日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

衰退産業のイノベーション

2007-07-31 21:56:48 | ビジネス
昨日の毎日新聞のWEBサイトに、日本テキスタイルの底力:独創性/品質/技術力 魅力伝える本、出版相次ぐ、という記事が掲載されていた。
日本の繊維産業は、中国などの製品に押され衰退の一途といわれていたが、決してそうではなかったようだ。
衰退といわれる中で、多くの中小企業が自ら変革する努力を続けていたようだ。

それは中小企業だけではない。今週あたりから流れるようになった、旭化成のテレビCMは「水の星」をテーマに自社の開発した「中空糸膜」技術を、ろ過装置として使っている。
山口百恵さん最後のシングル曲「さよならの向こう側」のカバーが使われているので、ある年齢以上の人たちにとっては、懐かしいと感じるCMだろう。

これまでのように「繊維=服飾」という発想では、繊維産業も限界があるだろう。
もちろん、服飾産業でも日々新しい繊維を求めているだろうが、それだけでは「イノベーション」が生まれてこないのだ。
建設分野など、視点を変えることでイノベーションが生まれ、市場が創造されていくのだ。

中小企業の繊維企業も旭化成も目指しているのは、「人の快適さ」だろう。
それが「水のろ過装置」となり、建材素材となるのだ。
そのような「発想の豊かさ」こそ、日本の底力かも知れない。
というのも、「形状記憶合金」が注目されたとき、米国では軍事使用を考えたようだが、日本では女性のブラジャーのワイヤーとして使われ、大ヒット商品となった。
今ではその「形状記憶」という技術は、繊維製品の一部として当たり前のように使われるようになった。

衰退産業(と思われる産業分野)のイノベーションとは、「人の快適さ」を求めていくことなのかも知れない。
それは、生活スタイルを変える場合もあるだろうし、それまでと違う価値観を生むかもしれない。
「人の快適さ」という視点は、当たり前でもあり難しいコトでもある。
だからこそ、そこにイノベーションが生まれるのだと考える。





変化を感じ取る力-参院選挙と鈍感力-

2007-07-30 22:40:16 | アラカルト
昨日の参院選は、自民大敗・民主躍進という結果に終わった。
個人的に驚いたのは、島根など「自民王国」で議席を失ったことと、組織基盤がシッカリしているはずの公明党が議席数を減らしたことだ。
他にも、東京選挙区で落選した自民党候補なども「組織を中心に、票を固める」という「戦略」だったようだが、思い通りのようにはいかなかった。

「組織基盤がシッカリしているトコロが勝!」というのは、選挙があるたびに言われてきたことだが、今回は違っていたようだ。
もちろん、組織票で当選を勝ち取った候補者もいるだろう。
だが、それよりも多かったのは「候補者の考えを選んだ」というコト、だったのではないだろうか?
それが、昨日のエントリの冒頭で書いた「選挙公報を読んでいれば、自分の考えとあう候補が自然に分かるでしょ」という、女性のことばなのだ。
それが、時代の意識変化なのだと思う。

反面、最近頻繁に目にすることばが「鈍感力」だ。
「多少の批判などに動じず、信念を貫く」という意味で使われることが多いようだが、今回は、選挙民である生活者の意識変化を感じ取れる能力が問われたような気がするのだ。
といっても、大衆に迎合することではない。
そこを勘違いしつづけてきた結果が、「集票マシーン」としての組織基盤業界に対する手厚い公共事業だったり、既得権だったのではないだろうか?
言い換えれば、自分たちにとって利益を与える人たちだけを見ていて、利益を与えない人たち(=集票マシーンとならない組織)は眼中にはないというコトに対する、一つの答えだったのではないだろうか?

