明日から再び、入院中の父の看護のため一時帰省をする。
集中治療室から一般病棟に移ったので、病状そのものは回復しているようなのだが、これから先のことを考えると「遠距離看護」のむずかしさを、ひしひしと感じている。
たとえば「主治医の話」だ。
私自身は大病をして以来、病院に定期的に通うようになり、病気についての知識だけではなく医療者と上手に付き合う(=患者力)を身に着けてきたつもりだが、それを父に理解させるということのむずかしさ。
医療の言葉そのものは、専門用語が多くわかりにくい言葉が多い。
まして、父の世代などは「お医者様にあれこれ質問をするのは、失礼」という考えの世代。
専門用語など、理解ができなくても「ハイ」と言ってしまう可能性のほうが高い。
最近の治療の考えの基本は「患者の意思決定を尊重する」という方向にあるのだが、患者自身が自分の病状を十分理解できないまま「ハイ」という返事をしてしまう傾向が強い、というのも日本の医療現場にありがちなことだと思っている。
高齢者の場合、特にその傾向が強いのではないだろうか。
そのような状況の中で、昨今言われているような「QOL(生活の質)の高い医療」を受けることそのものが、とても難しいと思っている。
もう一つは、栄養面についてだ。
高齢者になると、食が細くなるのは仕方ないことだと思うのだが、それまで「自分が健康である。または、持病と上手に付き合っている」と、自信を持っていた高齢者にとって、命に係わるような病気になる、というのは精神的なショックが大きいように感じている。
実際、父を見ていると自分が心筋梗塞になった、という事実はわかっていても、心筋梗塞になった自分を受け入れられず、精神的ショックから立ち直っていないように感じる。
その為、以前より食欲が低下しているようで、必要摂取カロリーを得るまでの食事の量が取れていないようなのだ。
「必要摂取カロリー」が取れない、ということは体力的な回復が遅れる原因にもなるのだが、食欲そのものを回復させるためにも「病気になった自分」を父自身が受け入れられるよう、サポートする必要でありそのための時間も必要だと思っている。
とはいっても、今の日本の医療では「病気に対する入院目安」のような基準があり、それらの基準をもとに入院日数が大体決められるようだ。
父の場合、3週間という予定になっている。
その3週間で、急性期の治療~自立できる日常生活までの回復治療を行う、というのはとても厳しいような気がしている。
ただ、父の場合早く退院したい、という気持ちが強いようで、「心臓リハビリ」などにも積極的に取り組んでいることが、少しの安心材料となっている。
問題は上述した通り、本人が病気になった自分を受け入れられていないという点と、体力低下。そして再発と緊急時の対応策だ。
短い期間で、どれだけのサポート体制ができるかわからないが・・・。
ということで、拙ブログをしばらくお休みいたします。
朝日新聞の名古屋版に「地域の針路2015」という、企画記事が掲載されている。
朝日新聞:地域の針路 (注意:リンクした記事は、1月23日掲載分で、今回の記事とは関係ありません)
今日、豊田市が抱えている問題についての記事が、掲載されていた。
豊田市と言えば、トヨタ自動車の本社がある。
言い換えれば、トヨタ自動車で行政の財政が保たれている市、ということになる。
その豊田市だが、実はとても行政地域が広い市でもある。
おそらく、愛知県で一番大きな行政地域を持っている市だと記憶している。
というのも「平成の大合併」で、いくつかの町や村が合併をし、大きくなったからだ。
その為、旧豊田市から一歩離れると、山間の過疎地のような雰囲気になってしまう。
秋の紅葉で有名な「香嵐渓」(といっても、愛知県下に限定されるのかもしれないが)のある、足助町などは旧街道沿いの古い町並みが残る風情ある町だが、高齢化が進んでいると感じる地域でもある。
そしてそのような地域は、日本全国至る所にあるのではないだろうか?
その豊田市を取り上げている記事の内容が、今回のテーマだ。
というのも「地方創生」というのは、ご存じのとおり安倍さんが掲げた「成長戦略」の一つだ。
しかし、その内容となると「・・・???」という感じがしている。
決まったことと言えば、「自由に使える地方交付金を増やす」ということぐらいだろうか?
