日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ミュージシャン自身も、ビジネスを知る時代?

2022-03-31 18:01:42 | ビジネス

「サカナクション」というバンドをご存じだろうか?
その「サカナクション」のリーダーである、山口一郎さんがYahoo!のオリジナル特集のインタビューに答えている。
Yahoo!ニュースオリジナル特集: 「今こそ、インターネット上での音楽表現を見つけるべき」‐サカナクション・山口一郎が考えるコロナ以降のロックバンド

以前から、山口さんは様々なインタビューで、これまでのミュージシャンが語らなかったような内容を話されることが多かった。
例えば「ミュージシャンにとって、サブスクとCDとではどちらが儲かるのですか?」などといった、ミュージシャンとしては答えにくいような話も過去されていた。

そのようなインタビューを拝読する度に、「ミュージシャンといえども、自分たちの音楽に対する収益などを考えているのだな~」と驚くと共に、優れビジネスパーソンでもあるのだな~、と感じることがあった。
そして今回のインタビューを拝読し、確信へと変わっていった。

例えば、サカナクションのヒット曲「宝島」は、リリースから随分時間が経っている楽曲だが、今でもコンスタントにサブスクを通して聞かれている、という。
一般的に、ヒット曲はリリース直後に爆発的にヒットし、その後次第に聞かれなくなる、というパターンだ。
それが、サブスクによって「宝島」を何度も聞き続ける人がいる、という。
その中には、何等かのきっかけで「宝島」という楽曲を知った、という新しいリスナーも含まれているだろう。
長期的に何度も聴く人+新規リスナーによって、長い間サブスクで聞かれ続けている、ということになるのだ。
これは、一般企業で言うところの「ロングセラー商品」と同じだ。
音楽における「ロングセラー商品」を作り出す一つの方法が、サブスクという方法だと考えるコトができる。

企業における「ロングセラー商品」の重要性については、経験の長いマーケティング担当者であれば、よくご存じだろう。
「ロングセラー商品」というのは、企業にとって新しく広告宣伝などに費用をかける必要がなく、生活者を掴んでいる(このようなことを「インテマシー・ロック・オン」という)。
「生活者を掴んでいる」のは、その商品やサービスが良い(あるいは、自分と(感性的に)あっている)、というだけではない。
子どもの頃から慣れ親しんだ日用品を通して、子どもの頃を思いださせたりすることができる。
「生活者を掴む」コトで、その商品やサービスの顧客は、2代・3代と受け継がれていく、というメリットがあるのだ。

何故そのようなコトになるのか?といえば、「子どもの頃から使っている」という安心感だけではなく、「子ども時代の思い出」もまた、それらの商品やサービスを通して感じられるからだ。
それは企業側にとっては「利益の下支え」となる商品ということにもつながっていく。
下支えできる商品があるコトで、上述したように「膨大な広告宣伝費を使う必要がない」ということでもある。
その分を商品研究開発に振り当てるコトができる、ということにもなる。
それが企業にとって、大きなメリットということになる。
そのようなコトを山口さんは、十分理解をされているのでは?ということなのだ。

「コロナ禍」後についても、これまでのような「ライブやフェス」によって、新規のファンを獲得する、というだけではなく映画やテレビ番組などとのタイアップによって、ヒット曲が作られてきた。
それらの「ライブやフェス」が、「コロナ禍」によって軒並み中止となり、ライブの裏方関係者だけではなく、ミュージシャン自身も苦境に立たされるという状況になった。
「ミュージシャンが何故?」と思われるかもしれないが、「(野外)フェス」という場所は、有名無名関係なく演奏する場となっている。
新人のミュージシャン(だけではなく最近は、アイドルも出演することがある)によって、有名ミュージシャンが出演するフェスに参加するということは、自分たちを知らない観客に知ってもらえる大きなチャンスでもあるのだ。
そのような場を失ったコトで、活動そのものを停止せざる得ないという状況に追い込まれた、ミュージシャンもいたのではないだろうか?

サブスクのような新しいサービスを熟知すること、SNSでどのように自分たちの情報を発信すればよいのか?等々、音楽に関連するビジネスについて、ミュージシャンが知るコトで、自分たちの音楽制作を自由にすることができる、という感覚を山口さんは持っているようだ。
そしてこのような感覚は、一般企業に勤めるビジネスパーソンも必要なのでは?という気がするのだ。


「日本らしい自然エネルギー」って、何だろう?

