日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ユーモアのセンスは、企業価値を高める

2018-05-31 22:51:50 | ビジネス

Huffpostを見ていたら、ユーモアのセンスは企業価値を高める要素かもしれない、と感じさせる記事があった。
Huffpost:「”人種差別”という副作用はありません」差別発言をした女優に製薬会社が反論ツイート

記事の前半部分だけを読むと、今だに米国には根深い人種差別の意識が残っているのだな~と、感じさせる内容だ。
実際、ここ数年白人警官が黒人を殴打したり、場合によっては問答無用で銃を発砲する、という事件が度々あった。
アフリカ系のオバマさんが大統領になる時代であっても、このような事件が起きるのか?!と、嘆かわしい気分になった方も多いのではないだろうか?

それがトランプさんが大統領になって以来、人種差別的傾向は顕著になりつつあるような気がしている。
トランプさんがいくら「人種差別の意識はない」と言っても、トランプさんの支持者の人たちが「人種差別的は発言」がされると、「トランプは、人種差別を支持している」と思われても仕方のないような状況である、と思っている。

そのトランプ支持派の女優さんが、これまたトランプさんお得意のTwitterで人種差別的ツイートをして、炎上したらしい。
その言い訳に、ある睡眠薬の名前をあげたツイートをしたため、今度はその睡眠薬を製造している製薬会社が、相手を非難することなく明快に企業の考えに、炎上の切っ掛けとなった人種差別と言う言葉を使ったユーモアで反論をしている。

もし、この製薬会社が真っ向から反論をしていたら、炎上をした女優さんは、再び(過激な)リツイートをしたかもしれない。
場合によっては、製薬会社の公式Twitterが炎上するようなことに、なっていたかもしれない。
名前を挙げられた製薬会社側からすれば、とばっちりもいいとこなのだが、SNSなどの場合このような「予期せぬもらい事故」のようなことは起きる可能性は高く、反論の仕方によっては炎上する可能性もあるはずだ。
だからこそ、この製薬会社のようなユーモアというオブラートに包んだ反論の仕方が、重要になってくる。

それだけではなく、このようなユーモアのセンスはTwitterを読んだ人に、好印象を与えることにもつながるのではないだろうか?
今回そのポイントとなっているのが、「副作用」と言う言葉だ。
私たちは、日ごろ使う薬には「副作用はない(あるいは、ほとんどない)」と思っている節がある。
ところが、市販薬でもパッケージや取扱説明書、CMなどでも「副作用」についての告知は、しっかりとされている。
いくら安全性が高いとされている薬であっても、「副作用」そのものは避けられないことでもあるのだ。
このような「ネガティブ」な言葉を使いつつも、人の意識で変えられる「人種差別」には「副作用はない」というメッセージは、堅苦しくなく分かり易く伝わる。
結果、この製薬会社の企業イメージは、大きく好意的なモノになっているはずだ。

この製薬会社のツイートを「ユーモア」と捉えるかどうかは、人それぞれかもしれないが、真っ向から反論するのではなく、自社のネガティブな要素をプラスに転じるような言葉が使えるというのは、やはり「ユーモアのセンス」が必要なのでは?と、思うのだ。

果たして、日本の企業はどうだろう?


マンガ読者も高齢化?

2018-05-30 21:46:39 | アラカルト

Yahoo!のトピックスに、集英社の女性向け漫画雑誌「YOU」の休刊が、取り上げられていた。
集英社:月刊YOU公式サイト
先週だったと思うのだが、同じくマンガ雑誌「別冊花とゆめ」が休刊になる、というニュースもあった。
「YOU」と「別冊花とゆめ」の読者層は、同じではないがマンガ雑誌の休刊が増えているように思う。
35年くらい前に、大人の女性向けマンガ雑誌の創刊ブームがあったように思う。

「花とゆめ」の中心となる読者は、小学校の高学年くらいから中学・高校くらいだと思う。
「別冊花とゆめ」は、おそらく「花とゆめ」を卒業した年代を読者層としていたのでは?という、気がしている。
同様に「YOU」も、集英社の少女マンガ雑誌のファンをそのまま引き継ぎながら、大人の女性のマンガという市場を創ってきたのだと思っている。
そして「休刊」する、ということは単に雑誌としての発行部数の低下だけではないのでは?という、気がしている。

