日本では連日「新型コロナウイルス」の感染者が過去最大、と報じられている。
ほかにも「オミクロン株の亜種が、日本でも見つかった」などの情報があり、「重症化しないとは言いきれない」などと主要メディアが言っている。
このような情報を目にするたびに、「警告情報ばかりで、生活者は疲れ果てているのにな~」と、思うようになってしまった。
このような報道の背景には、日本独特の「0思考」があるのかもしれない。
「0思考」とは、「害悪となるものは”0”でなくてはならない」という思考だ。
「東日本大震災」で水蒸気爆発を起こし、放射能が噴出した「東京電力福島第一原子力発電所事故」が起きた時、世間を覆った「放射能悪」という世間の雰囲気といえば、わかりやすいかもしれない。
現実には、「放射能」そのものは身近な植物も、放出している。
温泉の効能の中にも、放射性物質を含んでいるものもいくつもあり、人はその恩恵にあずかってきた。
にもかからわず「放射能=発がん性物質=体に悪い」ということになり、「放射能を徹底して排除する」という感覚に陥った人たちが多かった。
それと同じような社会的雰囲気が、「新型コロナウイルス」にも起こっているのでは?ということなのだ。
今のような状況であれば、おそらく日本国内の感染者が”0”になるまで、今のような生活を続けなくてはならないのでは?という、気がしてくるのだ。
そんな感覚の中でネット通販を見ていたら、気づくことがあった。
それは「マスクのトレンド」というか、売れ筋の傾向の変化という点だ。
「新型コロナウイルス」の流行の兆しが顕著になった頃から4か月ほどは「不織布マスク」不足となり、布マスクを手作りする人が出てきた。
手作りができる人は良いが、すべての人がマスクを手作りできるわけではない。
そこで登場したのが「布マスク」の販売だ。
素材も様々・カラーや柄のバリエーションがあったことから、「マスク」そのものが、一つのファッション・アイティムのようにもなった。
「不織布マスク」が市場に再び出始めるようになると、人は「より高性能なマスク」を求めるようになっていった。
その一つが、従来の機能にプラスした「呼吸がしやすい」という、韓国で流行していた「柳型(別名:ダイヤモンド型)」と呼ばれる形状のマスクだ。
韓国発祥のデザインだったのか?「柳型(」と呼ばれるデザインのマスクには「KF〇〇」という、韓国での感染リスク排除表示がされたことも、人気の秘密だったのだろう。
今現在では、この「柳型」と呼ばれる不織布マスクをつけている人が、多くなっている。
その一方で、なぜか日本の主要メーカーさんは、この「柳型」ではなく、従来のプリーツタイプか立体型に終始している。
「日本のプロダクトデザインは、世界でも評価が高いはずなのに、なぜ従来の形状にこだわり続けているのか?」という、疑問を持っていた。
それが、英国で「通常の生活をする上でマスクを外しても構わない」という政府方針が発表されると、ネット通販ではヨーロッパ各国の首脳たちがつけていたような形状のマスクが登場するようになる。
この形状のデザインを見たとき、「簡易防塵マスク」を思い浮かべたのだ。
デザインよりも「防塵」を考えたマスクなので、「柳型」の主流が4層なのに対し「(簡易)防塵マスク型」は5層構造という、「絶対!感染しないぞ」という、気持ちに応えるのに十分なものだ。
ここで、気づかないだろうか?
