、新商品が出るとお試しで購入するのにいつの間にか「我が家の定番品」になっている、というような消費行動はまさに「インテマシー・ロック(イン)」と呼ばれる行動だろう。

もちろん「インテマシー・ロック(イン)」のように、長期的なファンだけではない。
人は「共感を得られる」ことで、「ファン」になる事がある。
今回の、過激な行動を起こし、社会的注目を浴び、共感を得ようと考える環境団体は、自分たちの主張や行動に対して「ファンを獲得しよう」という気持ちがあるのか?という、疑問があるのだ。
というのも、日経新聞のWeb動画を見ると分かるのだが、この抗議行動に対して相当なブーイングが起きている。
「ブーイングが起きる」ということは、決して共感を得られている行動ではない、ということだ。
昨年の美術館での環境団体の行動もまた、美術館の訪問者たちからは困惑や不快という表情は見て取れたが、共感を得られたとはとても思えなかった。

ビジネスと関係がない、と思われるかもしれないのだが、非営利団体であってもマーケティング発想は必要であり、その中でもPRをする目的には「ファンをつくる」という目的がある、ということの示している事件だと思う。




「物価上昇」から見えてくる関連性

2023-05-19 21:47:07 | ビジネス

日経新聞のWebサイトを見ていたら、なかなか興味深い記事があった。
日経新聞:物価高、モノからサービスに 4月基調41年ぶり4.1%上昇 

「物価高」という言葉から連想されるモノは、何だろう?
身近なところで考えるのであれば、ガソリンや日用品、あるいは食品などの値上げによる「物価高」なのではないだろうか?
そしてこれらの価格の高騰は、ニュースなどでも取り上げれらる事が多い。
その為「物価高」といった場合、これらの具体的なモノを思い浮かべるのだ。

ところが、サービスと呼ばれる分野で「物価高」という状況になっている、というのが日経新聞の記事だ。
この一見モノとサービスとの「物価高」の関連が無さそうに見える見出しだが、実は深い関連がある。
例えば、ガソリンの値上げによって、物流の要となっているトラック輸送の為に使われるガソリン代に直接的に影響してくる。
企業や個人の家庭で消費されるガソリンよりも、物流の為のトラック輸送で使われるガソリンの方が多いとすれば、わずかなガソリンの値上げであっても消費量が多い分、その影響は大きくなるのは、当然だろう。

他にも電気料金などのインフラ関連も高騰している。
それも、企業を動かす為に必要な経費の一部のはずだ。
様々なモノが値上がることで、それらのモノを使って提供されるサービスもまた、値上がるのは当然なのだ。

しかし。直接的で目に見えるモノに対しては、敏感に反応するのに対して、目に見えないモノ=サービスに対しての「コスト意識」が、低くなりやすい。
それが上述したように、自分が直接的に使うガソリン代には敏感であっても、「物流コスト」としてのガソリン代には意識が向かない。
その為、日経の記事のように「物価高が、モノからサービスへ移っている」と書かれると、「あれ?!」と感じてしまうのだ。

もう一つ考える必要があるのでは?と感じることは「サービス」という言葉だ。
商取引の場面で「これはサービスで・・・」という話をされることがある(はずだ)。
この時の「サービス」という言葉の意味は「無料、あるいは、オマケ」というニュアンスが少なからず含まれている。
提供する側にとっては、費用が掛かっていることであっても、提供される側にとっては、「費用」という意識はほとんどない。
その為に「サービス=安価で良い」という、感覚を持ってしまうのだ。
そのような感覚の元に行われる商習慣が、今でも当たり前のようになっている、ように感じる事が少なからずある。

それらの「サービス」は、「時間と労力、何等かの経費」が加わって提供されている。
ガソリン価格や電気やガス、通信などにかかる費用はもちろん、人の手も加わり「サービス」が、提供されている。
とすると、この「物価高騰」の一部は、有形無形関係なく様々なモノ・コトを提供する人達の労力と時間を含まなくてはならない、ということにもなる。

人はどうしても目に見えるモノを自分の感覚で判断しがちだ。
そこで「価格の安い・高い」を判断するのは、当然だと思う。
思うのだが、もう少し「それらのモノ・コトが自分の手に来るまでの過程と携わる人たち」を想像することで、経済全体の動きが見えてくるのではないだろうか?


