日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

コンビニ弁当の味は、全国同じか?

2008-07-31 20:47:36 | アラカルト
昨日、名古屋から大阪経由で実家のある鳥取県(米子市)に帰ってきた。
やや遅めの昼食を、車内で食べることとなったのだが、そのとき食べたコンビニのお弁当の味に「おや?」と、感じることがあった。

今回私が買った場所は、大阪のコンビニだ。
普段、名古屋ではコンビニのお弁当のお世話になることはないのだが、それでも2、3ヶ月に1回くらいの割りで、コンビニのお弁当を食べることがある。
そして昨日は、名古屋で時々買うのと同じお弁当を買ったのだった。
ご飯をはじめ食材は同じなのだが、名古屋では玉子焼きなのに大阪ではゆで卵だったり、鶏のから揚げの味付けが微妙に違っているのだ。
わかりやすく言うと、大阪で買ったお弁当の鶏のから揚げの味付けは、たこ焼き系の衣の味がしたのだ。
あくまでも私の味覚なので、本当のところはわからない。
それに「たこ焼き」といっても、関西(というよりも大阪)の味付けと名古屋の味付けが違うのかも知れないのだが、鶏のから揚げの衣の味が、私が名古屋で食べるたこ焼きのような味付けだったのだ。

コンビニというのは、一応に全国ほぼ同じ内容のものが、販売されていると思っていた。
もちろん「地域限定」商品などもあるし、お弁当やサンドイッチ、サラダなどは賞味期限などの問題から、店舗展開をしている地域それぞれに契約食品会社があり、そこで製造されているというコトは、わかっている。
だが、その場合でも「基準レシピ」というものがあり、味付けそのものは全国ほぼ同じだと思っていたのだ。
ところが、その味付けが微妙に違っているということに、やや驚きを感じたのである。
もしかしたら、うどんや蕎麦などのカップめんの味付けが、関東風と関西風があるように、それぞれの地域にあった味付けというものが、コンビニのお弁当にもされているのかも知れない?と、感じたのである。

マックなどのファーストフード店やファミレスなどは、「全国どこへ行っても同じ味」という一種の安心感がある。
少なくとも、そのお店に行けば「あの味が食べられる」という、安心感である。
コンビニのお弁当なども、同じような「味覚の安心感」があると思っていたら、違っていたのである。
その後、詳しく調べていないので、本当のことはわからない。
だが、もし地域によって(=製造食品工場によって)味付けが変わるとすれば、それはそれで、「地域重視」としての「味覚の親しみ」を優先しているとも考えられそうな気がする。

そして、「味の均一化」を優先させているファミレスに、「地域の味覚」というモノが加わったら・・・と考えると、さまざまな展開や客層へのアプローチがありそうな気がする。

独自路線を行く「ホッピー」

2008-07-31 07:08:47 | マーケティング
実家からのエントリです。
今では、80歳近いおじいちゃんも、ネットの時代となったようです。

全国紙では既に、全面広告として掲載されたのだろうか?
今日、実家で購読している地方紙に「ホッピー」の全面広告が掲載されていた。

初めて知ったことなのだが、ホッピーは「発砲麦芽発酵飲料」という種類の「飲料水」だ。
一般的な「発泡酒」や「第三のビール」とも違う、「飲料水」ということになる。
「飲料水」だからといって、子供が飲めるモノではない。
焼酎と同程度のアルコールが、含まれているようだ(HPを見ても具体的なアルコール度数の表示はないように見えるのだが・・・)。

ホッピーの魅力となっているのは、創業当時から変わらない地味(といっては失礼だが)な宣伝だったように思う。
というよりも、「下町の飲み屋さんにある」=親しみのある場所且つ特定の場所にしかない飲み物というイメージで、テレビや新聞などでの積極的な広告活動というのを、見たことがなかったような気がする。
そこに、地方紙での全面広告だったのだ。

その内容も、大手ビール会社のようなオシャレさはなく、あくまでも「下町の飲み屋さん」的だ。
ホッピーのイラストに付いているキャッチコピーは「この街の味がする。ホッピー。」
「どの街でも飲める」のではない。
「この街」=親しみのある特定の場所で(しか)飲めないのだ。