もう一つ感じたことは、自民党はピンチをチャンスに変えることができなかったコトだ。
今回の争点の一つとなった「年金問題」について、明確な将来ビジョンを示すことよりも、目の前の問題処理を公約にしてしまった。
問題の発端は、社会保険庁の怠慢とも思える管理能力のなさだ。
「やるべき仕事をやらない体質を正す」という公約をしてもらっても、多くの人にとっては「で何?」という感覚でしかないのだ。
その「ズレ感」を感じ取れない「鈍感力」もまた、致命的だったように思う。

考えてみれば、「変化を感じ取る力」は政治家だけに求められるモノではない。
一番求められるのは、企業だろう。
利益関係にある人たちだけを見ていれば、市場からNo!を突きつけられるのだから。


お父さんの子育て

2007-07-29 22:18:49 | ライフスタイル
テレビだけではなく、今日1日は選挙一色だろう。
投票に行った帰り、前を歩く親子さんの会話などからも選挙に対する関心の高さが伺えた。
おそらく今回初めての投票をするお嬢さんなのだろう、一緒に来た母親に「候補者っていっても、ワケわからない」と言うと「それはあなたが、選挙公報を読んでいないからわからないの。投票するということは、自分で考えて情報を収集して、自分の考えとあう人を選ぶことなんだから・・・」と、以前であればまず交わされることがなかったであろう会話をしながら、投票所を後にしていた。
そんな光景が、アチラコチラの投票場で見られたとすれば、選挙民にとっても大きな意識変化をもたらした選挙だったのかも知れない。

そんな選挙でも、「生活」が一つにキーワードとなっていた。
ただ、政治が担う「生活」も重要だが、生活者自身の意識変化、企業の制度改革に伴う社会変化が必要な気がする。
そんなことを示すように、毎日新聞のWEBサイトにお父さんの育児:NPOが応援プロジェクト 「仕事との調和、考えて」という記事が掲載されていた。

これまで「子育て」というと、どうしても女性が中心となるコトが多かった。
それ自体は、大きな間違いではないと思う。
問題なのは、そこに男性の姿がないことが多かったことだ。
それを指すことばが、「社会的役割分担」だ。
確かに「出産」は女性しかできない。
だが、「子育て」は女性にしか、できないのではない。
授乳は女性しかできないコトだが、お風呂に入れたり、オムツを変えることは男性でも十分できることだ。
だが、これまでは「男性は外で仕事。女性は内で家庭を守る」という考えが、社会通念(というべきか?)としても、企業側にも当然のこととしてあった。

だがここにきて、企業も大きな変化が求められている。
その背景には、女性の社会進出や男性を含む非正社員の増加がある。
他にも、シングルマザーやシングルファザー世帯も当たり前になりつつある。
男性だから外で仕事、女性だから内とはいえない時代になってきているのだ。
今回はNPOが中心となって「お父さんの子育て」をサポートしているが、本当なら企業自体が「子育て」という社会事業に、積極的に考え時代がきているのではないだろうか?

「24時間働く社員」を求める時代は、既に終わったように思うのだ。

謝罪2題-政治家とアスリートにみるコミュニケーション力-

2007-07-28 06:36:28 | 徒然
昨日、ニュースを賑わせた「謝罪」が2つあった。
一つは、フィギュアスケートの織田選手の酒気帯び運転による謝罪。
もう一つは、毎度おなじみ状態となりつつある農水大臣の経費の二重計上による謝罪だ。

織田選手の謝罪は、「泣いてお詫び」という型通りといえばそれまでなのだが、それでも「反省」という印象を与えるのではないだろうか?

それに対して、就任以来「謝罪慣れ」した感のある農水大臣だが、どうもこの人は「謝罪」という意味がわかっていないような気がする。
というのも、「自分のコトばかり言っている」為、それは謝罪どころか「ヘタな言い訳」にもなっていないからだ。
先日の「吹き出物」などは、政治とは関係のないコトなので、どんなコメントをしようとかまわないのだが、「????」となってしまう態度とコメントだった。
自分のチョッと恥ずかしい(?)バンソウ工顔の質問を、軽くかわすくらいのセンスがなくては、選挙演説などで「人をひきつける話」などできないと思うのだが、お坊ちゃま二世議員には関係ないのかも知れない。