現在流行している「オミクロン株」は、これまでの「デルタ株」などと違い、感染力は強いものの既往症や高齢者以外の重症化リスクは低い、といわれているのに、日本では「防御性の高いマスク」が徐々にネットで販売されるようになっているのだ。
特に現在ネット通販で人気となりつつある、欧州でつけられていた5層のマスクは昨年末ごろまではほとんど見ることがなかったタイプのモノだ。
確かに欧州で使われていた5層のマスクは「(欧州の飛行機会社では)飛行機に搭乗する時の基準マスク」という、謳い文句が使われているのだが、日本の航空各社はそこまでの物は求めてはいないし、購入している人たちは飛行機に搭乗することを前提に購入しているわけではない。
そこで考えられるのは、欧州での需要が減ってきたので日本で流通するようになった、ということなのだ。
ネット通販で販売されている「マスク」を見ていると、「新型コロナウイルス」に対する、日本人の受け止め方を示しているようにも思えてくるのだ。
それが上述した「”0”思考」ということなのだ。
これまでの風邪やインフルエンザを含む「感染症」を見ていると、おそらく「”0”コロナ」となるのは難しいと、考えている。
とすれば、「コロナとの共存」という方向を考える必要があるのでは?と、個人的には考えている。
Yahoo!のトピックスに、セガがゲームセンター事業から撤退する、というニュースを取り上げている。
ITMedia News:セガ、ゲームセンター事業から完全撤退 店名から「SEGA」消える
撤退の理由は、誰もが想像できる通り「コロナ禍」により、ゲームセンター利用者の激減だ。
ただ「コロナ禍」は、撤退のきっかけであって、随分前からゲームセンターそのものの利用者は、減っていたのでは?という、気がしている。
というのも、我が家の最寄の地下鉄の駅近くに、ゲームセンターがあった。
住宅地とはいえ、幹線道路に面している大型のゲームセンターだった。
以前は、学校帰りの生徒さんや大学生さんたちが、夕方過ぎからゲームをしていたような気がするのだが、ここ数年はプリクラなどを楽しむ若者の姿は見かけたりすることはあっても、ゲームそのものをしている若者、特に男子の姿を見かけないようになった。
あくまでも個人的な印象なので、違っていたかもしれないのだが、ゲームセンター前に止められていた自転車の数がここ数年減り続けていたような印象があるので、利用者そのものは減っていたのは事実だと思う。
そして3年ほど前、その場所にはマンションが建ったのだ。
とはいうものの、ショッピングセンターなどにあるゲームコーナーなどは、小さなお子さんが楽しめるゲームが多いのか?ゲームに興じる子供たちの姿を度々見かけた。
もちろん「コロナ禍前」の話だ。
「コロナ禍前」のゲームコーナーの人気を考えると、新型コロナがある程度収束し「withコロナ」という時期になれば、自然に大型ショッピングセンターのゲームコーナーの人気はある程度復活するのでは?という気がしている。
以前から言われていることだが、ショッピングセンターなどのゲームコーナーの利用者は、とても幅広いといわれている。
世間的には、「ショッピングセンターのゲームコーナー=子供たちの遊び場」と思われているかもしれないのだが、10年ほど前からショッピングセンターの開店と同時に高齢者の利用者が増えている、といわれていた。
ゲームそのものが比較的単純である、ということ。
子供たちが遊べるくらいのお小遣い程度である。
体を動かすゲームなどがあり、程よい運動が楽しめる。
等の理由が、あげられていた。
比較的単純とはいえ、ゲームそのものをすることで頭を使い、体を動かすということは、認知症予防にも効果的である、ということは言われている。
むしろ、難しいゲームよりも子供たちが楽しめる程度のゲームのほうが、良いのかもしれない。
そしてショッピングセンターという場所がら、ゲームを楽しむ同輩に会うことができるというメリットがある。
とすれば、これからのゲームセンターの主流となる顧客は、案外高齢者かもしれない。
その高齢者が行きやすく、楽しめる場所となると、これまでのようなゲームセンターのような環境ではないかもしれない。
場合によっては「サービス付き高齢者住宅(通称・サ高住)」や「老人保健施設」のような場所に、ゲーム機が置かれるようになるかもしれない。
連日「新型コロナ・オミクロン株」の新規感染者数が、記録更新をしている。
ありがたくない「記録更新」だが、この新規感染者数に対して各自治体が対応策として発するのが、「まん延防止等重点措置(通称:まんぼう)」だ。