2022-03-29 22:38:52 | ビジネス

日経新聞のWebサイトに、「日本らしい自然エネルギー発電」ということを考えさせられる記事があった。
日経新聞:商船三井が海洋温度差発電 25年稼働洋上風力より安く (有料会員記事)

先日の福島沖地震の発生で、東京電力管内の一部地域が停電するということがあった。
その後、東京を中心に大規模停電が発生する可能性がある、として「節電のお願い」をすることになった。
「福島第一原子力発電所事故」以来、代替として使われ始めた火力発電所が、地震により十分な稼働ができないという状況に陥ったためだった。

このような状況に陥ると、都市におけるエネルギー事情の脆弱さを感じることになる。
もちろん「福島第一原子力発電事故」以来、「自然エネルギーへのシフトチェンジ」ということが、盛んに言われるようになったが、「自然エネルギー」の筆頭のように言われていた太陽光発電もここにきて、「耐用年数を経過した太陽光パネル回収・再利用」という問題や、山を削ったような場所に無理やり設置した為、大雨による土砂災害という問題などもクローズアップされるようになってきた。
他にも、大きなプロペラを回す風力発電についても、地域住民とのトラブルがあったり、故障したプロペラがそのままの状態になっている、といった問題も起きている。
「自然エネルギー」であれば、なんでも良いという時代ではなくなりつつある、ということでもある。

そんな中で商船三井が、海洋温度差発電を洋上風力発電よりも安価に提供できる、という話題は「海洋国・日本」向きなのでは?という気がしている。
大きなプロペラを要する洋上風力発電の場合、台風などが多い日本ではどうなのだろう?という、疑問を持っている。
陸地でも、故障したプロペラを十分に直すことができずに、放置するようなケースもあるのに、洋上となればそのようなトラブルはもっと増えるのでは?と、考えるからだ。
まして、年々強い暴風雨を伴う台風が増えてきているのに、耐えられるのだろうか?という懸念もある。
もし「海洋温度差発電」が、そのようなリスクが少ないのであれば、「日本向き海洋発電」ということになるだろう。

他にも以前から言われている、「地熱発電」などの可能性も忘れてはいけないだろう。
ここ数年鬼怒川温泉などでは、廃業した大型ホテルなどの建物が廃墟と化し、そこへ無断侵入をする輩による破壊や放火のようなコトも起きているという。
このようなすでに所有者を失ったような廃墟化した大型ホテルの取り壊しを自治体がするのか?という問題も起きている。
(法的な部分と事業化については、越えなくてはならない問題点は数多くあるとは考えているが)このような廃墟化した大型ホテルの取り壊し費用を自治体が一部負担する代わりに、地熱発電によって得られる収益で補填するような方法で、電力会社と共同で開発する、などの方法が取れれば事業化することも可能のような気がするのだ。

それだけではなく、アンモニアを燃焼させて発電する技術を日本は持っている、といわれている。
EMIR:アンモニア発電とはどんな技術?ポスト炭素燃料開発の今
日経新聞:アンモニア発電、日本が技術支援 インドネシアと覚書 (有料会員記事)
日経新聞:アンモニア発電、環境負荷を低減 三菱重工が開発へ (有料会員記事)

アンモニアを使うにあたり、クリーンなアンモニア製造技術の研究も進んでいる。
日経新聞:アンモニア、製造コスト半減 出光が24年までに新製法 (有料会員記事)

日経新聞の記事が並んでしまったが(笑)、何も欧米のスタイルを日本で展開するよりも、このような日本が得意とする「発電システム」を積極的に利用することが、「日本らしいエネルギーシステム」という気がするのだ。


「NFT」という新しい価値とアートの親和性

2022-03-28 19:26:22 | ビジネス

毎日新聞のWebサイトに、「まだまだ学ぶべきことがあるのだな~」と、実感する記事があった。
それは、最近話題になっている「NFT」についての記事だった。
毎日新聞:仮想空間でも靴を買う?NFTが生んだ「値段をつける力」

先日、拙ブログでも「NFT」について少し書かせていただいた。
とはいうものの、私自身が「NFT」そのものを十分理解している、というわけではなく、以前「デジタルアートを買う」という方のお話を聞きかじった程度の内容だったため、中途半端な内容になってしまったのでは?という感覚は否めなかった。
そんな中、毎日新聞の記事はわかりやすく解説をされているような気がしている。