そして記事にはその「自由に使える交付金」に、戸惑っている行政職の姿が、紹介されていた。
「丸投げ」という言葉は、決してイメージの良い言葉ではないが、「その地域にあった施策を地域の人たちが積極的にかかわり、地域を活性化する」という意味での「丸投げ」なら、むしろ歓迎すべきことだと思う。
むしろ、今までのように霞が関から見た地域振興であっては、意味がないのでは?
国があれこれと指示をして、国が主導した地域振興で成功したものがあっただろうか?
もちろん、かつての「地域振興1億円」という政策で、安易な発想で失敗をした地域もあったと思う。
というより、ずいぶん失敗をした地域があったのではないだろうか?
だからこそ、失敗から学び、地域の身の丈に合った「地域づくり+地域振興策」ができるのではないだろうか。
これから先、地域ごとに特色のある振興策を打ち出さないと、東京への一極集中が今よりも加速していくだけだと思う。
「東京一極集中」というのは、日本の経済だけではなく様々な面でリスクが高い、という指摘はされ続けている。
その意味でも、地方の行政にあたる職員は、これまでの「前例主義」的な発想から脱却し、その地域ならではの特色ある「振興策」を積極的に打ち出す必要がある。
「国が丸投げするから、困る」という発想ではなく、「国から丸投げ、大歓迎!」というくらいの気持ちを持って、地域色豊かな政策を打ち出すことが「地域創生」となり、日本を元気にすると考えている。
フランスの「風刺週刊誌」の襲撃テロから、随分日にちが経過したような気がする。
そのフランスの週刊誌が掲載をした風刺画が、今問題になっている。
一昨日、日本にいるイスラム教徒の人たちが風刺画を掲載した東京新聞に対して、「侮辱である」と抗議をした。
実はこの風刺画掲載について、日本の新聞社でも掲載・非掲載とわかれたようだ。
「掲載する意味」という視点で、それぞれの新聞社の考えがわかれたためのようだ。
掲載を決めた東京新聞側は「問題の判断材料を読者に提供するため」というコメントを出している。
掲載理由として、十分な理由だと思うのだが、掲載をしなかった新聞社などは「イスラム文化を尊重」という理由で、掲載を見送ったようだ。
私は、この風刺画を見ていないので、その風刺画に対する考えを述べることはできない。
ただ、「イスラム文化」という「文化的視点」や「宗教と生活の関係」という部分を考えたとき、やはり尊重されるべき点は多かったのではないだろうか?
ご存じのとおり、キリスト教もイスラム教も人々の生活に密着している。
密着というよりも、生活規範そのものが、宗教に反映されてものだといってよいのではないだろうか?
イスラム教の人たちが、キリストを風刺するような絵や漫画が掲載されたら、やはり気持ちの良いものではないだろう。
そのような配慮があった「風刺画」であったのか?という点が、今回のイスラム教徒の人たちの抗議で、疑問に感じたのだった。
その視点で考えると、風刺画を掲載した雑誌社に「イスラム教文化を尊重する」という意思は、あったのだろうか?という疑問がわいてくる。
確かに「イスラム国」や「アルカイダ系過激派組織」が行っている、残虐非道な行為は人として許されるべきものではない。
だからと言って、イスラム教を揶揄し風刺画として掲載しても良いというわけではないと思う。
「イスラム国」や「アルカイダ系過激派組織」を風刺することと「イスラム教」を風刺することは別だとすれば、フランスの「自由・平等・博愛」という「フランスの精神性=エスプリ」を感じさせないものであった、ということになるのでは。
そんなことを考えていたら、朝日新聞のファッションコラムに同様のことが書かれたいた。
私の拙い文章よりも、よりわかりやすく説得力があると思う。
朝日新聞:風刺の意味とは?パリの連続テロ事件とファッション
「イスラム国」が、日本人の人質の命との引き換えに2億ドルという身代金を要求してきた。
一部新聞などには「支離滅裂な解釈」という記事もあるようだが、もともとこの組織に「解釈」というモノがあるのだろうか?
自分たちの都合の良い勝手な解釈はあるかもしれないが、客観性のある解釈などできない組織なのでは?
ただ、安倍さんが中東で支援を打ち出したその日に、このような行動を起こすというのは、老獪という気がする。
「イスラム国」という過激派組織が目指すものは、いったい何なんだろう?
一部では、かつてのイスラムが支配した地域すべてを「イスラム国」にする、という野望があるということらしいが、「国を造る」というのであれば、もっと平和的な方法もあるのではないだろうか?