それより問題なのは、「紋切り型の説明しかできない」というコトだ。
前回の「事務処理問題」にしても、終始同じ言葉しか使えない。
ヘタに説明をすれば「墓穴を掘る」ようなコトになってしまうのかも知れないが、その説明を聞く相手の気持ちに対しての想像力が欠如しているのだ。
「説明を聞く相手」とは、目の前にいる記者だけではなく、記者やカメラの後ろにいる「生活者」のコトなのだが、彼の目には「生活者」どころか「記者の姿」すら見えていないのかも知れない。

今回の「二重計上」だが、「単なるミス」であるはずがない。
郵便局をごく普通に利用している人なら分かると思うのだが、どんな小さな郵便局でも発行する「領収書」は1枚で、二つの書類に添付することができないからだ。
とすれば、故意に「領収書」をコピーして計上するしかないからだ。
姑息な方法だが、日常的にしてイロイロな「二重計上」をしているのではないか?という疑問も出てくる。

フィギュアスケートの織田選手の場合、大学側にも問題があるようだ。
織田選手の場合、フィギュアスケート選手というだけではなく「学校の広告・宣伝マン」というコトもあり、学校側が必要以上に「甘やかしていた」ようだ。
だが、このようなことは決して彼だけではない。
様々な大学が「一芸入試」のように、スポーツや芸術に才のある学生を獲得し、「学校の顔」として使うことが多くなってきているからだ。
であれば、学校もアスリートとしてだけではなく、「広報マン」としての教育をしなくてはいけないということだ。

農水大臣の場合、コミュニケーション力だけではなく、体力・気力についても若干の問題がありそうだが・・・。





マニフェストってなんだろう?-政党テレビCM-

2007-07-26 21:19:23 | CMウォッチ
今度の日曜日に行われる参議院選挙を前に、各政党のテレビCMも第2クルーに突入したようだ。
最初は、どちらかというと「イメージ先行」的な感じだったのが、今では「実行」という言葉が、頻繁に使われるようになった。
「実行」というからには、それが政党のマニフェストということになるのだろう。

このテレビCMを見ていて気がついたのだが、今回の争点の一つ「年金」を扱った内容が多いということだ。
はたして「年金」に関して「○○までにやります」とか「、年金の不安を無くし、完全受給」のようなことは、政党マニフェストなのだろうか?
「名寄せ確認」だとか「消えた年金を支払う」というのは、議員さんの仕事ではないと思うのだ。
それとも、議員年金を撤廃し、そのお金を原資として国民年金の制度改革をするというのなら、話は別だろうけど。

「台帳の名寄せ確認」とか、「消えた年金支払い」などというのは当然のコトであり、それをするのは、社会保険庁の仕事なのではないだろうか?
それを政党の公約として掲げるというは、「政府として監督します」という意味でしかないのではないだろうか?
それとも社会保険庁は、政府の監視がなくては「やらなくてはいけない仕事=ミッション」を達成することもできないということなのだろうか?

確かに、今日の讀賣新聞のWEBサイトに掲載されているように、不自然で怠慢なお役所なのかも知れない。
これまでの社会保険庁は、自分たちのミッションが理解できず、ただただお役所で時間を過ごすコトが、自分たちの一番大切な仕事だと思って、実践してきたのだろう。
それが「違いますよ!」と言われても、理解できず(もしかしたら、理解したくないのかも知れないが)、それまでの「ただただお役所にいる」というコトが仕事だと納得している人たちの巣窟が「社会保険庁」というコトなだけのことだ。
もちろん、それでは困るのだが、社会保険庁に限らずイロイロな省庁で働く人たちの中には、「役所に行くことが仕事」だと思い込んでいる人もいるだろう。
それを正すのが、政治家の仕事ではないように思うのだ。

そうやって考えると、年金を扱う政党CMというのはマニフェストでもなければ、政治家としてのミッションでもないということが分かる。
政治家のミッションってなんだろう?
政治家が一番やらなくてはいけない仕事とはなんだろう?
そういうことを訴える、政党CMがないような気がするのだ。

そういえば・・・小泉さん時代に「抵抗勢力」と名指しされた人たちが作った政党だけは、政治家の仕事とか将来ヴィジョンなどということとは、まったく関係のないCMが作られていて、ある意味「ぶっ飛び!!」CMであることには、間違いなさそうだ。