それは「読者層の高齢化」だ。
例えば「花とゆめ」に掲載され、その後「別冊花とゆめ」に掲載されている「ガラスの仮面」。
おそらく初連載から既に40年くらいの月日が流れている作品だと思うのだが、「ガラスの仮面」の読者はおそらく40代以上のような気がする。
というのも、昨年暮れJR京都伊勢丹の美術館で「ガラスの仮面展」が開かれいて、美術展の紹介として京都駅でも一部展示がされていた(偶然、京都に出かけた時に見た)。
その展示に足を止める人達の多くは、40代~50代半ばと思しき女性ばかり。
今の「花とゆめ・別冊花とゆめ」の読者とは違うのでは?という、印象を受けたのだ。
「ガラスの仮面」そのものが、休載が度々ある為話が遅々として進まない、ということはあるにせよ、今の感覚とは随分違ったマンガになってしまっているような印象は否めない。
反面、熱心なファンも数多くいるのは事実だ。
その熱心なファンというのが、京都駅で展示を見ていた世代の女性たちでもあるのだ。

この傾向は、少年マンガでも起こっている。
1990年代、「少年週刊ジャンプ」の発行部数は、653万部という驚異的な数字だった。
このころは、発売日の夕方地下鉄に乗ると、その日に発売された「週刊少年ジャンプ」を読みふけるサラリーマンの姿を数多く見かけた。
ところが、2000年代に入ると急激に発行部数を落とし、今では3割程度にまで落ち込んでいる。
日本と世界の統計データ:4大マンガ雑誌(少年ジャンプなど)の発行部数推移

確かにこのころの「週刊少年ジャンプ」には、人気のあるマンガ家さんたちが集まっていた。
今でいうなら「魅力あふれるコンテンツが目白押し」だった、ということになるだろう。
そして「ガラスの仮面」のファンと同様に、このころの少年ジャンプのファンの方たちは今でも集まると「スラムダンク」や「ドラゴンボール」の話で盛り上がるのだ(という光景を、何度も見ている)。

夕方、仕事帰りの人たちは何をしているのか?というと、スマホの画面を見ながらゲームやLINEをしている姿ばりだ。
「紙のマンガ」が読まれなくなっただけではなく、「マンガ」そのものがそれまで主な読者層だった人たちが読んでいないのでは?という気がしている。

だからと言って、マンガが廃れるということはあまり考えられない。
特に大人向け(アダルト向けではない)のマンガは、ある程度ヒットすればその後、ドラマ化されるケースが多いからだ。
4月期のテレビドラマでいうなら「花のち晴れ」や「ディジー・ラック」など、マンガが原作となっているドラマが、毎期ある一定数あるからだ。
もしかしたら、これからはネットを含むドラマ化などの「メディアミックス」を最初から考えた、マンガに変わっていくのかもしれない。


「働き方改革」の一つのモデルとなるかも?!

2018-05-29 23:52:22 | ライフスタイル

世間では、まだまだ「日大アメフト部」の話題が中心のようだが、この話題に影で「働き方改革」の関連法案である「高度プロフェッショナル制度(通称「高プロ」)」が、25日に衆院厚生労働委員会で可決された。
毎日新聞:働き方改革関連法案:高プロ、懸念払拭されず 衆院委可決

ご存じのように「高度プロフェッショナル制度」の対象となるのは、「年収1075万円を超す、専門性の高い社員を対象に、残業などの規制を外す」という法案だ。
日本のサラリーマンの多くが、残業代などを含めた給与で生活費を賄っている、という現実を考えると、この年収1075万円という線引きは、どうなのだろう?と考えてしまう。
その現実があるからこそ、働く多くの人たちが懸念をしている、ということが、どれだけ国会議員さんたちが理解しているのかは不明だ。

ただ、そのような「年収が高く、なおかつ専門性の高い社員」ばかりが、働き方改革の対象となっているわけではないと思う。
むしろ、「働き方改革」が目指さなくてはならないのは、働く人すべてに共通する「柔軟性のある働き方」なのではないだろうか?
特に女性の場合、(結婚→)出産→育児→介護という一時的に仕事を離れざる得ない時期があった。
それだけではなく、家事労働だけではなく出産・育児・介護などは、女性が中心となって無償でするのが当然、という社会的認識があり、その期間の女性たちは仕事と両立させるために、必死になってやってきた。
安倍さんになり、「女性も活躍してください」と言われるようになり、女性側は以前よりも疲弊してしまっているのでは?という気がするときがある。
それだけではなく、元々男女の給与差がある上に、上述したような理由により一時的に仕事を離れることで起きる決定的な給与差なども、考える必要があるだろう。
だからこそ「働き方改革」の中心は、「柔軟な働き方」ということなのでは?と、感じている。