あのような暴力と制圧、傍若無人な行動は同じイスラム教徒からも総スカンされるような行動をあえてとる、というのが、とても稚拙な気がするのだ。
言い方を変えると、近代兵器を持った駄々っ子が「これが欲しい!」と武力で掻っ攫ってご満悦、という感じに見えるのだ。
もう一つは、国際社会から注目されることで、自分たちが強いと認められている、と勘違いをしているのでは?という部分もあるのでは。
逆にいうなら、残虐な行為をすればするほど国際社会から、一目置かれる存在に自分たちがなっている、と思い込んでいるようにも思えるのだ。
本当は、国際社会のならず者と観られているだけなのだが、彼らにとってそれが「国際社会から認められた」という理解になっているのではないだろうか。
彼らのような組織にダメージを与える方法の一つは、資金源を断ち国際社会全体が「無視をする」ということだと思う。
そして、いかに彼らの行いが時代遅れのかっこ悪いことなのか、ということを伝えることだと思う。
武器VS武器の戦いであれば、当事者よりも関係のない人たちの命の危険がある。
国際的ハッカー集団「アノニマス」が、宣戦布告?したようなサイバー上の攻撃や、彼らが制圧した油田から産出される原油や天然ガスを購入しないなど、様々な方法で彼ら自身の経済的な活動を停止させるような方法を考える必要があるように思う。
もちろん、強奪によって彼らは資金を調達していることや彼らに同調した人たちからの援助もあるとは思うのだが、このような暴力的な行為は、かっこ悪いことで宗教という名を借りたわがままである、ということを積極的に言っていくことが大切だと思う。
「認められたいのであれば、まず相手を認める」、多様性を認め・理解しあうところから「社会」が生まれ、成長していくという、人の基本的な欲求を理解できないという組織に、未来はないと思う。
昨夜、実家から帰ってきた。
父の容体が安定をし、リハビリなどが始まったことと、順番に兄弟で付き添う体制ができたからだ。
独居老人を抱えているのは、私だけではないと思っているのだが、現実に直面すると様々なことを考えざる得ない状況になってくる。
たとえば救急搬送という問題。
父が心筋梗塞を起こしたのは、午前5時前。
「この時救急車を呼べば、今と状況は違っていた」と、はっきり担当主治医から言われた。
私が、父から電話があったときはすでに心筋梗塞が起きて数時間が経過していた。
それでも、その時救急車を名古屋から実家の消防に連絡をして、搬送をしてもらえれば今とは違う状況だったと思っている。
しかし、父本人が「救急車は呼びたくない」ということで、知人に連絡をし何とか病院へ救急搬送をしてもらったときには、心筋梗塞が起きてから12時間以上が経過していた。
看護師さんからは「昭和一桁の方は、我慢に我慢をしてどうしても耐えれなくなって、救急搬送されるケースが多いんですよ。そうなると重症化していることが多く、治療も大変だし回復も遅くなってしまうんですよ」と言われた。
実は日ごろから「いつもと違う体調異常が起きたら、即病院」ということを言っていた。
それでも、救急車で病院に行くことに相当の抵抗感があったようだ。
理由は「ご近所に迷惑をかける」ということ。
実際帰ったとき、ご近所に「ご迷惑をおかけしました」とあいさつに伺うと、「救急車が近所に来たことは知っていたが、どこのお宅だったか知りませんでした。お宅でしたか・・・」といわれることが多く、当事者が考えている「ご近所迷惑感」とご近所の救急車に対する関心度には、大きな差があった。
現在父が住んでいるところは、築30年前後の家ばかり。
新築当時は、30代~40代の親+中学生以下の子供という世帯であったはずなのだが、今は60代以上の夫婦2人世帯か我が家のような独居世帯ばかりになっている。
その為、救急車で搬送される方も多く「また、誰かが運ばれたのかな?」という半ば日常化していたのだと思う。
実際、私が過ごしていた数日でも連日のようにに救急車のサイレンを聞いた。
都会で言われるような「タクシー代わりに救急車」という感覚ではないのが、地方の古い住宅地に住んでいる人たちの感覚なのかもしれない。
そのような「救急搬送」という問題はもちろんなのだが、その前に何とか手当ができないか、ということも重要なのでは?と、看護師さんの言葉から感じた。
たとえば最近見かけるようになった「サービス付高齢者住宅」。
地方に行くと、上述したような理由で世帯の高齢化に伴い、小学校などが生徒数の減少により廃校になるケースがある。
実際、父が住んでいる地域でも、児童数の減少により小学校が廃校になっている。
そのような廃校になった小学校などを利用して、自治体と病院が連携をして「サービス付高齢者住宅」を運営する、ということはできないだろうか?