各自治体が対応策として発するといっても、最終的には国が決めることになっているのだが、新規感染者数が以前から多かった東京などは今月21日から対象としているのに対して、同じように新規感染者が多い(という印象のある)大阪が、今日からとなっている。
同じく今日から対象地域となった自治体の中には、島根県も含まれている。
確かに、島根県はデルタ株が流行した時もその前も感染予防対策を県全体で徹底することで、感染者数が極端に少なかった。
それが「オミクロン株」の流行では、爆発的な感染者数となってしまった。
ただ、新規感染者数という「感染者」という数字だけで見れば、大阪とはけた違いの感染者数であることには、変わりない。
であれば、なぜ「まん延防止等重点措置」地域となったのか?ということなのだ。
あくまでも想像だが、島根県が「まん延防止等重点措置」を申し出た理由は、「人口に対して感染者数が多い」ということがあったのでは?という気がしている。
島根県(や鳥取県)は、全国でも人口の少なさでは1位、2位を争う県だ。
その人口に対して感染者数の割合が多いとなれば、当然何等かの対応をせざる得ない、ということはよくわかる。
疑問なのは、人口比率に対して新規感染者数の割合が明確に示されているのか?という、点なのだ。
国が行ってきた「新型コロナ対策」に対して、行き当たりばったりという印象を持っている。
幸いなことに(といっては、先に感染拡大した諸外国に対して失礼だが)、日本は諸外国に比べ変異株を含め感染拡大のタイムラグがあり、その間に諸外国で起きている状況などの情報が得やすい環境にある、といえる。
オミクロン株が最初に流行した南アフリカや英国の状況から、おおよその「拡大期間→収束期間」ということがわかるだろうし、その拡大期間の中で、特徴的な変化、例えば大人よりも子供の感染者が急増している、とか鼻や気道部分での炎症がみられ、肺などへのダメージは少ないなどから、重症者の減少がみられるなどの分析情報が、得られたのでは?ということなのだ。
それらの情報から総合的に判断したとき、感染者数を対人口比で考え、その上で「まん延防止等重点措置」の目安を国が出すべきなのでは?と思ったのだ。
自治体の任せるところは任せるにしても、感染症収束のための道筋となるものを示すのは、国の役割のなのでは?
そのような動きが無いまま、「専門家」といわれる人たちが、様々なテレビ番組に出演し話をする、ということ自体、社会的不安を煽る結果になっているような気がしてならない。
情報には「生活者が知りたいもの」、「国が知ってほしいもの」「国民のだれもが知らなくてはならないもの」がある、と思う。
その目安となる情報は、本当に発信されているのだろうか?
テレビの情報番組で、専門家といわれる方々が様々なご自身の意見を述べることは悪いことではないと思う。
思うのだが、それが生活者の不安となっているのであれば、専門家といわれる人も国もメディアも考える必要があるのでは?
なぜなら、生活者の今の気持ちは「安心をしたい」ということなのだから。
ファッション専門誌・WWDJapanのWebサイトに、なぜ?と考える記事があった。
WWD Japan :エルメス財団の「スキル・アカデミー」が”木”をテーマに中高校生向けのワークショップの参加者を募集
まず興味を引くのが、このワークショップの主催者がエルメス財団である、という点だ。
名前の通り、あの高級ファッションブランド・エルメスが運営する財団だ。
次に思うことは「なぜ、中高校生を対象にワークショップを開催するのか?」という点だろう。
募集の記事を読む限り、エルメス財団側は、参加する中高校生を「将来の顧客」と、見込んでいるわけではなさそうだ。
もちろん、このワークショップをきっかけに「『エルメス』という企業に、興味を持ってもらいたい」という期待はあるとは思うのだが、それが第一の理由ではないのでは?という気がする。
その理由は、このワークショップの開催の趣旨が「自然素材にまつわるスキルの継承・普及」だからだ。
母国・フランスでは2014年からスタートし、過去のテーマも木や土、金属や布と幅が広い。
決して、ファッションに関連する素材とは限っていない。
とすると、中高校生という柔軟な感性を持つ世代が伝統的なモノ・コトに接することで、新しい発想や考えを持ってほしい、ということなのでは?という気がするのだ。
学校で学ぶ視点とは違う視点をもって、より幅広い活動や社会的イノベーションを期待しているのでは?ということなのかもしれない。
エルメスのこのような社会的活動は、随分前から行われている。
エルメスの中でも、人気が高いスカーフがそれだ。
スカーフのシリーズの中に、「アフリカの子供たちの絵」がある。