その一つのアイディアとなりそうな話題が、Huffpostに掲載されていた。
Huffpost:都内のママが、1000キロ離れた北海道天塩町の公認インスタグラマーになったワケ
話の中心となっているのは、タイトルにある通り都内に住むママさんだが、これまで自治体がSNSなどを使った情報発信は、自治体の担当者などだった。
しかし残念なことに、自治体が発信するSNSの多くは、余り興味を引く内容だろうか?と、感じることが多かった。
おそらく自治体側が発信したい情報と情報を受け取ってほしい相手との間で、様々なズレがあったからだと思う。
それを受け手となる人と同じ感覚を持った人から情報発信をしてもらう、ということでその「ズレ」は縮まるはずだ。
となると、情報発信をしてもらう人は別に自治体の担当者である必要はないし、むしろ自治体の担当者でない方が、良いかもしれない。
インスタグラマーになった女性からすれば、これまでの育児や家事の時間の延長のような感覚で、インスタグラムを更新できる。
収入そのものはさほど多くはないかもしれないが、自分の生活スタイルを大きく崩すことなく、仕事ができる、という点は、魅力だろう。
このような仕事の在り方を「テレワーク」の一種、と考えても良いと思う。

何より、この「公認インスタグラマー」の募集を考えた天塩町の担当者は、仕事をする場所は役場内だけではない。
持ち運びができるPCがあれば、多くの仕事はできる、という内容のことを話している。
これまで「職場にいる=仕事をしている」という考えから、「仕事をしている=場所を限定せずに業務をする」という考え方に変わっていくモデルとなるように感じる。
だからと言って、四六時中仕事をするわけではない。
むしろ、メリハリのある仕事の仕方をしないと、プライベートな時間が無くなってしまう可能性がある為、自ずと「仕事の在り方」を考えるようになるはずだ。

このような仕事ができる業種・職種ばかりではない、ということは重々承知だ。
公務員を除くサービス業やヤマト運輸などをはじめとする運送業などは、難しいのが現状だろう。
だからこそ「働き方改革」を考えるとき、年収の多さではなく「柔軟な働き方とは?」ということを、考える必要があると思うのだ。



日大は、「スポーツ科学部」を廃止したほうが良いのでは?

2018-05-27 19:48:21 | ビジネス

日大アメフト部の「悪質なプレー」による、事件の収束が全く見られない状況になってきている。
その最大の要因となっているのが、今週、日大が次々と行った「記者会見」だ。
22日の当該選手の記者会見と、23日以降大学側が開いた記者会見の内容があまりにも違い過ぎる。
それだけではなく、当該選手の記者会見が事件の経過を丁寧に時系列で説明していたのに対して、日大側の記者会見は随分横柄な印象を与えただけではなく、「一体誰に謝罪をしているの?」という、疑問ばかりが残る記者会見であった。

その記者会見の様子をインターネットのライブ中継(録画)などで見ていて、日大の「スポーツ科学部」のことを考えてしまったのだ。
対戦相手となった関西学院大学には、「スポーツ」に関連する学部は無い。
強いて上げるなら「教育学部」ということになるのかもしれないのだが、学部紹介を見ても「スポーツ」に特化しているわけではなさそうだ。
そう考えると、関西学院大学のアメフト部の学生たちは、様々な学部の学生が集まっている、ということになる。
おそらく日大のアメフト部の学生たちは、「スポーツ科学部」の学生の集まりなのではないだろうか?
この違いが、日大と関西学院大学との対応の差となっているのでは?というもしているのだ。

というのも、関西学院大学におけるアメフト部には、様々な学部の学生たちが集まるため、多様な考えの学生が集まっている、とも考えられる。
練習時間も、それぞれの学生が練習時間を調整しながら参加する、ということになりそうだ。
あくまでも学業が主であり、アメフト部としての活動は学業の次、ということになる。
そのため、監督やコーチとの関係も練習時間の短い時間での関係になるはずだ。
代わりに、集中した練習やコミュニケーションが必要、ということになると思われる。