自分が長い間住んでいる家から離れ、老人ホームや老人介護施設に入所することに抵抗感がある高齢者も多いと思う。
まして、私の父のように「健康で、自立した生活ができる自分」に誇りを持っている高齢者も多いはずだ。
とすれば、その「健康で自立した生活」をしながら、突然の病気や既往症の急変などに対応できるような「サービス付高齢者住宅」への転居は、子供側としても説得しやすく安心の担保となる。
廃校になったとはいえ、小学校などはその地域の中心的な役割をしていた場所。
その小学校を卒業した子供たちにとっても、行きやすい場所なのではないだろうか?
もう一つは、小学校そのものが持っている設備機能を活用できる、という点でも魅力的だと思うのだ。
自治体が「サービス付高齢者住宅」を運営する、ということに抵抗感があるかもしれないが、市営住宅があるように高齢者向けの専用住宅があっても、良いのでは?
そのようなことを考えた、父の緊急入院と付き添いだった。
突然ではありますが、実家の父が「心筋梗塞」により緊急入院をしたため、看護(介護)に専念することになりました。
その為、しばらく拙ブログをお休みさせていただきます。
「遠距離看護」というか「遠距離介護」という状況は、決して私だけの問題ではないと思います。
むしろこれからの社会では、クローズアップされていく課題だと思います。
その当事者となってしまったわけですが、今は父の回復のためにしばらく専念させていただきます。
すでに外科的処置は済んでおり、父の体力面や精神面での回復のための看護が中心になる予定です。
早ければ、来週中には更新できるかと思っておりますが、後期高齢者ということもあり今後のことは、わからない状況です。
ただこのような経験は、その時にならないとわからないことだと思いますし、そのような経験から見えてくる様々な事柄から、学んできたいと思っています。
先週末、フランスで起きたイスラム過激派が起こした、風刺雑誌襲撃テロ。
それに続く、ユダヤ系スーパーでの立てこもりおよび人質殺害は、世界に衝撃を与えた。
犠牲になられた方のご冥福をお祈りするだけではなく、このテロが起きたさまざまな社会背景や宗教観など、日本ではわからないことが世界では当たり前になってきているのでは?という、気がしている。
以前から言われていることだが、日本は不法滞在者を除く移民者は、ほとんどいない。
難民に至っては、年間10人も満たない。
おそらく先進国と呼ばれる国の中で、一番難民者の受け入れ数字の少ない国が日本だと思う。
難民の受け入れが極端に少ない理由は、その審査が諸外国よりも厳しいということだけではなく、言葉の壁も大きいといわれている。
難民と認められ、生活をするようになっても最初に立ちはだかるのは、おそらく「言葉の壁」だろう。
それに対して、欧米の場合もともと「植民地」を世界各地に持っていたこともあって、受け入れをする国の言葉を話す難民は受け入れられやすい。
もちろん、国の考えや移民に対して寛容な社会である、ということも大いに関係していると思うが、そのベースになっているのは「かつての植民地」ということも少なからず影響しているのでは?と、考えている。
今回テロのターゲットとなったフランスは、イスラム過激派「イスラム国」への渡航者(というべきか?)が、欧州の中でも一番多い国だといわれている。
逆に言えば、フランス国内には日本では想像できないほどイスラム教徒が多い、ということになると思う。
その多くがかつての植民地出身者で、フランスへ移民としてきたが「夢破れ」、失意のうちに過激で白黒はっきりさせるイスラム過激派に傾倒していったのではないだろうか?