もうひとつこの広告には、大手ビール会社と大きく違うトコロがある。
それは、イラストの下に「価格表示」をするスペースがあることだ。
広告の一番下(=ポスターの下)には
「HOPPYを扱っていただいているお店のみなさん。(←「みなさま」ではなく、「みなさん」というコトバ使いも独特)新しいHOPPYのポスターができましたので、新聞を使ってみまさまにお届けいたします。お手数ですが金額の部分のみにご記入をよろしくお願いいたします。(以下省略)」 
とある。
この全面広告は、生活者に訴える広告ということはもちろん、取り扱い店への販促物(=ポスター)でもあるのだ。
通常であれば、企業の営業社員がポスターを持参し、店頭にポスターを張るのに、営業社員を使うのではなく、新聞の広告を営業社員の代わりにしているのである。
確かにHPを見る限り、大手メーカーほどの社員数がいるようには思えないのだが、それにしても、ユニークで面白い「経費削減策」のようにも思える。
なぜなら、ホッピーファンだけではなくホッピーを知らない生活者(消費者)にアピールをしながら、取扱店の店頭ポスターという販促ツールとなっているからだ。

これまでも、大手とは違う独自路線をいっていた「ホッピー」だが、これから先どのような販促策を打ち出していくのだろうか?
ちょっと、楽しみだ。



仕事と性差

2008-07-29 21:32:21 | アラカルト
日経新聞のWEBサイトに掲載されているコラムに、面白い内容のものがあった。
それが、「2年目女子ですが、いいですか? 『女性らしさを生かして』ってヘンじゃないですか。」というコラムだ。

このコラムを書いているのは、入社2年目の若い女性編集者だ。
彼女の「女性らしさを生かして」という指摘は、女性が仕事をしていく中でぶち当たる壁のようなものだろう。
私がマーケティングという仕事をはじめた頃、このコラムにあるように「女性の感性を生かした商品開発」ということばが盛んに使われ始めた頃だった。
私の場合は、そんな期待されるような社員ではなかったので、お気楽ナンチャッてマーケターだったような気がする。
元々、まったく注目されるような部署ではなかったので、細々とチマチマとやっていたのだ。
しかし、同じ女子社員の中には「期待される女性商品開発社員」もいた。
ある意味、彼女たちの姿はまぶしいほどに輝いて見えた。
そんな中で仕事をしていく中で、私が感じたことは「男性も女性も関係ないのでは?」というコトだった。
そしてまぶしいほどに輝いていた女子社員は、「女だから、男だから」という言葉を口にすることはなかったように思う。

確かに、当時は女性マーケターという存在自体が珍しく、社外セミナーなどに参加しても30人中女性1名(=私だけ)という場面は度々あった。
男女雇用機会均等法が施行される前の話である。
しかし今は、そんな時代ではない。
「女性の能力を生かす」といっても、どんな能力なのかすぐには思い浮かばない。
日用品や服飾という分野では、女性の感性や能力が発揮されやすいか?といわれると、必ずしもそうだとはいえない。
むしろ、自分がどの分野に興味や好奇心があるか?というコトのほうが、自分の能力を発揮しやすいと言える。

就職試験などで「女性の能力を発揮できる」という言葉は、適切ではないのかもしれない。
もうひとつ付け加えるなら、往々にして「自分の思ったような仕事に就くことは難しい」というコトだ。
でも、様々な経験をすることは「自分の引き出しを増やす」コトにもなる。
大切なことは、「生活者が豊かになるモノ・コトを提供する」という、当たり前のコトを性別関係なく協力しあい、時にはライバルとなってやっていくことが大切なのでは?