とはいうものの、「仮想空間でも靴を買う?」という見出しだけ見れば、電通が仕掛けて失敗に終わった感のある「セカンドライフ」のような「仮想空間の中で生活をしているアバターが、靴を買う」というイメージを持たれる方のほうが多いのでは?という気がしている。
そもそも電通が仕掛けた「セカンドライフ」という仮想空間は、ネットゲームとは違うがネット上でのコミュニケーションを目的としていた(と、記憶している)。
ネット上のコミュニケーションを目的としている為、当然のように「街があり、生活がある」ということになる。
街があれば、「買い物をする」ということも当然含まれる。
そのような「ネット上(=仮想空間上)でアバターというツールを使って、コミュニケーションを育む」というのが、「セカンドライフ」の目的の一つだった(はずだ)。
違う言い方をするなら、大ヒットしたゲーム「あつまれどうぶつの森」のような場所がいくつもあり、その場所を行ったり来たり、買い物をするといった「生活」をするコミュニケーションツールだった。

しかし「NFT」の仮想空間というのは、「セカンドライフ」のような「ネット上の生活」を基盤としたコミュニケーションを目的としているわけではない。
取引として行われる場所が「仮想空間」であり、そこで売買されるのは「所有する権利」なのだ。
「所有する権利」だから、その所有物に対しての価値観が同じような人たちが集まらなくては、その市場は成立しない。
それだけではなく、「所有する権利」を持った人が、コピーをすることはできるが、そのコピーされたモノには「価値はない」ということになる。
重要なポイントは、「コピーされたモノには価値がない」ということなのだ。

「コピー=複製」されやすいというものとして、音楽や美術作品がある。
ネット社会となり、そのコピーのされやすさは、以前とは比べモノにならないほど短期間で大量に作られるようになっている。
ネット上に公開されたモノ・コトは、誰もが気軽にコピーすることができ、美術品の「贋作」とは違い、技術的な知識や技量を必要としない。
そのようなモノに対しても「価値をつけ、保護をする」という機能を持っているのが、「NFT」ということのようだ。

とすると、見出しにあった「靴を買う」というのは、ネット上で公開された「靴のデザインを買う」ということである、ということが理解できる。
その「靴のデザイン」を「NFT」を通して購入すれば、「靴のデザインの権利」は購入者も持つこととなる。
そのように考えると、「アートとNFTは親和性がある」ということになるだろう。
著名なアーティストが作った作品を、一人の人が所有するのではなく、その「価値を決められる人たちが複数で持つ」ことができれば、アートに興味を持つ人たちは増えるかもしれない。
その反面、その「価値を付けられる人」に限られる、ということになる。
それは多くの市井の人たちが、アートを所有することで、その作品を楽しむ人が増える可能性を秘めているが、日本のように「アートは高尚な人たちの趣味」と視野を狭めて楽しめない人たちにとっては、まったく関係のない「投資目的」となってしまう可能性もあると、懸念もしている。



コピーライティングの妙

2022-03-26 11:47:42 | マーケティング

雑誌・プレジデントに「コピーライティングの妙」を感じさせる記事があった。
プレジデント: 「この靴なら疲れません」と「疲れるのは靴があっていないから」、生活者に刺さるコピーはどっち?

記事については、しっかり読んでいただきたいのだが、コピーライティングというと糸井重里さんが書かれたような「おいしい生活」のようなモノを思い浮かべられる方は多いと思う。
確かに「おいしい生活」は、キャッチコピー(あるいは「キャッチフレーズ」)といわれるモノで、人を引付させる為のコピーだ。
「え!何?何?」と、広告そのものに人を引付させる為に作られるモノ、というとわかりやすいかもしれない。

とはいっても、今「おいしい生活」というコピーを出しても、生活者は「は?何言ってんの?」となってしまうかもしれない。
事実、西武百貨店がこのコピーを使った広告が出たときには、「何を言っているのかわからない」という声もあった。
「わかる・わからない」のではなく、「おいしい生活」という言葉のイメージから生活者一人ひとりが、「自分にとっておいしい生活って何だろう?そもそもおいしい生活って何?」という問いかけで、答えは生活者一人ひとりの中にある、というそれまでとは違うコピーライティングだった。