日大の場合、監督やコーチが「スポーツ科学部」の教師などであった場合、監督やコーチと一緒に過ごす時間は自然と長くなるはずだ。
もちろん「アメリカンフットボール」だけをやっているわけではないにせよ、日大と関西学院大学とでは、日ごろから監督やコーチと一緒に過ごす時間は随分違うのではないだろうか?
言い換えれば、監督やコーチとの接触時間が長ければ長いだけ、監督やコーチは学生を「支配しやすい」ということになる。
それだけではなく、監督やコーチは学部外者との接触が少ない為に、社会的視野は狭いモノになってしまう。
このような「支配的関係」を作りやすく、支配的立場にある人物の社会的視野が狭い場合、今回のような「悪質なプレー」を支配側が指示を出しやすくなり、支配される側もその意図を汲みやすくなるのでは?と思ったのだ。

いつまでたっても「一体誰に、何のために謝罪記者会見をしているのか?都合の良い言い訳に終始するのは何故か?」と考えた時、社会的視野が狭く支配的な関係を作り上げてきているのが、要因のような気がしたのだ。
現在の日大の理事長も「日大相撲部」で圧倒的な力を持っている、という話もある。
今回の件で、日大という大学イメージが地に落ちた状態から、復活するためには、現理事長も関係していると思われる「スポーツ科学部」を廃止しすることなのではないだろうか?
学部廃止に伴い、様々な問題を抱えている(と言われている)関係理事の退任をさせやすくなるのでは?
現在在籍をしている学生さんたちへの救済を考えるのであれば、おそらく「教育学部」などを創設し、教育論や教育心理学のような知識や最新のスポーツ科学による指導を教える、ということが一番のような気がする。

 


文房具の伊東屋のFacebookページ閉鎖から見えてくる、顧客に対する意識

2018-05-25 20:42:25 | ビジネス

Facebookからの個人情報の流出、という事件が発覚したのは3月のことだったように思う。
GWの頃には、抜き取った個人情報を売っていた?イギリスの企業が倒産した、というニュースがあった。
その間にはFacebookのザッカ―バーグ氏が、公聴会への出席などがあり、今現在は一応落ち着いている、という状況になっている。

Facebookをされている方ならお分かりだと思うのだが、Facebookには様々な広告が表示される。
表示される広告主は、自動車メーカーから化粧品、食品から雑誌など様々だ。
一度「いいね」をすると、自動登録され(るらしく)しばらくは、その企業の広告が表示されることになる。
例え自分が「いいね」をしていなくても、Facebookでつながっている誰かが「いいね」をすると、自分のFacebookページに表示される、ということになる。
この広告表示を「うっとうしい」と見るか・否かは別にして、今やFacebookは、広告媒体として有効なモノと企業は認識をするようになっている。

そのような状況の中、東京・銀座にある有名文房具店・伊東屋がFacebookページを閉鎖するようだ。
Huffpost:文房具の伊東屋、Facebookページを閉鎖へ 5万「いいね」に驚いている
記事中にもあるが、個人情報流出発覚後、テスラやスペースXなどが、Facebookページを閉鎖してはいるが、日本の企業がFacebookページを閉鎖する、というのは伊東屋が初めてではないか?という、気がしている。

伊東屋が、Facebookページを閉鎖するという判断に、「顧客の情報」という視点によるものである、という点には注目する必要があると思う。
Facebookの機能には、上述した通りFacebookには登録者の個人情報があり、その情報そのものを見ることができるからだ。
そこには出身地や出身校、過去から現在に至るまでの勤務先など事細かな情報を見ることができる。
いくら顔写真をアップしていなくても、登録者としての個人情報はそれなりに見ることができる、というのがFacebookの特徴でもある。
おそらく企業にとって、顔写真よりも登録者の個人情報のほうが、欲しい情報だと思う。
だからこそ、広告媒体としてのFacebookを利用しているはずなのだ。

今回の伊東屋のFacebookページ閉鎖は、伊東屋にとって登録者の情報よりも登録者の個人情報の保護を選んだ、という決断になる。
Facebookの個人情報流出というのは、伊東屋にとってではなく、登録者である顧客にとって大きなリスクである、という判断をしているからだ。
そう考えると、今回の伊東屋の判断は「顧客の利益を最優先する」という企業の姿勢を表したモノである、ということになる。

元々伊東屋には、数多くの顧客やファンがいるはずだ。
その顧客やファンにとって、今回の判断はとても安心ができるモノだと思うし、この判断ができたことでますます伊東屋のファンが増えるのではないだろうか?


ユニバーサルな発想は、健常者にとっても楽しいモノ?!