本当にエコ?-マイ箸ブーム考-

2007-07-25 19:01:14 | ライフスタイル
しばらく前から「マイ箸」が、注目されている。
今日の産経新聞でも、手軽にエコライフ…「マイ箸」持ち歩く ボトルのようにキープも という記事が、掲載されている。
実際、Yahooなどで検索してみると「マイ箸」情報を提供するサイトが、幾つも出てくる。
そしてそれらに共通しているコトが「エコ」だ。
だが、本当に割り箸を使うコトが悪くて、マイ箸を持ち歩く(あるいはマイ箸キープ)をすることが「エコロジー」なのだろうか?

そもそも「マイ箸」ブームの始まりは、海外からの留学生などが「木製の箸を使い捨てにするコト」が、自然破壊に繋がるというところからだったのではないだろうか?
確かに、日本国内で流通している割り箸の殆どは「中国産」だ。
アジアの森林を伐採して、割り箸に加工して日本に輸入され、消費されているというのが現実だ。
その視点から見れば、割り箸を使うコト=(海外の)森林伐採を促進させている、ということになる。

だが、日本国内の間伐材などを使うという視点では、どうなってしまうのだろうか?
実は、「樹恩割り箸」という、考えがひっそりと広がっている。
他にも、早稲田大学生協などでは「森を守る割り箸」を使っている。
コンビニエンスストアーの「ミニストップ」では、「5円の木づかい」を展開している。
こちらは、お弁当などにつける割り箸を国内産に切り替え、1膳当たり5円を負担をお願いするというモノだ。

確かに、割り箸を作るためにだけ海外の森林を伐採するというのは、エコロジーという視点から言えば「×」だろう。
しかし、国内の森林保護や国土保全という視点では、「○」というコトになるのだ。
「日本の森林保護のために、いくらお金を出すのか?」という問題を、突きつけられているとも言えるし、「エコロジーに対する負担をどのように考えるのか?」ともいえる。

それよりも気にしなくてはならないのは、「食品トレー」なのではないだろうか?
原材料が石油ということもそうなのだが、ゴミを増やしている要因にもなっているはずだ。
コンビニのお弁当容器にしても、プラスチック容器が普通に使われている。
「マイ箸=エコ」ということに、もう少し疑問をもっても良いのではないだろうか?

企業防衛?事業協力?株式の持ち合い

2007-07-24 22:51:20 | ビジネス
21日の日経新聞他にブラザーが株式持ち合い、シチズンなど3社とという記事が掲載されていた。
そして今日、物流大手3社が株持ち合い 日通、ヤマト、セイノーという記事が、朝日新聞のWEBサイト他に、掲載されている。
21日の記事と今日の記事の共通となる言葉は、「株式の持ち合い」だ。
しかし、その目的・内容はまったく違う。

今日の「物流大手3社の株式の持ち合い」というのは、企業防衛というよりも互いに持っている事業ネットワークや、得意分野を補完しあうことで業界全体を発展させていく、という意味合いが強い。
例えば、「クロネコヤマト」ことヤマト運輸は、個人向け物流「宅配」については圧倒的な強さを持っている。
最近では、「宅配」の機動力を使って「クロネコメール便」という、通販カタログなどの印刷物の取り扱いもはじめている。
それに対し日通は、国内外の航空貨物など。
「セイノー」こと西濃運輸は、倉庫管理~陸運全般が強みといえるだろう。
株式を持ち合うことで、「物流」という業務を互いに協力しあい、10月に民営化される郵便事業会社や海外のUPSやFedExに対抗しようという考えだ。

それに対して、ブラザー工業・シチズン他3社の株式の持ち合いは、異業種の「株式の持ち合い」だ。
これらの企業に共通していることは、スティールパートナーズが筆頭株主となっていることだ。
互いに株式を持ち合うことで、スティールパートナーズの影響力を抑え、将来的には「ハゲタカ・ファンド」を排除していきたいという考えが伺える。
この策が、海外からの優良投資ファンドからどのように受け止められるのかは、分からないが、企業防衛という意味では「互いに安定株主」となることが最大のポイントなのだろう。
もちろん、異業種が株式を互いに持ち合うことをキッカケに、事業アイディアのコラボレーションが生まれるかも知れない。
だが、それはあくまでも「副産物」としてのことだろう。