アイディア出しも、社外に求める時代

2023-05-18 20:57:03 | ビジネス

今朝、FMを聞いていたら「これからのアイディア出し」は、社内を飛び出しSNSなどを利用し、多角的になっていくのかな?という、話があった。
その一つが「SFプロトタイピング」と呼ばれるモノだ。
「SFプロトタイピング」とは、「近未来を予測し、プロトタイプ(=製品アイディア)を創る」ということになるようだが、このような「近未来を予測する」という発想そのものは、決して新しいものではない。
むしろ、世界中の企業が「近未来を予測し、製品開発」をしてきたはずだからだ。

では何故、今注目されているのか?というと「SF」という言葉だ。
荒唐無稽な「SFの世界」であっても、「そんな世界がやってくれば良いな~」と、思いを巡らすことはできる。
重要なことは「(一見)荒唐無稽なSFの世界」が、「社会をどのように豊かにするのか?」「実現するためには何か必要なのか?」ということを、探すということだからだ。
このような「荒唐無稽なSFの世界」のアイディアを生み出す為のサポート役として、SNSを活用しようとする動きが出てきている、というのが番組の話の趣旨だったのだ。

例えば、まんが「ドラえもん」。
所詮子ども向けマンガと、思い込んではいけない。
ドラえもんのポケットから出される様々な「道具」は、「こんなモノがあったらいいな~」という、想像の世界から誕生している。
確かに「どこでもドア」をつくり出すことは、ほぼ不可能かもしれない。
ただ、それをVRという方法で体感できる時代になってきている。
「似て非なるモノ」と切り捨てるのではなく、このVRの進化により「遠隔医療サービス」が可能となってきている。
その結果として、医師不足と言われる地域でも、それなりの医療を受けることができる、という時代がやってきている。
これはあくまでも一つの例として、取り上げただけだが、このような「現在ある技術+SFの世界」を組み合わせる事で、様々な分野に活気をもたらすことができるはずだ。

そのような手法に、Intelなどが注目をしている、という。
GAFAと呼ばれる米国のITを活用して、飛躍的に巨大化した企業などは、「社内だけにアイディアを求めない」という考えがある。
以前から言われている、Googleは最初から100%完成したサービスを提供するコトを考えていない、と言われている。
100%目指さずに、何を目指しているのか?
それはユーザー自身が、Googleのサービス向上に関与してもらう、という考えがあり、関与してもらうことでGoogleのファンになってもらう、という考えがあるからだ。
まして、IT関連産業の進化はとても速い。
社内だけであれこれ考えている間に、そのアイディアそのものが陳腐化してしまう可能性の方が高い。
スピーディーにユーザーが求めているサービスを提供する為には、ユーザー自身に関わってもらう、ということが企業への親近度と信頼性を上げる事に繋がっている、ということでもある、と考えているのではないだろうか?

そしてこのような考えは、日本企業の弱点でもある(と考えている)。
理由として考えられるのは「開発の秘密保持」だろう。
確かに、特許に関わるような内容であれば、社内で何度も検討し、場合によっては実験を繰り返す必要があると思う。
思うのだが、そのことに囚われすぎて「使う人の創造性」を忘れているような気がするのだ。
「使う人の創造性」を忘れ、製品としての100%を目指すことで、「今」というビジネスチャンスとユーザーというファンの獲得ができていないとすれば、これまでとは違う発想の転換が必要になる。
その一つが「SFプロトタイピング」なのではないだろうか?





目的が分からなくなりつつある?「マイナンバーカード」

2023-05-17 23:08:05 | アラカルト

「マイナンバーカード」に関連する、トラブルが続いている。
そのトラブル内容というのが、「マイナンバーの健康保険証」の紐づけが間違っていた。「コンビニでマイナンバーカードを使って住民票などを取り寄せたら、違う人のものだった」といったものだ。
おそらく「健康保険証」との紐づけに関しては、データ入力の際に間違えたのでは?ということらしい。
それに対して「コンビニでの住民票取り寄せ」は、システム的な問題だったのでは?ということのようだ。

データ入力の間違いが起きた理由の一つに、「マイナポイント」キャンペーン実施により、「マイナンバーカード」を持つ人が増えたため、処理が膨大になった為らしい。
システム的な問題となると、これはプログラムの設計ミスということになると思うので、「問題の原因」がそれぞれ違うと考える必要があるようだ。

ところで、「マイナンバー」というシステムの目的は、一体何だったのだろう?
この「マイナンバー」の導入が検討された時、「国民背番号制」という仮称が使われ、随分反発があったような記憶がある。
その時検討されていたものの一つに「納税と銀行などの預貯金など、国民のお金の流れを把握する」ということがあったように記憶している。
「国民のお金の流れを国が把握する」ということに対して、反発が大きく一時期見送られたような記憶もある。
しかし現在では、企業や自治体で働いている人は、有無も言わせず「マイナンバー」の番号を提出するコトになっているはずだ。
そして、銀行や証券会社などの口座開設の時にも、「マイナンバー」の番号登録が必要になっていると思う。
結局は、当初の目的通り「国民のお金(=資産)の流れ」は、ある程度国が把握できるようになっている、ということなのでは?