それに対して、記事に使われている「この靴なら疲れません」とか「疲れるのは靴があっていないから」というコピーは、具体的で生活者の感性に訴えかけるモノではない。
何より、この2つのコピーは「疲れると靴」という共通のキーワードを使いながら、対照的な印象を与えるコピーでもある。
「疲れない靴」は、コピー対象となっている「靴を勧めている」のに対して、「疲れるのは靴があっていない」は、違う靴への買い替えを勧めるコピーになっている、ということがわかるはずだ。

この2つのコピーが同じ靴を対象としたコピーだとしても、コピーを読んだ人に訴えかけるモノが違う、ということなのだ。
そして面白いコトに、使う媒体によって同じ商品であってもコピーを変えることで、より広い生活者層に訴え掛けることができる、ということがある。
特にこのコピーのように、生活者にとって具体的で「問題解決」を感じさせる(この場合は「靴と疲れ」という関係の問題を解決することを目的としている)コピーは、生活者にとって直接的に感じられるモノとなるので、コピーそのものも直接的で具体的な言葉を使う必要がある。

記事の中には980円と1,000円という表現の違いによって、人は「安さ」を感じたり・感じなかったりする、という例が挙げられている。
この事例は、随分前から言われている「消費者心理をつかむ価格設定」として、商学などを学んだ方はご存じだと思う。
人の持っている「何かと対比したときの損・得感」という値ごろ感は990円ではなく、980円という20円の差額なのだ。

このように、コピーライティングには、生活者の気持ちをいかに掬い上げ・気持ちに訴えかけ・考えさせることができるのか?ということが、必要なのだ。
まして、長々とした文ではなく、パッと見たときに読み切れるだけの短さも必要なキャッチコピーには、様々な作り手となる思いを伝える必要がある。
技術的なコトだけではなく、常に言葉に向かい時代感を読み取る力もまた、コピーライティングには必要であり、マーケターは「日々言葉をブラッシュアップする」必要があるということでもある。


メタバースとファッション

2022-03-23 19:50:48 | ビジネス

ファッション専門誌・WWDのWebサイトを見ていたら、「こんな時代が来るのかな?」という記事があった。
WWD:メタバース×ファッション、市場規模は2年後には9兆円越え⁉押さえておきたい4つのポイント (会員有料記事)

注目すべき点は「2年後に9兆円越え」という可能性がある市場が、メタバースであるということだろう。
そしてこの9兆円越えは、NFTと呼ばれる「非代替性トークン」が支えるということになる、ということのようだ。
NFTそのものについての理解を深めなくてはならないと思うのだが、昨年暮れにミュージシャンで作曲家の坂本龍一氏が「戦場のメリークリスマス」のメロディーの内595音を1音づつデジタル化し、NFTを通じて販売をする、ということが話題になった。
1音だけを仮想通貨化して販売されても、購入する人はいるのか?という、疑問を持たれた方も多いと思う(私も1音だけを買っても音楽として楽しめないのでは?と、疑問に思っていた)。

ところがこのNFTを手掛けたAdmaGMOのサイトを見ると、新たに音源を録音し、デジタル音源としていくつかのフレーズの一部の音源を権利として購入することで、個人の財産とすることができる、ということのようだ。
AdmaGMO:坂本龍一 Ryuichi SakamotoのNFT

もちろん、「戦場のメリークリスマス」という楽曲そのものは、NFTで購入しなくてもストリーミング経由を含め自由に聴くことはできる。
このようなアートの世界では、このようなNFTによる作品の売買が、一般的に行われ始めているようだ。
そのようなNFTの売買(売る側にとっては、資金調達ということになるかもしれない)を加速させるのがメタバースということになるのだろう。
そのような動きがすでにファッションの世界でも起きようとしているからだ。
WWD:世界最大のメタバースファッションショー開催、日本からはAMIAYAらが参加

参加をするブランドも、イタリアのエトロやトミーヒルフィガーのような有名ブランドをはじめ、60ブランドが参加するようだ。
場所にとらわれることなく、ヴァーチャルな世界でファッションショーを行うようになれば、ファッションビジネスそのものが大きく変わる可能性もあるだろう。
この場合、NFTそのものをプラットフォームのように使うことで、これまで顧客となりえなかった人たちに対しても、アプローチがしやすくなる、ということは考えられるだけではなく、コスト面や顧客との双方向的な情報の交換なども時間と場所を超えて、可能になるということは考えられるかもしれない。