「株式を公開する」というコトは、どのような人・企業(投資会社を含む)が関わってくるのか分からないという、一種のリスクを負うということだ。
怖がってばかりでは、企業の発展は難しい。
もしかしたら「企業とは何か?」という存在意味を、企業自身も株主も問われる時代になってきているのかも知れない。

「カフェスタイル」が心地よい?-新しい顧客サービスか?-

2007-07-23 23:09:38 | トレンド
産経新聞に、「カフェ」コンセプトを生活に 心地よさ取り入れという記事が、掲載されている。
しばらく前から、首都圏を中心に「銀行+カフェ」という形態の複合業態が、多くなってきている。
「カフェの心地よさの提供」というのであれば、某自動車メーカーなどは、主な顧客が女性(この会社の主力は軽自動車)ということもあり「カフェスタイル販売店」をテレビCMで展開し、実際の販売店を「カフェスタイル」にしている。
この自動車メーカーの「カフェ計画」の目的は、「カフェで時間を過ごすような心地よさ」の提供により、主な顧客である女性層を獲得することにある。

そのような流れ(?)の中で、今回のような「カフェスタイル」によるサービス提供が、様々な企業に広まりつつあるというのだが・・・「カフェスタイル」って、本当に「心地よさ」の提供なのだろうか?と考えてしまうのである。

おそらくこの「カフェスタイル」というのは、「スターバックス」や「タリーズ」といった、ここ数年で全国展開してきている「カフェ」のことを指しているのだと思う。
元々「スターバックス」の事業コンセプトは、「心地よい空間でコーヒーを楽しむ場所の提供」だったはずだ。
その意味では、それ以前にあった安いコーヒースタンド系のような店舗のつくりではなく、広くゆったりとしたソファーなどを使い、「そこで時間を過ごすコトが楽しい=もう一つのリビング」的なつくりとしているはずなのだ。

この「スターバックス」の事業コンセプト(スターバックスでは「スピリット」と読んでいる)を読んで気がついたことがないだろうか?
それは日本人の得意な、「おもてなし」という心遣いだ。
何も「カフェスタイル」だから「おもてなし」が充実するわけではない。
「おもてなし」という気持ちの一つとして、「カフェスタイル」というコトがあるだけのことなのではないだろうか?

この記事を読む限り、このような「カフェスタイル」を取り入れるところは、それまで「おもてなし」という心遣いをあまり必要としなかったところのようだ。
だから目新しいという印象なのかも知れないが、ビジネスの基本の一つである「相手を思い・気遣い・目配りをする」というコトなのだ。
それにコーヒーというサービスが付加されているだけなのではないだろうか?
言い換えれば「コーヒーサービスをすれば、カフェスタイルになる」と勘違いをしている可能性もあるのでは?と、思ってしまうのである。

何事も本質をみることが大切だ。


エネルギーシフトの時代か?-柏崎刈羽原発トラブル-

2007-07-22 23:17:50 | アラカルト
「中越沖地震」が起きてから、過疎地における問題が次々と表面化してきている。
被災者の多くが高齢者であるということから、一つの怪我や病気がキッカケとなり長期入院が必要となる重傷・病者となってしまう現実。
「ご近所力」で助け合うにしても、それが限界に近づきつつあるということなどなど。
その中で、今一番問題になっているのは「柏崎刈羽原発」だろう。

「原発」があるところというのは、多くの場合いわゆる「過疎地」の海岸沿いに建てられていることが多い。
だが、その「原発」で作られた電力を消費するのは、遠く離れた大都市だ。
その意味で「消費者」の多くは、原発を見ることなく電力を自由に使っているということになる。
言葉が悪いのだが「原発のリスクを負うことなく、安全な所で豊富な電力の恩恵に与っている」ともいえる状況にある。
当然、今回の地震で様々なトラブルを起こした東京電力の幹部役員さん達も、同じように普段はリスクを感じることなく、その恩恵に与っている生活を送っているはずだ。
だからこそ、様々なトラブルが発生した直後に行われた記者会見での態度に、「危機感があまり感じられないのではないか?」という気がするのだ。