2018-05-24 20:08:41 | ビジネス

昨夜行われた、日大アメリカンフットボール部の内田監督と井上コーチの記者会見は、事件を鎮静化させるどころか火に油を注ぐような結果になってしまったようだ。
火に油どころか、会見を仕切った司会者の態度の悪さから、「火に油ではなく、火にガソリンをまいた」状態とも言われてしまっている。
一スポーツの問題が、ここまで大きくなってしまったというのは、過去に前例がないような気がする。
果たして、どのような方法でこの事件を日大は収めるのだろうか?

そのような日大のアメリカンフットボールの事件ばかりに注目していると、こちらのほうもやるせなくなってくる。
そこで、少し違う話題を見つけた。
朝日新聞に掲載されていた、聴覚障害者向けの「補助聴覚ツール」だ。
朝日新聞:2020年までに日本中の子供に”音”を届けたい 音を振動と光に変える「Ontenna」

「音は音波」「光は電磁波という波の一種」ということは、中学の理科で習ったような記憶がある。
キャノンサイエンスラボキッズ:光の正体は波!そして粒子
そう考えると、「音」を「振動」に転換し、「光」に変える、ということは可能だろうな~とは思う。
思うのだが、「音→振動→光」という発想には結びつかない人のほうが多いのではないだろうか?
何故なら「音」は聴覚、「光」は視覚という固定観念があるからだろう。
その固定観念を変えるような実験的なツールが、この「Ontenna」ということになるかもしれない。

しばらく前、聴覚障害を持った子供たちが、白いボールを手にしてクラシック音楽の演奏会を楽しむ、という動画を見たことがある。
youtube:聴覚障害者にも音楽を「耳で聴かない音楽会」開催
この演奏会で、観客の皆さんが頭に着けているモノが、どうやら「Ontenna」のようだ。
動画を見て分かることは、聴覚障害を持っている方々がとても楽しそうに、演奏会を鑑賞している、ということだ。
この「演奏会を楽しむ」ということが、音楽の醍醐味だということを、改めて教えてくれる動画でもある。

「Ontenna」のようなツールが、普及すると聴覚障害の人たちの行動範囲はグンと広がるだろう。
例えば、映画館や観劇などがあるだろう。
自然災害によって、一次的な避難場所となるような場所でのアナウンスなども、分かり易くなるかもしれない。
街中の雑踏のような、様々な音が混じり合う場所では使うことは難しいかもしれないが、今まで行きたくても行けなかった場所に行くことができる!ということは、とても意義のあることだと思うし、何より新しいチャレンジは、人をワクワクさせる。

「形状はまだまだ改善の余地あり」ということだが、カチューシャのような形状にして、男性であればバンダナのようなカバーを付ければ使いやすいかもしれない。
最近話題になった「耳を塞がないイヤフォン・ambie」のようなタイプも考えられるかもしれない(ambieは、ソニー系列の企業なのでジョイントすることは、できないと思われる)。
軽量ということは重要だが、誰もが使いやすいということを、これから先どんどん追求していってほしいという気持ちと、応援をしたくなるような試みだな~と思う。

おそらくこれから先は、このようなユニバーサルツールが、新しいイノベーションとなっていくのでは?ないだろうか?



「危機管理」とは何か?日大が示した教訓

2018-05-23 19:23:15 | ビジネス

日大のアメリカンフットボール部が起こした、「悪質プレー(「傷害事件」だと個人的には考えている)」の波紋はとどまることを知らないようだ。
昨日の当該選手の記者会見の内容に対して、日大広報部からのコメントは以前と変わらない内容で、当該選手の記者会見の内容とは、随分相違のあるモノだった。
その結果、日大関係者以外のアメフト関係者、その他スポーツ関係者だけではなく、多くの市民が「日大に対して不信感」を持つようになってしまっている。

この問題で、俄かにクローズアップされた日大の新設学部がある。
危機管理学部」という学部だ。
HP内の「教育の目標」には、「リーガルマインドを養いつつ・・・」という言葉が最初に出てくることから、法学部から枝分かれをし、「危機管理」という部分に特化した学部のように見受けられる。
HPに書かれているように、以前では考えられないような様々なリスクがある。
震災のような自然災害のリスクもあれば、「テロ」のような人的リスクもある。
「テロ」と言っても、その内容は様々で、爆発物を使うようなテロもあれば、インターネットやAIを利用した「サイバー型テロ」もある。
これまでの「危機管理意識」では、対応できない社会になりつつある、という点ではこれからは必要とされる学部のようにも思える。
ただ、最近の新設学部の名前を見てみると、どこか取って付けたような名前が多い。
今回の「危機管理学部」も、同様の印象を受けるのだ。
何故なら、「危機管理」の大原則は、どのような時代になろうとも、変わらないと考えているからだ。