エルメスがアフリカの子供たちを対象に、絵画のワークショップを長い間継続的に行い、そのワークショップに参加した子供たちの絵画を、スカーフにプリントしているのだ。
上述した通り、エルメスのスカーフは人気のある商品で、エルメスの工房で働くテキスタイルデザイナーが起こしたデザインと肩を並べるように、アフリカの子供たちが描いた絵のスカーフが、エルメスショップで販売されている。
この活動は、企業の社会貢献とビジネスを成り立たせている、と注目され続けてきた。
その延長線上にこのワークショップがあるのか?というと、今現在の状況ではわからない。
ただこのようなワークショップを開催することで、エルメスという企業姿勢ということが直接的に伝わる。
それは最近何かと取り上げられることが多い、「SDGs」ということにもつながるだろう。
と同時に「エルメス」を購入しない人に対しても「エルメス」という企業に親しみを持ってもらう、という意味もあるかもしれない。
「いつかはエルメス!」という女性は多い。
単なる「憧れの高級ブランド」というだけではなく、「エルメスという企業に共感をしている」という人たちを増やす、ということだ。
そのような活動を通すことで、「エルメス」というブランド力そのものの価値が上がる、という視点があるということも忘れてはいけないことだと思う。
今朝、FMを聞きながら朝の支度をしていたら、ちょっと気になる話題があった。
「人は選択肢が増えると、後悔も増える」という話だった。
この研究そのものは、新しいものではなく随分前から言われてきたことだ。
有名なところでは、コロンビア・ビジネススクールのアイエンガー教授の研究だろう。
文芸春秋Book:「コロンビア大学ビジネススクール特別講義 選択の科学」
考えてみると、高度成長期の頃は企業が出す製品は、ほぼ似たり寄ったりで生活者の選択基準は、製品を作っているメーカーに対する信頼度だったような気がする。
例えば家電などは、一つのメーカーの製品で揃えられていた、というご家庭は多かったはずだ。
選択肢といっても「テレビ」という選択肢ではなく、「〇〇メーカーのテレビ」だった。
当然その選択の幅はほとんどなく、逆に言えば生活者は迷うことがなかった。
バブル経済の前後から盛んにマーケティングの世界で言われるようになったのが、「十人十色の時代から一人十色への変化」ということだった。
「一人の顧客の中に多様な価値観が生まれ、選択の幅も広がっている」ということを指した、言葉だった。
この言葉に合わせるように、メーカーだけではなく様々なサービス業なども「わずかな違いがある多様なモノ・サービス」を用意するようになった。
「多品種・少生産=顧客満足度を上げる」という考えだ。
ところが、生活者側からすれば「違いが判らない似たり寄ったりのモノ・サービスがたくさんあって、選ぶことができない」という時代になった、ということでもある。
そこで小売りやサービス業では「コンシェルジュ」と呼ばれる、「お客様にご提案をする人」を駐在させ、より高い顧客満足を提供しようということになったのだ。
それはモノをつくる側にとって、コスト負担をかけることにもつながっていった、ということにもなる。
にも拘わらず、日本の企業の多くはこの「多品種・少生産」の呪縛から、逃れることができなかったように思う。
例えば、今朝のFM番組で話されていたスーパーの「お惣菜」。
大手スーパーは、年間200種類近くの「お惣菜」を販売している、という。
もちろん、「季節限定お惣菜」というものもあると思う。
ただ、実際近所の大手系のスーパーでは「鳥のから揚げ」だけでも、3,4種類用意されている。
味付けが醤油・塩だけではなく、味付けが微妙に違うラインナップなのだ。
冬場はコッテリ系、夏場はあっさり系という分け方ではなく、オールシーズン用意されている。
それが、すべて完売するのであればよいのだが、売れ残った場合「廃棄処分」ということになってしまう。
今何かと話題というか推進されている「SDGs」の事を考えれば、「食品ロス」という問題を抱えながら販売をしている、ということにもなるはずだ。
それは上述した「選択肢がありすぎて、選べない」という生活者の姿とも重なることになる。
スーパーであれば、売り場のレイアウトの工夫によって、ある程度解決できるかもしれない。
例えば、「購入目的別」という売り場のレイアウトだ。
同じ売り場でも「ダイエット応援コーナー」のような区分があれば、「糖質を少なくした商品の中から選ぶ」ことになり、それだけ選択の幅は狭くなる。
そのような工夫が、「後悔をさせない買い物の提案」という時代になってきているのではないだろうか?