企業側にお願いしたいのは「女性を、男性のように働かせる」のは、やめて欲しい。
「男性のように働かせる」というコトバは、適切ではないかもしれないが、「女性のライフサイクル」に男性も合わせるような働き方を、企業も考えて欲しいのだ。
社員は企業の召使ではない、大切なステークホルダーなのだから。

お知らせ
明日から、実家の父の看病といいますか、家事サポートとお盆準備のためしばらくお休みをさせていただきます。
再開はお盆明けを予定していますが、それ以前に再開できれば・・・と願っています。
遠距離老親の生活支援の現実です。

幼児教育よりも外遊び

2008-07-28 18:52:01 | アラカルト
以前から、時折エントリさせていただく「ファミレスやファーストフード店での子供たち」だが、今日改めて感じたことがある。
それが、幼児教育に熱心な余り外遊びを蔑ろにしているのではないか?というコトだ。

近所にあるマックには、サンルームというかテラスのようなスペースがある。
その場所は、「マックのバースデーパーティー」などが頻繁に行われている場所でもある。
一般席とは少し離れているということと、パーテーションで仕切られているためである。
といっても、いつも「パーティー」があるわけではない。
その時には、サラリーマンが資料とPCを広げ、仕事をしているコトもある。
私も、雨が降ったり止んだりの今日は、少しでも明るく静かな場所ということで、この場所で少し仕事の資料などを広げ、仕事を片付けていた。
時間としては3時過ぎ。
隣のテーブルでは、サラリーマンの方が仕事の資料を広げていた。
ところが・・・4時近くになってから20名ほどの幼稚園年少組~小学校低学年の親子グループが、ドヤドヤとやってきたのだ。
私専用の場所ではないのだから別に構わないのだが、お母さんたちからすると「私たちの場所なのに、何でいるの?」的な不満があったようだ。
当然、子供たちとすれば普段好き勝手に騒ぎ、走りまわれる場所に他のオトナがいるのだから、チョッと勝手が違う!と感じていたようだ。
しかし、そんな遠慮(?)はすぐに忘れ、子供たちは元気に騒ぎ、走り回り始めた。
私より先にきていたサラリーマンの方は、そそくさと出て行ってしまったのだが、私はそのまま居座った。
先にいたのは私だし、別に予約席でもなかったからだ。

騒ぎ、走り回る子供たちの姿を見ていて感じたのは「外遊びをしていないのでは?」ということだ。
なぜなら、狭い場所で「だるまさんがころんだ」などを、始めたからである。
「だるまさんがころんだ」をするには、余りにも狭い。狭すぎる。
雨の日の室内遊びとして、する遊びではない。
他にも子供たちの遊ぶ姿を見てみると、私が子供だった頃学校の校庭で遊んでいたような遊びを、その狭い場所で好き勝手にやっているのだ。

今の子供たちを取り巻く環境は、私の頃とはまったく違う。
だから同じように考えることは出来ないのだが、それとは別に「外遊び」の機会がなさ過ぎるのではないだろうか?
「外遊び」をする中で、転んで手足を擦り剥けばその痛さが分かる。
社会的ルールを知る以前に、体で覚える様々な「痛さ」があるのではないだろうか?
そんな「痛さ」を知る前に、「個性を伸ばす幼児教育」と称したお稽古事を押し付けているような気がするのである。

夏休みの今だからこそ、お稽古事よりも、思いっきり外遊びをさせるコトの方が大切だと思うのだ。

それにしても・・・夕方5時半を過ぎてもマックに集うお母さんたちって・・・夕飯の支度は大丈夫なのだろうか?
そして4時過ぎに子供にハンバーガーを食べさせたら、夕飯が食べられないのではないだろうか?
生活習慣という点でも、もう少し考える必要があるような気がする・・・。



王様のミサイル-しなやかな反戦歌-

2008-07-28 07:13:25 | 徒然
朝、仕事の支度をする時などFMを聞く。
最近「カミナリグモ」という、信州を活動の中心としている男性デュオの「王様のミサイル」という楽曲を聞くことがあった。
ゆったりとした曲想に対して、その詞の内容は衝撃的。
今この時期だからこそ、この詞に込められた意味をオトナがシッカリと受け止めなくてはいけないのでは?と思ったのだ。
丁度YouTubeに、プロモーション動画があり、映像に合わせて詞が付けられる。

カミナリグモ 王様のミサイル


冒頭に登場する原爆のきのこ雲やヒットラーなどの姿よりも、整列する兵士達が墓標となっていくその姿、戦車が通った後に映し出される亡くなった人たちの映像の方が衝撃的だと感じるのだ。
拳を振り上げるだけが、反戦ではない。
このような楽曲の中にある願いもまた、反戦の意思表示のような気がする。
もうひとつ彼らが素敵だと感じるのは、地方に居て地に足がついた感覚を持っているからだ。