今回のトラブルの原因は「マイナンバー」ではなく、「マイナンバーカード」という、別問題ということになる。
何故なら、「マイナンバーカード」に様々なサービスを付加するコトで、「マイナンバーカードを持つつ生活が便利になりますよ」という、ことをテレビCMをはじめとする様々な媒体を通して、訴求してきたからだ。
そして一番効果的だったのが「マイナポイント」という、ある種の税金のバラマキだった、ということだ。

この「マイナンバー」という制度と、「マイナンバーカード」という国が提供するサービスを明確に分けて説明をすることが、まず大事なのでは?
その部分をはっきりさせないと、「マイナンバー」という制度そのものへの不信感は広がるだろうし、国民が「マイナンバー」を拒否するコトができないからだ。
何となくだが、「マイナンバーカード」の普及を急ぐあまり、本来の「マイナンバー」の運用目的がおざなりになってしまったのでは?という、気がしている。

あくまでも個人的な感覚だが、「マイナンバーカード」が無くても、日ごろの生活には不自由はない。
納税の時でも、「マイナンバーカード」を提示する必要はないし、各自治体で発行される「国民健康保険証」や企業・公務員に発行される「健康保険証」にマイナンバーが登録されていれば、問題はないはずだ。
これから先、「マイナンバーカード」を持っていないコトで不自由となるとすれば、運転免許所のような「身分証明書」が、「マイナンバーカード」に統一された場合だろう。
そのような動きが起きるのも、全て「国の都合」であり「マイナンバーカード」普及の為なのでは?と勘繰りたくなってしまう。

今のような「マイナンバーカード」に対する不信感を、一掃するには「マイナンバー」と「マイナンバーカード」の違いから、丁寧な説明が必要だと思う。


進化する日本の自販機

2023-05-15 15:19:15 | ビジネス

今朝、FM番組を聞いていたら「日本の自販機、凄い!」という話題があった。
それは、「CO2を資源化する自販機」の実証実験という、話題だった。
アサヒ飲料:国内初、CO2資源循環モデルの実証実験6月より開始 

アサヒ飲料のプレスリリースのタイトルは、もっと長いので省略させていただいたのだが、ご存じのように今やCO2 削減は、世界的に取り組まなくてはならない問題となっている。
SDGsの取り組みの中でも、この「CO2削減+循環型社会」は、取り上げられている。
この自販機の発想が面白いのは、これまでのような「CO2排出量を減らす」のではなく、「CO2を回収し、資源化する」という点だ。
「CO2問題」については、「排出させない、森林資源などによる削減」などが、これまでの主流の考え方だった。
最近では聞かれなくなったが「カーボンオフセット」と言われる、「CO2の排出量を自然環境保護事業などに投資する」という方法が、主流だった。
とはいえ「カーボンオフセット」そのものは、「CO2削減」への直接的社会行動ではないので、今は主流ではないのかもしれない。

そのような「減らす」という考え一辺倒だった「削減策」に、「資源活用」という新たな考えが登場したのだ。
大袈裟な言い方だが、一種の「パラダイムシフト」のような印象すら受ける。
それが、日本の飲料水メーカーが行おうとしている、という点でもっと注目されるべきことのような気がする。

ところで、日本人の生活に重要な「商品購入の機会」となっている「自販機」だが、海外の「自販機事情」と、随分違うと言われている。
今から20年余り前、日本で開催されたサッカーW杯。
この時、数多くの外国人サポーターが来日した訳だが、来日した外国人サポーターが驚いた一つに「自販機」があった、と言われている。
一つは、「自販機が扱う商品の多さ」。
もう一つは「街のあちらこちらに自販機が設置されている」という点だ。