メタバースを使ったファッションの試みとして、伊勢丹新宿店が小学生によるアバターファッションショーを開く、というニュースもあった。
仮想の世界とは言いつつ、仮想の世界を現実化する動き時代がすぐそこまで来ていて、現実を仮想の中で売るとことが同じ速度で近づいているのかもしれない。
それはファッションに限らず、ということでもあるはずだ。


脆弱な都市の電力インフラ

2022-03-22 20:49:03 | アラカルト

先日発生福島県沖の地震。
この地震によって、東京電力管内で停電が起きた。
東京北部から関東一円という、比較的広い範囲での停電だったように思う。
そして昨日、東京電力が「電力需要がひっ迫するため、停電の可能性がある」という発表をした。
この発表に合わせ、東京都などが「停電を避ける為の節電のお願い」をする、という状況になった。
朝日新聞: 「午後8時以降、200万~300万戸規模停電のおそれ」東電

何故このような状況になったのか?といえば、11年前の「東日本大震災」によって、福島の「東京電力福島第一原子力発電所事故」が起こり、電力需要を確保するために、停止していた火力発電を急遽稼働させることになった、という経過がある。
そして今回の地震により、火力発電所での発電量が十分確保することが難しい、という判断があったためだ。

このような状況になると、都市のインフラの中でも電力に関しては、脆弱さを感じる。
脆弱だから悪い、というのではない。
都市の生活が、電力に支えられているのか?ということを実感せざる得ない、ということだ。
と同時に、世界的な「脱炭素社会」に向けた取り組みの難しさ、というモノも感じるのだ。

とはいうものの、火力発電頼みでは「脱炭素社会」を実現することは不可能、ということはご存じの通りだ。
代替エネルギーとして注目されているのが、「自然エネルギー」ということになるのだが、安定供給という点ではまだまだ難しく、克服しなくてはならない問題も残されている。

その「自然エネルギー」についても、10年ほど前「自然エネルギーの花形」のように言われていた「太陽光発電」も、様々な問題が露呈し始めている。
一つは、太陽光発電パネルそのものの耐用年数が迫り、使われていた太陽光発電パネルの廃棄などの問題だ。
太陽光パネルに使われている素材を分別し、再利用するという仕組みができていない、ということもあり、昨年あたりから問題になり始めている。
もう一つは、「太陽光発電は儲かる」という言葉に乗せられ(?)山の斜面などに設置した「太陽光パネル」が、大雨などにより土砂崩れと共に流れ落ちてしまう、というトラブルが起きているという点だ。
本来であれば、太陽光発電パネルの設置者が責任をもって処分・廃棄後、再び設置をするか植林などをして元に戻すようなことをしなくてはならないはずなのだが、そのような「当たり前の対応」すら十分にされていない、という状況の「使われなくなった太陽光発電パネル」が、全国に点在している、とも言われている。

あくまでも個人的な考えなのだが、「太陽光発電システム」そのものは、山を削り設置するようなモノではない、と考えている。
むしろ都市部のほうが、太陽光発電は向いているのでは?という気がしているのだ。
例えば、大型のショッピングセンターや病院、マンションの屋根や駐車場に設置することが可能であれば、そのほうが「エネルギーの地産地消」がスムーズになるだけではなく、今回のような電力がひっ迫するような状況になっても、ある程度余裕が持てる。
そのために必要なモノは、蓄電技術ということになることは、随分前から言われているコトだ。

人には「Not  In My Backyard」という、あると便利なモノではあるが、危険なモノは身近に置きたくない、という心理がある、といわれている。
その一つが「原子力発電所」であったり、景観を壊す「太陽光発電」なのでは?
とすれば、デザイン性などに工夫をし「身近にあっても良い自然エネルギー(この場合は「太陽光発電」ということになる)システム」の在り方も考えていく必要があるのではないだろうか?

脆弱なエネルギーシステムを抱えている都市部だからこそ、最優先で考えるべきことのような気がする。


こんな時代だから、”生活の余白”を大事に育てたい

2022-03-21 16:44:32 | ライフスタイル

3月も半ば過ぎ、1月はじまりのテレビドラマなどは、最終回を迎えている。
テレビが無い我が家ではあるが、TVerを見ることで、世間の話題に何とかついていくことができている。
「ミステリと言う勿れ」のような、人の本質に迫るようなドラマも良いのだが、時には「癒し系」のドラマも見たくなり、テレビ朝日系の深夜帯のドラマ「鹿楓堂よついろ日和」を見て、癒していた(笑)。