例えば「サイバー型のテロ」と言った場合、それを防ぐには強固なセキュリティー対策が、一番の防御だろう。
その強固なセキュリティー対策をかいくぐって、行うのが「サイバーテロリスト」ということになる。
爆発物を使ったテロにしても、テロ行為をやめさせることが、一番の防御策だろうし「危機管理」の大きな柱となるはずだ。
自然災害などは、人が対策を取ろうとしても、それを破壊するだけの力があることは、「東日本大震災」などで経験
済みだ。
とすると、この「危機管理学部」の研究対象は、そのような「コトが起きた時、法的な視点を含めどのように対処のか?」ということになる。

自然災害だけではなくテロによる被害が発生した時、一番に考えなくてはならないのは、一体何か?
それは「被害を受けた人(の命)と財産の保全」ではないだろうか?
「財産」というと、莫大な経済的資産を持っている人や企業だけが対象のように思えるかもしれないが、むしろ一番に考えなくてはならないのは、「人の尊厳や名誉、企業であればブランド価値」などではないだろうか。

今回の件は、日大側が加害者であり、関西学院大学側が被害者になる。
「危機管理」という視点が、被害を受けた側の「人と財産の保全」ということであれば、何故日大は被害者である関西学院側に立った発想ができなかったのだろうか?
「大学スポーツで起きたアクシデントだったから」ということだろうか?
少なくとも、関西学院大学から強い抗議を受けた時点で、「なぜ関西学院はこれほど強い抗議をするのか?」という「被害者側に立った危機管理発想」をすれば、おのずと次のアクションが明快にできたはずなのだ。

過去、企業が起こした様々な事件で経営幹部が頭を下げる、という場面を見ている人は多い。
その中で、経営幹部が社会的非難を受けた事件の多くは、経営幹部が当事者意識がないばかりか、自分が被害者であるかのような振る舞いをしたことが、原因となっている場合がほとんどだ。
そして今回の日大の対応は、まさに当事者意識が無いように感じられる。

「社会的危機管理」という点では、今回の事件は違うようにも見える。
しかし「危機管理」の原則は、社会全体を巻き込むような事件や事故と、今回のような事件も同じだと思うのだ。
「危機管理」には「最初から危機を回避する」ということも重要だが、「起きてしまった事柄から発生する、二次的危機を回避する」ということのほうが、より重要なのではないだろうか?

今日の日経スタイルに、「謝罪マスター」という方のインタビューが掲載されている。
日大の関係者の皆様も参考にされてみてはいかがだろう?
日経スタイル:内輪話NG 元吉本の謝罪マスター、TOKIO会見を斬る




「ハラスメント」と関係性

2018-05-22 21:18:02 | 徒然

昨日、エントリをした日大のアメリカンフットボールに所属していた学生の、記者会見が今日行われた。
VTRなどを含め、中継をご覧になられた方も、多かったのではないだろうか?
率直な感想としては、「自分の言葉で、キチンと話した記者会見だったのでは?」という印象を持っている。
と同時に、おそらく今回の記者会見で名前が挙がった監督やコーチ陣達は、自分たちが学生に対してどれほどの「ハラスメント(=嫌がらせ)」をしていたのか、理解できていないのでは?という気もした。

まず一番最初に驚いたことは、当該の選手が「日本代表」に選ばれていながら、それを「辞退するように」と受け止められる発言をしていた、という点だ。
おそらく、アメリカンフットボールの選手としては、将来を期待されるような有望選手だったのだと思う。
そのような選手たちにとって「日本代表」に選出される、ということほど名誉なことは無いはずだ。
それは選手だけではなく、出身大学にとっても名誉なことのはずなのだ。
にもかかわらず、「練習がなっていない(というような趣旨の発言があり)」ことを理由に、「辞退」を迫るということは、当該選手にとっては、どれほどのショックなことだったのだろう。
日大の監督やコーチにとっては、「日大>日本代表」という考えを持っていたのかもしれない。
このことを切っ掛けに、監督やコーチ陣の指示に従わなくては「日本代表選手」になれないと感じ、服従することが最善の判断、と考えるようになったのでは?という気がする。