追記:
YouTubeでのプロモーション動画とさせていただいた動画は、ファンの方が個人的に作られ、公開されてたモノのようです。
プロが作るプロモーションビデオと思える(もしかしたら、それ以上)の内容に動画作者の思い入れが伝わります。
むしろ、プロではないからこそこの動画が出来たのかもしれません。
もうひとつ付け加えるなら、この「王様のミサイル」そのものは、数年前に作られ幾度か自主制作というカタチで、CD化されているようです。
ライブ活動の中でこの楽曲を聞き、ファンの方が今から1年以上前に制作されたのが今回ご紹介させていただいた動画になります。
マス・メディアには乗らない素晴らしい作品を、広く一般に知らせることができるというのも、ネットというツールの力なのでしょう。

大手じゃなくても・・・-タコヤキラバー-

2008-07-27 21:04:51 | ビジネス
先日、トラックバックを頂いた「京都から徒然なるままに」さんの記事を、拝読させていただいた。
この夏、オリンピック水泳で何かと話題になった「LR」の対抗水着として注目された、通称「タコヤキラバー(正式名称:バイオラバー)」のジョイント企業が決まったという内容だった。

「タコヤキラバー」の製造・企画企業は、同じ大阪にあるスイミングウェア中心の小さな会社スポーツ・ヒグで、商品名は「KOZ」になったようだ。

スポーツウェア大手と呼ばれるトコロでは、素材として部分的に使うということはあったようだが、全面的にこの「タコヤキラバー」を使うということはなかった。
やはり大手企業のプライドというのか、開発力への自信などが「部分使い」というコトになったのだろう。
それも、「LR」への緊急対抗措置的な要素が、高かったような気がする。

私が大手企業で働く立場であれば、同じように「部分使い」による緊急措置ということを考えただろう。
だから大手スポーツウェアの今回の対応に、不満を述べる気はしない。
だが将来的なことを見据えた時には、ジョイント企画・製作という含みも持たせていたような気がする。
あくまでも「ロンドン」を見据えた、商品開発という意味だ。

山本化学工業もそこまで待てなかったということもあるだろうし、素材として完成さたモノであれば、いち早い商品化を考えたということも分かるのだ。
そしてその相手企業が、同じ大阪の小さな競技用スイムウェアの企画・製造会社であった、というコトなのだろう。
そのこと自体、よかったのではないだろうか?
大手と手を結ぶことだけが、何も認知度を上げ、ブランド構築をする方法ではない。
むしろ、そのモノ・コトが本当に必要な人たちに直接的に届けることもまた、認知度を上げブランドを構築する方法だからだと思うからだ。

言い換えるなら「プロ用」とか「専門」という、市場で認知されることで一般の人たちから大きな信頼を得、ブランドを作っていくという方法である。
実際「LR」が話題になり始めた頃から、スイミングスクールなどに通う一般からの問い合わせが多くあったといわれている。
その結果、競技者用ほどではない作りの「LR」一般モデルが、販売される予定となった。

大阪の企業同士が「スイムウェア」というモノで手を結び、ひとつの大きな産業を作り出すキッカケとなれば、大阪経済にもプラスになるだろうし「企業の大きさではなく、モノ・コト作り」で大阪がリードするという点でも注目されるコトにも繋がっていくように思うからだ。

「大きい」というだけで、市場の恩恵に得るわけではない。
小さな企業が集まることで、大きな力を生み出すというコトもまた、十分あるコトなのだ。
それを具現化できるのか?チョッと楽しみにしている。






真剣に考えたい、熱中症対策

2008-07-27 06:36:51 | アラカルト
昨年にもまして、今年の夏は暑いように感じる。
室内にいても、熱中症になる。
実際、名古屋では「自宅にいた高齢者が熱中症で死亡」している。
とは言うものの、窓を開けるだけでも大分違うのだが・・・。
我が家にはクーラーがないということもあり、普段から窓を全開にしている。
少しでも、風通しを良くするためだ。
風通しを良くするだけで、室温が何度かは下がる。
もちろん、水分補給なども大切なことだ。