先週末、資生堂の150周年を記念するCMが話題になっていた。
資生堂:150周年企業広告「美しさとは、人のしあわせを願うこと」(60秒篇)
おそらく化粧品会社として、創業150年を迎える企業は世界的にも珍しいのでは?という気がしている。
それほど長い間、日本人に愛されてきた化粧品会社としての誇り、のようなものを感じられるCMでもある。
それは創業当時の風景に始まり、時代と共に変化していく女性たちの姿を見つめてきた、という誇りでもあるかもしれない。
時代別のヘアスタイルやメイクの変遷を見せてくれる、Vougeのサイトがある。
Vouge Japan:アイメイク、100年の歴史
アイメイクに特化した内容ではあるが、化粧自体がその時々の時代感の中で変化し、女性の生き方にも影響されている、ということがわかる。
資生堂の150年という時間は、女性の生き方の変化の時間でもあるのだ。
それを「化粧品」というツールによって、サポートをし応援してきた企業である、という自信と誇りというものを感じれる、ということなのだ。
実はこのような150周年に向けた動きは、今年のお正月広告から始まっていたような気がしている。
気づかれた方もいらっしゃると思うのだが、今年資生堂は1月1日にお正月広告を掲載していなかった。
1年間で一番厚い新聞を繰りながら、「今年は資生堂の広告がないな~」と思いながら眺めていた。
そして数日後、資生堂が年明けの広告を出したのだ。
それが、開店当時の写真につけられた「1872年。東京・銀座に洋風調剤薬局として資生堂は誕生しました。」というコピーの広告だった。
資生堂:150周年スペシャル企業サイト
資生堂が調剤薬局としてスタートしている、ということを知らない方にとっては「そうなんだ~」と、意外性な印象を持たれたかもしれないが、「薬」という視点の中に「健康」というキーワードを見つけるだけではなく、「美しさ」という発想まで転換することができたことが、資生堂の企業としての強みのような気がする。
そして昨年、不採算事業とは思えない「トイレタリー(=洗面所やバスルームで使う商品)」を、売却したのは、もしかしたらこの150周年という時間の中で、資生堂が本来目指すべきところは何か?と考えての決断だったのかもしれない。
というのも1960年代までの資生堂は、スキンケア商品といっても比較的高い価格帯が中心で、この150周年のCMにも登場する「オイデルミン」という化粧水が資生堂が初めて手掛けた化粧品だった。
「西洋薬学に基づくスキンケア」という視点で考えると、低価格帯のスキンケア商品を切り離し、薬学的スキンケアという特化することで「美しさ」という「しあわせ」の表現をしていきたい、という企業メッセージだったのでは?と、今更ながら気づかされる。
それだけではなく、資生堂にとって一大転機となったのは、「太陽に愛されよう」という杉山登志さんのコピーと共に登場した、前田美波里さんだったのではないだろうか?