そのような背景があるとすれば、単なる宗教の問題ではなく欧州の抱えている「移民と貧困」という社会的問題も、考える必要があると思う。
ちょっと変わった話になるのだが、サッカーのW杯で「優勝候補」と言われながら、意外な結果で終わってしまうことがある。
その一つが、フランスやオランダだといわれるのだが、結果が残せない理由の一つに「チーム内での移民・非移民の確執」がある、と言われてきた。
フランス大会では、その「移民・非移民の壁を乗り越えることができた」ことが、優勝の要因だとも言われていた。
特に活躍をした、ジダン選手はアルジェリア系フランス人、アンリ選手もアフリカ系だったと記憶している。
さまざまな文化や社会背景を持つ人たちが集まることで、寛容性とプラス摩擦によって豊かな社会文化が生まれ・育つ。
そうやって欧米は豊かな社会文化を作り上げてきたと思う。
しかし、その中には社会的にも経済的にも恵まれることなく、社会不満を持つ若者たちも数多く存在し、彼らの受け皿となったのが「イスラム過激派」であった、ということは「人と社会のむずかしさ」ということを改めて感じさせていると思う。
もちろん、イスラム過激派が行ったテロ行為は、決して許されるものではない。
年明けからだと思うのだが、auの「英雄CM」がネットで流れるようになった。
au:あたらしい英雄、はじまるっ
このCMに登場するのは、昔話で有名な「桃太郎・浦島太郎・金太郎」の「3太郎」。
物語そのものは、誰もが知っているので「わかりやすさ」や「親しみ」という点では、十分CMとして伝わりやすい内容だと思う。
むしろ昨年(だったと思うが)のペプシの「MOMOTARO」のほうが、あまりにもモダン(?)過ぎて「昔話」というよりも、全く違う物語というか、ドラマのような印象を受ける内容だった。
それに比べ、同じ桃太郎であってもauの桃太郎は、昔話に登場する桃太郎のイメージそのまま。
他の浦島太郎にしても、金太郎にしてもイメージそのものを大きく変えているわけではない。
にもかかわらず、なんとなく違和感を感じるのはなぜだろう?
一つは、このCMが仕掛けた「登場人物たちの会話」に対する違和感だろう。
「英雄」らしくない今の若者言葉での会話というのは、「英雄になる前の若者たち」という印象になってしまっているように感じる。
別の理由があるとすれば、浦島太郎とか金太郎は英雄なの?という、疑問だと思う。
確かに桃太郎は、鬼が島へ行き鬼退治をした。
その意味では、英雄だと思う。
しかし、浦島太郎は虐められていた亀を助けて、竜宮城へ行き楽しい時間を過ごし、お土産に持たせてもらった箱を開けたら、年を取ってしまった・・・というのがあらすじだ。
英雄というなら「虐められていた亀を助けた」、ということになるのかもしれないが、「虐められていた動物を助ける」という昔話は、他にもあり「英雄」という感じがしない。
そして金太郎にしても「熊と相撲をして倒すほどの怪力の少年」という印象が強く、その後酒呑童子を退治した坂田金時へと成長する、というところまでなかなか結びつかない。
日本昔ばなし:金太郎
そう考えると、auの「英雄CM」は、音を掛け合わせたダジャレからきているCMだということがわかっていても、「はぁ・・・?」という印象になってしまっているように感じる。
CMとしては、おもしろい部分がある反面、「それって、英雄かな?」という印象の登場人物に、なんだかな~という気がしてしまう。
確かに「あたらしい英雄」なのだから、それまでの「昔話」のイメージの英雄である必要はないと思うのだが、「英雄」という言葉から受けるイメージからはギャップがありすぎるようにも感じる。
ところで、「あたらしいau」って、どのように変わったのでしょうか?
それが見えないところも、残念という気がする。
昨日、マクドナルドの社長をはじめ幹部がそろって、記者会見を行った。
その内容については、ご存じの方が多いと思う。
一連の「異物混入」についての謝罪会見。
ただ一部では、この「異物混入」に関しては冷めた見方もあるようだ。
今回の「異物混入」に関しては、「チキンナゲット事件」とは違い、調理過程で起きた異物混入ということも考えられる。
再発売となった「チキンナゲット」に混入していたといわれるビニール片などは、おそらくチキンナゲットが入っていたビニール袋のものでは?という気がする。
もちろん、調理過程で起きた異物混入とも言い切れない部分もある。
フライドポテトの中に入っていた「人の歯」と思われる異物だ。
「人の歯」がフライドポテトに紛れ込んで、調理されるというのは、冷静に考えるとホラーのように思える。
百歩どころか一万歩譲って考えると、調理中に治療中の歯が抜け落ちたとか差し歯のような義歯が抜け落ちたということくらいしか考えようがないからだ。
しかし、ふつう調理中はマスクなどをしているのでは?