昭和40年代の頃、高層マンションと呼ばれるような住宅も殆どなく、今よりももっとのんびりしていた頃、多くの家は夏になると窓には簾を下げたり、軒下に朝顔や夕顔などを植えていた。
今風に言うなら「壁面緑化」をしていた。
それだけではなく、玄関や勝手口には網戸式の扉をつけ、開け放していた。
現在では、安全のために玄関や勝手口などを開け放すようなお宅はまずないだろう。
マンションなどでは、「勝手口」そのものがないだろう。
でも、玄関を開け放つだけでも大分室内温度は下がるのだ。
「玄関を開け放ち、打ち水をする」というのは、蒸し暑い日本の夏で少しでも快適に過ごすための工夫だったのかも知れない。

昨年からだろうか?地球温暖化対策として、パフォーマンスとしての「打ち水」で新聞紙面を飾ることがあるのだが、一般家庭で玄関先に打ち水をするようなお宅はどれだけいるのだろうか?
まして、マンションなどでは「打ち水」などが、できるようなスペースはない。
それでも何とか「玄関だけでも開け放す」ような、工夫は出来ないものだろうか?と、考えてしまうのである。
例えば、玄関専用の二重の網戸だとか・・・。
映画「おもいでの夏」のワンシーンに出てくるような、網戸と玄関扉だ。
もちろん、刃物などでは簡単に切られることのない程度の強度と、鍵が掛かるような今の時代にあった工夫も当然必要だ。

昔の日本の生活には「しつらえ」というモノがあった。
梅雨の晴れ間に、障子や襖を季節に合わせて取り替えていたのだ。
見た目にも涼やかで、風の通りもよく、涼しく過ごす工夫がされていた。
今のような時代だからこそ、現代にあった「家つくり」発想が必要なのだと思う。

アァァ~それにしても、暑い!!
暑いと思っていたら、暑いはずだ。
その理由に納得した。


夏休みだから、お父さんと仲良しに

2008-07-25 11:00:47 | ライフスタイル
昨夜は、「熱帯夜」ではなく「酷暑夜」のような蒸し暑い夜でした。
おかげで、「体は眠たい!」と言っているのに、眠ることが出来ず・・・。
今朝は、4時ごろから元気に蝉が鳴いて起こしてくれました。
今でも頭がボーとしている状態(苦笑)。

夕涼みを兼ね、チョッと買い物へ出かけた。
買い物といっても、特に買い物するモノがあるわけではなく夕涼みが目的。
駅近くに、チョッと食べられる場所(というよりベンチ)がある和菓子屋さんがある。
普段は近くの高校生たちが、みたらし団子やおまんじゅう、豆乳ソフトクリームなどを食べている。
夏休みということもあり、夕方のお店は買い物が帰りの主婦や塾帰りの子供たちで、いっぱいになっていた。

そんなお店で、豆乳ソフトクリームを食べていた時、仕事帰りと思われる男性と塾帰りと思われるお嬢ちゃんが入ってきた。
みたらし団子を2つ注文した親子さんが、仲良くベンチに座っていると、焼きあがったみたらし団子がやってきた。
そのみたらし団子をそれぞれ持って、「チン」と乾杯するようにし、食べ始めたのだ。
食べながら、なにやら楽しそうに話をしている。
なんともその光景が微笑ましく、しばらく様子を見入ってしまった。

夏休みに入り、週末やお盆休みの予定を立てている方も多いだろう。
ガソリン代高騰で、思うような予定が立てれない、という方もいらっしゃるかも知れない。
でも、どこかに行くコトが大切なのではなく、親子で一緒に過ごすコトが大切なのでは?と、この親子さんを見ながら思った思ったのだ。

お父さんの仕事帰りとお子さんの塾帰りの時間をあわせて、駅で待ち合わせをして一緒にファーストフード店でお茶をするのも良いだろう。
この親子さんのように、お団子を頬張りながらその日にあったコトを、アレコレ話すというのも良いだろう。
特別な何かがなくても、日々の中でイロイロな話をする機会を作るのが、一番だと思うのだ。
それも、普段仕事でゆっくり顔を合わせて話す時間が持てないお父さんと、一緒に過ごすコトが大切な気がするのだ。
お父さんが子供と仲良しになるのは、この夏休みが一番なのではないだろうか?