当時10代で、溌溂とした前田さんの登場は「日本の女性も行動的になろうよ」という、メッセージが込められていたように思う。
事実この後から、日本女性の美の価値観が変わった、といわれている(もちろん、同じころ公開された映画「007は二度死ぬ」に出演されていた浜美枝さんの活躍も忘れてはならないだろう)。
そのように考えると、資生堂という企業ほど「女性のライフスタイルの変化」に影響を与え、変化し続けてきた企業は無いかもしれない。
そして「女性」という言葉が無くなったのも、時代の変化に合わせてのメッセージのような気がしている(事実、CMにはジェンダーレスのモデルが登場している)。
昨年暮れに発覚した「国の基幹統計、書き換え」という事件があった。
朝日新聞: 「すべての数字を消す」国が指示 消しゴムで書き換えた統計データ
このことが発覚してから、犯罪行為があったとして誰かが逮捕された、というニュースにはなっていない。
逮捕されるようなことが無ければ、問題はない、と認識される方もいらっしゃるとすれば、それは違う意味で大問題だと考えている。
なぜなら「国の基幹統計」は過去のものではないからだ。
「国の基幹統計」が過去のものではない、というと奇異な印象を持たれる方がいらっしゃるかもしれない。
なぜなら、統計の数字というは、調査した時点での数字であって、まとめられた時点では過去の数字に他ならないからだ。
では、なぜ「過去のものではない」といえるのか?というと、統計から見える数字を基に未来を予測することができるからだ。
社会学者という一面を持っていたドラッカーは「人口統計から未来を見ることができる」と、話していた。
例えば、今10歳の子供たちは、10年後20歳になっている。
ということは、10年後の20歳を対象とした市場は、今の10歳の子供たちの人口を最大とした市場である、と考えられるからだ。
同様に、10年後の70歳以上の市場規模を考えたとき、平均寿命を参考にしながら今の60歳以上の人たちが最小の市場規模だと考えることができる。
その間に、劇的な医薬品が開発され不治の病のように言われてた病気が治るようになれば、その数字は増えることはあっても減ることは少ない、と考えることができる。
ほかにも、現在問題となっている「新型コロナ」の感染拡大についても、「感染者」の定義を明らかにし、調査対象となった人を分母とし、感染者を分子とすれば、感染率というものがわかる。
それを職種ごとに分析をしたり、居住環境などの条件を付け分析をしたりすれば、今生活者が一番知りたい「どのような環境で、どれくらい感染するのか?」と一つの指標となるものがわかってくる。
そのデータに、感染者の症状や濃厚接触者から何日後の発症なのか?という条件を加えることで「潜伏期間」がわかるようになるし、陽性者数に対して軽症者・中等程度・重症という数字を当てはめていくことで、「オミクロン株」の特性のようなものも少しは見えてくる。
ところが残念なことに、メディアで伝えられる情報は「陽性者の数字」だけになっている。
「オミクロン株」以前に流行した「デルタ株」などと比較するためにも、このような基礎的な統計は、政策を立てる時にとても重要な役割を果たすだけではなく、その時々の対応策に影響を与えるはずだ。
そのように考えた時、日本では「統計」の意味を十分に理解しているのだろうか?という、疑問がわいてくるのだ。
理解が十分にされていないがために、統計の改ざんなどをすることに抵抗がないのだ。
統計は数字の羅列ではない。
統計を取る時には、とる理由と目的があったはずだ。
その理由と目的を理解することなく、「印象の良い数字」だけを求めているとすれば、それは「統計」ではなく、意味のない数字の羅列になってしまう。
意味のない数字の羅列は、公正な数字ではないし、最悪な場合一部の権力者にとって、都合の良い数字の羅列ということにもなり兼ねない、ということでもあるのだ。
ファッション専門誌・WWDJapanのWebサイトを見ていたら、米国でリセールECサイトが人気、という記事があった。
WWDJapan :表と裏の古着市場 米リセールECと日本の”川上”徹底調査
「リセール」と「古着」とでは、ずいぶん言葉のイメージが違う。
ただ、日本でも「中古品市場」が大きく伸びている、と書くと驚かれるかもしれない。
日本における「中古品市場」というのは、メルカリなどを中心としたC2Cのネットビジネスの事だ。
ほかにも、最近では「買取ビジネス」なども盛んになってきており、当然このような市場で扱われるのは「中古品」ということになる。
そしてそれらの多くは、衣料品=古着と考えてもよいかもしれない。
ただ、WWDJapanが特集をしている「古着市場」というのは、メルカリなどのC2Cビジネスの話ではない。
ファッションブランド自らが「リセール市場(=古着市場)」へ参入し始めている、ということなのだ。