その後コーチ陣からの「優しいからダメなんだ」という趣旨の発言などは、日本の運動部の悪しき伝統のような「スポーツ本来とは全く関係のない点をネガティブな材料として追求し、追い込み精神面を鍛える」的な方法であったような気がする。
このような方法は、選手を精神的に鍛えるどころか、服従関係をつくりやすくするだけで、競技そのものの技術向上などには結びつかないことは、これまで様々なところで指摘されてきたはずだ。
にもかかわらず、いまだに日本の運動部(中高の部活動も含む)では、このような「的外れの精神的鍛錬法」がまかり通っているようだ。

確かに「歯を食いしばる」と言う言葉には、意味がある(と聞いたコトがある)。
それは、試合の最後の最後「勝ちたい!」という思いが、持てる力を全て出させる時に起きることだと、言われている。
決して、周囲から与えられたプレッシャーから「勝ちたい!」と思うのではなく、選手自身が思うことで発揮される力なのだ。

今回の当該選手の記者会見で見えてきたことは、様々なところで指摘されている「ハラスメント(=嫌がらせ)が起きる関係性」を、一番分かり易く示しているように思えたのだ。
それが、監督、コーチ陣が当該選手に与えた「服従」ということだ。
「自分たちのいうことを聞かないから、日本代表を辞退させる」とか、「全く関係のないことを、あえてネガティブにとらえ精神的に追い込む」など、監督やコーチ陣が行ってきたことは「自分たちに服従しないと、罰を与える」という方法だ。
このような方法が通用するのは、監督やコーチ陣と選手という「力関係」があってのことだ。
多くの場合、この力関係が強い立場にある人は、自分が行っている「ハラスメント(=嫌がらせ)」に気づいていない。
今回の場合は、「選手の為に思ってやっていたこと」くらいにしか、考え・思っていないのではないだろうか?

「ハラスメント(=嫌がらせ)」そのものは、おそらく無くならないと思っている。
その理由は「人は上下関係をつくることで、相手を動かしたい」という潜在意識があるからだ(と思っている)。
しかし、そのような意識と認識を持つことはできる。
その「意識と認識」が、「ハラスメント対策」には一番必要なことのような気がするのだ。



権力と忖度

2018-05-21 20:46:01 | 徒然

日大対関西学院大学との試合で起きた「悪質なプレー(個人的には「傷害事件」だと思っている)」による、余波がまだまだ続いている。
監督の辞任で、何とかことを収めようとした日大だが、これまでの後手後手の対応だけではなく、監督の辞任会見の内容に、強い不満と疑念を逆に与えてしまったようだ。
今日になって、日大の教職員組合からも真相の究明を求める声明が出され、怪我を負わされた選手と親御さんからは「被害届」が出される、というアメリカンフットボールというスポーツで起きたこと以上の問題へと発展している。
一部の新聞報道によれば、危害を加えた日大の選手が22日に記者会見を行う、という。
この選手の記者会見で、どれだけの真相がわかるのだろうか?と、思うのは私だけではないと思う。

この選手の記者会見がある、という報道を知ったとき思い浮かんだ人物がいる。
ハンナ・アーレントが書いた「エルサレムのアイヒマン」という本によって、その人物像が明らかになった「アイヒマン」だ。
アイヒマンという人物をご存じの方も多いと思う。
ヒットラー政権時代、数えきれないほどのユダヤ人をガス室へと送り込んだ責任者だ。
アイヒマンの行動から、多くの人達は「残虐で冷酷な人物」を想像していた。
しかし、実際のアイヒマンは凡庸でどこにでもいる人物だった。
その姿をエルサレムで行われた国際裁判で見続けたアーレントは、アイヒマン自身は「ガス室へと多くの人を送り込んだことに対する反省は無く、むしろ喜々として自分の仕事を遂行したことに誇りすら持っていた」と書いている。
何故なら、アイヒマンにとって「ヒットラーの命令を忠実に行う」ということが、自分に与えられた使命だと確信し、疑うことなく実行してきたからだ、と分析をしている。
アイヒマンが犯した罪は、「その命令が、社会的に反することである」ということを「考え・疑わなかった」ことだ、と書いている。

アイヒマンと怪我を負わせた選手とを一緒にするのは、如何なものか?と思うところもあるのだが、アイヒマンとヒットラーの関係と、今回の日大の監督と選手の関係が、似ているのでは?という気がしたのだ。
アイヒマンがヒットラーに心酔し、ヒットラーの権力が強くなっていくにつれ、アイヒマン自身は思考することを止め、忠実な部下としてふるまうようになっていった。