先週末に最終回を迎えたのだが、ドラマの中のセリフに「今のような社会状況だからこそ、生活の余白」となるモノ・コトが必要なのでは?という、気がしたのだ。
セリフそのものは、「鹿楓堂」という古民家喫茶店の若い店主が、「コロナ禍」を通して感じた「喫茶店の社会的な立ち位置」を話している。
そのセリとは「喉の渇きを潤すだけなら、水でも良い。でもお茶やコーヒーを飲む為の喫茶店は、心に豊かさを感じるためにある非日常的な場所」という趣旨の言葉だ。

連載中の漫画を原作にしているドラマなのだが、最終回となった今回は、ドラマオリジナルだったようだ。
「コロナ禍」以前の喫茶店が軽食やコーヒーなどを飲食する場所、あるいは待ち合わせで利用する場所だとすれば、「喫茶店が提供する時間の豊かさ」という点に着目しているという点で、「喫茶店」という場所の再定義をしているようにも思えたのだ。
それだけではなく、「コロナ禍」で失われた「心を豊かにしてくれるモノ・コト」は、些細な事で失われているコト。
だからこそ「守り・育てていくこと」の大変さや重要性のようにも感じられたのだった。

お茶やコーヒ―を飲む「合理性」という点だけを追求するのであれば、喫茶店やカフェである必要はない。
もちろん、コストパフォーマンス重視のお店があることは知っているが、たとえそのようなお店であっても、単に飲食を提供しているだけなのか?といえば、決してそうではないだろう。
出勤前のひと時、ザっと新聞に目を通す時間であったり、仕事に向けて気持ちを切り替える場所として、カフェを利用していた人もいらっしゃったのではないだろうか?

喫茶店やカフェのような飲食店に限らず、「コロナ禍」によって大打撃を受けた業種の多くは「生活の余白」となっていたモノ・コトだった。
美術館や映画館、ライブや観劇など、「日々の生活に必要不可欠なモノ・コトではない」業種が打撃を受けたのだ。
それらは「文化」と呼ばれるモノ・コトであった、ということでもある。
先日、「個性のある旅」というテーマでエントリをしたが、それは「その土地に行くことで感じられる、その土地の文化や歴史」という個性を楽しむ時代が「コロナ禍」後に来るのでは?という、考察でもあった。

今ウクライナを戦禍に巻き込んでいるロシアだが、このような行為は、ロシアそのものの文化すら破壊している行為である、ということにプーチン氏には気づいて欲しい。
それは、新疆ウイグル自治区やチベットの人たちを「漢民族化」することで、民族の文化を破壊しようとしている中国についても同じだ。
一度失われた文化を復活させ、再び育てる為の時間と労力は果てしないモノがある。
そのことに政治は責任を持つことはできない、ということをプーチン氏や中国指導者たちは、示しているようにも思えるのだ。

「生活の余白=文化」を育てることができる社会は、寛容性がある豊かな社会だろう。
「コロナ禍」によって、失われた時間以上の時間をかけ、再び育てていくことがこれからの社会には必要なのではないだろうか?




「まん延防止重点措置」解除は、どのようなデータで決められたのだろう?

2022-03-18 21:18:17 | アラカルト

今日から彼岸の入り。
2020年以前であれば、お墓参りに出かけたり、学校が春休みに入ることもあり、家族旅行などの予定を立てていたはずなのだが、そのような「春のウキウキした気分」を失わせているのが、「新型コロナ」の感染拡大による「まん延防止重点措置」だ。
その「まん延防止重点措置」も、対象となっているすべての自治体が21日を期限に、解除されることが決まった。
これで少しは、人の往来ができるようになり、人の気持ちも動くようになればよいのだが、そのような状況になるのだろうか?と、期待と疑問を感じている。
というのも、「基本的対処方針分科会」の尾身会長は、解除すれば再び感染が拡大すると懸念している、と報じられているからだ。
NHK News: ”まん延防止”解除「医療関係委員2人は消極的賛成」尾身会長

医療関係者の立場とすると、「コロナウイルス感染者”0”」を目指しているのかもしれない。
”0”ではないにせよ、国民の大半が3回目のワクチン接種を済ませなくては、感染拡大は防げないと考えていらっしゃるのかもしれない。
ただ、今のような状況が続くことが、果たして良いことなのだろうか?という疑問を持っている人達も少なくないのでは?と考えている。
というのも、これまで「まん延防止重点措置」が繰り返し行われてきたはずだが、次から次へと「変異株」が登場をし、「本当に、まん延防止重点措置」の効果がどれほどだったのか?ということがわからないからだ。