ご存じのように、ファッション業界の流行の流れはとても速い。
一昨年の秋冬物を店頭に並べて販売をする、というわけにはいかない。
そこで登場したのが「アウトレット」という市場だ。
前のシーズン商品をタグをカットして、自社のアウトレットショップで販売をする、というビジネスだ。
最近では、コロナ禍とは言え「アウトレットモール」そのものの人気に陰りが出てきている、という指摘もあった。
「アウトレットモール」で買い物をすることに飽きたのか?それとも「アウトレット」商品そのものに魅力が感じられなくなったのか?その点はまだ不明だが、以前ほどの人気ではなくなりつつある、と言われている。
では「アウトレット」と「リセール」との違いは何か?ということになる。
「アウトレット」は、倉庫で眠っていた商品。
「リセール」は、一度は誰かの手に渡ったが返品をされてきた商品、ということになる。
この違いは、些細な違いのように思えるが、実は大きな違いがある。
「リセール」商品というのは、購入者がいた商品であり、本来であれば売れた商品であった、ということになる。
ブランド側としては「倉庫に眠っていた(買い手がなかった)商品」よりも「一度は買い手がついた商品」のほうが、商品価値の違いがあるはずだ。
と同時に、ここ数年盛んに言われるようになってきた「SDGs」や「環境にやさしい商品」という視点で考えると、ファッション産業そのものが「環境負担の大きな産業」であるために、「リセール」のような形で商品を販売する必要が出てきたのだ。
2018年には、英国の人気有名ファッションブランド・バーバリーが42億円相当の売れ残り商品を償却処分していた、と話題になった。
BBC News:英バーバリー、42億円相当の売れ残り商品を焼却処分
大なり小なり、ファッションブランドは売れ残り商品の焼却処分をしている、というのは業界内では随分前から言われてきたことで、業界内では当たり前のことだったはずだ。
それが時代の変化や生活者の関心事が変わったことで、企業そのものも対応を変える必要が出てきた、ということなのだ。
結果として「リセール」に積極的なブランドは、ブランド価値が上がる、という状況になったことで大手企業が積極的になってきている、ということなのだ。
果たしてこのような「リセール」サイトは、日本でも人気になるだろうか?
日本ではまだまだ、ユニクロのようなファストファッションが人気で、経済的にも「ブランドサイトのリセール」で気軽に購入できるだけの経済的な回復とはいいがたい状況にある。
もしかしたら、「ブランドサイトのリセール商品を購入するか?」はたまた「ファストファッションを毎シーズン購入するか」という買い物の選択は、一人ひとりの生活者の「ライフスタイル」にも影響を与えるかもしれない。
Yahoo!のトピックスなどで、毎日トップ扱いになっている「オミクロン株感染者数」。
今日、東京では新規感染者数が過去最高となった、と報じられている。
共同通信:東京の新規感染者数、過去最多7千人台 第5波時上回る
第5波の時と今回は、変異株であっても同じではない。
現在拡大の中心となっているのは「オミクロン株」だ。
そして「オミクロン株」の特徴は、感染力が強いということ。
そう考えると、第5波の時の7千人台という数字と、今回の7千人台という数字の持つ意味は、違っているのではないだろうか?
「新型コロナ」が流行し始めたときから、日本では一貫して「感染者数」を中心に発表してきた。
「感染者数が多い=パンデミック」という認識があったからだと思う。
そのことに疑問を呈する気はないのだが、「感染者数の内訳」のような数字が、これまでほとんど公表されてきていない気がするのだ。
数字だけを見れば「感染拡大中」ということになるだろう。
第5波の時を凌駕するような感染者数が全国の自治体で出ているのだから。
だが本当に「感染者数」だけが問題なのだろうか?
感染者のうち、発症の要因となった行動はいつだったのか?ということから「潜伏期間」という目安がわかるはずだ。
そして感染者のうち軽症から中等程度、重症者の割合や(表現としては、適切ではないと思うのだが)症状の進行状況。
何より回復期までの時間、そのような情報が発表されていない。
このような情報が逐次発表されなくても、「まん延防止対策(通称:まん防)」の対象となった地域に住む人たちは、知りたいのではないだろうか?
というのも、「まん延防止対策」を約1か月実施といわれても、その根拠となるものは何か?ということは知りたいだろうし、早く終わらせるためには、何をすべきなのか?ということも知りたいからだ。
にもかかわらず、報道される数字というのは「感染者数」のみで、生活者の不安をあおっているように感じるのだ。
それはとりもなおさず、「コロナ疲れ」状態となっている人たちの気持ちや心に、不安の上乗せをさせているだけなのでは?