マクドナルドだけではなく、ファーストフード店などでは衛生管理の一環として、マスクの着用をしていないのだろうか?
もし、マスクをせずに調理をしているとすれば、いくらカウンターの女性(がほとんどだと思う)がアルコールで手を消毒していても、意味があまりないような気がする。
もう一つ気になるのは、マクドナルドがこのような「異物混入」についての記者会見を行った背景には、SNSなどで話題になったからでは?という社会に対して後ろ向きな(?)態度があったことだ。
というのも、私が初めて「フライドポテトに異物が入っていた」ということを知ったのは、facebookの書き込みだったからだ。
マクドナルドもfacebookページを持っているしTwitterのアカウントも持っている。
企業のSNSは、顧客とのコミュニケーションツールとして有効というだけではなく、情報の拡散という意味でも有効だ。
だからこそ、企業は積極的に利用しているのだが、逆にそれが裏目(というべきか?)に出、謝罪会見を開かざる得ない状況に追い込まれた、という印象がある。
事実HUFF POSTには、「マクドナルド、異物混入でケガも「公表する必要なし」と判断した理由とは という記事が掲載されている。
どのような理由があるにせよ、後手後手に回った感のある今回の謝罪会見は、マクドナルドの誠実さよりも隠ぺい体質のような印象を与えてしまった。
「異物混入」という点だけをみれば、「衛生管理意識の欠如」ということになるだろう。
しかしその後の対応を見ると、「企業としてマクドナルド大丈夫?」と言わざる得ないほどのお粗末さなのだ。
1972年に日本初上陸をしてから、「ファーストフードの雄」として君臨してきたマクドナルド。
そのポジションに胡坐をかいた結果なのかもしれない。
年明けくらいからだろうか?Yahoo!のトップページに、「東京ディズニーリゾート」の広告が、表示されるようになった。
東京ディズニーリゾート: 「おとなの楽しみ方 女子会」
昨年大阪のUSJがリニューアルをし、大人気になっている。
一部では、東京ディズニーリゾートの入場者を奪っているのでは、とまで言われるほど好調だという。
その東京ディズニーリゾート(ディズニーランドおよびディズニーシー)は、目新しいアトラクションの話題も聞かず(興味がないので、知らないだけかもしれないが)、確かに昨年は映画「アナと雪の女王」が大ヒットはしたが、ディズニーリゾートと連動した人気にはならなかったのでは?という印象がある。
とはいうものの、この企画にあるように、現在の45歳以上の女性(だけとは限らないが)にとって、ディズニーランドには様々な思い出と思い入れがあるはずだ。
なぜなら、東京ディズニーランド開業当時、高校生~大学生だった世代が今の45歳前後だからだ。
言い換えれば「家族と一緒にディズニーランド」という思い出ではなく、友達やデートでディズニーランドへ出かけた初世代だともいえる。
この「友達と一緒、デートで出かけた」という思い出は、「家族旅行の思い出」とは違う思い出として残っている。
それは「子供から少し大人になった」という、自分の成長の思い出とも重なるからだ。
だからこそ、その当時の思い出は子育てなどが終わりかけた世代にとって、どこか甘酸っぱくも楽しい思い出として、今振り返ることができるのだと思う。
そのような世代に向けての旅行プランが、この「おとなの女子会」ということになっている。
「当時のキラキラした自分を思い出しながら、一緒に過ごした友達と当時を振り返りながら、ディズニーランドで過ごしませんか」ということなのだ。
高校生~大学生の頃というのは、子供でも大人でもない「自由な時間」だ。
だからこそ、大人になってもその当時を懐かしむことができる。
まして、場所は「憧れの(東京)ディズニーランド」。
アメリカ本国以外では、楽しむことができなかった「おとぎの国」を日本でも楽しむことができるようになった!という、ある種の高揚感とともに、その思い出はいつまでも心に残っていると思う。
おそらく、これからはこのような「思い出をたどる」というビジネスが、増えてくるかもしれない。
そしてその中心になるのは、今回の東京ディズニーリゾートが対象とした45歳以上のバブルを経験した女性たちだと思う。