今日は鰻を食べようか・・・

2008-07-24 16:32:08 | アラカルト
今日は「土用の丑の日」
近所のスーパーでは、三河一色産、愛知県産、国内産、中国産と大きさとは別に、産地別でも販売をしていた。
三河一色産で1,300円前後、国内産となると、1,200円位、中国産で800円程度になる。
ここまで価格がはっきりすると、消費者の方も「選択の余地」ができる。
言い換えるなら「商品に若干の不安が残るイメージの安い中国産を買うか、安全な国内産、味の良いとされる三河一色産」という、選択だ。

拙ブログに以前コメントを下さった「ブランド好き」さんが、コメントしてくださったように、「台湾産うなぎ」も積極的に展開しているようだ。
このことについて、個人的には良い傾向にあると思っている。
というのも「台湾産」と表記することで「台湾産うなぎ」の品質保証を、台湾の養鰻業者(組合)は、責任を持たなくてはいけないからだ。
むしろ、品質という部分でそれだけの自信と責任が持てるから、「台湾産」というコトを積極的にアピールしているのでは?と、考えるのだ。

このような「棲み分け」が出来てくるのであれば、それはそれで良いコトだと思う。
むしろ、これから先は私たち生活者が、この現実をどう受け止めるのか?というコトだと思う。
高いうなぎ屋さんに行って、素性のわからない鰻を食べさせられるのはご免だ。
そして「素性がはっきりしていて、何故安いのか(または、高いのか)という理由が分かれば、選択肢のひとつとして、産地を見ることができるからだ。

「台湾産うなぎ」だから、品質の落ちるうなぎだとは思わない。
台湾で養鰻にかかわる人たちは、それなりのプライドと責任を持って、やっていらっしゃると思うからだ。
逆に、これまでブランド名だけでやってきたような業者さんは「台湾産うなぎと変わらないじゃない」と言われないような(=ブランド名に負けないような)、うなぎを作っていかなくてはいけない。
その様な中から、生活者も生産者も鍛えられ、良い市場を作っていけるのが一番しあわせなことだと思う。

さてさて・・・今日はうなぎにしようかな?それとも・・・。


仕事を志事にする

2008-07-23 22:48:07 | ライフスタイル
大分前、ぼんやりテレビを見ていたら某人気アナウンサーが出て、「仕事ではなく、志事をしてくださいね」という話をしていた。
「さすがにことばを使う職業だけに、上手いコトを言うな~」と思ってみていた。

昨日のエントリさせて頂いた「労働白書」には、「非正規雇用の限界」という内容があった。
「非正規雇用」に限らず、今「仕事を『志事』」として、高い目的意識と使命感を持ってやっている人はどのくらいいるのだろう?と、考えてしまった。

本来、仕事というのは志すモノ・コトを探求するコトなのかも知れない。
ただ、多くの人は志すモノ・コトを見つけることなく、職に就き、配属された部門で与えられた内容のコトを、片付けていっているように思えるのだ。
私自身、偉そうなコトをいえる立場ではない。

OL生活を十分に経験する中で、上司から指示を受け、言われる仕事をただひたすら片付けていたというか、こなしていた。
もちろん「やっつけ仕事」のようなコトは、しなかったがどれだけ「志を持ってやっていたのか?」と問われれば、「恥ずかしながら・・・」というしかない。

だからといって、「自分探し」というコトを勧めているのではない。
「仕事」をしていく中で「志事」を、見つけていけば良いのである。
言い換えれば「志事」は、「やりがいを見つける」というコトなのかも知れない。

その「やりがい」を見つけるということは、とても大変なコトで、自分に甘く「まぁ、イイや~」と思ってしまえば、「志事」などを見つけることなど出来ない。
それだけではなく、例え失敗をしたとしても、その失敗から学び、再びチャレンジするくらいの勇気も必要だ。
もちろん周囲や企業も、その失敗を許し、チャレンジする機会を積極的に与えなくては、雇用者(非・正規関係なく『企業や行政に雇用されている人』という意味)の「志事」を与えるコトにはならない。

果たして今の社会は、「志事」を持てるだけの社会だろうか?