それだけではなく、この夏の酷暑を予想すると原発停止によって、電力不足が既に懸念されている。
他の電力各社に呼びかけ、なんとかこの危機を乗り切るようだが、もっと視点を変えてみる必要があるのではないだろうか?
それは、「電力を使わない生活にシフトする」というくらい、大胆な発想の転換だ。
その筆頭は、各所で見られる「ライトアップ」だ。
都会のライトアップは「ロマンチックな演出」という意味で効果があるのかも知れないが、その分を郊外の街路灯に回したほうが、生活の安全・質の向上になると思っている。

もちろん、根本的な「エネルギーシフト」というコトも、考えなくてはいけないだろう。
「原発が悪い」というのではない、ただ「原発」そのものに対するリスクを感じることなく、使うだけ使って事故がおきると「原発は怖い」というコトに、「どうなの?」という疑問があるということなのだ。
「原発が怖い」というのなら、「原発に変わるエネルギー」というモノを、考えなくてはならない。
それを考える中心となるのは、消費をする都会の人たちなのではないか?ということなのだ。

「太陽光発電」以外の自然エネルギーの多くもまた、都会の真中で作られるものではない。
もしかしたら、エネルギー生産そのものも「地産地消」的発想をし、「エネルギーシフト」というモノを考える必要があるのかもしれない。




エコバッグは「ダサい」か?

2007-07-21 22:12:36 | トレンド
先週末、東京・銀座の某ブランドショップでは長蛇の列ができ、いわゆる「エコバッグ」争奪戦が繰り広げられた。
その争奪戦は、全国的に広がり同ブランドが入っている百貨店などでも同様だった。
その「争奪戦」については、拙ブログでもエントリをさせてもらったのだが、少し気になるコトがあった。

それが「エコバッグは、ダサい」ということだ。
一般的に言われる「エコバッグ」というモノは、紀ノ国屋のナイロン製のショッピングエコロジーバッグがスタンダードだ。
同質のバッグは、三越などの百貨店などでも販売している。
ナイロン製の「エコバッグ」は薄く、安っぽい感じがあるのかも知れない。
他には「レジバッグ」と呼ばれる、スーパーの買い物カゴにすっぽり入る、保冷素材でできたバッグだ。
どちらも、「ショッピングバッグ」という機能が優先されていることには違いないのだが、それ程「ダサい」だろうか?

確かに、銀座や丸の内の有名海外ブランドショップに買い物に行くときに持っていくには、不釣合いだろう。
だからといって「ダサい」とは、思えないのだ。
というのも最近の「エコバッグ」といわれるモノは、バラエティーに富み、デザインも大きさも様々だからだ。
例えば、雑貨モノ大好きの若い女性の間で人気のある「ROOTOTE」などは、今回の騒動となったブランドエコバッグと同じ、キャンパス生地を使っているモノが主流だ。
値段も半額だ。ただしネットオークションで高値はつかないだろうが。

今回の「有名ブランドエコバッグ騒動」で、「エコバッグがダサい」と言ってしまうには疑問が残るような気がするし、実際のエコバッグは決して「ダサくない」と思うのだ。
ただ、そのエコバッグを持つ人の「ライフスタイル」や、「生活志向」が違うだけなのではないだろうか?

「エコバッグ」に限らず、自分の趣味・趣向が世間のスタンダードだと思うのは、どこか危ないような気がするのだ。
それは、「自分の価値観が正しく、違う価値観は認められない」という発想の柔軟性の欠如だとも言えるだろうし、それが当たり前になっていくと、「プロパガンダ」に気が付かず、一つの方向へと流れていくコトにもにもなりかねないからだ。
「多様性を認め合うこと」、それが文化も社会も豊かにしていくコトなのではないだろうか?