「まん延防止重点措置」によって、感染者数が減少をしているのか?それとも、「まん延防止」の効果とは関係なく、変異株の特徴としてこれまでのような明らかな「明らかな新型コロナ」の症状がないため、潜在的陽性者がいても気づくことないという状況での数字なのか?そのようなことが全く分からない。
メディアで発表される数字は、「新型コロナ」の感染が判明をした2020年と変わらず、感染者数と死亡者数だけだからだ。

これまでの「まん延防止」が行われた時も、感染者数が〇〇人以上とか自治体の人口比の〇〇%に達した為などの「実施根拠」となるモノが不明のまま繰り返されてきた。
感染者の数字が増えたから「まん延防止」を実施、減少してきたから解除、この繰り返しだったような気がするのだ。
安倍内閣から続く「気合と根性の我慢大会」の繰り返し、という感じなのだ。

一方、海外ではすでに「マスクを外し、普通の生活に戻りましょう」という国も増え始めている。
このような報道がされると、「再び感染拡大をしたらどうするのだ」意見があることも知っている。
だが、いつかどこかの時点で「2019年以前の生活スタイル」に戻さなくてはならない時期がある、というのも事実なのだ。
それがいつなのか?
どのようなデータをもとに、その判断をするのか?という、目安が必要な時期に来ていると考えている。
その一つの参考例が、デンマークの「HOPEプルジェクト」なのでは、ないだろうか?
Huffpost:世界が注目するデンマークのコロナ規制撤廃。背景にあるHOPEプロジェクトとは

この「HOPEプロジェクト」の中には、「切り取られるデータ」という注意点も含まれている。
統計の数字そのものは、客観性のある数字であったとしても、その数字を読み解く人によって「数字の意味すること」が、大きく変わってしまう。
そのような、問題も含めて判断をする為に複数の判断要素となるデータを集め、それらのデータを基に「将来像」となるモノを提示しながら、相互理解を深めていくという方法が、日本でも必要なのではないだろうか?


ニューズウィークの考察が面白い‐プーチン氏がウクライナにこだわる理由‐

2022-03-17 21:05:27 | アラカルト

数日前のニューズウィークのWebサイトに掲載されていた、プーチン氏がウクライナにこだわる理由についての考察記事が、とても興味深かった。
News Week:プーチンの異常なウクライナ「執着」の源・・・1000年に及ぶ歴史から完全解説

まずこの記事を読んで最初に思い浮かんだのは、世界を震撼とさせたIS国の事だった。
IS国の指導者は、「オスマントルコ」のような領土と自分たちにとって都合の良い解釈に基づいた、イスラム国家をつくることを目論んでいた。
「オスマントルコ」は、14世紀ごろトルコ系イスラム教徒が作り上げた、中近東から欧州に及ぶ巨大な国だった。
それだけではなく「オスマントルコ」という国そのものは、1922年まで続いた「大帝国」であった。
そのような、イスラム教徒の大国家をつくることを、目的としていると、言われてきた。
そして、彼らがどのようなことを行ったのかは、ご存じの通りだ。

同じように、プーチン氏にとっては、旧ソ連邦から独立した旧東ヨーロッパ諸国は、「もともと自国であり独立などありえない!」という考えを、潜在的に持っていたとすると、まさにIS国の指導者そっくりのような気がするのだ。
しかもプーチン氏の中では、「現ロシア>旧ソ連邦から独立した諸国」という考えを持っているようなのだ。
だからこそ、「NATOに入りたい」といっていたウクライナに対して、「気に食わん!」と殴りかかっても、罪悪感など無いのでは?と、考えてしまうのだ。
とすると、かつての「冷戦時代」とは考え方が全く違う、ということを踏まえた交渉が必要ということになる。

上述したことから、西側諸国の外交交渉によって、プーチン氏がどれだけ歩み寄ることができるのか?と考えると、疑問に感じている。
何故なら、ウクライナをはじめとする旧ソ連邦から独立した国々は、「大ロシア」の中にある地方であって、独立国ではないと考えているだろうし、「大ロシア」の一地方都市であるウクライナが、敵対しているNATOに加入できるはずもない。
そんな「駄々っ子のようなことをいうなら、力づくで(ウクライナに)いうことを聞かせなくてはならない」という、感覚なのだと思う。
そのため、西側諸国が「けしからん!」と怒っている感覚がわからないのでは?と、想像するのだ。