その一方で、AFPなどの海外からの情報では、南アフリカや英国、米国の大都市部で見られた「感染拡大傾向」は見られなくなり、収束期に入ったのでは?という報道もある。
なぜか、日本のメディアではあまり報道されていないようだが、これら海外諸国では日本のような行動規制をせずに収束傾向がみられる、という状況になりつつある。
とすれば、現在日本で実施し生活者に強いている「新しい生活」そのものの見直し時期い入りつつあるのでは?という、ことになる。
今の日本の対応を見ていると「羹に懲りて膾をふく」という状態のようにも感じるのだ。
政府として「まん延防止対策」をするのであれば、その根拠となった情報と分析結果、今後の予測などについても一緒に発表をしてほしい。
多くの生活者は、これまでの「コロナ禍生活」に疲れ、心も体も荒み始めているのだから。
昨日、テレビ放映された山陰放送制作の番組を、TVerで見た。
山陰放送制作の番組が、全国ネットで放映されるということそのものが、珍しいのでは?と思いながら番組を見ていた。
TVer:未来をつくる島ホテル 第31回JNN企画大賞
この番組で紹介されているのは、隠岐の島の海士町に昨年オープンした「Entô」という名前のホテルだ。
隠岐の島唯一のホテルで、海側の別館を取り壊し新しく建て替えたホテルだ。
実はこのEntôについて、拙ブログが取り上げるのは初めてではない。
昨年のオープン時にも取り上げさせていただいている。
「コロナ禍」の最中にオープンするリゾートホテル
稼働を始めて半年余り。
まだまだ成功というには早いと思うのだが、それでも「コロナ禍」という最中でオープンという、悪条件を考えれば相当良いスタートを切ったように感じる。
利用者そのものの高い満足度があるだけではなく、地元の人たちとの「協業」ともいえるような連携があることが、このホテルの強みなのでは?という気がしている。
番組を見ながらそのようなことを考えていたのだが、もしかしたら「地域の活性化」で一番必要なことは、「行政だけ・住民だけ」というようなどちらかに偏った地域活性化の主導ではなく、「行政と住民との協業」という考えが無くては、難しいのでは?という気がしたのだ。
「地元の目に見えない資源を掘り起こし、それを地域の活性化の起爆剤とし、地域経済を活性化する」という、行政と住民のコンセンサスが取れているからこそ、Entôというホテルが隠岐の島の観光のゲートウェイになりつつある、という気がしたのだ。
それは「地域活性化」に悩む自治体などにとっての、一つの解答のような気すらしている。
「行政だけ、地域住民だけ」では、地域経済の活性化の規模が小さくなるのでは?
一般的な「パブリックコメントを募集」という方法では、見つからない「地域資源の発掘」にも共通していると思うのだ。
隠岐の島・海士町のようにIターンで就職する人が多い=よそ者視線が「地域資源の発掘」ではない、と思っている。
というのも、番組の中でEntôの社長をされている青山氏が、隠岐の島へのIターンを決めた理由が「居酒屋で、町の人と町役場の人が喧嘩をしているかのように、町のことを考えている」という点に集約されているという点だ。
言い換えれば「住人と行政が同じ方向へ向かって、それぞれの立場で本気になって話をしている」ということなのだ。
総務省が主導している「地域おこし協力隊」が、3年という任期期間で成果があまり出ることなくその地域を去っている場合が多いという現実を考えると、受け入れる行政側だけではなく、その地域に住む人たちも加わった「地域おこし」のコンセンサスがなく、一般的に言われている「まちおこしの起爆剤となる人材=若者・よそ者・ばか者」ということに終始しているからなのではないだろうか?
「眠っている地域資産」を見つけるには、よそ者の力が必要かもしれない。
周囲にそのビジョンを問いかけ、説得する力があるのは、ばか者といわれる「周囲を動かす熱意のある人」だろう。
その行動力があるのは、若者かもしれない。
しかし、それらの力を持っている人たちを動かし続けるには、地域の住人と行政が一つの方向に向かって「地域を良くしていきたい」という、思いがあってのことなのではないだろうか?
IターンやUターン者が多いことが、地域の活性化につながるわけではない。
その力を動かすための素地が、その地域になければIターンやUターンの人材を活かすことはできない。
そんなことを、このEntôというホテルは示しているような気がしている。