圧倒的な権力とカリスマ性を持っている相手に対して、心酔あるいは怖さを感じていたとすれば、相手の意図をくんで行動を起こす、ということは特別なことではない。
昨年の流行語にもなった「忖度」は、そのような行動を指す言葉だからだ。
もちろん「忖度」には、自分にとって「メリットがある」という気持ちも含んでいる。

日大の怪我を負わせた選手が、22日の会見でどのような話をするのかは、分からない。
ただ、彼が権力を持っていた監督からのプレッシャーから解放された状態で、彼自身の考えや思いの言葉で語られなくては、記者会見の意味は無いような気がする。


スポーツマンシップよりも前に考えたいコト

2018-05-18 18:41:57 | スポーツ

日大と関西学院大とのアメリカンフットボールでの試合中に起きた、傷害事件(あえて「傷害事件」と書かせていただく)。
ビデオなどを見ると、いくつか疑問に感じることがある。

一つは、怪我を負わされた選手は、ボールに触っていない、という点。
サッカーやラグビーなどでは、ボールに触っている選手に向かって接触プレーをすることはあるのだが、アメリカンフットボールの場合、ボールに触っていない選手に向かって突進(「タックル」という言葉は、使いたくない)するのが、普通なのだろうか?
ボールに触れていない、ということはゲームとは関係が無い、という状況のように思える。
ゲームと関係が無い選手に怪我をさせるような行為が、ルールとして認められたら、それはスポーツと呼べるのだろうか?
今から20年近く前、Jリーグの試合でフリーキックの場面、敵味方選手が入り混じっている中、対戦相手選手の顔面を肘打ちし、顎を骨折させるという瞬間を見たことがあるが、それ以来の衝撃的だった。
ちなみに肘打ちをした選手には、審判がその後イエローカードが出されたが、肘打ちをされた選手側チームが猛抗議をした。

二つ目は、審判がこのような行為に対して、反則などを取っていない、という点。
アメリカフットボールというスポーツのルールをほとんど知らないので、このような審判の判断が普通なのかもしれないが、危険な行為に対して審判が何もしない、というのはスポーツとしてどうなのだろう?
結局、怪我を負わされた選手が、同じ選手から3回も突進行為を受けることになってしまったのは、審判にも問題があるように感じるのだ。

三つ目は、アメリカンフットボールというスポーツそのものは、選手自身の判断自由がとても少ないスポーツである、という点から考えた時の監督やコーチの、アメリカンフットボールというスポーツに対する考えの問題だ。
アメリカンフットボールというスポーツそのものは、よく知らないということは上述した通りなのだが、実はビジネスという場面では、アメリカンフットボールの組織マネジメントは、よく参考にされてきたという過去がある。
監督以外にも観客席で、ゲームを俯瞰しながら戦況を分析をする、という役割を持っているコーチ(というのだろうか?)がおり、場合によってはその戦況分析によってゲームを大きく動かす、とまで言われていたからだ。
それだけではなく、サッカーやラグビーのように選手一人ひとりの状況判断よりも、そのような戦況分析に基づいたシステマチックなゲーム運びが上手いチームが、強いチームと言われてきたという過去がある。
その「戦況分析とシステマチックな問題解決」という点で、ビジネスにおけるマネジメント発想に応用できる、ということが一時期言われたことがあったのだ。
とすると、選手一人の勝手な判断であのような傷害行為を偶発的に3回も起きるものだろうか?という、疑問がわいてくるのだ。

日大のアメリカンフットボール部(だけではないかもしれないと思うが)は、とても厳しい練習をしていた、という話がある。
もちろん、「名門チーム」なのだから、厳しい練習をしているのは当然だと思うのだが、その「厳しい練習」の中に、日本的な「根性主義」と結びついた「勝利至上主義」があったのではないだろうか?
確かに、試合に勝つ!ということはチームとして明確な目標になるだろうし、試合に勝つことで自信にもつながり、より効果的な練習ができるだろう。
ただ、そのような「根性主義」と、システマチックなマネジメントによって、ゲームを動かしていくと言われているアメリカンフットボールとでは、どこか相容れられないところがあるような気がするのだ。

「スポーツマンシップ」というのは、対戦相手に対して敬意を持つことなのではないだろうか?
アメリカンフットボールというスポーツに愛情も持たず、ただ勝つコトだけを至上命題のように考えていたとすれば、それは「スポーツマンシップ」以前の「スポーツに関わる」という意識の問題のような気がする。