何となくだが、このような感覚を持っているのは、中国も同じなのでは?という、気がしている。
中国の場合は、「モンゴル帝国」ということになるだろう。
そして、現中国が「新疆ウイグル自治区」や「チベット」で行っていることと、共通するモノがあるようにも感じる。
このように考えると、ロシアと中国の関係が深くなるのは、どこかしら「似ている感覚を持っている」からなのでは?という、気がしている。
ただ「その似た者同士」であっても、自分の利益や目的を阻害する相手となった時は、容赦しない態度に出るだろう。
それは歴史を見ればわかることだ。

インターネットで世界がつながるような現代であっても、「14世紀ごろの帝国に君臨する王」になりたい、という指導者がまだいる、ということにも驚くのだ。








マーケティングは「エッセンシャルワーク」

2022-03-16 20:21:13 | ビジネス

しばらく前の朝日新聞のWebサイトに「マーケティングとは」という、インタビュー記事が掲載されていた。
朝日新聞:マーケティングは「エッセンシャルワーク」 啓発団体トップの思い  (有料会員記事)

インタビューに答えている方は、元三菱東京UFJ銀行副頭取をされていた小笠原剛さんで、中部マーケティング協会の会長をされている方だ。
マーケティング協会というのは、商工会議所内と関連が深く、名古屋の場合名古屋商工会議所の中に事務所がある。
実は会社員時代、中部マーケティング協会の勉強会に何度か、参加させていただいたことがある。
このインタビューは年に1回開催される中部マーケティング協会が主催するセミナーなどでも最大規模の「マーケティング会議」を前にしてのインタビューだったようだ。

この記事の中で、インタビュアーが「マーケティングのイメージが、人によってバラバラ」と話している。
仕事をしていて、この「イメージがバラバラ」ということを、実感することは度々あるのも事実だ。
ただ「バラバラのイメージ」のすべてが、「マーケティングの仕事」だともいえる。
というのも、ドラッカーの「マーケティングの4P」が、これらすべてに当てはまるからだ。

拙ブログに来てくださる方なら「マーケティングの4P」が、何を指しているのかご存じだと思う。
製品が市場に出て、生活者に買ってもらう為に必要最低限なことだからだ。
と同時に、ドラッカーは「マーケティングはビジネスの基礎知識」だとも、言っていた。
企業の経営者から新人、最近ではアルバイトなどの非正規雇用者に至る、ビジネスにかかわる人たちすべてが、持つべき知識である、とドラッカーは言っているのだ。
にも拘わらず、日本では「マーケティングは、広告代理店の仕事」のように、思いこんでいる部分がある。
そのため、広告代理店に仕事を依頼するにしても、依頼した広告代理店から出てきた企画や調査結果を理解し、判断を下すのは依頼をした企業側であるにも関わらず、その判断ですら相手に丸投げしているような企業は少なくない。

ドラッカーの言う「ビジネスの基礎知識」としての「マーケティング」という視点になると、この小笠原さんの話している通り「ビジネスにかかわる誰もが持つべき知識である=エッセンシャルワーク」ということになる。
このような話になると、「Webマーケティングは旧来のマーケティングの手法では対応ができない」などの意見が出てくるのだが、マーケティングそのものは、「生活者に視点を置いて考えること」なので、時代が変わろうと市場がWebを経由したものであろうと、基本は変わることがないはずなのだ。

にもかかわらず、書店には目新しい「〇〇マーケティング」というタイトルの本が、次々に登場している。
まずそこから、考えなおす必要があるのでは?ということなのだ。
Webであろうと実店舗であろうと、サービス業であろうと「生活者に視点を置く」ということには、何ら変わりは無いのだ。

問題は「自社が生活者に対して、どう考え・何を・どのように提供し・告知をすればよいのか?」ということを、考えつくしているのか?ということなのだ。
今のような「社会不安が強い時、生活者は何を求めているのか?」と「それにどう応えることができるのか?」ということを考えるのは、その企業(本来は企業だけではなく、行政にかかわる人たちも含めてなのだが)のトップから現場に立つ人たちまで考えるべき問題である、ということなのだ。
その考えが「マーケティングはエッセンシャルワーク」ということになるのだ。