今では、電子マネーで自販機の飲料水を購入することが可能となっているが、20年前はそのような機能はなかった。
全て現金での購入だった。
その為、来日した海外のサポーターの一部からは「自販機が数多く設置されているけど、現金を入れる箱が設置されているのと同じ」という、感覚だった、ということがまことしやかに言われていた。
確かに、一時期「自販機内にある現金」を狙って、バールなどで壊すという事件が数多く発生した。
バールなどで自販機を破壊し、中にある現金と商品を持ち逃げする、という器物破損と窃盗の事件だった。

そのような事件が多発する中、「日本の自販機」は独自の進化をしている。
例えば、災害時には無償提供する自販機、フードロスに対応するための賞味期限が迫っている飲料水を集め、安価に提供する自販機などだ。
アサヒ飲料のプレスリリースでは「国内初」となっているので、既に海外では運用されているのかもしれないのだが、海外での「自販機」の普及を考えると、社会的影響が大きいのは日本なのでは?という気がしている。

様々な理由で、日本の自販機は独自の進化をし続けており、ある意味「自販機のガラパゴス」という状況のような気がしている。
だからこそ、このような実証実験が成功裏に終わって欲しいし、それが海外で普及する事を願っている。






「論破」よりも「対話」

2023-05-12 22:09:37 | 徒然

昨日、「ウィズ・コロナ」の前に、「政策としての検証」という内容のエントリをした。
そしてこの「新型コロナ」が感染拡大している中で、盛んに聞いた言葉について、面白い視点の記事があった。
朝日新聞:ReRon 論破でも言葉だけでもない 哲学者永井玲衣さんが問う「対話」 

何となく感じていらっしゃる方も多いと思うのだが、「新型コロナ」の感染拡大が顕著になり「在宅ワーク」等の政府要請が始まった頃から、「論破」という言葉を何度も聞くようになった気がする。
おそらくこの「論破」という言葉を盛んに使う方が、ネット上での「文化人」扱いをされている方だったように思うのだが、「はい、論破ね」という感じで使われることが多かったような印象を持っている。

あくまでも個人的な受け止め方なのだが、この「論破」という言葉を使う人と使われた人の間の関係は、決して対等ではなく、議論(というほどのものなのか疑問なところもある)も「論破」と宣言をする方が、一方的に持論を展開しているだけで、相手の話も考えも知ろうという姿勢が感じられずにいた。
そしてこの言葉を使っていた人が若い世代の人たちの間で、人気のある方だったためか?各所で「はい、論破」という会話を聞いたような気がする。
と同時に「論破」という言葉の意味を十分に理解しているのだろうか?と、不安な感じも受けたのだ。

というのも「はい、論破ね」と言っている人の話しぶりを聞いていて、「(相手に対して)マウントを取りたいだけでは?」という印象を常に感じていたからだ。
「論破」というと、聞こえは良いが「相手を言い負かせる」という意味であることを考えると、「持論を展開し、相手の話を聞かず、理解しようともせず、自分の考えに酔って、自分が正義であると思い込んでいるのでは?」という心理的要素があるのでは?という、気がしたからだ。
「自分の考えが正しい」という思い込みが、「根拠のない自信」にもなり、「持論を展開すること」で「自分の言葉に酔いしれている」ということは無いだろうか?ということなのだ。

もちろん、そのような方ばかりではないと思うし、科学的根拠や統計データなどを元にした「論理的思考」の元、客観的に論じているという方も少なくないと思っている。
思っていても、「はい、論破」と言っている人達からは、そのような感じを受け取る事ができないのだ。
そして「マウント(=相手よりも自分が優れている)」ことを示したがるのは、その実「自信がない」からなのでは?

このような社会は、どことなく「ささくれだった社会」あるいは「苛ついている社会」のように感じるのだ。
であれば、どのような転換が必要なのか?というと「対話」ということになると思う。
「対話」というコミュニケーション法は、「論破」するよりも時間も労力も必要だ。
何より、「(話す相手に)敬意と尊重」を持たなくてはならないし、寛容である必要がある。
「相手を理解しよう」という心も必要だろう。
自己ではなく他者に心を寄せる、という高度なコミュニケーション力を要する、と言っても過言ではないかもしれない。

確かに「新型コロナ」の感染拡大によって、コミュニケーションをとるということが難しかったと思う。
まして、対面で話をするということができなかったがために、言葉以外のコミュニケーション力の維持が難しかったかもしれない。
そう考えると、低下してしまったコミュニケーション力を上げていく努力は、「新型コロナ」の感染拡大によって失われた時間以上の時間を要するのではないだろうか?